朝鮮陶磁器に魅せられた若き頃、
大阪の東洋陶磁美術館が1982年に開館しているが、
「東洋陶磁の展開」という企画展に行っている。
住友財閥の安宅コレクションをすっかり網羅した収蔵品は
陶磁器ファンのみならず、そのレベルの高さに
訪ねた人はみな息を飲んだに違いない。
ますます私の朝鮮陶磁器への思いは募っていった。
5年後、また東洋陶磁美術館を訪ねた。
「李朝陶磁500年の美」という展覧会。
その中に浅川伯教氏の所蔵した
蓮の花が描かれた大壺があって、
その姿のあまりにも美しいさまにため息を漏らした。
なんて美しいものがあるのだろう!!
当時の図録もまた秀逸で、今も時々開いている。
その後、自らの人生の双六を転がることに追われ、
美術館から遠ざかっていたが、
幼子を抱いていた時に、本屋で芸術新潮に目が止まった。
「李朝の美を教えた兄弟 浅川伯教(のりたか)と巧」
という特集で、美しいものに対する高揚感を思い出した。
それも1997年の時だから、13年経つことになる。
子育てに汲々としていた時にまた朝鮮陶磁器への憧憬がよみがえった。
あの安堵感、癒し感、郷愁感はどこから来るのだろう?
その浅川伯教から白樺派の活動の中心だった
柳宗悦にひとつの小さな壺が手渡される。
その壺がその後の柳の生き方を変えてしまう。
小さな白磁の染付秋草文面取壺。
この小さき物に、いったいどんな力が潜んでいたというのだろう。
その後柳は民芸運動に身を捧げる。
用の美。民藝。そのことばも生まれた。
当時柳が熱中し収集した至極の朝鮮陶磁器が
没後50年を記念して展示されている。
友人と勇んで駒場の民藝館を目指した。
そこを訪ねるのも久しぶりなことだ。
この建物の中に入る、それ事態が至福の時間で、
ひたすら作品を楽しんだ。
所々に野の花が活けてあるのも嬉しい。
生活をいとおしむ、愛情が溢れている。
権威とか、名前とか、決して上を目指してなどいない
その素朴さに心底感じる。
壺、瓶、茶碗、皿、水滴、硯、筆筒、などなどが
柳の目に叶った木製のケースにそれぞれが共鳴しあって、
楽しげに並んでいる。
自然とともに生きるような容量のゆるさ。
完品を目指さない、許容の広さ。
それらがどれだけ生きている人を慰めてくれたことだろう。
濱田庄司や、棟方志功の作も展示されている。
大津絵の元祖のような軸装もぶら下がっている。
李朝の絵は技量をどう捉えているのか、
途方にくれるほど鄙びている。
建物全体とそれらの品々が
共に助け合って共に生きていることを喜んでいる。
彼の活動の中に、バーナード・リーチが参加したことは
海外にも用の美、民藝という発想をもたらした。
リーチの活動からまた先日賑わった
ルーシー・リーが関係する。
国立新美術館の会場に白磁の大壺があったのを覚えているだろうか?
リーチがルーシーに贈ったものだった。
海外にも民藝の精神が波及していることの大きさに
今一度感慨を深める。
今回図録が作られたが、これがまた秀逸。
磁器の肌合いがとてもよく記録されている。
館の大看板を背負う白磁大壺が表紙を飾り、
裏表紙は浅川氏から手に入った、
因縁の秋草文面取壺がトリを務める。
その中の柳の一文を紹介する。
「般若心経」に「不垢不浄」ということばがある。・・・
「不垢不浄」というのは、「垢すこともせず、浄めることもしない」
ということである。・・・
朝鮮の品々には、「美と醜が共に有る無き」世界での仕事だと云える。
宗教家の分析は大変なことだが、なんとなく彼が魅せられた
理由の一端が知れる。
骨董関係者やら、古美術関係者、やきもの研究者、
審美眼の先達、様々な人々がこれらの品々から
アジアの、朝鮮の不垢不浄のやきものから美を学ぶ。
そこに何が潜んでいるのか。
その命題と共に自らの目を確かめに、
目の幸せのためにただ通う、
そういう美術館があることの幸せを深く感じる展覧であった。
27日まで開催。俗世間から離れ、お寺に行くような気持ちで、
ぜひ一度。
民藝館で長らく学芸員をされた尾久彰三氏のコレクション展が
そごう美術館で7月4日まで開催中です。
あわせておすすめします。
月末中にはぜひ行くつもりです。
京都の高麗美術館では浅川兄弟の企画展があるそうだ。
日本中で民藝の波が
沸き上がっているような気がしてならない。
また、私の中で積もった朝鮮陶磁への思いが
ひとつの流れになっているような気がしてならないし、
今年の重要な展覧会となったことは言うまでもない。
大阪の東洋陶磁美術館が1982年に開館しているが、
「東洋陶磁の展開」という企画展に行っている。
住友財閥の安宅コレクションをすっかり網羅した収蔵品は
陶磁器ファンのみならず、そのレベルの高さに
訪ねた人はみな息を飲んだに違いない。
ますます私の朝鮮陶磁器への思いは募っていった。
5年後、また東洋陶磁美術館を訪ねた。
「李朝陶磁500年の美」という展覧会。
その中に浅川伯教氏の所蔵した
蓮の花が描かれた大壺があって、
その姿のあまりにも美しいさまにため息を漏らした。
なんて美しいものがあるのだろう!!
当時の図録もまた秀逸で、今も時々開いている。
その後、自らの人生の双六を転がることに追われ、
美術館から遠ざかっていたが、
幼子を抱いていた時に、本屋で芸術新潮に目が止まった。
「李朝の美を教えた兄弟 浅川伯教(のりたか)と巧」
という特集で、美しいものに対する高揚感を思い出した。
それも1997年の時だから、13年経つことになる。
子育てに汲々としていた時にまた朝鮮陶磁器への憧憬がよみがえった。
あの安堵感、癒し感、郷愁感はどこから来るのだろう?
その浅川伯教から白樺派の活動の中心だった
柳宗悦にひとつの小さな壺が手渡される。
その壺がその後の柳の生き方を変えてしまう。
小さな白磁の染付秋草文面取壺。
この小さき物に、いったいどんな力が潜んでいたというのだろう。
その後柳は民芸運動に身を捧げる。
用の美。民藝。そのことばも生まれた。
当時柳が熱中し収集した至極の朝鮮陶磁器が
没後50年を記念して展示されている。
友人と勇んで駒場の民藝館を目指した。
そこを訪ねるのも久しぶりなことだ。
この建物の中に入る、それ事態が至福の時間で、
ひたすら作品を楽しんだ。
所々に野の花が活けてあるのも嬉しい。
生活をいとおしむ、愛情が溢れている。
権威とか、名前とか、決して上を目指してなどいない
その素朴さに心底感じる。
壺、瓶、茶碗、皿、水滴、硯、筆筒、などなどが
柳の目に叶った木製のケースにそれぞれが共鳴しあって、
楽しげに並んでいる。
自然とともに生きるような容量のゆるさ。
完品を目指さない、許容の広さ。
それらがどれだけ生きている人を慰めてくれたことだろう。
濱田庄司や、棟方志功の作も展示されている。
大津絵の元祖のような軸装もぶら下がっている。
李朝の絵は技量をどう捉えているのか、
途方にくれるほど鄙びている。
建物全体とそれらの品々が
共に助け合って共に生きていることを喜んでいる。
彼の活動の中に、バーナード・リーチが参加したことは
海外にも用の美、民藝という発想をもたらした。
リーチの活動からまた先日賑わった
ルーシー・リーが関係する。
国立新美術館の会場に白磁の大壺があったのを覚えているだろうか?
リーチがルーシーに贈ったものだった。
海外にも民藝の精神が波及していることの大きさに
今一度感慨を深める。
今回図録が作られたが、これがまた秀逸。
磁器の肌合いがとてもよく記録されている。
館の大看板を背負う白磁大壺が表紙を飾り、
裏表紙は浅川氏から手に入った、
因縁の秋草文面取壺がトリを務める。
その中の柳の一文を紹介する。
「般若心経」に「不垢不浄」ということばがある。・・・
「不垢不浄」というのは、「垢すこともせず、浄めることもしない」
ということである。・・・
朝鮮の品々には、「美と醜が共に有る無き」世界での仕事だと云える。
宗教家の分析は大変なことだが、なんとなく彼が魅せられた
理由の一端が知れる。
骨董関係者やら、古美術関係者、やきもの研究者、
審美眼の先達、様々な人々がこれらの品々から
アジアの、朝鮮の不垢不浄のやきものから美を学ぶ。
そこに何が潜んでいるのか。
その命題と共に自らの目を確かめに、
目の幸せのためにただ通う、
そういう美術館があることの幸せを深く感じる展覧であった。
27日まで開催。俗世間から離れ、お寺に行くような気持ちで、
ぜひ一度。
民藝館で長らく学芸員をされた尾久彰三氏のコレクション展が
そごう美術館で7月4日まで開催中です。
あわせておすすめします。
月末中にはぜひ行くつもりです。
京都の高麗美術館では浅川兄弟の企画展があるそうだ。
日本中で民藝の波が
沸き上がっているような気がしてならない。
また、私の中で積もった朝鮮陶磁への思いが
ひとつの流れになっているような気がしてならないし、
今年の重要な展覧会となったことは言うまでもない。