どうも、日本の歴史に相当な位置にいる、茶道の歴史。
この世界を見ずして、
信長や、秀吉、利休を語れない。
そもそも、やきものが好きな私が、お茶碗のことが知りたくて、
こそこそ美術館に行ったり、本を読んだりしているだけなのだが、
お茶が、とんでもないキーワードになってきた。
「茶道の歴史」 桑田忠親 講談社学術文庫
「千利休」 村井康彦 講談社学術文庫
「茶の湯の歴史 千利休まで」
熊倉功夫 朝日選書
「千利休の「わび」とはなにか」
神津朝夫 角川選書
「千利休 無言の前衛」
赤瀬川源平 岩波新書
などなど、買いまくって、1年前くらいから読んでいる。
当然、
野上弥生子の「秀吉と利休」
もあるのだけれど、読了には至らず、気分が入ったら、一気にその世界に入ろうと、好きなおかずは後回し。
お茶は、非日常の別世界。
美学の究極の密室の陶酔の箱。
誰だっけ?茶道とは、エクスタシーだって言ったの。
その意味がようやくわかる気がしてきた。
精神的にも、学問的にも、凡人はそこには入れない。
身分はどうでもよく、美学を持っている人にこそ自由に開かれた場所。
公の、秘密の場所。
書、花、香、絵、歌、道具、それらが備わって、また、主人と客の人間同士の関わり。
これが究極の美学ではなくて、何になるだろう??
どうか自由にならず、不自由なまま、狭き門で、
孤高の選ばれた人たちだけの、密会所のような陶酔の場所であり続けますように。
私は、お台所で、ミルクパンにお湯を沸かし、おたまでお茶碗にお湯を入れ、
小皿に和菓子、適当なお茶碗に通販のお抹茶をいただく。
これぞ、分相応のお茶。
これでよいのだ。
この世界を見ずして、
信長や、秀吉、利休を語れない。
そもそも、やきものが好きな私が、お茶碗のことが知りたくて、
こそこそ美術館に行ったり、本を読んだりしているだけなのだが、
お茶が、とんでもないキーワードになってきた。
「茶道の歴史」 桑田忠親 講談社学術文庫
「千利休」 村井康彦 講談社学術文庫
「茶の湯の歴史 千利休まで」
熊倉功夫 朝日選書
「千利休の「わび」とはなにか」
神津朝夫 角川選書
「千利休 無言の前衛」
赤瀬川源平 岩波新書
などなど、買いまくって、1年前くらいから読んでいる。
当然、
野上弥生子の「秀吉と利休」
もあるのだけれど、読了には至らず、気分が入ったら、一気にその世界に入ろうと、好きなおかずは後回し。
お茶は、非日常の別世界。
美学の究極の密室の陶酔の箱。
誰だっけ?茶道とは、エクスタシーだって言ったの。
その意味がようやくわかる気がしてきた。
精神的にも、学問的にも、凡人はそこには入れない。
身分はどうでもよく、美学を持っている人にこそ自由に開かれた場所。
公の、秘密の場所。
書、花、香、絵、歌、道具、それらが備わって、また、主人と客の人間同士の関わり。
これが究極の美学ではなくて、何になるだろう??
どうか自由にならず、不自由なまま、狭き門で、
孤高の選ばれた人たちだけの、密会所のような陶酔の場所であり続けますように。
私は、お台所で、ミルクパンにお湯を沸かし、おたまでお茶碗にお湯を入れ、
小皿に和菓子、適当なお茶碗に通販のお抹茶をいただく。
これぞ、分相応のお茶。
これでよいのだ。
茶道の世界のその「究極の美学」の一端を覗きたく
年甲斐もなく、お茶の教室に通い始めて10ヶ月。
まだまだ、真髄から程遠い「皮」の部分を行ったり来たりです。
果たして不自由な「型」の中に、「永遠」を見つける
ことができるのでしょうか?
きっと、きっと不自由の中から、光が差すときがくることと思います。
こんな私でも時がきたら、お茶の入り口でもお稽古できたらと願ってはいるんです。
ん~~いつのことやら・・・