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三笠の山の月を詠む

ここ数日、福岡県内を見て回りました。やっぱり、ここは面白い。秘密の地下施設から歴史の謎まで、あらゆる裏ネタの宝庫とも言えます。今回は、それに関連して、百人一首から有名な一首を取り上げてみます。


 天の原 ふりさけ見れば 春日なる

   三笠の山に 出(い)でし月かも

        安倍仲麿(7番) 『古今集』羇旅・406



【語句解釈】

  天の原 => 天ヶ原遺跡 => 壱岐島

  三笠の山 => 御笠川(福岡) => 宝満山(御笠川源流)

  春日 => 春日市(福岡) 

  月 => 月読(月を詠む) => 月読信仰 => 壱岐島


【文意解釈】
玄海の海に出て、危険な大陸への航海の途中、壱岐島の沖で振り向き陸を見れば、太宰府(都府楼=みやこ)の宝満山から月が顔を出しているよ。


図:玄海灘で三笠の月を詠む


【解説】
遣唐使として都(みやこ)のある大宰府から大陸へと向かった詠み人が、ふと都の方を振り返り、見慣れた宝満山から月が出ているのを見て、郷愁にかられた心情を詠んだ歌。

春日を奈良大和の春日野と取り、従来通り「『原』は『海原』と同じく、大きく広がっている様子」などという無理矢理な解釈を付けると、インパクトのない平凡な旅の歌となってしまいます。奈良の三笠の山は低く、位置的にも奈良盆地の北方にあり、平野部の東西間隔は狭く、遠方より「原」を挟んで月が出るのを眺め、しみじみと感嘆するような地理的状況は考え難いと言えます。

よって、この歌の解釈は文字通り「原」=「海原(あめのはら)」と解釈すべきであり、それでこそ、大陸へ送られる遣使の心情を読み取ることができます。そして、遣使が心に抱く山こそ、住み慣れた都の山であり、それが大宰府の宝満山であるならば、当時の都とは、実は九州の太宰府であったのだろうと、推定されるのです。


写真:宝満山(829m 左)と山頂から望む玄界灘(右)

大陸交易の中心が、大陸から遠く隔たれた現在の奈良の地であるとするのは、そもそも合理性が欠けており、また、太宰府が奈良朝廷の単なる出先でなく、この詠み人の定住地であり、都でもあったことは歌の内容から窺がい見えます。そう言えば、日本書紀でも第十二代景行天皇などは、筑紫(九州)での活動しか書かれてませんよね。奈良大和からそちらへの移動についても全く触れられていません。まるでテレポーテーションでもしていたかの様に突然九州に現れます。私が言いたいのは、


 大和朝廷は歴史的捏造である


ということ、宮崎からの神武東征と奈良を起源とする現朝廷の歴史は真っ赤な嘘だということです。今後、本件に関しても記事を提供させて頂きますが、それらは、単に歴史検証・歴史解釈の問題でなく、最近起きたゴーン氏逮捕から、トヨタ・経産省の暴走、そして、このブログの最大のテーマである、123便事件にまで繋がる、この国の最も根源的な闇であり、現代日本社会の諸問題の源泉であること、それを証明していくことになるでしょう。

そして、ここが分かると、長年の歴史的テーマであった邪馬台国論争にもやっと終止符が打たれるのです。この理解に基き数年にわたりフィールドワークを実施したところ、ヒミコの墓とヤマタイコクの所在地について特定することができました。今後ご報告したいと思います。


■関連報道

以上の記事は唐突に思い付いた訳ではなく、ここ数日に起きた以下の記事(2点)に応答する意味で書きました。


【超速報】宮崎県高千穂町の民家で6人遺体 さらに1人の遺体
2018年11月26日 19時40分

 26日午前11時すぎ、宮崎県高千穂町押方の飯干保生さん(72)方で、7歳の女児を含む男女6人の遺体が発見された。遺体の一部に外傷があり、宮崎県警は殺人事件として捜査を始めている。県警によると、町内の橋の下からさらに男性1人の遺体が発見された。

 県警によると、飯干さんは妻(66)、次男(42)、次男の妻(41)、次男夫婦の長男(21)、長女(7)の計6人住まい。「一家に電話がつながらない」と親族から相談を受けた警察官が飯干さん方を訪れ、屋外で女性1人、屋内で男性3人と女性2人の遺体を発見した。その後、町内の神都高千穂大橋の駐車場で次男の車が見つかり、橋の下で男性1人の遺体が見つかったという。

=2018/11/26 西日本新聞=

引用元:西日本新聞 https://www.nishinippon.co.jp/nnp/super_flash/article/468549/


邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
2018年11月23日 06時00分

 邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば~後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。

 弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
(以下略)

引用元:西日本新聞 https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/467782/

文字文化が確立したとされる奈良時代以前、既に進んだ文字文化があったとなると、これまでの古代史解釈が大きく変わることになります。固定化されたこれまでの日本古代の歴史観は大きく修正されなければなりません。そこでキーとなる土地が、最近話題にしている

 福岡

なのです。


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管理人 日月土
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日産はトヨタか


以前、静岡出身の方とお話した時に、静岡県内の就職事情について次のようなことを話されました。学生が静岡の地元企業に就職する時、面接で家の出自について次の様に言われることがあるそうです。

「君の家は、反徳川方だよね。この会社に入っても絶対に出世はできないけど、それでいい?」

この実例を話された後に、中京東海地域は今でも徳川家のご威光が強く、江戸時代と全く変わらないと語っておられました。

 
 写真1:静岡駅前、駿府城跡にも近い「葵タワー」。ここの15階がナニです


■徳川支配体制は続いている

大政奉還・明治維新と共に徳川家の権力は失墜したと見るのが世の通例ですが、最近になって明治維新そのものが、朝幕共謀の偽装革命ではなかったのかとの説が出ており、落合莞爾氏の著書などがその背景について詳細に暴き出しています。

私は、明治維新という朝幕共謀の計画的社会革命により、海外勢力流入による国内の流血を最小限に留めるという解釈については、落合氏の分析を概ね支持しますが、明治政府樹立後の体制については、落合氏と見解を異にします。私は、明治政府の樹立初期に、

 幕府権力(徳川)による再維新=朝廷を再支配

があっただろうと見ています。これを理解するには、日本の呪詛思想についての知識が求められます。残念ながら落合氏にはその観点が全く抜け落ちているため、これまでそれを見抜けず、「京都皇統代」などという、似非(えせ)朝廷側の使者の言を鵜呑みにし、せっかくの緻密な歴史分析が肝心な部分で大きく捻じ曲げられています。

 徳川もバカではありませんから、再び幕府制度を立ち上げるようなことはせず、維新の公約通り表向きには天皇家を立て、世界の潮流に合わせて形ばかりの立憲民主制度を作り、自身は朝廷から奪取した資産及び幕政時代に蓄えた潤沢な資産を投入して、資本主義的支配(金による支配)による、名よりも実を取る方法で実質的な国内支配体制に移行したと考えられます。

 その根拠となるのが、幕府の元重臣にて「日本の資本主義の父」と呼ばれる渋澤栄一です。戦前までの財閥や現在に至る大企業の多くが、彼の設立した銀行や株式会社などの資本から派生したことはよく知られた話です。ここで、慎重に考えなければならないのは、その資金の出所です。幕臣の任を解かれ一官吏となり、更に市井の人となった彼に、これらの創業資金を提供し支援したのが誰なのか、文献を読んでも実はよく分からないのです。

 
 写真2:渋澤栄一 株式制度などをフランスで学んだ

 その資金の出所を、明治政府の影に隠れた徳川勢力と解釈すると、物事の辻褄が合ってきます。そして、冒頭で取り上げた会話がどうして現在も地方で交わされているのか、それを説明するための下地ともなります。

 そもそも、この渋澤栄一の出自が、埼玉の養蚕家にして豪農の倅であり、それが、皇室の血も入っている一橋慶喜(後の徳川慶喜)に直接仕えるようになったという話も出来過ぎているというか不自然です。私の調べでは、渋澤家の倅というのは作り話であり、実際は出雲国造(いずものくにつくりのみやつこ)から幕府に送られてきた、出雲霊媒衆の一員で、後に大本教を立ち上げた出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の血縁者であることも掴んでいます。はっきりいって呪詛家なのです。

 出雲の呪詛家である渋澤栄一が徳川幕府内に入り、日本の資本主義体制を作り上げた件は、現代日本の権力と支配を考える上で極めて重要な問題であり、詳細な実態解明が求められる分野であります。私はそこまで緻密に歴史分析を行う時間的余力がありませんので、真実解明に関しては経済史等に造詣が深い方の研究をお待ちしたいと思います。しかし、このブログでは「現代も徳川支配体制は続いている」という観点で論を進めていくので、その点は予めご了承ください。


■徳川家とフランス

明治維新を語る時に、フランス式陸軍の徳川、英国式海軍の薩長、これらから、維新は海外利権の代理戦争という話が聞かれますが、徳川が滅んだとされている明治政府樹立後も日本陸軍はフランス式を踏襲していますし、憲政の骨格にはドイツ式法理論を取り入れるなど、英国利権の国内進出は限定されています。これを、影の徳川支配体制という観点から見れば、しごく当然の話であり、同時に徳川とフランスの資本関係はより強固になったとみるべきでしょう。

ここから、かなり飛躍することをお許しください。本来ならば、その後に起きた日清・日露戦争、2度の世界大戦等の史実を交えて実証すべき話ですが、明治の政変より徳川とフランスとの関係は現在に至るまで強く生き残っていると考えられます。その片鱗が、尾張徳川の本拠地、名古屋の徳川美術館や、一時は天領にもなった茨城県笠間の日動美術館など「美術」を通して窺うことができます。


■日産は誰のものか

ここでお気づき頂きたいのは、「徳川-フランス」 コネクション、そして、徳川お膝元の「徳川-トヨタ自動車」コネクションです。この際、フランスはフランス政府としましょう(ブルボン家などの王統はとりあえず無視します)。フランス政府はたった15%ではありますが、ルノーの筆頭株主です。政府そのものが株主ですから、その発言力は一般株主よりはるかに大きいはずです。そのルノーが保有する日産の株式保有率は43%で、過半数には届いていません。経営陣にしても、株式保有比率によろしく9人の取締役の中で、ルノーからの派遣役員はゴーン氏を含めて4人です。日産の経営権はルノーに乗っ取られていないという形は保っています。

以下に日産の取締役(11/22付)の名前を列記します。

代表取締役
 N 社長兼最高経営責任者 西川 廣人 (さいかわ ひろと)

取締役
 N 取締役 坂本 秀行(さかもと ひでゆき)
 N 取締役 志賀 俊之 (しが としゆき)
 R 社外取締役 Jean-Baptiste Duzan (ジャンバプティステ ドゥザン)  
 R 取締役 Bernard Rey (ベルナール レイ)
 N 社外取締役 井原 慶子 (いはら けいこ)
 N 社外取締役 豊田 正和 (とよだ まさかず)
 R 取締役 Carlos Ghosn (カルロス ゴーン)
 R 取締役 Greg Kelly (グレッグ ケリー)
 (Rはルノー、Nは日産)

ここで注目なのは豊田正和取締役。名前でお分かりの通り、あのトヨタの関係者(身内)です。ここに

 [ルノー] - [フランス政府] - [徳川] - [トヨタ]

を、トヨタのコネクションラインと捉え、記号Tで表すと、上記取締役は

 N 西川 廣人
 N 坂本 秀行
 N 志賀 俊之
 T Jean-Baptiste Duzan
 T Bernard Rey
 N 井原 慶子
 T 豊田 正和
 T Carlos Ghosn
 T Greg Kelly

となり、Tが5人、Nが4人ですから、日産の事実上の経営権はトヨタコネクションに握られていることになります。世界の自動車販売数のランキング(2017)では、1位のフォルクスワーゲン、2位の日産連合、3位のトヨタが共に1000万台を超えた辺りで僅差で拮抗してますので、もしも日産が事実上のトヨタ配下ならば、

 トヨタはぶっちぎりの世界No.1

となります。詳細は省きますが、これに「徳川-ドイツ」コネクションまで存在すると仮定すれば、世界の自動車市場はトヨタコネクションがほぼ独占ということも考えられるのです。ここに、フランスと日本の連合企業体の会長であるゴーン氏が、何故ポルシェを愛車にしているか、その深い理由が見えてくるのです。

トヨタコネクションがここまで強大だとしたら、これを面白くないと思う存在は必ず居るでしょう。ここから、ゴーン氏逮捕の真意とは

 トヨタ独占体制の追撃

と読み取ることもできるのです。その意味で、前回の記事では

 トヨタ崩壊の日は案外近いかも

と表現しました。以上は自動車産業に限って話を進めましたが、これに福岡の核ビジネスを含む隠された兵器産業も絡むので、事態は更に複雑なはずです。

 
 写真3:フランスも日本も取り繕いに必死か?徳川さんに怒られる

 
■経産省は徳川の代弁者か?

 最後に、日産の社外取締役、豊田正和さんについて一言述べておきましょう。この方の経歴は以下の通り

 
 写真4:豊田正和氏

学歴
 1973年 3月 東京大学法学部 卒
 1979年 6月 米国プリンストン大学WWS行政大学院修士 (MPA)

職歴
 1973年 4月 通商産業省入省
 2003年 8月 経済産業省 商務情報政策局長
 2006年 7月 同省 通商政策局長
 2007年 7月 同省 経済産業審議官
 2008年 8月 内閣官房宇宙開発戦略本部 事務局長
 2008年 11月 内閣官房参与
 2010年 7月 一般財団法人 日本エネルギー経済研究所 理事長
 2011年 6月 日東電工株式会社 社外監査役
 2015年 3月 キヤノン電子株式会社 社外取締役
 2016年 6月 株式会社村田製作所 社外取締役
 2018年 6月 日産自動車株式会社 社外取締役

以上から、通産省のバリバリのキャリアであることが分かります。通商政策の局長、審議官まで務めた優秀な方であるのは一目瞭然ですが、それより興味深いのは「宇宙開発」と「エネルギー」に関わっていることです。ご存知のようにこのブログでは

 ・国家的な発電及び送電詐欺(地下原子力発電政策)
 ・JAXAによる宇宙開発詐欺(インチキ宇宙ステーション)

など、国民を欺く国家政策をこれまで取り扱ってきました。豊田氏が徳川家の意向を受けて通商の利益誘導を図ってきたのみならず、これらの国家詐欺にまで関わっていたのならば、これは度を越した国家の私物化であり、看過できるものではありません。もはや世耕大臣に出頭してもらうだけでは収まらず、関係者全員の解任と経産省、日本国政府の解体すら必要になるかも知れません。これでは、もしかしたら、トヨタより先に日本国政府が崩壊するかもしれませんね。

以上に関連し、最後にイミフメッセージを

「大総統閣下はルーマニアから、松平のご隠居は穴ぐらから出てきてください。近々東京でお会いしましょう。」

太宰府のMさんと福岡の小川知事とはその後にしたいと思います。


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管理人 日月土
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広島・長崎、73年後の真実(3) - 偽装された核爆発

本日8月15日は73回目となる終戦記念日です。平和への思いを大切にしつつも、そもそも戦争が何を目的に行われたのか、その考察を止めることなく続けるのが、今に生きる私たちの義務だと思います。

人は元来、死に至る争いを求める生き物ではないはずです。戦争への自然な拒絶反応はどうやって取り除かれるのか、観念的な平和論だけでなく、祖先を戦争に絡め取った悪魔的な思想や大衆心理操作技術について、私たちは理解を深め、それに対処していかなければなりません。今日の記事が、それに少しでも寄与できれば幸いです。


■原爆に対する思い込みを分析する

当然のことですが、多くの読者様は原爆直後の広島・長崎の実態を直接見たわけではありません。しかし、各種情報ソースにより、原爆に関して様々な情報を与えられています。そして、実態を何も知らない一般の方々が、原爆と聞くと何を連想するのか?その心象について、それぞれの事象を、それを裏付ける写真と共に分析してみましょう。

 1)爆風を伴う強力な大爆発 (裏付け:建築物が吹き飛んだ広島・長崎市街の写真)
 2)放射線焼け焦げた遺体 (I裏付け:真っ黒に焦げた遺体)
 3)戦後の放射線障害 (裏付け:現代まで続く被爆者への保障)
 4)上空に湧き上がったキノコ雲 (裏付け:広島のキノコ雲)
 etc.


一般的な論調では、上記数点を全てひっくるめて原爆の特性と思い込まされています。しかし、よく考えれば、それぞれ別々の物理的特性であることは明らかです。その視点で上記4点を書き直せば

 1')強力な爆発力のあるものが爆発
 2')強力な放射線の照射
 3')放射能がそこにあったという事実
 4')爆発後の一時的な対流現象
 etc.

となります。要するにそれぞれの物理現象が狭いエリア内で短時間に連続発生すれば、原爆と呼ばれるものと等価になるのです。


■キノコ雲は核使用の証明にならない

上記4点で注意しなければならないのは4)のキノコ雲です。世間ではキノコ雲が目撃されれば、すぐに「核爆弾が使われたのではないか?」というそそっかしい論評が巻き起こりますが、キノコ雲は多少爆発力の強い物が爆発すれば普通に見られる現象です。ガソリンに点火しても黒いキノコ雲が見られます。これは、最初の爆発力により、地表での反射を含めた上昇気流が発生し、それが高速で圧力の低い中心部に集まりながら、上空で減速した時点で四方に拡散すると考えれば、難なく説明できることです。ですから、

 キノコ雲=核爆弾

は完全な誤りであり、実際には

 キノコ雲=爆発物の爆発

と解釈するのが正しいのです。つまり、キノコ雲という事象を見ただけでは、それが核爆発に因るものかどうかは判定できないのです。これにより上記4)は、核爆発を証明する事実とならないことが分かります。


■大爆発の原因について考える

1)については、エネルギーによる説明が最も多いようです。短時間内に起こる物質的なエネルギーの解放が爆風や熱に変るとされています。原爆が持つエネルギーについては、その説明として

 E = mc2

という、1905年に発表されたアインシュタインの特殊相対論における「質量とエネルギーの等価」がよく用いられるようですが、そこでエネルギーに転換された質量がいったいどのようにあれだけの爆風や光を発する物理的プロセスを経るのか、それを詳細に説明する文献に出会ったことがありません。どこかにあるのかもしれませんが、それはこちらの勉強不足なのでごめんなさい。

さて、爆発現象がエネルギーの放出で説明できることなら、同じくエネルギーを放出する化学反応を用いれば同様の説明は可能であるはずです。広島・長崎の場合は大爆発ですが、大量の化学反応物質を用いれば、核爆発と呼ばれる物理現象と等しい爆発を起すことは可能です。この場合、問題となるのは、その大量の化学反応物質をどのように設置し、どのように反応させるかという、現実的なオペレーションとなります。そんなのは現実的に無理、だからこそ核が使われたのだと思いたくなりますが、

 化学反応の否定 → 核 

とするのは、議論としてはあまりに乱暴過ぎます。未知の化学・物理的反応があるのかも知れませんし、既知の気体を上手に使えば広島・長崎級の爆発を起すことは充分可能だと言うのが私の見解です。その具体的実行方法(*1)にはついては仮説を用意してありますので、後日これを公表したいと思いますが、ここでは、

 大爆発=核使用

と一概に断定できないことをぜひご理解ください。
*1 具体的実行方法:
ここで、「長崎の原爆はなかった」で出したお題、広島と長崎に共通する社会インフラは何か?の答が関ってきます。既に多くの方から正解を頂いておりますが、その答は

 市電

です。この答と原爆偽装のカラクリについては追ってご紹介いたします。


■放射線や放射能は核爆発由来とは限らない

3)の放射線や、多くの人が苦しんだ4)の残留放射能はまさに、原爆の悲劇性の象徴とされ、また、原爆の特殊性を物語る代名詞とされています。しかし、この二つは1)、4)の爆発と本来関係のない物理現象です。それを繋げるのが原爆の超臨界爆発に関する理論なのですが、実は、超臨界爆発が発生していなくても、両者は存在し得るのです。つまり、

 放射線・放射能の存在=超臨界爆発の発生=核爆発

とは断定できないのです。

どういうことかと言えば、現在でもレントゲンなど医療の現場、そして各種工業用など、人工的に放射線(γ線)を発生させることは普通に行われています。問題なのは同時に大量発生させることが可能かどうかということでしかなく、その為には大電力と放射線源たる大量の放射性物質(放射能)が必要となります。

ここでお気付きのように、予め大量の放射能が用意できるのなら、爆発とは一切関係なく、爆発後からでも地上に撒き散らせば、史実として報告されているような原爆後の悲劇は観測され得るのです。

そうすると、大電力と大量の放射能はどこからやってきたのか?となりますが、それを説明するのが、1900年頃にはとっくに完成していたと思われる、全国主要都市における地下原発の存在です。詳しくは「認めたくない、日本の憂うべき現状(8) - 中西部地下原発マップ」を再読していただきたいのですが、要するに、核爆発など実際に起きなくても、私たちがこれまで認知していた原爆の効力は、ほとんど説明可能だと言うことです。

加えるなら、広島の原爆直後に降ったとされる黒い雨。この黒い雨こそが、大量の放射性物質を含み、戦後、広島の市民を苦しめた元凶であると、私は推測します。もちろん空中への放射能散布と人工降雨技術を取り入れてこれを行ったと考えられます。どちらも空中に化学物質を撒くだけですから、当時の技術で充分実行可能であったでしょう。長崎の場合は、二度も黒い雨を降らすとさすがに疑われるので、放射性物質の空中散布だけに留めたか、あるいは、米国軍の投下した爆弾型カプセルの中に、予め大量の放射性物質が詰まっていたのかもしれません。
今回の記事でまた「地下原発」が出てきました。この地下原発こそが近・現代の産業エンジンであったことを私たちは受け入れ、認めなければ、ここ数百年の歴史を正しく理解することは叶いません。

私の説を「妄想」と一笑する前に、あなたが今現在使われてる電気がどこから来ているのかもう一度よく考え、できれば鉛筆と紙を用意して再計算してみてください。何度も繰り返しますが、大電力送電は物理的に不可能なのです。では、どこからその電気は来ているのでしょう?詳しくは本ブログの過去記事「認めたくない、日本の憂うべき現状(9) - 大電力送電の大嘘」をよくお読みになってください。



 * * *


今回は敢えて深入りしませんが、非核爆発説で一番肝心なのは、何故、米国が日本に原爆を投下したという捏造史が、日本は元より世界中に正史として通用しているのかという点です。日米の戦争共謀はもちろんのこと、世界を動かす権力は、原爆・核戦争という神話に何を求めていたのでしょうか?

これは余談でも誇張でもなく、この原爆神話こそが、同じく日米ソ共謀の痕跡が見られる1985年8月12日の日本航空123便撃墜計画に向けた歴史的展開の中で、絶対に欠かせない要素であったと、朧げながら分かってきました。


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管理人 日月土
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広島・長崎、原爆73年後の真実(2) - 長崎の原爆はなかった

本日8月9日は長崎の原爆の日。広島とも合わせ犠牲になった全ての犠牲者のご冥福と、ご遺族の心の安寧をお祈りしたいと思います。


さて、長崎の原爆の日ということで、今回は長崎に投下された原爆で使用されたという原子爆弾「ファットマン」について考えてみたいと思います。


ファットマン

■ファットマンの起爆構造

ファットマンでは爆薬にプルトニウムが用いられることは有名ですが、その起爆装置に爆縮レンズが使用されていた(とされている)ことは、どれくらいの方がご存知でしょうか?要するに、分散配置されたプルトニウムを、一般のレンズが光を一つの焦点に集めるが如く、火薬の爆発力で一点に集め、それによって超臨界状態を起し、核爆発を誘発させようとするものです。



色の濃いコブ状の部分が「遅い火薬」。これにより点火位置と中心を結んだラインでは到達速度が遅くなる。また、点火位置から点火ユニットの端を通り、遠回りして中心に至るラインでは速い速度が維持され、結果として中央ユニットに同時に爆発が到達する。

引用元:Wikiペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%86%E7%B8%AE%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA


さて、この爆縮レンズ、米国機関がジョン・フォン・ノイマンなどの数学者を総動員して設計したことで有名です。この設計に関る米ソのスパイ合戦などは、時々ドキュメンタリーなどで報道されていました。設計に関するくだりをWikiペディアから引用すると


ZNDモデルでは先行する衝撃波は不連続面として扱われるが、双曲型偏微分方程式を差分近似で数値的に解こうとすると衝撃波の不連続面は特異点になってそこで解が発散してしまい計算することが出来なくなってしまう。そこでジョン・フォン・ノイマンは人工粘性の概念を取り入れることで上放物型偏微分方程式の差分近似に置き換えて計算することに成功した。その結果、曲がりなりにも衝撃波の数値計算ができるようになった。しかし、ZND理論は大変に複雑で膨大な計算を要したため1940年代当時のロスアラモス研究所に集められたジョン・フォン・ノイマンらの数学者達の手によっても、優に10ヶ月以上の時間を要した。当時は、コンピュータが無かったためである。

計算の結果、点火装置の数と、それに応じるように配置された火薬のコブは、原子爆弾一つにつき32個が最適であると結論された。しかし、当時の起爆装置では32個の雷管を同時起爆する際に生じる誤差をナノ秒単位に収めることが出来なかった。そのため、新しく起爆電橋線型雷管が開発された。


ここで注目するのは強調した部分、「当時は、コンピュータが無かった」、「同時起爆する際に生じる誤差をナノ秒単位に収める」の2点です。続いて、同引用文中に書かれている起爆電橋線型雷管について、同じくWikiペディアを引いてみましょう。


起爆電橋線型雷管(きばくでんきょうせんがたらいかん 英:Exploding Bridge Wire detonator、略称:EBW)とは、マンハッタン計画の一部として、1940年代にロスアラモス国立研究所で爆縮レンズ用に極めて正確に作動する雷管としてルイス・アルヴァレズによって開発された。

原子爆弾に使用する爆縮レンズは数十マイクロ秒以下の誤差で正確に起爆する必要があったが、普通の電気雷管では電熱線の加熱によって点火薬を発火させていたため、通電から起爆まで200~300ミリ秒もかかり、通電から起爆までに100ミリ秒以上の誤差があった。衝撃波は1ミリ秒につき7~8メートルも進むため、僅か1ミリ秒の誤差でもプルトニウムがバラバラになって飛び散り、核分裂は起きないため原子爆弾には使えなかった。そのため、新たな方式の起爆装置を開発する必要に迫られて、新型雷管が開発されることになった。このような事情から、新型雷管には誤差0.1マイクロ秒以下の精度が要求された

・・・・中略・・・・

最終的な精度は0.025マイクロ秒にまで高められたと言われている。


なんとこちらでは、「原子爆弾に使用する爆縮レンズは数十マイクロ秒以下の誤差で正確に起爆する必要があった」と先の引用文のナノ秒単位とは随分と記述内容に違いがありますが、どちらが本当なのでしょう?幸い上記引用文の最後に「新型雷管には誤差0.1マイクロ秒以下の精度が要求された」そして、伝聞情報としてですが、「最終的な精度は0.025マイクロ秒にまで高められた」とあります。こちらが前引用と整合しますので、こちらに沿って考えたいと思います。


■起爆許容誤差時間について考える

ここで単位についてのおさらいです。

 1 マイクロ秒:1 / 106 = 1 × 10-6 百万分の1秒 → 記号μs
 1 ナノ秒:  1 / 109 = 1 × 10-9 十億分の1秒 → 記号ns

よって、文中の具体的な数値をナノ秒単位に揃えると

 0.1μs以下 → 100ns以下
 0.025μs  →  25ns

となります。以上より、当時達成された起爆時間の許容誤差は、概ね 25~100nsの範囲と推定されます。

ここで、この微小時間の測定について考察します。最初に、この時間を測定するための精度、目盛りの大きさについて見てみましょう。

仮に、1.2cmの物体の長さを測るのに、物差しにどれくらいの目盛幅が必要でしょうか?ここでは目分量による概算はできないとします。正確に測りたいなら、mm単位の目盛りが必要なのは誰でも分かると思います。仮に1cmの目盛幅しかないなら、切り下げて1cm、切り上げて2cmと測定されることになります。

これは時間の計測ですから、定規のような目盛りを用意することはできません。その代わりとなるのが時計ですが、普通の時計では時の刻みが秒単位ですから、とてもじゃないけどナノ秒を表現することはできません。現代では水晶発振器などを用いて、極小単位の時を刻むことが可能です。パソコンやスマホに搭載されているCPU(中央演算回路)も基本的にこの発振器と同期して動いています。これをクロック周波数と呼ぶことは、コンピュータがお好きな方はどなたもご存知かと思います。一般に周波数が高ければCPUの演算能力は高い(速い)とされています。

現在ではクロック周波数でギガヘルツ(GHz)単位の高速CPUが普通に購入できます。ありがたいものですね、今や Java や Pythonなどの汎用プログラミング言語でも、ナノ秒単位の測定プログラムが当たり前に組めるのですから。ちなみに1GHzの振動数と、1振動における時間(時間の目盛りとなる刻み幅)の関係は以下のようになります。

 1GHz:1 × 109 回毎秒
 刻み:1 / 109 = 1 × 10-9 = 1ns

ここでさらに、クロック周波数と時間の刻み幅の関係をまとめてみました。なおMHzはメガヘルツと読みます。

  10MHz → 100ns
 100MHz → 10ns
  1GHz → 1ns

そうすると、誤差精度10nsオーダーの時間のずれを測定するのに100MHzオーダーのクロック周波数、25nsなど1ns単位の誤差が本当に測定できたとしたなら、1GHzオーダーのクロック周波数を発生させる発振器が最低でも必要となります。


■爆縮レンズは製造できなかった

CPUの産業史を振り返ると、1970年代にインテルが発表した演算回路8080でさえそのクロック数は5-10MHzで基本的にマイクロ秒単位の計測しかできません。現在一般用途で使われている水晶発振器もせいぜい20MHz程度です。何を言いたいかというと、原爆製造当時、どうやって100MHz以上の高周波数の発振器を調達したのか、そこに大きな疑問があるということです。仮に軍事用の超スペシャルな技術で高周波発振器を得たとしても、「当時は、コンピュータが無かった」という状況ですから、アナログ回路だけでどうやってそれを数値化したのかが不明です。


Intel 8080

ちなみに電気工学に詳しい方にお聞きしたところ、「アナログ回路でナノ秒単位の計測回路を作るのは絶対に無理」と即答されました。

そんなことがわかってくると、はっきり言って、当時の状況としては、原爆開発よりも、このレベルの時間計測器を発明する方がよっぽど革命的な技術革新だったのではないかとさえ思えてくるのです。

それに加え、爆縮レンズを製造する加工精度はどうだったのかも気になります。起爆タイミングがnsレベルの誤差しか許されないなら、構造物そのものの加工も超絶レベルの精度が要求されると考えられます。特に32面体の各面からの射出角の僅かなズレなどは致命的なものとなるでしょう。追々、それらの誤差許容範囲も計算してみようと思います。そして、このような超高精密爆弾をたった1回のトリニティ実験の成功で実戦投入可能と判断し、起爆方式も違うのに、広島・長崎と立て続けに成功させるその確率たるや、生産工学的には奇跡としか言いようがありません。思い浮かぶ疑問は幾つもありますが、ここでは時間計測の推論だけで充分に以下の結論を出せると思います。

当時の技術で爆縮レンズなんか作れやしない、つまり

 長崎で核爆発なんてなかった

というか、そもそも核爆弾なんて昔も今も存在しないよね?

 * * *


以上の推論から、一昨年の記事「改ざんの日本史-長崎原爆投下の真実(1)」にて掲載した。地上起爆に偏った見解は訂正いたします。その後の調査と考察により爆発の中心は、平和公園よりもう少し南西寄りの辺りであったと推測されます。核爆発の可能性が薄れた以上、そもそも一点を基点に爆発したかどうかも分からないので、現在は正確なグランドゼロ(爆心)を求めることに大きな意味はないと感じています。

核爆発でなければ何が起きたのか?それについては、また次の記事以降の掲載といたしますが、広島の時と同じように、答のヒントをここに残しておきたいと思います。三角形が2つ描かれていますが、それがどういうことかもよくお考えください。そして、もう一つお題を。広島と長崎の両都市で当時共通していた社会インフラは何でしょうか?ヒントは今も共通しているです。もう、お解かりですね。よろしくお願いします。



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広島・長崎、原爆73年後の真実(1) - 広島の原爆はなかった


昨年「長崎72回目の原爆の日に」を記して以来、それっきりになっていた原爆について、少々書き足しておきたいと思います。


話の切り出しとして、上記記事にて読者様にご覧になるようお勧めした、昨年放送のNHK番組「原爆の絵”は語る~ヒロシマ 被爆直後の3日間~」から、そこで紹介された被爆者の描かれた絵をご紹介します。



誰が見ても、これは被爆者でこの絵を描かれた武田晴彦さん(当時12歳)が目撃した核爆発の瞬間と捉えることでしょう。かく言う私も、これまでは特にその常識的な考えに疑いはありませんでした。でも、ちょっと待ってください、何かおかしくありませんか?

戦後、武田さんが記憶を頼りに自らこの絵を描かれたということは、以下の事実を示していると考えられます。
 1.武田さんは核爆発の閃光により失明することはなかった
 2.武田さんは強力な放射線の直射から身を隠す時間があった

原子核理論的には、核爆発が発生したその瞬間に強力な放射線が発生し、少し遅れて爆風がやってくると予想されます。その予想が正しいなら、この絵を描かれた武田さんは、このシーンを目撃したとほぼ同時に放射線に焼かれてしまうか、視力に大きな障害を負っていたはずです。そして、視力に障害を負っていたなら、絵画によりこのような複雑な色彩の表現は不可能だったはずです。

そして、人はその情景を一瞬で脳裏に焼き付けることはできますが、身を隠すには、それから1秒以上の時間がかかるはずです。しかし、光速で移動するガンマ線にとっては、1秒という時間はとても長い時間です。身を隠すよりも、瞬きするよりも早く武田さんに襲い掛かっていたはずだと容易に想像されます。

この不可思議な事実の相反から導かれる仮説、その一つは以下のようになります。

 この絵は核爆発の瞬間を捉えたものではない

つまり、描かれたのは別の物理的原因で生じた発光体であるということ。そして、ここからさらに次のような疑いが想起されるのです。

 広島で起きた爆発は、核爆発ではなかった(長崎も)

こう書くと、それではあの世界を震撼させた大惨事は何だったのだ?その後人々が苦しんだ放射線障害は何だったのだと、当然のように反論をいただくかと思います。私も、その答にずっと窮していましたが、この度、やっとその答と言える結論に辿り着く事ができました。それについての詳細は次の記事以降に譲るとして、その答を示唆する図を下記に示します。もしも、読者様がこの記事をまじめに取り合ってくださるなら、これについてぜひ考えてみてください。






 * * *


ネットの世界では、広島・長崎の原爆を、従来通りの空中起爆か、または地上に仕込まれた地上起爆とするかが争点になっておりますが、私の所感としては、事象的には空中起爆が正しく、構造的には地上起爆が正しいとします。

要するに、核爆発なんてものがこの世に存在すると考えること自体が、まやかしであるという立場で、広島・長崎の悲劇は全く別の手法によって引き起こされたとするものです。戦後73年間、核戦争が発生しなかった理由を核の抑止力と捉えるのは勝手ですが、この複雑な世界で、そんな理由付けはあまりに幻想的だとは思われないでしょうか?核兵器なんか初めから無かったと考える方が、よっぽど合理的な説明だと、私は思うのです。


金委員長、トランプ大統領、まずはこんな答でご容赦ください。
核放棄も何も「そんなもん最初っからねぇよ!」と叫びたいところでしょう(笑)


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管理人 日月土




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