医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

literacyに関する美徳2

2006年09月30日 21時56分30秒 | Weblog
であればやはり報道はやはり広告のないNHKかというと、NHKでさえも予算を取る都合上、果たしてどこまで経産省や総務省、国会、官僚問題などに踏み込めるか疑問です。

 テレビもそうですが、特に新聞社にいたっては、その社の持つ思想が大きく反映されますので、ハナから疑念を持って読み解かねばなりません。

 一般には新聞社や放送局の持つイデオロギーは分かりにくいため、つい過大に信用してしまいがちになります。

 日本にはCIAのような政府直属諜報機関がありませんから、国家の情報収集能力に著しく劣り、マスコミの情報収集能力に頼らざるを得ないという事実もあり、政府や政治家の情報が実はマスコミ経由だったりして、聞いたほうがあせることもままあります。

 またマスコミは例えば警察や政治家のぶら下がりで情報を収集することも多いため、どうしても真の権力に対して弱い部分は否めませんし、報道のタブーも色々とあるそうです。

 さらに最近の報道番組では自分が常に正しい、正義だと勘違いをしている尊大な司会者や評論家が増え、自分の意見を聞かなければテレビで相手をこき下ろすというきわめて不遜な態度が目に余ります。

 その際、相手が特に反論できない立場であるとか、舌鋒に鋭くない素人と見ると、容赦なく言葉の暴力で痛めつけて、「それって自分のストレス解消かよ~?!」と思わざるを得ない場合もあります。

 みなさまも「そんなに偉そうに批判ばかりするのなら、お前がやってみろ!」と一度は思ったことがありませんか?

 このブログの閲覧者の方は、上品な方が多いでしょうから、そんなお下劣なことは思われませんでしょうか?

 それに評論家のようにすべて結果論でものを言うなら、誰でも明日にでもプロ野球監督の名将になれます。

 FAXやメールで視聴者の意見を募集するときでもしかり、自分たちに都合のいい意見しか紹介しないような悪質な番組もあります。

 国民の大多数の意見と自分たちマスコミの意見が大きく乖離(かいり)していることに自覚なきままに、最近は「言論の力が弱い」などと自らを省みることもなく、あくまで自分たちが正義だとおめでたいくらいに思い込み、自分たちの意見を無理やりにでも押し付けようとしている様には、危機感すらおぼえます。

 確かにポピュリズムはいったん暴走すると手に負えない側面はあります。

 しかし、僕は自民党員ではありませんが、最後までマスコミの展開した連日の小泉批判と、最後まで下がることのなかった国民の支持率の大きな乖離に一考の余地があると思わざるを得ません。

 かつて官邸を去る際に拍手で見送られた宰相を記憶にありません。

 役者が違いすぎましたよね。

 30年後、小泉・竹中コンビは日本の危機を救った男たちとして称賛されることを予言します。

 新総裁にしてもまだ船出したばかりなのに、もう批判しようとしている・・・そんなにすぐにすべてを達成できるわけがないでしょう。

 少なくても半年はたとえ失敗を犯してしまっても、許容範囲までは暖かいまなざして見守るのが人としての儀礼、オトナのマナーではないでしょうか???

literacyに関する美徳1

2006年09月29日 10時14分04秒 | Weblog
 literacy(リタラシー、リテラシー)は本来読み書きの能力や教養を指す単語です。

 日本人は義務教育により国民のリテラシーは高い、などと使われます。

 IT用語ではパソコンやインターネットを使いこなす能力、情報を入手・発信する能力として使われるようです。

 一方「メディア・リテラシー」というと、情報を発信できる能力ということ以外に、Wikipediaによれば「情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。情報を評価・識別する能力とも言える。」そうです。

 昨今の日本の報道を見ていて、非常に危惧される一面があると、僕と同じお考えの諸氏も多いと思われます。

 一般にニュースが流れると僕たちは、それがあたかも真実であるかのように錯覚してしまいます。

 ところがニュースというものは、そのニュースを取り上げるかどうかでひとつバイアス(bias先入観、偏り、考え方への影響)がかかりますし、それをどのように撮影するか、どんなBGMを流すか、それを読むアナウンサーのトーン、原稿を書く人の基本的な思想、CMのスポンサーかどうか、そのメディアのオーナーなり社長あるいは社としての思想・・・あらゆる偏見が加わりますから、公平な報道というものは本来かなり至難の業になります。

 情報を提供する側も人間ですから、それが発信者の信じたいものであればあるほど、思い入れであったり、そのため確認作業をつい怠ってしまったり、発信者本人が真実であると思い込んでしまうものです。

 しかも昨今では匿名のインターネットの情報にあふれておりますので、無責任な誤った情報の垂れ流しが後を絶たず、リテラシーを十分活用しないと情報の波に溺れてしまいがちです。

 Wikipediaにも、「視聴率を上げるために民間放送では情報の公正・中立性より時事性とセンセーショナルさを重視することが多く、『報道は真実を伝えるものではなく、視聴者が期待するものを見せるバラエティー番組の一種』と揶揄する声もある。」と書かれております。

 テレビは視聴率が至上命題となりますので、ニュースも気をつけないと、視聴者にとって面白おかしいものを取り上げ、ことさらに視聴者が望む結末をもって操作されることも多く、危惧されるのです。

 また広告スポンサーが特に大切ですから、例えば消費者金融の話題はどうしても小さな扱いになります。

琥珀の美-18

2006年09月27日 10時58分46秒 | Weblog
 瀟洒なツァールスコエ・セローのエルミタージュです。

 大黒屋光太夫が拝謁したのは「謁見の間」ではなく、「絵画の間」だという話が・・・

 
 
 さて、2003年、大変秀逸な番組、NHKでのこの「琥珀の間」の放送を制作した重延 浩氏は述べております。

 『「琥珀の間」の再現を担当した86歳の主任建築士に出逢う。アレキサンドル・ケドリンスキー氏。彼は戦前の「琥珀の間」を知り、その復元に命をかけた。氏は完成の日、病をおしてそこに立った。私の健康を気づかう言葉に対し、「健康?そんなものは関係ない。私は建築設計士だ。」と答えた。』・・・・。

 うわ~アレックスじいさん、かっこよ過ぎだぜ!!

 「すべての若き野郎ども」(D.ボウイの曲名)よ、これが職業に誇りを持つオトナの美しすぎるプロ意識ってやつさっ!

 僕もいつかは言ってみたい・・・僕を気遣ってくださる方を前にして「自分のことなど関係ない。私は医師だ。」。

 しかし凡人の僕には一生そんな機会はないでしょう・・。


 「琥珀の間」には物語があります。

 美術品や建築物はそれ自体が光を放つものもあれば、芸術家の劇的な生き方であったり、歴史的物語が織り成す金色に輝く糸で編みこまれていきながら、かけがえのない存在感や美しさを示すものもあります。

 パリやローマやN.Y.、ハワイなどに比して、現在日本ではあまり観光のメジャースポットでこそありませんが、これからはサンクトペテルブルク、プラハ、ブダペスト・・・あたりが人気上昇間違いないでしょう!!(またしても思い込みか?

 今回は以前お書きいたしましたファベルジェに続き、ロシア人の美意識をちょっぴり堪能していただけたと思います。

 別にロシア狂ではありませんが、美しいものは美しいですから。

 琥珀の間にペテルゴフ、ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿・・・案外ワシリー聖堂が一番インパクトが強かったりして・・・。

 しかしドイツとロシアというのは日本にいると気づきませんが、歴史的にも王家の血脈でもなんとも微妙でかつ深~く関わりあっているのですね。

 そう思うとW杯なんかを観戦しても、露VS独の試合などワクワクしませんか?

 それにしても、プレステ2の「メタルギア・ソリッド3」の中でも言っておりましたが、敵などというものは時間軸でくるくる変節するものであり・・・

 今回のこの例でも本来プロイセンの王が友好の証としてロシアに贈ったものなのに、時間が経過すれば敵同士となり互いに殺しあって奪い合い・・・

 敵というものは常に相対敵であり、絶対敵などは決して存在せず、兵士や国民はいつもその国の指導者と「時間」によって、たとえもっとも崇高なその生命でさえも翻弄され続けてしまうものなのですね。

 僕の大好きなデビッド・ボウイは歌いました(確か・・)。

 時間は僕たちをこんなにも変化させ、引き裂き、傷つけるのに、逆に僕は時間に対しては、爪あとひとつつけられないと・・(といった趣旨だったと記憶しております)。

 そういう不条理ですら受け入れてしまう和の思想・・・、諸行無常、定めなきこそいみじけれ・・・あさきゆめみじゑひもせず・・・

-このテーマの終わり- 

琥珀の美-17

2006年09月26日 10時52分26秒 | Weblog
 「琥珀の間」があるエカテリーナ宮殿の「青い客間」です。


 さて皆様も記憶に新しいかと思いますが、舞台は3年前フランスは「エビアン・サミット」・・・2003年の5月31日にプーチン大統領は完成後初めての公式公開として、各国首脳をここに招きました。

 こういう演出はやはり日本人よりうわてです。

 以前書いたようにサンクトペテルブルク出身のプーチン大統領が、フランスでのエビアン・サミットに先駆けて各国首脳を招いたのでした。

 そこにはもちろんドイツのGerhard Schröder首相も、わが日本からは小泉首相も参加しました。

 シュレーダー首相とプーチン大統領の心中を察するだけでもドラマティックですよね??

 修復後の「琥珀の部屋」については下記もご覧ください。

http://www.nta.co.jp/ryoko/tourcon/2003/030601_2/

 そもそもは琥珀の産地、ドイツ発祥の地プロイセンで作られ、それがロシアに贈られて、ナチスがロシアから奪い去り、ロシアが奪還に向かい、その後行方が分からないままの「琥珀の部屋」・・・。

 オリジナルはとうに分解され原形をとどめない無残な姿で、ブラックマーケットに何者かによって売りさばかれているのでしょう・・・。

 しかし例え復元だとしても、サンクトペテルスブルクには死ぬまでに一度は訪れて、ピョートル宮殿、エカテリーナ宮殿、そして「琥珀の部屋」をぜひ見てみたいと思います。

 まるで太陽の中に立っているみたいだそうです・・・輝きの中にいるのに暑くないと。

琥珀の美-16

2006年09月25日 11時00分41秒 | Weblog
 ペテルゴフの全景です。

 「琥珀の間」をドイツ軍がエカテリーナ宮殿からケーニヒスベルグ城へ再移動してわずか7ヵ月後の1944年8月には、今度は連合軍による最初のケーニヒスベルグ砲撃が行われます。

 その後何が起こったのかははっきりとはしておりませんが、1945年の1月から4月までの間にソビエト軍がケーニヒスベルグに接近してくる中、再びコッホはパネルを箱にしまい、どこかに隠し、梱包し持ち去って以来、「琥珀」の行方が分からなくなっているのです。

 ナチ党政権下のドイツにおけるヒトラーに次ぐ第2の実力者、ヘルマン・ゲーリングがいます。

 彼はプロイセン州首相に任命され、プロイセン州警察の政治警察部門を独立させて、かの悪名高き秘密警察(ゲシュタポ)を創設したのですが、その彼と争うようにしてヒトラーは「琥珀の間」を運び出させたそうです。

 どの世界でもNo.1と2は往々にしてそういうものですが、ゲーリングとヒトラーは激しく憎しみ合いながらも頼りあうという関係で、お互いに略奪した美術品の奪い合いをしており、ゲーリングも琥珀の間に大きな関心を寄せていたそうです。

 ゲーリングのキャラクターは不謹慎ながらとてもユニークで有名ですから、興味のある方はどうぞ情報をお探しください。

 ヒトラーはもしドイツがロシアと敵対すれば、<共産主義>対<資本主義>というイデオロギー対立の世界的構図から、連合軍がドイツの側につくという歴史的な読み間違いをしていたらしいですな。


 そしてオリジナルの行方が分からなくなっている戦後、「琥珀の間」の復元はそれはもうロシアにとっては国家を挙げての夢と悲願になりました。

 1979年旧ソ連は国家プロジェクトとして復元することを決定するものの、本国はペレストロイカなどで資金繰りが思うようになりませんでした。

 ところが99年には皮肉にも琥珀を奪い去った国であるドイツの企業から資金導入に成功し、そして遂に2003年4月、サンクトペテルグルグの建都300年に併せ、24年の歳月をかけた復元と修復が・・じゃじゃ~ん完成したのです。

琥珀の美-15

2006年09月24日 08時59分38秒 | Weblog
 以前載せた大黒屋のエカテリーナ2世への「謁見の間」は「玉座」の誤りでしたので訂正します。

 こちらが「謁見の間」です。

 

 さて「琥珀の間」がナチスドイツによって持ち去られた「ケーニヒスベルク」は先に解説したとおり、第一次世界大戦後ポーランド独立によってドイツ帝国の飛び地となった「東プロイセン」にあり、現在のポーランドとリトアニアに挟まれる地域で、今はロシアの飛地領となっており、ロシアのカリーニングラード州の州都となっております。

 バルト海に接する港湾都市で、世界有数の琥珀の産地としても有名なこの地こそが、プロイセン公国のかつての首都でもあり、ヒトラーがこの地のケーニヒスベルク城こそ「琥珀の間」があってしかるべきだと、部下のエーリッヒ・コッホに命じてこの城に持ち去って飾られたのです。

 その後「蒐集クラブ」によれば、「1942年のドイツのニュースの記事にはこの出来事が『琥珀は本来のありかに、そもそもの始まりの場所である唯一の場所に帰った』と書かれている」そうで、「絵葉書が発行された」り、「琥珀の展示はナチスの美術館で一番の呼び物になった」そうです。

 しかるべきかもは知れませんが、プロイセン国王が正式にピョートル大帝に贈ったものですからねえ・・・。

 ケーニヒスベルクは大戦当時にはドイツの飛び地となっておりましたが、そもそもはプロイセンの発祥の土地でもあり、哲学者イマニュエル・カントを輩出するなど伝統と歴史がある地です。

 現在はリトアニアが独立した結果、今度はロシアの飛び地となってしまい、まったくもってこの地は歴史に翻弄され続けております。

 プーチン大統領の夫人の出身地でもありながら、あろうことか現在では退廃してしまい、経済は腐敗し、ロシア・東欧の犯罪の拠点となっており、麻薬や人身売買、HIVの蔓延、軍事都市時代の負の遺産・・等々と、リトアニアにとってもロシアにとっても頭痛の種なのだそうです。

 現在ではケーニヒスベルグ城の残骸を取り壊して建てられた『ソビエトの家』も使われることなく廃墟となっているそうです。

琥珀の美-14

2006年09月23日 20時17分10秒 | Weblog
 こちらはピョートル宮殿の「クーポラ」とその上の王家の紋章、双頭の鷲です。


 さてさて人類の遺産の「琥珀の部屋」ですが、時は移って第二次世界大戦下の1941年6月22日、ドイツ軍がソビエト連邦に侵攻しました。

 戦争ではどの国でもそうですが、侵攻して包囲し美術品の略奪が始まります。

 イラクでも相当数の地球的芸術遺産、ハムラビ法典の石碑もしかり、アメリカの突入と同時に、一般市民や芸術品ハンターたちも美術館に押し入り略奪され、失われてしまったそうです。

 盗難に遭ったムンクの「叫び」は戻ったようですが、世界中の美術品は略奪の憂き目に遭い、アンダーグラウンドに潜ってしまい、二度と陽の目を見ないものも数多く存在するとのことです。

 ほんとかどうかは知りませんが、それら美術品を金の力で不法な方法によって個人蒐集しているお金持ちもいる、というのがこの「蒐集クラブ」の主題です。

 そしてエカテリーナ宮殿もしかり、ナチスドイツの餌食となってしまいました。

 1944年1月、ソ連が大攻勢に転じ、ナチスドイツのレニングラード(サンクトペテルスブルク)からの退却が始まりました。

 撤収に当たって36時間というわずかな間に部屋全体の6トンとも20トンとも言われる琥珀はそのすべてがナチスドイツによって剥ぎ取られ、ドイツは東プロイセンのケーニヒスブルクへと持ち去られました。

 エカテリーナ宮殿はすんでのところでナチスによる爆破を免れました。

 こんな素晴らしい建物を建てる方も建てる方ですが、爆破しようとする者もする者で、爆破を免れて本当に良かったと思います。

琥珀の美-13

2006年09月22日 14時40分43秒 | Weblog
 この写真は大黒屋さんがエカテリーナ2世に拝謁(はいえつ)した、エカテリーナ宮殿の謁見の間です。

 (上記は誤りで、「玉座の間」でした・・本物の「謁見の間」は9/24分を参考にしてください-2006.09.24-)

 さて一方「琥珀の間」ですが「蒐集クラブ」によれば、さらに「四枚のパネルの中心にはそれぞれ金色に塗った青銅の枠がついた、碧玉(へきぎょく)と瑪瑙(めのう)の美しいフィレンツェモザイクが」あり、「オーク、かえで、白檀(びゃくだん)、紫檀(したん)、くるみ、マホガニーを使った手の込んだ寄せ木細工の床と天井画が四囲の壁に負けない豪華さを加えていた」そうな・・・。

 書き写しているだけでごちそうさまです・・疲れちゃう・・。

 ちなみに碧玉は英語でジャスパー、緑から青色の石英のこと、白檀は仏像を彫る材料の木で香りがあり、紫檀はローズウッドとも呼ばれ、高級家具やナイフの柄に使われる木材です。

 さらに名工は仕事を続け、ついにこの部屋が完成したときには「蒐集クラブ」によれば「エリザヴェータは歓喜し、ずっとこの部屋を外国の大使を迎えるのに使い、見せびらかした」そうですが、完成したのが1770年のはずですから、そのときにはもうエリザヴェータは他界しておりますので、エカテリーナ2世の間違いではないかなあ・・・。

 その後王家の宝も飾られ、「チェスト、燭台、かぎ煙草入れ、皿、ナイフ、フォーク、十字架、聖像を安置した壁龕(へきがん=壁のくぼみ?)など70もの琥珀製品が部屋を飾っていた。」そうです。

 ダメ押しにはな、なんと「皇帝ニコライⅡ世が買った琥珀の王冠」が加わったそうです。

 エカテリーナ2世は特にこの部屋が相当気に入ったそうで、自分が許す者以外の入室を禁じて、お宝を収集しまくりついには禁断の部屋となりました。

 「琥珀の王冠」ですか・・・ しかしここまで行ってしまうと、突き抜けておりますから、もやや嫌味だとか成金趣味はとうに通り越して、ある意味潔さすら感じますし、笑うしかないというか、驚嘆にくれるしかありませんでしょ?

 人類の遺産として大切に守り抜かなければならないはずです。

琥珀の美-12

2006年09月21日 15時47分38秒 | Weblog
 いろいろ回り道をしましたが「琥珀の部屋」がある「エカテリーナ宮殿」に戻りましょう。

 ピョートル大帝が妻のエカテリーナ1世にかつての豪農の家を贈り、それを娘のエリザヴェータが改築して、その後のエカテリーナ2世が改修しましたのがブルーも鮮やかな「エカテリーナ宮殿」です。

 聖人ペテロに名前が由来するピョートル大帝は以前このブログの、高田屋嘉兵衛やファベルジェとイースターエッグ&サンクトペテルスブルクのコーナーで話したとおり、ロシアの近代西欧化を進め今のロシアの礎を築いたロマノフ朝の大公です。

 長年の敵スウェーデンに対して、ホリエモンのM&Aで有名になった本家本元の「焦土作戦」を行ったのも彼、大北方戦争に勝利してバルト海の制海権を得ました。

 ロマノフ朝の第2代皇帝はピョートルの妻、リトアニアの農村の娘でドイツ語が話せたエカテリーナ1世で、その娘がエリザヴェータ。

 複雑なことに第8代ロシア皇帝にエカテリーナ2世もいますが、こちらは完全にドイツ人であり、高田屋嘉兵衛の「菜の花の沖」にも登場し、大黒屋光太夫がエカテリーナ宮殿で謁見したのもこちらのエカテリーナ2世です。

 ピョートル大帝はロシア海軍を作ることに大きな目的を持っておりましたから琥珀どころではなく、プロイセン国王からもらった琥珀のパネルはそのまましまいこみました。

 ところがやはり女性の方がめざといのでしょうか?

 その30年後にピョートルとエカテリーナ1世の娘で、第6代ロシア皇帝のエリザヴェータが冬の離宮の書斎をこの琥珀で飾るよう命じ、その後夏の宮殿(エカテリーナ宮殿)に飾るよう指示したそうです。

 とにかくまあ写真をご覧ください。

 エカテリーナ宮殿に完成した琥珀の部屋は「蒐集クラブ」によれば「空想上の人物の小立像や花の渦巻き、唐草模様、チューリップ、薔薇、貝殻、飾り文字、ロココ調のロカイユに飾られ、全体が茶色、赤、黄色、オレンジ色の影にきらめいていた」そうです。

 いやはや何でもアリですな・・。

 そして「ルイ15世時代風にパネルをバロック風の渦巻模様の鏡板にはめこみ、真ん中に枝つきの燭台と鏡がついた二本組みの付け柱を配している。琥珀と調和するように全体が金の装飾で飾られていた」そうです。

 貴族趣味が過ぎるかとも思いますが、世界で最も裕福であった貴族の中の貴族、ロマノフ家ですから・・・。

 高田屋嘉兵衛のときにも書きましたが、なにせロマノフ朝時代のロシアは少数の貴族と、それ以外はすべて農奴・・・

 農奴は土地を持つ事も許されず、ただひたすら一生奴隷同様に、その子供も農奴以外の道はなく、中間の一般市民が一切いない国でしたから・・・

 例えば船の乗り手などがいなくて、そういう人は海外から招聘していた国です。

 あれだけ広大な土地に、貴族と農奴以外いなかったわけですから、貴族の持つ財力は推して知るべきで・・さらにその頂点がロマノフ家です。

琥珀の美-11

2006年09月19日 01時15分24秒 | Weblog
 どうでしたか、ワシリーは?

 モスクワから北北東に向かって70キロのところにあるセルギエフ・パッサートという町の「トロイツェ・セルギエフ大修道院」では青地に金の星・・・きれいだ。

http://4travel.jp/traveler/navy/pict/10868876/src.html

 他にもサンクトペテルブルクには、「血の教会」として名高い、先の「聖ワシリー寺院」をまねた「スパス・ナ・クラヴィース教会」・・こちらの方がまだ正気でさびしい??

http://www.flyingkong.com/fkx/fkxru001.jpg

 「スモーリヌィ修道院」はすっきりとして調和が取れ、まさにロシアンゴシックの美しさを放っております・・ブルーが美しい。

http://f4.aaa.livedoor.jp/~russianr/photo/smolny.htm

 文句なしに美しい「聖ニコライ聖堂」がありますが・・・いずれもネギ坊主(クーポラ)が特長だと思います。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e4/Buberel_StPetersburg_StNicolas_Cathedral.jpg

 その他にもノボデビッチ修道院やラジヂェストベンスキー聖堂、ユーリエフ修道院、イサク聖堂・・・ペテルブルグには美しい建物はたくさんあります。



 そして、バチカンはサンピエトロ大聖堂のミケランジェロが作ったルネサンス様式のすっきりした気品あふれるドームや、バルセロナの鬼才ガウディ作サグラダファミリアのただひたすら高くおどろおどろしいとうもろこし様尖塔・・・などとはまた異なるロシア独特の美意識によって彩られておりますでしょ?

 本日の写真のピョートル宮殿に建つ「ペテロ・パウロ寺院」のような多角形の尖塔は「シャチョール」と呼んでよいのでしょうか?

 そして宮殿の色彩も、ヨーロッパでの落ち着いた色調とは異なり、白地にパステル調のブルーやイエロー、ピンクなど、案外現代USAチックな明るいパステルが多いことも特徴ですよね。

 それにしても、西欧列強と比べて日本の皇族や将軍方の質素なこと・・・時の王や皇帝による豪奢建造物イコール平民の苦しみですから、日本に生まれてよかったけれども、あれほどの宮殿がないこともちょっとだけ淋しかったりも・・・微妙ですな。

 ロシア正教のクーポラ、カトリックの尖塔に対し、日本建造物の美はやはり屋根でしょうね、反りのある屋根。

 賛同者は少ないと思いますが・・・。

琥珀の美-10

2006年09月18日 15時39分39秒 | Weblog
 ちょっと休暇中なので更新もままならないのにもかかわらず、大勢の方々のアクセスを賜りまして恐縮です。

 皆様のご支援により旅先より更新してみます。

 写真はペテルゴフ(ピョートル宮殿)の、天才「ラストレッリ」作の正面階段です。


 さてさて、「クーポラ」の由来の続きでした。

 「7つの秘蹟」の秘蹟はsacrament(サクラメント)と言います。

 キリストによって定められた神の恩恵を信徒に与える儀式を指します。

 ギリシャ正教では機密、ローマ-カトリックでは秘蹟・秘跡と称します。

 ①洗礼②堅信③聖餐④ゆるしの秘跡⑤病者の塗油⑥叙階⑦婚姻、の七つの式があります。

 プロテスタントでは礼典または聖礼典といい、さすがはプロテスタント、シンプルに洗礼と聖餐の二儀式とするものが多いそうです。

 秘跡は司牧者・聖職者によって執り行われ、「目にみえる儀式に目に見えない恵み」を伴うものをいうようです・・「それをこじつけと言う」・・なんて無神教の皆様、どうか言わないでくださいね。

 サクラメントはシークレットの語源になっているのでしょうかねえ??

 東方教会ではそのままギリシア語の「ミュステリオン」を用いるものもあるそうで、こちらは間違いなくミステリーの語源ですね。



 さあ・・デューラーからいつものようにまたしてもすっかり脱線してしまいましたが、話は戻って元々はロシア正教会の特徴的な「クーポラ」と呼ばれる帽子(ドーム)でしたね。

 いやはやその形状も渦を巻いていたり、いぼいぼだったり、とげとげだったり、パイナップルみたいだったり・・それから色・・・まるでディズニーランドかお菓子の国・・・おとぎの国のようです。

 芸術ははみ出さなければいけない、と頑なに信じる僕もこの美意識には、ただただ脱帽するしかありません。

 特に「神秘的な喜悦、ほとばしる歓喜、形と色彩の饗宴」を目指した(なんだそりゃ?)という、モスクワ「聖ワシリー寺院」の9つのネギ坊主にはなんと、緑に赤に金に青白と・・・

 ある意味これはすごすぎるぜ・・・

 でも見れば見るほどそれはそれで不思議と調和が取れているんですよねえ・・・

 しかも完成に狂喜した王は(狂喜するのもまたすごいな・・)他で作らせないために建築家の目をくり抜いたとか・・・・

 ちょっと見てみてください

http://www.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/10/08/64/src_10086473.jpg

琥珀の美-9

2006年09月14日 12時49分26秒 | Weblog
 エカテリーナ宮殿の門と双頭の鷲です。


 さてまた横道にそれちゃうのですが、「4人の使徒」で思い出したのですけれども、ドイツつながりということで・・・。

 ドイツ・ルネッサンスの巨匠、版画家であり画家である、デューラーがいます。

 彼の15枚連作の版画「ヨハネの黙示録」や絵画「東方三博士の礼拝」、「四人の使徒」「1500年の自画像」等々が有名です。

 彼の特徴はなんといっても写実・細密・精緻表現です。

 ひげや髪の毛の1本1本まで緻密に描かれ、筆が違うんじゃないかと疑われたほどで、また北方ルネサンスにしては珍しく、イタリアルネサンスばりに科学的に考察して、遠近法も独自の道具を開発してとにかく正確な描写につとめました。

 下記をご覧ください。

http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/D/Durer/Durer.htm

 イタリアは陰影のダ・ビンチに対し、ドイツは北方由来の鮮やかな色彩のデューラーといったところですね。

 そのアルブレヒト・デューラーによる「四人の使徒」が結構面白いのです。

 ルネッサンス時代流行った、ヒポクラテスの体液質による分類がありますが、今で言う血液型占いみたいなものです。

 人間を①多血質、②粘液質、③憂鬱(ゆううつ)質、④胆汁質に分類します。

 そして多血質のヨハネ、粘液質のペテロ、憂鬱質のパウロ、胆汁質のマルコを描きました。

 <多血質>は快活で楽天家、<粘液質>は粘り強く冷静沈着な勤勉家、<憂鬱質>はくよくよして気分が晴れないのだけれども威厳があり天才型、<胆汁質>は怒りっぽい激情家だというのです。

 みなさんはどれに当てはまりますか??

 そして絵画4人の使徒はドイツだけにデューラー曰く、4人のルターとのことでありそれぞれ、聖書の人、思想家、指導者、闘士と当てはめております。

 ちなみにデューラーの絵に関し、1500年の自画像やうさぎの絵もすごいですが、この「4人の使徒」でも慈愛を表す赤いマントのヨハネと無垢を表す白いマントのマルコのそれぞれの着衣は、今にも動き出しそうなくらいにとってもリアル・・・さすがはデューラーと思わずうなずいてしまいます。


 また、ちなみのちなみに、4人の使徒のうち12使徒は誰と誰でしょうか?

 答えはヨハネとペテロです。

 パウロとマルコはその他の(72人の)弟子ですが、いずれも聖人であり、岩のペテロや改宗者パウロについては以前解説しましたので・・・

 「闘士マルコ」は福音書の著者とされ、ライオンにたとえられます。

 その遺骸が水の都ヴェネチアングラスのヴェネチアに運ばれたとされており、ヴェネチアの守護聖人となり、ヴェネチアの聖堂は「サン・マルコ大聖堂」、街のあちこちにライオンが見られるそうです。

琥珀の美-8

2006年09月13日 12時59分04秒 | Weblog
 そして前々回お見せしたエカテリーナ宮殿は、またしても天才「ラストレッリ」作であり、天体の星座と並び比較されるほどの美しさをたたえた宮殿です。

 建物の形式は察するにバロック様式と呼んでよいでしょうか?

 全長は740mもあります。

 そして装飾はバロック的な華々しさと、古典主義様式の優美さを兼ね備えております。

 中でも写真のラストレッリによる「舞踏の間」は最高傑作ではないでしょうか。

 まるでベルサーチさながらの金箔された木彫り装飾・・・。

 そして「琥珀の間」もラストレッリがエカテリーナ宮殿に作ったと聞いております。

 またこのエカテリーナ宮殿には他にも、古典主義のポエムと称されるとっても優美な「キャメロンの回廊」と、その2階には優美な「瑪瑙の部屋」があります。

 次回お見せしますが、門ですらラストレッリ作でありロシア帝国の紋章「双頭の鷲」を冠し、言ってみればたかが門なのに実に官能的ですらあり「超ヤバイ」です。

 ちなみに「双頭の鷲(Double Eagle)」ですが、これはもともと東ローマ帝国で使われ、ローマ皇帝が西洋と東洋に君臨する意味らしいです。

 ロシアもローマ皇帝の後継を自負して、ヨーロッパとアジアを支配するという意味で紋章としたそうな・・・

 オーストリア・ハンガリー二重帝国を支配したハプスブルグ家の(オーストリア帝国皇帝でありハンガリー王国国王である)紋章でもあります。



 それにしてもロシアの建物、特に聖堂は独特であり、ロシアは東方正教由来ですから、ビザンティンの文化、イスラムの影響も受けていて、またアジアンテイストも微妙に融合して、さらに好き嫌いは分かれるでしょうけれども独特のロシア民族の色彩感覚が加味されます。

 ビザンティン帝国はイスラムモスクの影響も受けておりますから、エカテリーナ宮殿でも見られるように(右端の方の金色のもの)、ロシアの教会は「クーポラ」と呼ばれる独特の円蓋、言ってみればネギ坊主のような独特のカラフルでかわいらしい帽子のようなドームが特徴です。

 この「クーポラ」なんですが、代表的なところではご覧にいれたエカテリーナ宮殿の金色のネギ坊主ように、1つの大きな円蓋と4つの小さな円蓋の計5つ・・・その場合は「主と4人の使徒」を表します。

 「クーポラ」が1つであれば「絶対神」を、3つの場合は「三位一体」、7つなら「7つの秘蹟」を表し、その数にそれぞれ意味があるのだそうです。

 ビザンティン帝国はイスラムモスクの影響も受けておりますから、エカテリーナ宮殿でも見られるように、ロシアの教会は「クーポラ」と呼ばれる独特の円蓋、言ってみればネギ坊主のような独特のカラフルでかわいらしい帽子のようなドームが特徴です。


 少し遅めの夏休みを取りますので、更新が遅れがちになるかもしれません。

琥珀の美-7

2006年09月12日 11時04分02秒 | Weblog
 さて先週流れた「はなまるマーケット」の放映日が、明日の水曜日だったかな??


 昨日はこれのアクセスも、ぐ~んと上がってきたのでノッてきました。


 「琥珀の間」を最初に作った国王フリードリヒ1世の息子は、ややこしいことにフリードリヒ・ヴィルヘルム1世といいます。

 彼は「粗暴で無教養だったが財政・軍制の改革によってプロイセンの強大化に努め、『兵隊王』とあだ名された」(ウィキペディアより)ほどなので質素倹約を信条とし、よくある話ですが父親が愛したものすべてを憎み、琥珀のパネルを取り外してしまいこませたそうです。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はスウェーデンに対しての、「ロシアープロイセン同盟条約」を記念して、建造中の琥珀の間を見て驚嘆したロシアのピョートル大帝に琥珀のパネルを贈ったのです。


 以前にこのブログに行った事もないくせに、世界で最も美しい街と信じるプラハとサンクトペテルスブルクについてお書きしました。

 ピョートル宮殿の意の「ペテルゴフ」はドイツ語で、ロシア語で「ペトロドヴァレッツ」・・・があるのがロシア第二の都市、サンクトペテルブルクです。

 まあご覧ください、このペテルゴフ(宮殿)はおそらくは世界最高水準ではないでしょうか?

 ピョートル大帝による新しいロシアの歴史をこれから築き上げるのだ、という大地を突き上げるマグマのようなエネルギーが、雄大に優美に満ち満ち溢れすぎてこぼれるほどです。

 ポンプを使わずに自然の重力で奏でられるという信じがたい噴水、噴水、噴水・・・、水のメロディと虹の彩り、水の芸術を称える散りばめられた彫刻・ブロンズ像の数々、そしてイギリス式庭園と素晴らしいイエローの宮殿、圧巻はイタリア生まれの天才建築家「ラストレッリ親子」による装飾です。

 そしてオリジナルの「琥珀の部屋」があった(今も復元された「琥珀の部屋」がありますが)、昨日お見せしたブルーが見るも鮮やかな「エカテリーナ宮殿」は、サンクトペテルブルクから南へ約30km、プーシキン市にあります。

 プーシキン市は古くは「皇帝(ツァール)の村」を意味する「ツァールスコエ・セロー」と呼ばれましたが、現在はロシアの偉大な詩人プーシキンがエカテリーナ宮殿内の高校で学んでいたことからプーシキン市になりました。

琥珀の美-6

2006年09月11日 12時34分08秒 | Weblog
 ドイツ帝国は第一次世界大戦の敗戦によって、西プロイセンがポーランドによって割譲されたために、地理上東プロイセンがポーランドの向こう側の飛び地となってしまいます。

 歴史的にその地の奪還をめぐって、ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦へと突入していったのです。



 さて「琥珀の部屋」に戻りますが、この遺産は第二次世界大戦中にロシアからドイツが奪って行方が分からなくなるのですが、そもそもはドイツの発祥であるプロイセン国王が、初代ロシア皇帝であるピョートル大帝に贈ったものです。

 プロイセン初代の国王フリードリヒ1世はウィキペディアによれば、

「『猫背フリッツ』とあだ名される風采の上がらない小男で、ルイ14世にあこがれるような虚栄心の強い浪費家だったが、良妻の影響もあって学芸を振興させ、初代プロイセン国王となった」

そうです。

 そして「蒐集クラブ」によれば、琥珀の間を最初に作ったそのプロイセン王のフリードリヒ1世は当然ですが琥珀好きで、チェスの駒、燭台、シャンデリア、ジョッキ、パイプと琥珀製品を手元においていたそうです。

 それならいっそのことシャルロッテンブルグ宮殿に天井も壁もすべて彫刻を施した琥珀の書斎を造ってしまおうかと思ったそうです。

 そりゃ元々プロイセンは琥珀の産地ですし、それに好きだからといって琥珀の部屋を考えつくのもすごいし、現実に作ってしまうところもなんともはや・・・。

 ドイツのベルリンにあるシャルロッテンブルグ宮殿は、プロイセンの王妃ゾフィー・ シャルロッテンの夏の離宮としてヴェルサイユ宮殿を模して作られ、現在ではなぜかエジプトの「ネフェルティティ」王妃像があることで有名です。

 バルト海沿岸では何トンも宝石として扱われるほどの上質の琥珀が採れていたので、王は徹底的にそれらを探させ、彫刻を施し銀で裏打ちしたそうです。

 この銀で裏打ちというのがまたみそで、これによって光が反射して輝くそうです。

 写真は「琥珀の間」があるエカテリーナ宮殿です。