(黒木 亮:作家)
オマーンの販売代理店に支出された日産の資金を不正に流用した疑いで4度目の逮捕を受けた日産のカルロス・ゴーン元会長。これまでの逮捕容疑を振り返ってみると、1回目と2回目は、有価証券報告書に実際の報酬より低い額を記載した金融商品取引法違反、そして3回目が、自身の資産管理会社が運用していたデリバティブ取引で生じた18億5000万円の損失を日産自動車に付け替えた特別背任(会社法違反)である。
デリバティブ付き「仕組み預金」
筆者はこの3回目の逮捕容疑に、少々ひっかかるものを感じていた。逮捕の原因とされる「為替スワップ」がどんなものか調べても、実態がさっぱり分からないからだ。さる1月8日の東京地裁でのゴーン氏の「意見陳述書」では、取引は「FX Forward contracts(為替先物取引)」であると述べられている。
他方、メディアや捜査関係者は当たり前のように「為替スワップ」という言葉を使って解説しているが、それを読んでもますます何のことか分からない。FXは確かに通貨の交換(スワップ)ではあるが、単純なFXや為替の先物予約は、スワップなどのデリバティブが登場した1980年代よりもっと前から存在しており、金融の実務ではこういうものを「為替スワップ」とは呼ばない。たぶん使っているほうもよく分かっていないのだろう。
このように3度目の逮捕容疑は、私にとって判然としないものだった。そこでゴーン氏の資産管理会社の取引について色々当たってみたところ、ようやく内情を知る人から情報を得ることができた。
それによれば、18億5000万円の含み損をもたらした取引は、為替先物取引や為替スワップなどではなく、デリバティブ付きの、いわゆる「仕組み預金」なのだという。ゴーン氏の資産管理会社が(たぶん円建てで)預金をし、ドルのプットオプションを売って、そのオプション料で預金の利回りを高めるという取引である。ドルのプットオプションは、オプションの行使期間中であれば、あらかじめ定めたストライク・プライスでドルを相手に売りつけることができる(そしてその対価として円を受け取ることができる)権利だ。
オプション料は、ストライク・プライスの水準、行使時期、市場のボラティリティ(変動率)などによって異なる。読者に分かりやすいようごくごく大雑把に言えば、想定元本の5~10%というイメージである。
預金の元手となったのは新生銀行の融資
ストライク・プライスがどのレベルかは想像するしかないが、ゴーン氏の意見陳述書によると、この契約をしたのが2006年と2007年で、当時の為替レートはそれぞれ1ドル=約118円と約114円で、その後、2008年から2009年の金融危機の時には、1ドル=80円以下にまでドルが下落したという。
実勢レートに近いストライク・プライスを設定すると、ちょっと相場が動いただけで、いきなりプットオプションが行使されてしまう。逆にあまりかけ離れていると、オプション料が安くなるというデメリットがある。そこで便宜的に107円のストライク・プライスだったと仮定してみる。実勢為替レートが1ドル80円になったのなら、オプションの想定元本1ドルあたり27円の含み損だから(単純化のため評価額に影響を与えるボラティリティの変化はゼロと仮定)、そこから逆算すると、18億5000万円の含み損をもたらす想定元本は約6851万ドルということになる。私が知り得た情報によると、預金には約3倍のレバレッジをかけていたそうなので、預金額は約2284万ドル程度(の円建て?)と推測される。そして見過ごしてはならないのが、情報源によれば、この預金の元本自体、新生銀行が融資をしていたのだという。ゴーン氏にとっては、元手ゼロで円をドルに換える取引にはなっているが、きわめて投機性の高い仕組みである。
2284万ドル相当の預金が2006~2007年の為替レート1ドル=116円程度で作られたものなら円建てで約26億4900万円で、これに含み損を反映すると、元本の約7割がぶっ飛んでいる。なお想定元本が約6851万ドルのプットオプションを売った場合、前述の通り大雑把に言って、343万ドル~685万ドル程度のオプション料が入ってくるが、それを足してもやはり預金の元本の4割~6割弱が消失していることになる。
以上の数字は、読者に理解しやすくするための仮定で、これがそのまま当てはまるわけではない。たとえばオプションのストライク・プライスはゴーン氏が安心できるよう、もう少し低い水準だったかもしれないし、リーマンショック後のボラティリティの上昇で評価損が膨らんでいた可能性があるので、運用元本はもう少し小さかったかもしれない。いずれにせよ、仕組みの概要は、私が聞いた限り、上記の通りと考えて間違いないと思われる。なおこれら以外にも、色々な金融デリバティブやストラクチャー(仕組み)がくっ付いている可能性はあるだろう。ゴーン氏が陳述書の中でこの仕組み預金を「FX Forward contracts」と言ったのは、プットオプションを売る行為が、将来の為替取引を生じさせるので、非常に広い意味でそう言ったのかもしれない。あるいはこんな取引を裁判官にいきなり説明してもにわかには理解してもらえないので、単純化したのかもしれない。
複雑な仕組み預金、新生銀行からの提案か
こういう複雑な仕組み預金をゴーン氏が考案したとは思えず、新生銀行の提案によるものだろう。ゴーン氏の資産管理会社にプットオプションを売らせることで、新生銀行はオプション料の一部を鞘抜きし、融資の金利も稼ぐことができる(特にオプションは金融機関にとって収益性の高い取引である)。同行は2002年に富裕層との取引を推進する「ウェルスマネージメント部」を立ち上げ、ゴーン氏はその最重要顧客の一人だった。しかし、こういう投機性の高いデリバティブを駆使した金融商品を作ったり、利用したりすると、たいていろくでもない結果を招くものである。ましてやレバレッジなどかけると、リスクが倍加する。結局、新生銀行も、融資やオプション取引の担保として、日産の株価に連動した金融商品や(おそらく)預金そのものを担保にとっていたが、日産株の大幅値下がりなどもあり、融資を回収できなくなる可能性に直面し、窮地に陥って、日産自動車への付け替えを提案したということのようだ。
含み損を抱えたゴーン氏の資産管理会社の取引を日産に付け替える交渉をした人物の一人は、当時同行のキャピタルマーケッツ部の部長で、現在は日銀審議委員を務めている政井貴子氏である。政井氏は「タンスにゴン」のCMをもじって、ゴーン氏のことを「タンスさん」と呼び、同僚などに「タンスさんって、誰のことか分かる?」と無邪気に訊いていたそうである。
いずれにせよ、今後、ゴーン氏の資産管理会社がやっていた取引の詳細や新生銀行を含む関係者の責任は捜査によって明らかになっていくだろう。筆者個人から見ると、含み損のある取引の日産自動車への付け替えは、仮にゴーン氏が陳述書で述べたように日産に損失を与えていないとしても、ちょっと乱暴なやり方のように思われる。きちんとした取締役会決議は当然必要であり、また付け替えられた取引から生じる利益や損失はすべてゴーン氏の資産管理会社に帰属するという内容の日産自動車とゴーン氏の資産管理会社の間の「リスク・パーティシペーション」的な契約がないとしたら、契約の不備だろう。
立派な会社役員や弁護士などでも、本業以外の投機で突如破綻したり、犯罪に手を染めたりすることがよくある。ゴーン氏の場合は、2015年(かそれ以前)に前妻と離婚してもおり、いろいろ物入りで、結局はお金のことが原因で無茶をしてしまったように思える。もしゴーン氏が、こうした投機的な仕組み預金ではなく、通常の為替の先物予約でドルを調達するようにしていれば、今回の事件は起きなかったかもしれない。
韓国は財閥の「世襲経営」容認を続ければ、ますます国際的に孤立する
トップ死去で先行き懸念が
高まってきた韓進グループ
4月8日、韓国10大財閥の1つ、韓進グループの趙亮鎬(チョ・ヤンホ)会長が急逝した。トップ死去を受け、先行き懸念が高まってきた韓進グループの経営は一段と難しい局面を迎えている。
韓進グループの中では、傘下の大韓航空の経営が悪化している。最大の原因の1つは、経営トップをはじめ主要なポストが「世襲」によって選ばれてきたことにある。
元々、韓国では企業を「社会の公器」ではなく、「家業」とする考えが強い。そのため財閥企業では、創業者から子へ、子から孫へと経営権が手渡されてきた。創業家は利権を守るために政財界とも強固な関係を築いてきた。
韓国は、この経営風土をこれまで放置してきた。世襲経営が続くと、創業家一族に富と権力が集中してしまう。経営者は公正な経営ではなく、私欲を追求し、モラルハザードが起きがちになる。その弊害の1つの例が、趙会長の娘が起こした「ナッツリターン事件」だ。
韓国は、早い段階で世襲経営の改革に取り組むべきだったが、実際にはできなかった。現在、韓進以外の財閥企業でも、国内外の機関投資家が世襲経営への反対を表明している。今後、財閥企業などが世襲や縁故ではなく、「資本の論理」に基づいた改革に本気で取り組むか否かが、韓国の将来を大きく左右することになる。
難しくなる
韓国財閥企業の「世襲経営」
伝統的に、韓国の経済では、「資本の論理」ではなく、「血縁」をはじめとする「縁故」が重視されてきた。新卒者の採用や経営者人材の発掘に関しては、人柄や経営の実力ではなく、創業家出身であるかといったことが優先されてきた。財閥企業だけでなく、ソウル交通公社などにおいても縁故に基づく採用が行われ、世論の反感を買っている。
エレクトロニクス大手LG電子などを傘下に収めるLGグループでは、長子相続が不文律とされている。2018年に具本茂(ク・ボンム)会長(当時)が急逝したことを受けて、LGは同氏の養子であり経営経験のない具光謨(ク・グァンモ)氏をトップに選任した。手腕が未知数の人物がいきなり経営トップに就くことに不安を覚える市場参加者は多い。
見方を変えれば、財閥企業の創業家一族は、大企業の経営を思うがままにコントロールできるだけの権力を維持し続けてきた。これは、先進国経済においては考えられない事態だ。
韓進グループでは、世襲経営の弊害がとみに顕在化している。傘下の大韓航空では、顧客離れから業績が悪化し続けている。故趙会長の長女による「ナッツリターン事件」、次女が会議で水入りのコップを従業員に投げつけた問題に加え、妻による従業員への暴行問題などは、いずれも許されるものではない。
それがわからないほど、財閥企業創業家の感覚は一般社会から遊離してしまっている。
創業家一族の傍若無人なふるまいに対して、世論や顧客が腹を立てるのは当然だ。3月下旬に開催された大韓航空の株主総会では、韓国の機関投資家の反対などを受けて、趙氏の取締役再任が否決された。財閥全体のトップとして再建を主導してきた趙会長が失意のうちに亡くなり、韓進グループはどのようにグループ企業の経営を立て直すかという大きな問題に直面している。親族は十分な議決権を確保できていない。事業継承も進んでいない。
韓進グループは漂流している。同グループが自力で経営を安定させることができるか否か、先行きはかなり不透明だ。それは、世襲経営の限界を示している。
早い段階の改革が
必要だった韓国の財閥
韓国は、もっと早い段階で財閥企業の解体など、改革に着手すべきだった。しかし、政府は“目先の成長”を重視するあまり、財閥改革に本腰を入れることができなかった。雇用や所得への影響を考えると、韓国政府は財閥企業に依存した経済運営を続けざるを得なかった。
1997年、タイを震源地に「アジア通貨危機」が発生した。同年11月、韓国は自力での経済運営をあきらめ、IMFに支援を要請した。IMFは支援の条件として、韓国に構造改革を求めた。
その1つが財閥(チェボル)の改革だった。
アジア通貨危機に関する報告書の中でIMFは、財閥企業が韓国経済の成長に欠かせない役割を果たしたことを認めている。同時にIMFは、財閥企業のガバナンス体制に懸念を表明してきた。
最大の問題は、財閥グループ内でビジネス、企業金融などが癒着し、そこに政治的利権も絡んできたことだ。財閥企業の創業家は、経済だけでなく政治に関する影響力をも強めることで、自分たちの利権を守ろうとしてきた。
経済状況が安定している場合、韓国は財閥企業の輸出競争力を高めることでGDP成長率を高めることができた。しかし、いったん経済環境が悪化すると、そうはいっていられなくなる。アジア通貨危機の際、財閥傘下の事業法人も金融機関も、一様に資金繰りと財務内容が悪化し、経済が危機的状況に陥った。
リーマンショック後、韓進グループ内では海運大手の韓進海運の経営が急速に悪化した。韓進海運は資産を売却し資金繰りをつなごうとしたが、最終的には破産した。その上に大韓航空の経営悪化が重なり、財閥を統率してきたトップも不在だ。アジア通貨危機後に韓国が財閥改革に取り組むことができたなら、状況はもう少し違ったように思える。
文大統領は、富が財閥企業の創業家に集中する状況にうらみを強める世論に配慮し、財閥企業への監視を強めてはいる。ただ、規制を緩和して競争を促し、業界再編を目指すまでには至っていない。世論に押され、しぶしぶ財閥への接し方を硬化させざるを得ないというのが文氏の実情だろう。
韓国経済の将来を
決める財閥改革
韓国経済は、財閥企業による寡占状態にある。韓国株式市場の時価総額のうち、非財閥企業の割合は20%程度だ。一方、労働市場では中小企業が90%程度の雇用を生み出している。
韓国にとって財閥企業は「大きすぎて手が付けられない存在」になってしまったといえる。
この状況が続くと、韓国では経済格差の固定化が進む。格差が固定化すると、世論の不満は増幅しかねない。世論の不満が蓄積され続けると、政治が多様な利害を調整することは難しくなる。
2018年、韓国の合計特殊出生率は0.98だった。韓国の少子化はわが国以上に深刻だ。人口が減少する中で韓国は国内外の問題にうらみを募らせる社会心理に対応しなければならない。
少子化が進み高齢化が深刻化するに伴い、韓国では、自らの利益確保に加え、怨念の解消を政治家に要求する高齢者が増えるだろう。人口動態上、政治家は彼らの声に耳を傾けざるを得ない。現状の韓国を見ていると、政治家が“韓国版シルバー民主主義”を食い止めることができるか、かなり不安だ。韓国経済の減速が鮮明となる中、世論の“怨嗟の声”は一段と強まる恐れがある。
韓国政府は可及的速やかに、公平に富が再分配される経済システムの整備に取り組むべきだ。すでに財閥企業の株主総会では創業家の主張が否決されることが増えている。IT分野を中心に、創業者が経営の専門家にマネジメントをゆだねるケースも増えている。韓国政府は“資本の論理”に基づいたアニマルスピリッツの発揮を重視すべきだ。
そうした取り組みが進むか否かで、韓国経済の将来は大きく変わってくる。政府が競争原理を発揮しつつ公平に富が再配分される経済を整備できれば、韓国は、世論が政治を振りまわす状況を改善できるかもしれない。
反対に、政治家が目先の経済状況の維持を優先し、財閥企業の「世襲経営」を容認し続けるのであれば、韓国の世論リスクはさらに高まる恐れがある。それは、極東地域だけでなく国際社会における韓国の孤立懸念を一段と高める要因と考えるべきだ。