「【首相インタビュー】米紙の「真珠湾忘れぬ報道」否定 「全くの誤報だ」
株式会社 産経デジタル - 産経新聞 - 2018年9月2日
安倍晋三首相は1日の産経新聞とのインタビューで、6月の日米首脳会談でトランプ大統領が「真珠湾攻撃を忘れないぞ」と発言したとの米紙ワシントン・ポストの報道について「全くの誤報だ」と否定した。
首相は「私はさまざまな機会にトランプ氏といろいろな話をしているが、報道されているようなやりとりを大統領との間で行ったことは一切ない」と語った。
報道は、米国の対日貿易赤字を問題視するトランプ氏が、牛肉や自動車の対日輸出を促進するような2国間貿易協定の交渉に応じるよう要求したとも伝えた。」
※コメント
真珠湾の真実、原発の真実をアメリカに知らせることからはじめるべきだ。
その前に日本人自身が知らなければならない。
真珠湾攻撃75年目の真実
1941年12月8日、旧日本軍の空母6隻と航空機約350機などからなる機動部隊がハワイ・真珠湾の米軍基地を強襲した。米側は軍艦6隻が撃沈し、約2400人が犠牲となった。なぜ日本は真珠湾攻撃を決断したのか。日米開戦75年目の真実を読み解く。
真珠湾事件は一般に日本の奇襲攻撃とされているが実際は反撃であり1年以上前から計画されていた。このため米国も知っており、事件の10カ月前の1941年1月27日にはグルー駐日米大使はハル国務長官に「日米交渉が決裂した場合日本海軍は総力を挙げて真珠湾を攻撃するという噂が東京外交界に流れている」と警報を送っている。この公電は現在米国ウィスコンシン大国務省外交文書図書館のHPで公開されている。
しかし、日本の仮想敵国は本来北方の大敵ロシアであり米国ではなかった。日本人は米国に対して一貫して友好であり、米国産業界にとっても日本は世界第三位であったが、問題を起こさない上得意の国であった。それなのになぜ日本は真珠湾を攻撃することになったのか。
1941年12月7日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃で、炎上して沈む米戦艦(ロイター=共同)
それは戦前の日本が米政府から長期的な圧迫を受け、追い詰められたからである。
日本の対米戦の動機は自尊自衛であり、まさに窮鼠猫を噛むであった。日本の反撃の直接の契機となったのは直前のハルノートであるがルーズベルトの敵対行動はその4年前の支那事変から始まっていた。
1937年8月13日の支那事変はスターリンがヒトラーの東西挟撃戦略を破るために前年12月の西安事件で捕らえた蒋介石を使って起こした戦争である。日本は早期講和を求めて日露戦争当時のように米国に仲介を要請したが、ルーズベルトは仲介を断っただけでなく逆に莫大な軍事援助を開始し、ソ連と一緒になって日本を攻撃したのである。まさに火に油を注ぐ行為であった。
蒋介石は米ソの援助無しでは一日も戦争を続けることが出来なかったから支那事変は実質米ソの対日代理戦争であった。この結果戦争は泥沼化し日本軍は支那大陸に長期間足止めされたのである。
それではなぜルーズベルトは日本を攻撃したのか。これは19世紀の米国の太平洋政策にさかのぼる。すなわち1890年代に西部開拓を了えた米国は太平洋に進出し、ハワイ、フィリピンを征服し次の目標として支那満州への進出を望んだ。それが1899年のジョン・ヘイ国務長官の支那門戸開放機会均等宣言である。
日露戦争では米国はロシアの満洲全土占領を阻むために日本に講和を仲介したが日本政府が鉄道王ハリマンの南満州鉄道買収を拒むと、米国は対日友好から一転反日となり、日系人への迫害が始まった。そして1931年の満州事変で日本が翌年1月のスティムソン国務長官の満洲原状回復要求を拒否すると日本打倒を決めたと思われる。満洲事変こそが日米戦争に到る対立の引き金になったのである。
この結果、1930年代の米国社会は政府の反日姿勢に加えソ連の煽動もあり反日一色となった。1934年米国を訪れた吉田茂は駐英大使の資格で行ったのにひどい待遇を受けたと記している。これに対し元外交官で極東専門家のマクマレーは1935年国務省極東部長ホーンベックの要請を受け極東政策について意見を具申した。
それは日本を滅ぼしてもソ連が南下する、蒋介石も米国を利用するだけだから支那満洲は米国の自由にならない、日米戦は双方に甚大な被害を出すだけだから絶対に避けるべき、米国は極東に過度に介入すべきではない、という実に先見性のあるものであり駐日グルー大使も強く支持したがホーンベックは採用しなかった。
独ソ戦を控えたソ連のスターリンの戦略は、日本の軍事力を北上させないことであり、その第一弾が支那事変工作、第二弾が米国の太平洋政策を利用した日米戦争工作であったのである。
支那事変を続けるルーズベルトはさらに日本を追い詰めてゆく。1939年には長年の日米通商航海条約を一方的に破棄し、1941年には米陸軍航空部隊を蒋介石の義勇軍(フライングタイガー)に偽装して投入する。明らかな宣戦布告なき軍事攻撃である。しかし日本は日米交渉による平和解決を求めて隠忍自重した。
さらに米国は6月に独ソ戦が始まるとソ連支援のため中立法の解除が必要となり、自衛名目を作るために対日挑発行為を加速した。いわゆる裏口からの参戦である。7月には米国は支那事変に苦しむ日本の在米資産を凍結し、8月には戦争遂行に不可欠な石油、鉄クズ輸出を禁止した。
それでも日本は野村吉三郎を特使として送り必死に日米和解を求め近衛首相は首脳会談まで提案した。しかし米国は頑なに拒否し、その総仕上げが11月27日の支那満州からの全面撤退を要求するハルノートとなったのである。
ちなみにこのハルノートはスターリンが原案を作りNKVD工作員パブロフがワシントンに持参してソ連スパイの財務省次官のハリー・ホワイトに伝え、それが財務長官、大統領経由でハル長官から発出されたものという。ソ連は日米戦が始まれば日本の軍事力は確実に南に向かうので、安心して対独西部戦線に専念できる。発出されたハルノートを見て、スターリンはおおむね満足したという。こうして日本はソ連と米国の謀略により対米戦以外避けることのできない絶体絶命の罠に陥ちていったのである。
日米戦の開戦理由の研究は今でも両国に東京裁判のしばりが残っているようだ。「真珠湾」の著者、歴史家モーゲンスタインは米国では日米開戦前の経緯を調べることは喜ばれないと述べている。
しかし、「米国の鏡日本」を著したヘレン・ミアーズ女史は戦前の外交記録を調べれば米国が日本を圧迫し日本が必死に戦争を回避しようとしたことは明らか、と記している。米国の歴史専門家は真珠湾攻撃が日本の自衛反撃であることを知っているのだ。
その後米国は原爆まで落として1945年に日本を滅ぼしたが、米ソは対立し1949年には支那満洲が共産化し、米国は営々と築いてきた支那の全拠点から追い出されてしまう。まさに米国の極東構想は「捕らぬ狸の皮算用」に終わったのである。
そこで1951年にマッカーサーは米議会で、支那の喪失と共産化は米国太平洋政策百年の最大の失敗と総括した。その後米国は日本防衛の国防費を節減すべく、日本の再独立と再軍備に向けて対日政策を180度転換して行くのである。」以上転記
お陰様で、私も、知らなかった真実がつかめました。
上記の記事は、全国民が知れるように、拡散すべきです。
米紙の「真珠湾忘れぬ報道」何を忘れないと言うのでしょうか、
ルーズベルトは真珠湾攻撃が有ることを前日には知っていたのです。
その為真珠湾には空母を置かなかったのです。
ルーズベルトは日本の攻撃を待ったいたのです。明日攻撃が有ると言うことを知っていたのです。
何故か。日本の電報を日本の大使館より先に見られたのです。
何故、戦争をしたかったのか。
・・・
各自で調べてくださいインターネットの中に資料はあります。
原発を落としたトルーマンもひどい男ですよ。