本当はこの後、いじめや幼児虐待、宗教観について考察し、毎度中年の主張をくどくどと書く予定でしたが、今までの繰り返しになってうざいし、ウェットになるので急遽やめることにします。
要点は、いじめについては大人が会社でまずやめなきゃだめ、宗教観は親である大人がまず持たなきゃだめ、子供より僕たち普通の大人に問題がある、というこってす。
それでもってよそさまには60点で合格、悪意がなければおおらかに赦しあって、「地上のパン」よりも大切なものを守りましょうってなことっす。
最後に、この世で最も信じる力が強大な「宗教」について考えましょう。
宗教は神が本当にいるのかいないのかではなく、信じるか信じないかだと思います。
では神を信じることによって、この世に平和が来るのか?
残念ながら答えが「否」であることは、昨今の宗教対立がもたらす世界情勢を見れば明らかのような気がします。
しかしそれは神を信じるのに平和が来ないのではなく、信じ方が不十分というか、国家間のエゴの張り合いや、利権、欲望、憎しみ・・・本格的な宗教的対立というより、そういった宗教を超えた人間の業(カルマ)による対立に宗教がリンクされているだけかもしれません。
また、神が世界を作りたもうた訳ではない可能性も、理性的に感づいてしかるべきでしょう。
であればいっそ宗教など必要ないのではないか?
ところが当然のことながら人類は、例えば医学的な問題だけでも、胚細胞問題や、代理出産、臓器移植問題など、その歴史上経験のないことにも遭遇します。
そのときにどう判断したらよいか、誰も経験はないのですから、真の正解は誰も分かりません。
最大公約数で判断するしかないのですが、それすらもできない究極のケースもあるでしょう。
人類の共通の取り決めや倫理観があればまだ一助にはなるかもしれませんが、それが神や宗教かもしれないし、そのことが精神的支柱になることでしょう。
神に思いを馳せるとしたら、それは人間が歴史をつむいでいく過程で、守らなければヒトが滅亡してしまうような大切な倫理観や正義や、人として最低限尊重すべき道徳観というものがあって、その究極にある非人間的な万能の統治者かなあ・・・なんて。
人間の意志を超えた形而上学的な場所にこそある力、それは人生の個々の不条理を超え、人間の宿命を裏付ける絶対的な力、そして古代より脈々と流れる人間としての作法や行儀。
神である以上、不完全な人間を絶対的に従わせるために、万能でなければ困るわけで・・・
でもね、日本はひざまずくべき絶対神はいませんが、実際にそれほど暮らしにくくもありません。
不思議なもので日本では、猟奇的殺人も少ないし、銃を乱射する犯罪人も少ないと思いますし、路上でつばを吐く人間も少ないようにも思います。
しかし一方現代日本では、たとえ不完全な人間としての他者の目を盗むことができても、お天道さま、神さまが必ず見ているという絶対道徳心や、弱者を思う正義感などに欠けて来ていることは事実です。
だから他人の目を必要以上に気にかけたり、ごまかせればそれでいいやと他人の目を盗むことにエネルギーを浪費しすぎですよね。
同じ日本人である同胞や、他国の人々を同じ人類として愛する気持ちだとか、思いやりや優しさが、宗教と直接的な関係があるかどうかは、僕も分かりません。
しかし地上のパンよりも、個人よりも、大切なものを感じるには、やはり宗教的感情も必要なことかなあとこのごろ強く実感します。
そしてもう少し他人に優しく、思いやりだとか、寛容だとか、恕する心を持って、柔和で、おおらかで、陽気で、いい意味でのアバウトな態度が必要なのではないかなあと・・・宗教とは究極は死生観と他者を慈しみ思いやる人間愛のことなのかな??
僕も不完全ながら気をつけております・・・。
「納得できないっ!」ではなく赦しあいませんか?
-カラマーゾフの終わり-
要点は、いじめについては大人が会社でまずやめなきゃだめ、宗教観は親である大人がまず持たなきゃだめ、子供より僕たち普通の大人に問題がある、というこってす。
それでもってよそさまには60点で合格、悪意がなければおおらかに赦しあって、「地上のパン」よりも大切なものを守りましょうってなことっす。
最後に、この世で最も信じる力が強大な「宗教」について考えましょう。
宗教は神が本当にいるのかいないのかではなく、信じるか信じないかだと思います。
では神を信じることによって、この世に平和が来るのか?
残念ながら答えが「否」であることは、昨今の宗教対立がもたらす世界情勢を見れば明らかのような気がします。
しかしそれは神を信じるのに平和が来ないのではなく、信じ方が不十分というか、国家間のエゴの張り合いや、利権、欲望、憎しみ・・・本格的な宗教的対立というより、そういった宗教を超えた人間の業(カルマ)による対立に宗教がリンクされているだけかもしれません。
また、神が世界を作りたもうた訳ではない可能性も、理性的に感づいてしかるべきでしょう。
であればいっそ宗教など必要ないのではないか?
ところが当然のことながら人類は、例えば医学的な問題だけでも、胚細胞問題や、代理出産、臓器移植問題など、その歴史上経験のないことにも遭遇します。
そのときにどう判断したらよいか、誰も経験はないのですから、真の正解は誰も分かりません。
最大公約数で判断するしかないのですが、それすらもできない究極のケースもあるでしょう。
人類の共通の取り決めや倫理観があればまだ一助にはなるかもしれませんが、それが神や宗教かもしれないし、そのことが精神的支柱になることでしょう。
神に思いを馳せるとしたら、それは人間が歴史をつむいでいく過程で、守らなければヒトが滅亡してしまうような大切な倫理観や正義や、人として最低限尊重すべき道徳観というものがあって、その究極にある非人間的な万能の統治者かなあ・・・なんて。
人間の意志を超えた形而上学的な場所にこそある力、それは人生の個々の不条理を超え、人間の宿命を裏付ける絶対的な力、そして古代より脈々と流れる人間としての作法や行儀。
神である以上、不完全な人間を絶対的に従わせるために、万能でなければ困るわけで・・・
でもね、日本はひざまずくべき絶対神はいませんが、実際にそれほど暮らしにくくもありません。
不思議なもので日本では、猟奇的殺人も少ないし、銃を乱射する犯罪人も少ないと思いますし、路上でつばを吐く人間も少ないようにも思います。
しかし一方現代日本では、たとえ不完全な人間としての他者の目を盗むことができても、お天道さま、神さまが必ず見ているという絶対道徳心や、弱者を思う正義感などに欠けて来ていることは事実です。
だから他人の目を必要以上に気にかけたり、ごまかせればそれでいいやと他人の目を盗むことにエネルギーを浪費しすぎですよね。
同じ日本人である同胞や、他国の人々を同じ人類として愛する気持ちだとか、思いやりや優しさが、宗教と直接的な関係があるかどうかは、僕も分かりません。
しかし地上のパンよりも、個人よりも、大切なものを感じるには、やはり宗教的感情も必要なことかなあとこのごろ強く実感します。
そしてもう少し他人に優しく、思いやりだとか、寛容だとか、恕する心を持って、柔和で、おおらかで、陽気で、いい意味でのアバウトな態度が必要なのではないかなあと・・・宗教とは究極は死生観と他者を慈しみ思いやる人間愛のことなのかな??
僕も不完全ながら気をつけております・・・。
「納得できないっ!」ではなく赦しあいませんか?
-カラマーゾフの終わり-