医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

カラマーゾフ的美意識2

2007年01月17日 10時56分41秒 | Weblog
 いや~今こうして挙がった名前を見てみても、暗澹たる思いになりますな。

 僕は松岡正剛氏のような、明晰な頭脳や鍛えられた文章力も批評力も持たない一市民であり、寺山修司のようなキラリ光る特別な才能を持っているわけでもないので・・・だからこそ暗澹としてしまう。

 世界の文学史上でもっとも評価が高いのがこの「カラマーゾフの兄弟」です (言い切り)。

 ドストエフスキーの設定する登場人物の、キャラクターにこめられる詳細すぎる設定はまるで実際に生きている人間のようであり、色々な考え方を持っており、考えの滲み出しもなくきちんと個別され、ひとりひとりがまるで自己意識を持たされているごとくであり、役回りや人物の背景描写、書き込みがすでにフィクションを超え尋常ではありません。

 小説中の回想シーンにしたって、物語上の架空の人物のさらに回想なのに、まるで実社会に呼吸をして生きている人物のようでさえあり、性格やらファッションからそのときのシチュエーションから・・・みずみずしくさえあり、偏執的書き込み狂です(風景描写はトルストイ等にくらべ毎度のこと、少ないですけれども)。

 パソコンもない時代なのに、いったいどんな構成の練り方なのでしょうか?

 日本の小説のように「やわ」ではなく、単純明快の対極をなします。

 この小説は車で言えばまるでマクラーレンF1-GTR LMのようなモンスターです。

 類似しているわけではまったくありませんが、似たように頭がくらくらする文学にはラテンアメリカの太陽の匂いがする、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」がありますが、これはまたあとでやりましょう。

 カラマーゾフでは、決して前衛的ではなく時間軸に沿った、一定の論理的な物語はありますが、物語に織り込まれるドストエフスキーの宗教に対する洞察・分析とその切れ味は、なみの天才や哲学者、神学者、文学者、科学者では足元にも及びません。

 彼の俎上に乗せるネタへの執着と理論、深淵さは病的に暗く、彼の良く使う語句、まさに「てんきょう病み」のようであります。

 これが19世紀のロシアの闇の深さなのか、思考の深さなのでしょうか。

 黒が黒よりも黒い、漆黒の闇。

 深く深く掘り下げられる地下トンネル・・・そしてほのかに浮かび上がるアリョーシャの青白き炎。

 僕のちっぽけなおつむでは完全に咀嚼吸収されているとは思えませんが、だからこそ何回も読み直してしまい、たちの悪いドラッグの常習者のように、理性では拒絶するのですが本能的に脳が求めてしまい、自然に体が向かってしまいながら、それでもあえなく何度でも打ちのめされるのです。

 目がチカチカして、まるで毒にやられたように脳がしびれて、呼吸が荒くなっちゃう。

 表通りではうそや虚飾、大法螺がサーカスのように跋扈しているのに、一歩裏通りに入るとそこには、いささかの矛盾も許されないような非日常的な違和感と、ここに立ち入ったならば、あらかじめナイフを渡しておくので万が一の際には自ら死をもって償え、といわんばかりの緊張感を読者に強いてきます。

この自虐性は、(自分を決してMだとは思いませんが、)そうそう、まるでオアフ島の「コオラウ」ゴルフ場のようで、あざ笑いそしていざなうのです。

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