医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

「罪と罰」に見た美学15

2007年07月31日 12時04分41秒 | Weblog
 そして江川氏によれば、本書にはキリスト教正教のみならず、土着の大地信仰、ギリシャ・ローマ神話までもが、巧妙に刷り込まれているということです。

 また、指摘されてこれはな~るほどとつくづく思いましたが、この小説全体に流れるのは、「水」のイメージ・・・

 窓のない船室、息苦しい都市「水の都」ペテルブルクという巨大な船、ロシアというさらに大きな船、動物を配置したノアの箱舟が巧みにイメージされていると・・・。

 確かに・・・その通り。

 それにしても、ラスコーリニコフの生活地図に十字架を見つけ、蜘蛛一匹、ハエ一匹に執着し、さらには時間的な仕掛けを実証して、歩数から実際の距離から日照時間まで調べ上げ、重ねて暦と聖書とのつき合わせと・・・

 3年間、一冊の書物に血道(ちみち)を上げた江川氏は、かなりのドスラーと言え、ただモノではありません。

 「謎ときカラマーゾフ」より本書のほうが、極めて優れているように感じました。

 前述しましたが、マグダラのマリアによって新生したロシアの若きキリストは、愛にひざまづきはしましたが、殺人という罪を心から反省したとは思えません。

 そこいら辺の、のどにひっかかる小骨も「謎とき」には詳述されております。



 また、井桁研究室によれば、

http://www.kt.rim.or.jp/~igeta/igeta/index.html

 本書には「銀30枚」という語句が何回も登場します。

 裏切りと罪のシンボルである銀30枚と言えば、キリスト教文化圏では間違いなく「キリストを売ってしまった」というユダによる罪の行為を連想させるものだそうです。

 またソーニャがかぶる「緑色」の布に関して、あるイコン展でのロシア聖母像のいくつかが、緑色のショールを掛けているのを目にしたそうです。

 カトリックではマリア様は、聖母の着衣の決めごとにもとづき、赤い衣の上に「青いマント」が目印となり、また白いユリで描かれますので、赤・青・白がシンボル。

 赤は「神聖なる愛」、青は「天上の真実」ということです。

 ロシア正教のそのプログラムには、「緑は永遠の生命を表す」と書かれていたそうです。

 緑はヨーロッパ文化の伝統の中では、清浄を表すシンボルであり、豊饒、新鮮さ、希望、自由、喜びのシンボルとなり得ることも分かった、と書かれております。

 
 サンクトペテルスブルクは、「琥珀」で書いたように、プラハとともに僕にとってまだ訪れた事はない憧れの都市ですが、「罪と罰」探訪という、興味深い観光もありましたよ。

http://www.miras.info/dostoevskytour.htm



 無神論的個人主義の現代社会の競争に疲れたみなさま、120年前の巨匠の慈愛に満ちた教えに包まれてみませんか?

「罪と罰」に見た美学14

2007年07月30日 11時22分25秒 | Weblog
 そして「謎とき」の江川氏によれば、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという名前は、ロシア語ではイニシャルがppp(エル)となるそうです。

 ロシアでpppのイニシャルを持つ確率を、ご丁寧に実際に計算し、その数字がとんでもなく低いことを証明し、しかも本当はワシーリイと決まっていた主人公の名前を、ドストエフスキーはあえて直前に変えたということです。

 これは氏が、pppをひっくり返して、ヨハネ黙示録に基づき、主人公に666のアンチクリスト=悪魔の刻印を忍ばせた、とのことです。

 キリスト教徒を迫害したネロという名も、「ゲマトリア数値」で換算すると666、ヒトラーもナポレオンも666だそうです。

 へぇ~

 
 またメイエル説では、老婆には斧で峰打ちし、さらに峰打ちしたという表現を作者が繰り返していることから、峰打ちということは刃は本人に向かいますから、裂かれたのはむしろ「割り裂く」名のラスコーリニコフの精神ではないか、と仮説を立てております。

 
 さらに、ラスコーリニコフの懲役が「7年、わずかの7年、・・・・この7年をあたかも7日間のように・・・」とこの7という数字も強調されますが、これも聖書では過去・現在・未来という3に東西南北という4を足した「完全数」だそうで、ドス氏の忍ばせたプロット・・・。

 そうか、僕たちが日常使用する、いわゆるラッキー7のいわれは、きっとこの完全数なのだな。


 しかも本書の出だしが、ゴーゴリの「狂人日記」のパロディだとのこと・・・。

 ゴーゴリは、ロシアの偉大な詩人、プーシキンに才能を認められた作家であり、あるHPによれば、

「ロシア的凡庸、愚鈍さや腐敗を鋭くとらえ、下層庶民の悲喜劇を苦い笑いのうちに、皮肉と哀感をこめて描いた。それらの作品によってヨーロッパ文学への模励はおわり、ロシアにおける批判的リアリズムの道が拓かれた。 」

 と紹介されております。

 すぐれた芸術家や表現者はそもそも、晩年にはどんどん内側に深く掘り下げられていって孤独に苛まれるか、あるいはその結果、より一層狂信的になるもので、ゴーゴリもしかり・・・しかも彼も同性愛者だったらしい。

 ゴーゴリはドストエフスキーにも、大きな影響を与えたのですね。

 そういえば、ゴーゴリの名前も、ゴーゴリ=ニコライ・ヴァシリエヴィチですから(ワシーリィ→ヴァシリーなので)、ドストエフスキーは主人公の当初の名前の候補を考えれば、ラスコーリニコフのイメージに、ゴーゴリを重ねてこの小説が生まれたのかも。

 しかも、ゴーゴリはВасильевич、僕のお気に入りで何度も写真で登場しているワシリー大聖堂もВасилияですから、つながってますね・・・。

「罪と罰」に見た美学13

2007年07月29日 10時01分06秒 | Weblog
 さてここで気分を換え、クラシックの話題など。

 サンクトペテルブルクには、ロシアの『五人組』のひとりで、「展覧会の絵」、「禿山の一夜」、オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」 で有名な、『ムソルグスキー』がおりました。

http://www.youtube.com/watch?v=cnnqLtq2x3E&mode=related&search=

http://www.youtube.com/watch?v=s_0GekZl7YA&mode=related&search=

 さすがは国民楽派、ロシアの民族的色彩を感じさせる音の調べです。

 そしてムソルグスキーに『ホヴァンシチナ』という、オペラの遺作があります。

http://www.youtube.com/watch?v=SBDsP1saom8&mode=related&search=


 このホヴァンスキー事件というのは、西欧的な近代化をはかったピョートル大帝に対する、イヴァン・アンドレーヴィチ・ホヴァーンスキー公とその従者たちの謀反のことだそうです。

 ホヴァンスキー事件は史実であり、ピョートルが帝位に就いてこの謀反は挫折し、ホヴァーンスキー公側についた「分離派教徒」の集団自決で幕切れとなるそうです。

 ムソルグスキーのオペラ「ホヴァーンシチナ」は、ホヴァーンスキー事件をもとに、ロシア近代化を果たしたピョートル大帝とニコン総主教の改革の裏で起こった悲劇、権力者に踊らされる一般国民の悲劇、古き信仰者の悲劇を深い同情をもって描いていると言われているのです。



 ムソルグスキーのホヴァンスキーを考え合わせれば、ドストエフスキーの思考は、ロシアの真の夜明けが、革命と痛みとを伴わなければ訪れないのか、それとも「分離派教徒」に見られるような、美しきそしてか弱き者たちの悲劇を救済すべきなのか・・・

 つまり、革命か、伝統(保守)か?

 ドストエフスキーの魂の揺らぎが垣間見える気がします。

 ただし、分離派が当時本当に何の罪もなく、美しき魂だけをもっていた、古き純粋な信仰者という弱者であっただけなのかどうか・・・

 多少オプス・デイのような自虐的な嗜好を持っていたのかどうか、それともヒステリックな集団であったのか、あるいは改革に対する保守的な抵抗勢力であったのかどうかは、僕には分かりません。

 それとも、ミコールカを登場させたことがヒントであって、分離派の象徴のようなある意味純粋なラスコーリニコフが、か弱き「汚れた娼婦」、つまりはロシアの一般国民の愛に屈する・・・

 というストーリーから考えると、ドストエフスキーは流血は避けるべきだが、欧州に倣ったロシアの改革は必要なのだ、ロシアは生まれ変わらなければならない、ただしキリスト教と大地信仰、人間愛に基づけ、と言いたかったのでしょうか?

「罪と罰」に見た美学12

2007年07月28日 22時23分18秒 | Weblog
 そのためロシア正教会は、コンスタンティノープルの東方正教会に接近して同調をはかるようになったそうです。

 その結果ニコンは、古来の伝統的なロシア教会に対して批判的な態度をとることになりました。

 彼は、ロシアにおける典礼の方法を、ギリシアをはじめとする他の東方正教会の典礼に従うようにし、たとえば十字を切る指の肢位も、2本指で行っていたものを3本指で行うようにしたり、またハレルヤも2回唱えていたものを3回唱えるように変更したそうです。

 ニコンのこの改革に対しては、当然ながら激しい抵抗が起こりました。

 特に「分離派(ラスコーリニキ)」とよばれた旧勢力の信者たちが、狂信的といえるほどの抵抗を示し、これらの一連のロシア正教の「ギリシア正教会化」に反対したそうです。

 ロシア皇帝たちは、改革者ニコンのほうを支持し、で、迫害、拷問が行われ、分離派の多くがウクライナ・シベリア・ロシア極東地域などに逃れました。

 結局最終的には最後の皇帝ニコライ2世は、分離派などロシア正教会以外の宗派も認めたことになったようですが・・・。

 現在でも、分離派の人口は100万-1000万と言われますので、これは結構な数字ですね。

 数世紀前に散在した分離派の子孫は、今も当局と隔離した状態で暮らしているそうですし、だからこそその数字にも大きな開きが見られるようです。

 現在でもロシア正教会の改革以前の古い礼拝様式を保持しているらしいです。

 話は本書に戻って、老婆の遺品のイヤリングを拾い、金に換えて飲んでしまい、そのことが発覚して逮捕され、やってもいない老婆殺しを自白してしまう、ペンキ職人のミコールカが分離派教徒です。

 ポルフィーリを通しての、ドストエフスキー氏の説明によれば、分離派教徒は罪の意識に突き動かされるのを好み、マゾヒスティックに苦しみを求めて自ら罪を引き受けた、かのように書かれているのです。

 ダヴィンチ・コードのオプス・デイを思い出します。

 そしてラスコーリニコフの夢による回想で、馬を虐待するのも名前がミコールカ・・・。

 ここに何か、隠された暗号はあるのでしょうか?

「罪と罰」に見た美学11

2007年07月27日 08時54分33秒 | Weblog
 研究者の間では、このドストエフスキー氏のポリフォニー性と、漢字や能や歌舞伎の多様性が合うのではないかという推論があります。

 それはどうでしょうかね・・・?

 日本人はあんなに強烈な個性は持たないし、漢字は中国だし、能や歌舞伎が多様性を持つか、また現代でも庶民文化として浸透しているか?

 むしろ日本の宗教における多様性や、大地信仰に見られるアニミズムや、日本の800万人もいる神々のポリフォニー性や、神話での強烈な個性、っていう方が理解しやすいと思います。


 それにしても、ロシアの偉大なる知性に触れるたびに、絶対精神の経時発展や、人間の論理的思考に限界はないのだな、とつくづく思う次第であります。

 そしてなんと言っても、両書を通じて描かれる、ロシアの正教と、母なるロシア土着の大地信仰、そして人間愛という不断のテーマ。

 「神を信じ、人を愛し、大地を畏れ敬う」

 このある意味「三位一体」こそを、晩年のドストエフスキーは訴えたかったのでしょう。

 そして人との隔絶、人を愛せないことが、地獄に等しい・・・

 それが、ラスコーリニコフが背負う破目になるところであった「孤独」と、絶え間ない隣人との「闘い」、という真の『罰』。


 僕なんかのしょうもない二束三文の読書感想文はこの辺にして・・

 「謎とき『罪と罰』」の江川氏によれば、主人公のラスコーリニコフの名前の由来ですが、「分離派教徒」をロシア語でラスコーリニキというそうで、ラスコローチは「割り裂く」という意味だそうです。


 「分離派教徒」って言われても何じゃそりゃ??ってお思いでしょ?

 当時のロシアに存在したロシア正教から「分離した」宗派だそうです。

 改革派の聖職者ニコン・モスクワ総主教は、ロシアがヨーロッパ諸国と肩をならべて発展していくためには、まずロシア自体が変わらなくてはならないと考え、1600年代に数々の典礼改革をおこなったそうです。

 ん?この考えは1682年に即位して、サンクトペテルブルクをつくり、ロシア海軍をはじめとするロシア国家の近代化を図った、ピョートル大帝の意思と通じるところがありますね。

「罪と罰」に見た美学10

2007年07月26日 07時33分44秒 | Weblog
 革命のためならば殺人が是認されるか?

 その答えは常識的に当然「否」です。

 革命を目指す、病めるロシアの無神論的な若者は、ついには汚れた弱者、つまりはロシアの一般国民による、純粋な愛に屈するのです。

 しかしここで、もし仮にラスコーリニコフが殺めた人間が、強欲な金貸しの老婆だけであって、かよわきリザヴェータが含まれなかったら、物語はどうなっていたのでしょうか?

 しかもその殺人のプロットが仮に、完全に、純粋にリザヴェータとソーニャ、母親、妹といった、かよわき女性、つまりは百人の善人を救うためであったなら・・・。

 そう簡単に答えは出しにくいでしょう。

 日本人好みの発想かな?

 そういう意味ではどうして設定の段階でドストエフスキーは、その命題に答えるべく、老婆だけに取り組まずに・・・という思いがしないでもありません。

 ラスコーリニコフは、ソーニャの分身ともいえるかよわきリザヴェータまでを殺めてしまったことに、苦悩して生まれ変わったように思うからです。

 さらには、ラスコーリニコフは、ソーニャの愛によって生まれ変わったのですが、正確には罪に対して、特に強欲な老婆を殺したことについては改悛してはいないようにも思えます。

 またそれを示唆する文章が、そちこちに垣間見えるのです。


 一方「カラマーゾフ」でも父フョードルが殺されますが、そのときは、少し分かりにくかったのですが、影の主役イワン・カラマーゾフによれば、神はいないのだから、人間はすべてが赦されている、すなわち殺人すらも・・・・

 といった思想なので、「罪と罰」のラスコーリニコフの凡人・非凡人思想とはまた異なる理屈ですね。



 そしてかくもなぜドストエフスキーが、日本で愛されるか?

「罪と罰」に見た美学9

2007年07月25日 10時54分00秒 | Weblog
 ラスコーリニコフは、マリアのような純粋な妹ドゥーニャと、自らが気がふれるまでに息子を思うわが母としてのもう一人のマリアを愛し、マグダラのマリアのような、「聖なる娼婦」ソーニャの愛に屈する・・・

 ラスコーリニコフは他にもこの世のすべての虐げられた、か弱き女性や弱者たちとユーロジィ(聖愚者)に、ひざまづき、母なる大地に包まれるのです。

 そしてドストエフスキーがラスコーリニコフを通じて書きたかったのは、カラマーゾフでもそうなのですが、ヨーロッパ型近代化や無神論的革命・・・

 そしてやがては現実にロシアに訪れてしまうこととなった、無神論的共産主義と戦う姿勢、ロシア正教およびアニミズムとしての大地思想に基づく「愛」の懐の深さ、といったところに通じる気がしました。

 ドストエフスキーにはこれらの晩年の著書を通して、たとえキリスト教が科学で否定されても、自分は神を、イエスを、ロシアを信じて生きたいという、堅牢な意志を見ることができます。

 やはり翻って現代、神を棄て、宗教を棄てつつある人類は、再び獣と化していっている気がしてなりません。

 自分の利益、自分のためだけの主張、自分の家族、自分の信仰、自分の国益ばかりに執着し、広く人間愛に満ちている世の中だとは思えないばかりか、時間とともに日々深刻度が増しているとさえ感じます。

 自分が得をすれば、誰かが損をしているのに。

 エルサレムがあのていであれば、やがて火種は飛び火して、全世界に民族的対立が起こり、第二、第三のエルサレムやバルカンが誕生するでしょう。

 もちろん、わが東アジアとて、例外ではありません。

 結局今度の選挙も、年金に政治と金・・・金、金、金・・目先の卑近な利益・・・日本人はいつからそんなに卑しくなってしまったのでしょうか?

 いつも言いますが、日本のマスコミよ、ジャーナリズムよ、もう少ししっかりしてくれ!!



 ではラスコーリニコフの立てた命題、非凡人ならば大儀のため限定付の犯罪、換言すれば、ドス氏が言いたかったのであろう、すなわち革命のためならば殺人が是認されるのでしょうか?

「罪と罰」に見た美学8

2007年07月24日 11時05分48秒 | Weblog
 さらにラスコーリニコフは、妹の婚約者ピョートル・ペトローヴィチと、妹を思うがあまり烈火のごとく激しく戦います。

 特に「カーニバル」的お通夜の後に、ピョートル・ペトローヴィチに周到に追いつめられたラスコーリニコフの側の破滅のまさに一歩手前で、スリリングな大逆転劇があります。

 そして物語は佳境、田舎で妹を貶めようとした、悪魔のようなスヴィドリガイロフという、じいさんの出番です。

 このスヴィドリガイロフが、もっとも曲者です。

 ラスコーリニコフは自分の犯した罪の苦悩のあまり、同じ悪に手を染めた者同士として、しかも悪魔として位の高いスヴィドリガイロフにすがるような、歪んだ救済の期待をしつつも、これまた妹を守るために敢然と戦うという、きわめて複雑な心理状態に追い込まれます。

 このスヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフの幽霊説(分身説)もあり、ラスコーリニコフの真に悪魔的な部分を代表しているとも言えます。

 しかし生への執着の強い、まだ人間味の残されたラスコーリニコフよりも、スヴィドリガイロフは悪魔的部分が強すぎるため、生への執着も少なく、ヴォヤージュと称した旅に出発して、自らピストルで頭を撃ち抜いて絶命します。

 そしてラスコーリニコフが殺してしまった、老婆の妹リザヴェータと被救済者なる弱者として重なり合う、「聖なる娼婦」としてのソーニャに導かれ、ラスコーリニコフは最終的には殺人者である自分と戦うのです。

 それはペテルブルクという病める街との戦いのようでもあり、ひいては祖国ロシアと戦っているかのようにも見えました。

 しかし戦いばかりでは何も生まれず、愛にひざまづいたときに、初めて光が差したのでした。

 そしてソーニャに命ぜられたとおり大地に口づけるのですが・・・待てよ、アリョーシャも確かカラマーゾフで大地に接吻をしていたな。

「罪と罰」に見た美学7

2007年07月23日 08時45分35秒 | Weblog
 まず彼は、唯一の友人であるラズミーヒンと軽く闘います。

 ラスコーリニコフはこのラズミーヒンのことを、本当は認めていていますが、素直には認めることができません。

 彼しか友人はいないくせに、反抗的になってしまい、だのに自分から彼を訪ね、にもかかわらず、気づくとわざとけんかを吹っかけており、最後は俺にかまうなと・・・。

 なんてヤツだ!

 ラスコーリニコフは思考は深く、知能も低くはないのですが、幼いというか・・・まるで育った環境の、母親の溺愛ぶりがうかがい知れるようです。

 次に、「刑事コロンボ」の原型として有名な、予審判事ポルフィーリとじりじりするような陰湿な心理戦を闘います。

 「刑事コロンボ」や、そのパクリ、「古畑任三郎」では、当然視聴者は最初から犯人を知っており、コロンボ氏や古畑氏が個性的に犯人を、心理的に追いつめていって、ついにはボロを出させて解決していきますよね。

 その手法をいわゆる「倒叙(とうじょ)形式」と呼びます。

 その原型がここにあるわけです。

 ポルフィーリがどこまで知っているのか、ラスコーリニコフからすれば自分は不自然ではないのか、ちょっとだけハラハラしますが、こちらが原型だけあって、後から装飾されたドラマと比べてしまうと、物足りなさを逆に感じてしまいます。

 古畑シリーズは、なんと言っても田村正和氏の個性が際立っているし、脚本もしっかりしてるし、犯人との演技ガチンコ勝負ですから、テレビドラマ嫌いの僕も、機会があれば見ております。

 俳優とは、単に見た目がどうのこうのではなく、あああって欲しいものです。

 そして物語では、最後にポルフィーリが、物的証拠がないので、言ってみれば負けを認め、ラスコーリニコフに自首をすすめますが、本当にそうかなあ・・・。

 何かひとひねりあるような気がしてなりません。

 案外、がっちり証拠も握っていたのだけれども、ラスコーリニコフの改悛に期待して、見逃してやったのだったりして・・・とか。

「罪と罰」に見た美学6

2007年07月22日 10時58分30秒 | Weblog
 ドストエフスキーの操る「カーニバル化」とは真の定義とは異なりますが、以前書いた、ストーンズが平和記念コンサートで、場にふさわしくない武器売買の悪党の歌をあえて歌って、平和を強調したさすがの手法を思い出しました。

 元来黒い者が白を主張するために、一時的なごまかしでしらじらしく自分を白に見せかけずに、あえて自分の黒をより大胆に強調して使い、結果として黒いくせに白に見せかけようとする者よりも、より白い白を見る者に印象づけるという知性ですね。

 
 そのカーニバル化が、ポリフォニー性に有機的に結びつく、といわれております。


 またロシア人は社会慣例上、名前と、父称を続けて呼ぶのが礼儀だそうで、みなお互いに、「これはこれは、ポルフィーリ・ペトロヴィーチ」だとか、ラスコーリニコフを呼ぶのに、「やあ、ロジオン・ロマーヌイチ」などといちいちくどいので、それでなくても小説自体が大げさでくどいために少々慣れるのに難儀します。

 これが、結構大きくって、誰が誰だかわからなくなってしまい、没入するのに抵抗を感じてしまうのです。

 しかし、そういう自分の母国とは異なる文化に触れるのも、読書の楽しみの一つです。

 やっぱり、できることなら小説や映画は原著(原語)で堪能したいもので、この小説でも、ロシア人しかピンと来ない、伏線やら、言葉の遊びや、その当時の流行り言葉や、事件やら、宗教的思惟など・・・

 でありますからなおのこと、「謎とき『罪と罰』」を参考にされると、「え、こんなに深いのか?」と2回驚けますよ。

 
 僕はこの小説に、主人公ラスコーリニコフの、孤独な、気が狂うほどの戦いの連続を見ました。

 ただしその戦いは誰が悪いわけでもなく、他ならぬ自分から常に対決を挑んでしまうのです。

 古きロシアばかりか現代日本において、僕の理解は及ばないのですが、本人の自覚の有無にはかかわらず、常に攻撃的な方がおります。

 同じような社会閉塞感が充満しているのでしょうか?

 しかし不思議なことにこの小説ではそうした中で、読者はみなそうかもしれませんが、自分大好き、病的な殺人者、ラスコーリニコフにいつしか同情していってしまいます。

 だからといって、ラスコーリニコフは世にありがちな、二束三文のお涙頂戴のやむを得ぬ殺人者でもなんでもないのです。

 殺したのはシラミだ、などと、あくまで身勝手で、自己中心的で自意識過剰で、自己愛に満ちた、勝手なヤツなのです。

 しかし垣間見せる人間性や病的な苦悩、純粋さに、よりリアリズムが増し、同情を買うのです。

 またそれは、よくある、著者や登場人物に感情移入してしまうものとは別の代物で、どこか冷めた地点から、一定の距離を保ちながら、同情していくものなので、ちょっと戸惑う感覚です。

「罪と罰」に見た美学5

2007年07月21日 06時38分05秒 | Weblog
 指摘されてなるほどと思います。

 まるで映画「パルプ・フィクション」みたいだな。

 それぞれの登場人物が、それぞれ強烈な個性をもち、一見してばらばらで、それぞれのストーリーがあり、作者の意図や思想をあたかも超えたような配置を取りながらも、一つの小説として成り立っていくのです。

 実際の世の中だってそんなものです。

 通常、小説というものはせいぜいが、ヘテロフォニーかホモフォニーであり、あらかじめ用意された登場人物が、作者の意図通りに、統一感を保ちながら、予定調和で進行し、作者の思想の語り部として存在するものです。

 主役がいて、和音と合いの手を奏でるコーラス担当の脇役がいて、AメロBメロ、サビ、みたいなお決まりのパターンがあって、作者の思惑通りにフィナーレを迎えます。

 ドス氏の登場人物にいたっては、そう単純には参りません。

 さらにはヘーゲル的な絶対精神の歴史的発達や、正・反・合でアウフヘーベンされる弁証法も見られますし、カント的二律背反や、それらドイツ観念論ばかりかエンゲルスやマルクス的唯物論も織り込まれていきます。

 まったく、別の人格が、ばらばらに、それぞれが主役であり、思想も思考もおよそ見当違いなのですが、協和しているのですからこれを魔法と呼ばずして・・・。

 また彼の常軌を逸した緻密なプロット(plot:構成、筋立て)の特色のひとつとして、「カーニバル性」が指摘されます。

 これは、カラマーゾフでの修道院でのデタラメや、本書でのマルメラードフ氏のお通夜のハチャメチャなシーンで体験できます。

 道化役、茶化し、論理逸脱、ちぐはぐ、無遠慮、罵詈雑言、悪態、野次、怒号が入り乱れ、どんどん盛り上がって・・・

 神聖なもの、悲しい出来事が、笑われ、醜態をさらし、おとしめられ、収拾がつかなくなって・・・

 ところがそれらのカーニバルが急に終わりを告げ、結果として高尚なものが、カーニバル前より崇高化されて残るものという意見です。

「罪と罰」に見た美学4

2007年07月20日 10時25分42秒 | Weblog
 さてその「凡人・非凡人の理屈」に、ラスコーリニコフが犯してしまった殺人という罪と、人類の罪、贖罪、そして受け入れる罰、さまざまな登場人物における罪と罰、さらにはロシアという国における罪と罰をも包括して、主人公の心理描写を中心に物語は進んでいきます。

 そしてその身勝手な理屈が、弱者で被救済者の代表であるような、魂の美しい「罪深き娼婦」、ソーニャという女性の愛によって清められ、ついにはラスコーリニコフが自己破綻して新生していく話です。

 一方で「罪と罰」の主人公は、実はサンクトペテルスブルクだ、という評もあるくらい、ドス氏にしては風景描写が生々しくご熱心です。

 何と言いましても例によって、ドス氏の魔法によって命を吹き込まれた登場人物は、まるで実際に生きているがごとく、それぞれの強烈な個性をバラバラに突っ走ります。

 この疾走ぶりが、たまらないんだよな。

 同じ書き手が描く人物とは思えないバラバラさと、強く激しいキャラです。


 さてここで、音楽用語に、

① モノフォニー

② ヘテロフォニー

③ ホモフォニー

④ ポリフォニー

という言葉があります。

 ミハイル・バフチン氏が指摘するように、ドス氏の小説をして、強い④ポリフォニー性があると評されます。

① モノフォニーは主旋律だけ

② ヘテロフォニーはズレによる多声化

③ ホモフォニーは主旋律と和音

④ ポリフォニーはすべてが主旋律で、独立しており、それぞれの比重も同等であり、リズムも別だけれども、協和するもの

です。

 そういう西洋の厳密な区別って、分類好きの日本人より、理路整然としてますよね。

「罪と罰」に見た美学3

2007年07月19日 10時05分12秒 | Weblog
 参考にした江川 卓氏の、「謎とき『罪と罰』」~新潮選書~によれば、「罪と罰」は『精巧なからくり装置』だ、と評されております。

 どこかで聞いた名前ですが、この方は「たく」氏で、2001年に亡くなられ、ドスエフスキー作品の翻訳者でもあり、尊敬すべきロシアおたくです。

 「謎とき」にも記されておりますが、ドストエフスキーは果たして評判どおり流麗には程遠い「悪文家」なのか?

 それとも僕が感じるように、それはそうかもしれないが、流麗ではないからこその美しい魅力があるのかは、読んだご自身が判断されてください。

 「罪と罰」の執筆に当たっては、現実にあった殺人事件が参考にされたそうです。

 主人公の心の病める青年、ラスコーリニコフによる、「凡人と非凡人の理屈」がベースになっております。

 その理屈とは・・・ナポレオンを例に挙げ、非凡人が大儀のためなら、限定つきながら殺人さえも是認される、という身勝手な理屈です。

 百人の善人を救うためには、一人の強欲で善人の生き血を吸うシラミのような悪党を殺すことは許される、というのです。

 そういう風に言い方を換えると、一理はあるようですし、時と場合によっては・・・って気がしなくもありません。

 しかし誰が凡人で誰が非凡人なのか、また善人とシラミのような強欲な悪党とを、誰がどう峻別して認定するのか、さらにその悪党が本当に悪党なだけなのか、実はよき魂も持ちえているのか・・・

 その判断が難しいですし、一般に殺人は殺人です。

 自分たちは優秀で理性的だからと「非凡人」を自認する国において、自分たちより程度が低く理性的でないとした民族が、自分たちに牙を剥いて立ち向かってきたからといって、無差別に大量虐殺した事実は、到底許される問題ではありません。

 国際法を守らずに、戦いに関係のない非戦闘員である無垢な市民をも殺害し、なかば実験のようなおぞましき大量殺戮兵器まで使用して、正義面を振りかざして大儀のためにと。

 しかも、殺しておいて、殺された国民のためだった、他の悪魔から守るためだった、だから俺たちは正義だ、なんて言い訳が、ラスコーリニコフよりふるってるじゃありませんか。

 「罪と罰」でのこの「凡人・非凡人」理屈は、その傲慢な国の悪業を予見していたかのようですらありますよね。

 今さらになってわが国のマスコミが煽り、世間がそれに乗った、先の防衛大臣の発言を糾弾する風潮など、「チャンチャラおかしい」と、テレビ朝日の番組で「非凡人」な司会者が言っておりましたが、その点においてはその通り。

 わが国も堂々と国会決議を行い、首相が正式に謝罪を求め、東京および広島・長崎に慰霊に来いと、あの国の狂犬代表をご招待していただきたいくらいだ。

 コーカソイドの身勝手だけが、許される時代ではもはやないんだと、自覚してもらわねばなりません。

「罪と罰」に見た美学2

2007年07月18日 15時33分10秒 | Weblog
 ロシアのキジポゴスト、「天にゆらめく炎」、プレオブラジェンスカヤ教会    

 新七不思議に木造建築が・・・というならば、申し訳ございませんが清水寺よりも、22の円蓋(クーポラcupola)を持ち一本の釘も使わずという、こちらの教会のほうがどう見ても・・・


 あ、それでこの巨匠の作品を読んだ拙者の僕は果たして、この地球に生まれてドストエフスキーを読まずに死ねないっしょ!って思ったわけです。

 僕の場合は、この「罪と罰」が「カラマーゾフの兄弟」とともに、高校・大学時代の多感な時期に、思考することの楽しさを知らしめてくれ、哲学や宗教一般に対する憧憬を深めてくれたので・・・こんなにゆがんでしまいました。

 また単に「きれい」にとどまらない、本当の「美」を教えてくれた気がするのです。

 流麗さや華麗さよりも、グロテスクで醜悪で泥臭い中に、すっと伸びる崇高な理念のほうが、より美しさは際立つものです。

 以前、「洗練された悪趣味」というコーナーでも、健康的過ぎる不健全さってものを書きました。


 そして、永らく一部の日本人が熱狂的に愛してやまないドストエフスキー氏は、1821年11月11日に誕生し、 1881年2月9日に逝去されております。

 フランス革命が1789年、明治維新が1868年ですから、徳川家斉から徳川慶喜あたりの人。

 この作品は、ドス氏がギャンブルで作った借金を返すために、26日で口述したというのは有名な話です。

 また彼自身、革命思想により、20代にシベリア流刑になっているのも、これまた有名な話です。

 さらには持病のてんかん持ちであり、ギャンブル好きで、女性関係も放蕩とは申しませんが、妻が二人・・・?

 多分にカラマーゾフ的な人物です(きっと)。

 しかし、その思想や思考は実に深淵で、外貌も洗練という言葉の真逆をいっているようでもありますが、紛れもなく世界文学史上No.1のキングだと僕は考えております。

 ドストエフスキーの生きたロシアは、フランス革命後、農地解放が起こり、皇帝が暗殺されて、無神論の共産主義革命が起きようとしていた、まさに動乱期です。

 またロシアは以前も書きましたが、東ローマ帝国由来の、東方正教の中心的役割を果たすひとつの重要な地域です。

 それ以外に土着のアニミズムとして、母なる大地信仰があります。

 「罪と罰」も有名ですが、「カラマーゾフ」ほどに、美しさが突き抜けて際立ち、重厚かつ繊細で、交響曲のような旋律が奏でられるものではありません。

 しかし氏の人間ワザとは思えない深い洞察と思考、あちこちに仕掛けられる示唆や宗教的意味合い、人間にとって、生きる上で、もっとも尊重されるべきものとは何か・・・彼の作品は、越えられない山のようでもあります。

「罪と罰」に見た美学1

2007年07月17日 16時08分29秒 | Weblog
 「ぼくはきみにひざまづいたんじゃない、人類のすべての苦悩の前にひざまづいたんだ」

 あらゆる「罪と罰」論に使われるという、世界的にも超有名なせりふ・・・。

 前回の、「カラマーゾフ」が思いのほか好評だったので、第二弾、ロシアの巨匠ドストエフスキーの「罪と罰」をやろうかと思います。

 さあさあこの「罪と罰」、タイトルくらいは聞いたことがあるかもしれませんし、多くの方がお読みになっているかもしれません。

 この話は簡単に言えば、精神が張りつめた青年が、強欲な金貸しのお婆さんと、はずみでお婆さんの年の離れた妹で知的障害をもつ、老婆によって虐げられていた女性までをも殺してしまい、罪にさいなまれる話です。

 そしてここでもドス氏の文章は、美文・流麗とは反対の、重く湿っていて、泥臭~いものになっております。

 正直、いちいちが大げさだし、深刻が過ぎますし、暗いし、長いし、神がかりだし、宗教がかっているし・・・

 軽薄短小が人気の現代には、まったくもってマッチしません・・・重厚長大。

 ドス氏のこの独特の匂いが合わずという方も、実際多いかもしれません。

 また無味無臭がもてはやされる時代ですから、合わないにしても「むべなるかな」なのですが・・・。

 にんにくもしかり、納豆、オニオンフレーバー、魚の光り物にキモ、キムチにチャンジャ、パクチにナンプラーにトムヤンクン、タバコのガラムにムスクの香りなど・・・

 アクが強く、個性的で刺激的なものほど、病みつきになるものです。

 食わず嫌いってぇのも、いただけませんや。

 そしてこの時代だからこそ、あえてこの、世界的巨匠の大げさな名作を読むことに、かえって新鮮な感動や、その人の後の人生に与える意義も生まれるものだと思います。