あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

木の精霊 仏像 一木にこめられた祈り その2

2006-11-13 13:41:47 | 日本美術
金銅仏と違って、どこか肌の温もりが感じられる一木作りの仏様達。
渡岸寺の十一面観音の美しさとはまた違った、
素朴で、血が通っていそうな仏様達。

それが鉈彫の仏像だった。
10世紀あたりにつくられている。

神の木の中から仏が現れることを、鉈目を残すことによって、
仏が今これから生まれ出でる一瞬を、
見る人にまざまざと感じさせてくれたに違いない。
わざわざきれいに仕上げた後に鉈目をつけたのだそうだ。
未完ではないのだ。
これから、仏が現れる、そのほんの手前の所を現したのだ。

こういう創意に感動する。

世に名をはせた著名な仏師ではなく、
その土地に愛された仏師が人々と共に安寧を願った証。
中でも、神奈川の弘明寺の十一面観音がお気に入りだ。
あの蓮のつぼみさえ鉈目が残っているのだから。

また、ショックな仏様もあった。

宝誌和尚立像(ほうしおしょう)

この中国の南北朝時代の宝誌和尚には伝説があったらしい。
(以下、芸術新潮より)
宝誌和尚には、神通力があって予言もさかんにした。
彼の肖像を武帝の命で描こうとした画家の前で、
自らの手で、顔の皮を引き裂いてしまった。
そのなかから、十一面観音の顔が出現し、
慈悲や威嚇の相に自在に変化したので、
その画家はついに絵を描くことができなかった。

その話を表したのだそうだ。
江戸時代まで、伊豆半島の寺に伝わっていたとか。

都のお公家さま達の仏ではなく、仏教が地方に渡って、
その土地、樹木、山、川、人々によって、
温もり溢れる仏様が現れたのだと思う。
無欲な表情に、とても癒された。

その流れは、ずっと後になって、円空達が引く嗣ぐことになる。

大きな丸太一本を三体に切り分けて作られた、
十一面観音、善女竜王立像、善財童子立像。
見事にあわせると元の一本の木に戻るのだから、驚きだ。
ひょろ長い床柱のようだし、倒れそうな円柱3本でもある。
まさに一木から生まれた、3体の仏様。
表情のなんとあどけないこと。

円空は日本中のあちこちで、おびただしい数の仏様を現した。
作った、彫った、というより、
その木に見えた仏を、捨ててしまいそうな木っ端にも現したのだ。

もっともっと土着的な、木喰のほっぺ丸まるの仏様達。
中には、たれ乳のおばぁの仏様もあった。たれ乳のお婆ちゃんが仏??
顔を覆ったり、歯をむき出して笑ってたり、人間そのものの形。
かっこつけなくっても、おら達の中にも仏様がおらっしゃる。
みんな、笑って、幸せになろう。アハハハハ

木喰は、始めっから笑っていたんじゃなかったそうだ。
色々あったから笑えるようになったんだ。

しかし、これだけ木に神様、仏様を生み出した国はないのだというから、
日本人は、驚きの民族だ。
いつも親しく、威厳を感じながら、自然と共に暮らしてきたのだ。
その視線の先に神様仏様が生まれたとしても、なんの不思議はないのだ。

参考になった資料。
NHK新日曜美術館、美の壺
芸術新潮、日本美術の歴史、十一面観音巡礼(白洲正子)

本館の方にも、見応えたっぷりの仏様達がいた。
お彼岸はとうに過ぎたけれど、これで、今年の厄が落ち、
新しい一年を迎えられること請け合いだ。
企画をした東博に、またまた大感謝の展覧会となった。

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