終戦から73年。日本が米国へ戦争を仕掛けたことは、21世紀を生きている我々には、非合理の極致としか映らない。しかし戦前の政官財のリーダーたちが、そろって愚かな精神主義者ばかりだったのではないだろう。日本の指導者は合理的研究に基づく敗北の予測を無視して、非合理な戦争を決めたわけではなかった。摂南大学の牧野邦昭准教授は新著「経済学者たちの日米開戦」(新潮選書)で、経済学や経済史学の最新研究を駆使し、開戦のナゾの解明に挑戦した。その内容は、現代企業の意思決定するときに多くのヒントを与えてくれそうだ。
■リーダー層の共通認識だった米国との経済力格差
――昭和期前半の将校らは軍国主義の考えにこり固まって大陸侵略に手を染め、国内外の客観的データなどは無視して太平洋戦争に突き進んでいったイメージがあります。戦前の日本社会では親の資力などに関係なく広範囲に、本人の能力のみによって選抜・訓練されたメンバーのはずなのですが。
「軍部はこれからの戦争が一国全体の『総力戦』となることを意識して、経済のわかる人材を求めていました。特に陸軍省ではイデオロギーに関係なく、有沢広巳、中山伊知郎、蝋山政道各氏ら当時第一級の経済・政治学者を網羅した『陸軍省戦争経済研究班』を設けていました」
――秋丸次朗中佐が主催した通称「秋丸機関」ですね。日米の経済抗戦力の巨大な格差を指摘して、陸軍参謀本部のトップから調査結果は完璧だが結論が国策と反するとされ、焼却処分されたといわれていました。
「ただ秋丸機関が刊行した報告書や基礎調査、翻訳は現在も比較的多く残っていました。秋丸機関のメンバーが調査データを利用して一般総合誌に寄稿したりしています。『国策に反するので焼却云々』というのは事実ではなかったようです」
――国家的なタブーではなかったのですか。
「経済力の大きな米国を相手とする戦争が困難であること自体は、政府関係者も軍上層部も皆知っていたのです。秋丸機関の報告は経済学的にそれに精緻な裏付けをしたのです」
――戦争というリスクの高い選択が決定されたのはなぜでしょうか。
「開戦すれば高い確率で日本が敗北、という指摘自体が『だからこそ低い確率に賭けてリスクを取っても開戦しなければならない』という意思決定の材料になってしまったと考えています」
■プロスペクト理論が教える非合理な行動
「A 確実に3000円支払わなければならない
B 8割の確率で4000円支払わなければならないが2割の確率でゼロになる
とA・Bの選択肢があるとします。Bの期待値はマイナス4000×0.8=マイナス3200円ですが、実際にはBを選ぶ人が多いことが実験結果で分かっています。人間は損失を被る場合にはリスク愛好的な行動を取るのです」
――経済学は人間が合理的に行動することを前提にしています。しかし自分では合理的に考えているつもりでも現実は非合理的な行動を取ることがあるわけですね。
「最近急速に発展している行動経済学の『プロスペクト理論』で説明できます。通常の経済学が財の所有量に応じて効用が高まると仮定するのに対し、プロスペクト理論はある水準からの財の変化量に注目します」
「人間は現在所有している財が1単位増加する場合と1単位減少する場合では、減少の方に重きを置いて、少しでも損失を小さくすることを望みます。低い確率であってもBの方に魅力を感じるのです」
「プロスペクト理論では客観的な確率がそのまま人間の主観的な確率とはならず、心の中で重みづけされると考えます。当選確率は極めて低いのに多くの人が宝くじを買うといったケースです。プリンストン大のカーネマン教授はプロスペクト理論などの研究で2002年のノーベル経済学賞を受賞しました」
――当時の日本の状況に当てはめると
A 開戦しない場合。2、3年後は国力を失い戦わずして米国に屈服する
B 開戦した場合。非常に高い確率で敗北。しかし極めて低い確率ながらドイツが勝利し、日本も東南アジアを占領して英国が屈服すれば、米国は交戦意欲を失って講和するかもしれない――となりますね。
「秋丸機関以外の多くの研究でもA・Bが日本の選択肢と指摘されていました。合理的に考えればAですが、それぞれの内容が明らかになればなるほど『現状維持よりも開戦した方がわずかながらでも可能性がある』というリスク愛好的な選択の材料になってしまうのです」
■社会心理学が示す「リスキーシフト」
――当時の陸軍省軍務課の中佐は「戦をやれば不可能ではないと感じた。もちろん苦しいと思った。誰も同じだっただろう」と回想しています。
「社会心理学上の原因も見逃せません。集団意思決定の状態では個人が行うよりも結論が極端になることが明らかになっています。慎重な人たちではより慎重な選択が、リスクを厭わない人たちの間ではますます危険な方向の選択が行われます。集団成員の平均より極端な方向に意見が偏る『集団極化』が起きます」
――政府・軍首脳らの「御前会議」では陸軍の参謀本部や海軍の軍令部は期限つき外交交渉と打ち切り後の開戦を強く主張していました。
「他者と比較して極端な立場を表明することが、他のメンバーの印象を善くして注意を引く、集団の中での存在感を高められると考えるのです。集団規範や価値に合致する議論が自然と多くなって集団構成員が説得されてしまうことも社会心理学で指摘されています」
――東条英機内閣でも、当初は慎重派とみられていた嶋田繁太郎・海軍大臣や鈴木貞一・企画院総裁は開戦論へ意見を変えていきました。
「『個人』の状態でもプロスペクト理論でリスクの高い選択が行われやすい状況でした。そうした面々が集団で意思決定すれば、リスキーシフトが起き、極めて低い確率でも開戦の可能性にかけてみようという選択肢が選ばれてしまったといえます」
正しい情報と判断力があっても……
――逆説的になりますが、1人のワンマン経営者であればリスキーシフトの危険は避けられることになりますね。
「戦時中のスペインがそうでした。独裁者のフランコ将軍は、独による英本土侵攻作戦が失敗した後は、いくらヒトラーが要求しても対英開戦を拒否し続けました。戦後に『冷戦』が始まると、米英側からスペインに接近しました」
――日本もスペインのような形で戦わない方が良かったのですね。
「戦後の吉田茂首相が外務省に作成を指示した外交検証文書では、親枢軸国でありながら中立を維持し、冷戦によって米国と関係改善する選択肢にも言及されています。隠忍自重した方が、チャンスがより合理的だったというものです」
「しかし戦前の日本は天皇、政府、陸軍、海軍、重臣、議会と多元的な勢力が林立する政治体制でした。集団意志決定にならざるを得ませんでした。ある有力な外務省OBは日本がスペインにようになれたとすれば『内戦またはそれに近い変動を経て全軍・全政治勢力を統括しうる独裁的指導者を持ったときのみ』と指摘しています」
――対米世論の硬化も影響したのではないですか。組閣時の東条首相が、陸相とともに内務大臣も兼任したのは、全国の警察を掌握して米国との非戦に決まった場合の混乱に備えたからだといいます。激高した世論が起こすであろう騒擾(そうじょう)状態を予想していました。
「昭和天皇も、米国にむざむざ屈服すれば世論が沸騰しクーデターが起きる恐れを懸念していました。こうした中で、開戦を回避することは国力低下を確定させてしまうため選ばれず、静岡県立大の森山優教授の言葉を借りれば、将来どうなるか分からないにもかかわらず、ではなく、どうなるか分からないからこそ、指導者は開戦に合意できたのです」
――東条首相は退陣後も「開戦の可否に関しては今でも日本はあれより進む道がなかったと信じている」と主張していました。ただ個々の戦略は反省すべき点が多かったと述べていました。
「米国との戦争は、根本的に戦略で解決できる問題ではありませんでした。典型例がゲーム理論の分析などでよく使われる43年のビスマルク海戦です」
「日本の輸送船団を護衛してどのルートを通過すべきか、陸海軍で激論になりました。しかし結果は最善と考えられたルートを選んだにもかかわらず、圧倒的な米軍の空軍力によって壊滅させられました。戦略の適否が勝敗に結びつくのは、両者の力がかなり拮抗したケースです。戦略を考えるのは重要ですが、実際には戦略の判断材料である数字を改善した方が良いのです」
――日米開戦に至る歴史から現在の我々が学べることは何でしょうか。
「東北学院大の河西晃祐教授の言葉を借りれば、日本の国力を過信していたわけでも米国の国力を過小評価していたわけでもない指導者らによって戦争が選択されました。正しい情報と判断力があれば戦争が回避できるとは限りません。付け加えるならばそれがどんな知的エリートであっても、です」
(聞き手は松本治人)