■ジェラルド・カーティス(Gerald Curtis):現実政治にのめり込む日本研究者
●ミュージシャン志望だったカーティス、典型的なユダヤ移民の子として育つ
ジェラルド・カーティス
ジェラルド・L・カーティス(Gerald Curtis)は、米国の国益のために日本を管理するアメリカ人の日本専門家たちであるジャパン・ハンドラーズの中でも重鎮として知られている。日本語がとても堪能で、日本のテレビにもよく出演しているので、顔を見たことがある人も多いだろう。カーティスは、最近の若い日本人がほとんど使わない四文字熟語を駆使し、訛りのない、日本人が話すような日本語を話す。彼はミュージシャン志望で、セミプロであった。おそらく、言葉を音として捉え、それを再生する能力が高いのだろう。簡単に言うと、耳が良いのだろう。
カーティスは最近、『政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年』(二〇〇八年、日経BP社刊)という自伝と現在の日本政治の評論を併せたような著作を出した。この本は大変面白い本である。この本の中に、彼の生い立ちや日本とのかかわりがちょこちょこ出てくる。それらを参考にしてまずカーティスの経歴を書いていく。
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一九六四年大学卒業後、コロンビア大学の政治学大学院に進学した。大学院で日本研究のジェイムズ・モーレイ、中国研究のドロシー・ボーグに出会い、日本研究を進められて、そこで初めて日本研究を志すことになった。
カーティスの日本研究の方法は、政治学というよりも文化人類学の手法だと言える。文化人類学と聞くと難しく思えるが、簡単なことである。次のようなイメージを持ってもらえれば良い。南洋の島々にある文明化されていない人々の集落にある日、白人の若い学者が訪ねて来る。そして一緒に住まわせて欲しいと頼み込み、集落の一角で生活を始める。学者は現地の言葉を覚え、文化になじみ、人々の中に溶け込んでいく。時には現地の女性と結婚したり、現地の社会で指導的な地位に就いたりする。学者がやっているのは観察であり、人々の生活の様子や現地人に質問して得た答えをノートに書き写していく。そして、学者は2、3年をその集落で過ごした後、母国に帰っていく。
カーティスがやっていることはこうしたイメージ通りのことである。簡単にいえば、彼は日本政治という「集落」に住む政治家という「種族」を「観察」し、何か面白いものを見つけたらそれを母国アメリカに報告するという仕事を四五年にわたって行ってきたのである。だから、私は、カーティスは政治学者というよりも人類学者だと思う。
カーティスが学び、教鞭を執っているコロンビア大学は、人類学でも大変に有名な大学だ。コロンビア大学は全米で初めて人類学部を創設した。著名なドイツ人人類学者フランツ・ボアズ(Franz Boaz)が指導し、多くの人類学者が育った(ボアズについては、「0101」 論文 サイエンス=学問体系の全体像(21) 鴨川光筆 2010年9月13日 をお読みください。論文へは、こちらからどうぞ。)。その中には著書『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)で有名なルース・ベネディクト(Ruth Benedict)がいる。カーティスがコロンビア大学で伝統的に強い人類学の手法を使うのは当然であると言えるだろう。
フランツ・ボアズ ルース・ベネディクト
カーティスがコロンビア大学に提出した博士論文は、『代議士の誕生』(一九七一年、サイマル出版会)という題で出版された。この本は、カーティスが大分で衆議院選挙に立候補した自民党の候補者の家に泊まり込んで、選挙運動を観察したものをまとめたものだ。その候補者は、佐藤文生(さとうぶんせい)元郵政相である。当時の佐藤は地方政治家として力をつけ、国政に挑戦する若手政治家であった。
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カーティスは、戦後の日本の選挙における政治家個人の後援会について注目している。カーティスは、後援会が、保守系の政治家たちにとって、戦前の地主といった地方名望家に代わる新しい支持基盤であることを指摘している。戦後の農地改革で地主は地方における影響力を失っていった。カーティスは後援会について地方名望家に代わる存在になったこと以外にもう一つのポイントを指摘している。彼は『代議士の誕生』で、次のように書いている。・・・
・・・・ カーティスは政治家の個人後援会の誕生を日本の政治の変化の結果として捉えている。戦前は地主たちが決めた候補者が当選する仕組みになっていたが、戦後、そのような機能はなくなった。そして、政治家たちは一般有権者たちを組織するという方法を取るようになった。これはアメリカで言うマシーン選挙と似ている。ここにカーティスは日本政治が民主化した証拠を見つけたと主張しているのである。
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その後、一九九九年には『永田町政治の興亡』(新潮社)が出版された。これは同じ年にコロンビア大学出版局から出されたThe Logic of Japanese Politicsの日本語訳である。この本では、カーティスは、一九九四年に非自民連立政権が崩壊する一端となった、会派(parliamentary caucus)に注目している。そして、カーティスは会派の歴史や機能を調べ、「日本では、政治システムを円滑に運営するため、法的な機構を変えるのではなく、インフォーマルな制度を付け加える傾向がある」(一七六ページ)と書いている。日本の国会の研究はアメリカでも行われていたが、カーティスはそれまで余り誰も注目しなかった会派に注目を集めさせた。これも何か面白いことを発見し、報告するという人類学者のような働きである。カーティスは会派について次のように書いている。
・・・ 古森義久
古森義久著『透視される日本 アメリカ新世代の日本研究』(文藝春秋、1999年)という本がある。この本は、1990年代後半に三〇代から四〇代であった、日本研究の若手専門家たちにそれぞれインタビューをしてその内容をまとめたものだ。この中で、若手研究者たちは、カーティスを批判する一方で、ペンペルを評価する声が収められている。そのなかで若手研究者のレオナード・ショッパ(Leonard Schoppa)の言葉を紹介したい。
(引用はじめ)
またごく最近まで日本政治の研究でも、政党や選挙の仕組み、政治家の実態などをとにかく詳しく知らせればよかったが、今は理論が求められるのです。たとえば日本で良く知られたコロンビア大学教授のジェラルド・カーティス氏らがデビューしたころは、日本の政治家や派閥の状況をただ詳細に報告すればすんだようですが、いまではその調査のうえになんらかの理論を打ち出さねばならないのです。(八九-九〇ページ)
(中略)
日本のマスコミに頻繁に登場するカーティス氏はアメリカの日本政治関連の学界では存在感はきわめて希薄です。カーティス氏と同じ世代のミシガン大学のジョン・キャンベル教授やワシントン大学のT・J・ペンぺル教授は、逆にアメリカの学界では日本政治の研究でもっともよく知られ、活発な著作活動も展開してきました。でも日本ではあまり知られていないでしょう。(九〇ページ)
(引用終わり)
カーティスは、一九六九年に、ペンペルは一九七二年にそれぞれ政治学博士号をコロンビア大学で取得している。二人は同期の学者たちなのである。それなのに、専門家たちの間でこれだけ評価が違うのはかえって不思議なくらいだ。カーティスに対する、若い世代からの批判はまとめると、「カーティスの日本研究は、日本政治の細かい状況や面白い現象を、英語で書いてアメリカ人に伝えるだけのものだ」ということになる。また、私は、ある日本政治の研究者が「カーティスがやっていることは研究とは言えない。ただの新聞の切り貼りとインタビューをまとめただけのものだよ」と言っていたことをよく覚えている。
カーティスは、著書『政治と秋刀魚』(日経BP社、二〇〇八年)の中で、自分を日本研究の第三世代と位置付け、ペンペルを自分と同じ第三世代であると書いている。カーティスは、自分たち第三世代について次のように書いている。
(引用はじめ)
我々第三世代の日本研究の動機を一言でいえば、好奇心であった。
日本は世界史に前例がないほど経済的に躍進し、アジアで唯一の民主主義国になっていた。凄い勢いで近代化はしたが、それは必ずしも西欧のモデルに従う近代化ではない。いったい、日本はどうなっているのか。固定観念はなく、ただ好奇心があったのが我々第三世代の日本研究者だと思う。(五五ページ)
(中略)
後にミシガン大学の教授になった私より二年くらい後輩のジョン・キャンベル教授は、政治学の観点からそれまで誰も手をつけようとしなかった大蔵省と予算形成過程の徹底的な研究をした。カリフォルニア大学教授になっている後輩のT・J・ペンペルは文部省、トロント大学のマイク・ダナリー教授は農業政策を研究し、それぞれが博士論文を書いた。第三世代は実態調査を重視して、日本学の観点からではなく、社会科学の比較政治学のアプローチで日本の政治、社会、経済構造を本格的に分析しようと試みた。
(引用終わり)
カーティスは自分がアメリカの学界ではほとんど無視され、後輩である若い世代からは、批判を受けていることは知っていると思う。自分のほぼ同期であるペンペルとキャンベルの方がアメリカの政治学界で有名で、若手研究者たちからも評価が高いことも知っているだろう。しかし、日本人向けに日本語で書かれた『政治と秋刀魚』の中では、いかにも自分が第三世代を代表するかのような印象を与える表現をしている。
もっと言うと、カーティスの『政治と秋刀魚』には日本政治研究の泰斗チャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)の名前が全く出てこない。カーティスは、エドウィン・O・ライシャワー(Edwin O. Reischauer)、ドナルド・キーン(Donald Keene)、エドワード・サイデンステッカー(Edward Seidensticker)の名前は本の中に書いている。カーティスは、ライシャワーのように戦前から活動している研究者たちを第一世代、キーンやサイデンスデッカーなど第二次世界大戦中に軍で日本語を学んで戦後活動を始めた研究者たちを第二世代としている。
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古森義久の『透視される日本』でインタビューに応じている日本研究者の多くは、チャルマーズ・ジョンソンの業績を高く評価している。たとえ、自分とは考えが合わなくても、ジョンソンが与えた衝撃についてはきちんと評価している。しかし、カーティスは、ジョンソンの名前を全く出していない。
しかし、カーティスは、ジョンソンについて全く意識していないという訳でもない。彼は、自分が属する第三世代の下の第四世代に、いわゆるリヴィジョニストと呼ばれる人たちを分類している。彼らは、「日本は西洋とは違う基準で動く国だ。日本は西洋基準で見てフェアな国ではない」という「日本異質論」を唱え、一九八〇年代にアメリカを席巻した「日本脅威論」を煽った人々であると言われている。リヴィジョニストというのは、日本語で言うと、「修正主義者」である。彼らは、何を「修正」したのか。それは、「日本は西洋と同じ近代国家となりつつある」という考え方である。
「日本は西洋と同じような近代国家になる(なりつつある)」という考え方は、エドウィン・O・ライシャワーが唱えた。日本は無謀な戦争を起こし、敗北したが、戦後、デモクラシーと資本主義を受け入れて、民主的な近代国家になっているという報告をライシャワーはし続けた。もちろん、歴史や文化は独特だが、
カーティスは、ジョンソンを「目の上のたんこぶ」のように思っているのだろう。日本研究の第一世代、第二世代、第三世代は、日本の特殊性や西洋世界にはない面白い慣習や文化を紹介していれば良かった。しかし、それだけの話である。日本政治の研究者たちは、大きな枠組みとか理論といったものは何も生み出さなかった。
しかし、チャルマーズ・ジョンソンが「発展志向型国家」という概念を生み出し、産業政策の重要性を研究者たちに認識させた。そして、アジア各国の経済発展を分析する際に、発展志向型国家概念が使われるようになった。日本政治研究が、日本の紹介以外に政治学界にした唯一の貢献がこの概念であった。
研究者という立場なら、素晴らしい研究に対しては表面上でも賛辞を送るべきだが、カーティスは全くそのようなことをしていない。『政治と秋刀魚』では、他の研究者たちの名前は出しているし、その業績も認めているのに、チャルマーズ・ジョンソンの名前を一切出していない。
研究者としての嫉妬と悔しさがあるのだろう。カーティスがジョンソンの名前に言及していないことが、逆に、ジョンソンが政治学界に与えた影響の大きさを示しているのかもしれない。
更に言うと、カーティスにとって、チャルマーズ・ジョンソンは、「裏切り者」のような存在であり、嫌悪しているのかもしれない。チャルマーズ・ジョンソンは、自著の中でたびたび触れているように、冷戦期、CIAの中国分析官として働いていた。香港に駐在し、その頃は国交がなかった中国の情勢分析をしていた。その後、日本の経済成長について研究し、通産省と産業政策が重要であることを発見した。しかし、ジョンソンはアメリカがやっていることは間違っているという主張をするようになった。
一方、カーティスは日本政治の観察者という立場からやがて、深く関与するようになっていった。彼は、日本の政治家たちの多くと親交を結び、アドバイスを送っている。また、コロンビア大学に日本の官僚たちを数多く受け入れ、教育している。その中で若手の有望な人材を見出していることだろう。現在の前原外務大臣、古川官房副長官の出頭ぶりは大変なものである。彼は、アメリカの対日戦略に関与している、ジャパン・ハンドラーズの大物である。しかし、学者としては、同僚の学者たちからは高い評価を受けていない。だからこそますます現実政治にのめり込んでいるのではないか。俗な言い方をすれば、「ミイラ取りがミイラになった」ということだ。
(終わり)以上抜粋し転記。
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1.直感、私の「カーティスは偽学者だ」の直感は当たっている。
2.そう言う偽学者の言うことは聞いてはいけない。
日中戦争前後の船の賃貸料を巡る裁判で敗訴した日本の企業が賠償に応じなかったというのが理由。
その後、「供託金」を支払い、差し押さえは解除されましたが、波紋が広がっています。
政治部の坂本眞理記者、経済部の山下和彦記者、上海支局の奥谷龍太支局長が解説します。