「再興院展100年記念 速水御舟ー日本美術院の精鋭たちー」展 関連講演会
「速水御舟と院展の画家たち」としての講演会に参加してきました。
講師は、山崎妙子山種美術館館長が務められ、
御舟の研究で博士号を取得されたご専門ならではの、濃厚なお話を伺ってきました。
当日はなんと御舟のお孫さん達がこの日のために来日し、来場されていました。
手描きの花柄をあしらった和服姿の館長からのご紹介に会場は温かな拍手で一杯になりました。
御舟の娘さんは3人いらして、そのうちの三女の方がアメリカに移住されていたとか。
この日本の最高に蒸し暑い夏によくぞお出まし下さいました、という感謝の念も
場内に充満したのでした。
また、長女の彌生さんもなんと山種美術館に展覧会初日の今日、
お出ましされていたとか。
遠目に館長が手を差し伸べてご案内された、あのご高齢のご婦人が
その彌生さんであったのだろうと、同席した友人と目を合わせたのでした。
残念ながら、体調への配慮もあって講演会にはご来場されませんでしたが、
お元気でご存命でいらした、そのことがただすばらしいのでした。
彌生さんは聖心会の東洋管区長をになってきたご立派なシスターで、
美智子皇后の母校でもある聖心女学館との縁もあり、皇室との交流もお持ちだそうです。
他、ゆかりの方々のご同席は、御舟を囲んだ人びとの人生をも合わせて、
作品を鑑賞できるではないかと思いました。
講演のメモをまとまらないまま乱雑ですが記録として書き留めておきます。
*来年、日本美術院が再興されてから丁度100周年を迎えるにあたって
大観、観山、春草、安田靫彦、御舟、土牛、小倉遊亀、平山郁夫らの館蔵60点余りで
院展に関わった画家たちの作品を見て頂く展覧となった。
*山種コレクションは1800点余りの内、土牛135、御舟120点を超えている。
他、古径47点、大観40点
*山種美術館創立するならと購入したのが大観「心神」
古径も美術館にするならという条件で「清姫」
また、山種美術館のロゴは安田靫彦の書で、
安田靫彦は良寛の字を研究するほどで大磯の安田邸に通って揮毫してもらったもの。
*山種美術館開館10周年記念に片岡球子の「鳥文斎栄之」を
また、平山郁夫の「阿育王石柱」を描いてもらった。
*明治31年に主幹橋本雅邦、評議委員長岡倉天心、で日本美術院が創立された。
正員には大観、観山、春草ら。
その前に天心の発案で帝国博物館(今の東博)での模写事業に参画し、
古い仏画、牧𧮾、などを模写してきた。
西洋画のラフェアエロ、ミレイなども模写した観山は人体表現を研究した。
*天心はボストン美術館の日本コレクション調査と目録作成のために渡米。
大観、春草らを同伴し、作品展を開催し好評を得る。
*1906年明治39年に五浦に移転、1913年に天心亡くなる。
*そして、1914年、大正3年に再興日本美術院開院式。
再興第一回院展開催。御舟は「紙すき村」で院友に推挙される。
(この作品を最近東博で見た私は驚き、画面とエピソードが合致して喜んだ)
*1920年大正9年の再興第7回院展に御舟の「京の舞妓」を出品するが、
大観は気に入らなかったようだが、古径がそれなら私もやめるというので
大観はそれならばと諦め、御舟も古径も無事出品することとなった、という逸話が紹介された。
*1922年大正11年、古径、前田青邨らがヨーロッパ留学。
その時古径は線描に目覚めたとか。
*1923年大正12年 再興第10回院展初日に関東大震災が起こる。(9/1)
*1930年昭和5年「ローマ日本美術展覧会」開催の為、大観夫妻と共に御舟も渡欧。
その後御舟だけ単身で10ヶ月各国歴訪する。
その際にエル・グレコが見たいといっていたそうだ。
*そして、2013年、平成25年に再興日本美術院第98回展覧会が開催予定される。
ざっと、山種コレクションの成り立ち、院展の歴史を辿りつつ、
それぞれの画家のエピソードが加えられ、その歴史の中に山種美術館が濃厚に
加わってきたことが良く伝わってきました。
*今回の展覧の絵画について。
御舟の作品120点の所蔵の中から、選りすぐりの30点を展示し、
代表作「炎舞」は一年半ぶりの展示となった。
「炎舞」は山種の人気作品で、見飽きることのない作品。
炎はまるで青不動の炎のよう、背景の深い紫はもう二度と描けない色合い。
ある人がとらやの羊羹、梅の香のようだと言ったことがあるとか。
(我が家に丁度その羊羹があり、深淵なる紫を味わうことが出来ます)
*御舟絶筆、「盆栽梅」の公開。
未完の作品だが、構想したスケッチもあわせての展示。
晩年には家族を離れて修行したいと言っていた。
小笠原という案があったが、結局は西伊豆に行くことになっていたが、
チフスで急逝してしまい、叶わぬ事となった。40才だった。
*日本画家は西洋画の人物デッサンをしたことがないので、
古径、御舟たちは初めてモデルを使ってヌードデッサンにチャレンジした。
また、奥さんをモデルにすることもあった。
*大親友だった古径とは2~3時間も絵のことで話し合うことがあった。
*御舟のことば
梯子を登り得る勇気を持つ者よりも、更に降り得る勇気を持つ者は、
真に強い力の把持者である。
日本画家として名声を得ても、その地に安住することなく、
チャレンジしていく勇気を持っていた。
*館長が御舟を研究するきっかけとなったのは
幼心にも怖い絵だと感じていた「紅梅・白梅」の二幅の絵だったそうだ。
御舟の絵から漂う、写生だけではない、何かを感じたのだと思う。
*他、展示されている画像を紹介しつつ、その絵にまつわるお話など
実体験も織り交ぜてのお話など、山種との生きた歴史を引き継いだ
館長の心意気さえも感じ入ることが出来た。
講演会は大盛況でしたが、下界は今年一番の酷暑のようで、
そんなことを一瞬忘れ、瑞々しい絵画の世界に身を投じて
また、日本絵画独特の自然との共存でほっとするひとときでした。
講演会前にショップで求めた展覧会オリジナル和菓子は
食べてはいけないレベルのかわいらしさ、美しさでした。
朗報!山種美術館50周年記念展には大々的に御舟を特集されるそうです。
山崎種二、二代目富治、そして当代に引き継がれてきた
山種コレクションの歴史を辿ると言うことは
ひいては日本絵画の近代史を学ぶこととなっていること。
その歴史の帯の上にすっくりと和服姿で未来を見据えて精力的に
活動されている当代館長、妙子さんが今を生きているということ。
そう思うと、一大事件の現場に立っているような
ちょっと熱い気持ちがわき上がってくるような、
それもそのはず、今夏一番の熱帯酷暑の講演会でした。
この展覧会は10月14日までのロングランです。
秋の兆しが見える頃、再訪したいと思いました。
山種美術館のサイトはこちら
追記:山種美術館の山崎の「サキ」がPCで上手く変換できませんでした。
山の横は立に可を使う漢字を使用されていますが、
便宜上、一般的な山崎の「崎」を使用しましたので、ご了承下さい。
「速水御舟と院展の画家たち」としての講演会に参加してきました。
講師は、山崎妙子山種美術館館長が務められ、
御舟の研究で博士号を取得されたご専門ならではの、濃厚なお話を伺ってきました。
当日はなんと御舟のお孫さん達がこの日のために来日し、来場されていました。
手描きの花柄をあしらった和服姿の館長からのご紹介に会場は温かな拍手で一杯になりました。
御舟の娘さんは3人いらして、そのうちの三女の方がアメリカに移住されていたとか。
この日本の最高に蒸し暑い夏によくぞお出まし下さいました、という感謝の念も
場内に充満したのでした。
また、長女の彌生さんもなんと山種美術館に展覧会初日の今日、
お出ましされていたとか。
遠目に館長が手を差し伸べてご案内された、あのご高齢のご婦人が
その彌生さんであったのだろうと、同席した友人と目を合わせたのでした。
残念ながら、体調への配慮もあって講演会にはご来場されませんでしたが、
お元気でご存命でいらした、そのことがただすばらしいのでした。
彌生さんは聖心会の東洋管区長をになってきたご立派なシスターで、
美智子皇后の母校でもある聖心女学館との縁もあり、皇室との交流もお持ちだそうです。
他、ゆかりの方々のご同席は、御舟を囲んだ人びとの人生をも合わせて、
作品を鑑賞できるではないかと思いました。
講演のメモをまとまらないまま乱雑ですが記録として書き留めておきます。
*来年、日本美術院が再興されてから丁度100周年を迎えるにあたって
大観、観山、春草、安田靫彦、御舟、土牛、小倉遊亀、平山郁夫らの館蔵60点余りで
院展に関わった画家たちの作品を見て頂く展覧となった。
*山種コレクションは1800点余りの内、土牛135、御舟120点を超えている。
他、古径47点、大観40点
*山種美術館創立するならと購入したのが大観「心神」
古径も美術館にするならという条件で「清姫」
また、山種美術館のロゴは安田靫彦の書で、
安田靫彦は良寛の字を研究するほどで大磯の安田邸に通って揮毫してもらったもの。
*山種美術館開館10周年記念に片岡球子の「鳥文斎栄之」を
また、平山郁夫の「阿育王石柱」を描いてもらった。
*明治31年に主幹橋本雅邦、評議委員長岡倉天心、で日本美術院が創立された。
正員には大観、観山、春草ら。
その前に天心の発案で帝国博物館(今の東博)での模写事業に参画し、
古い仏画、牧𧮾、などを模写してきた。
西洋画のラフェアエロ、ミレイなども模写した観山は人体表現を研究した。
*天心はボストン美術館の日本コレクション調査と目録作成のために渡米。
大観、春草らを同伴し、作品展を開催し好評を得る。
*1906年明治39年に五浦に移転、1913年に天心亡くなる。
*そして、1914年、大正3年に再興日本美術院開院式。
再興第一回院展開催。御舟は「紙すき村」で院友に推挙される。
(この作品を最近東博で見た私は驚き、画面とエピソードが合致して喜んだ)
*1920年大正9年の再興第7回院展に御舟の「京の舞妓」を出品するが、
大観は気に入らなかったようだが、古径がそれなら私もやめるというので
大観はそれならばと諦め、御舟も古径も無事出品することとなった、という逸話が紹介された。
*1922年大正11年、古径、前田青邨らがヨーロッパ留学。
その時古径は線描に目覚めたとか。
*1923年大正12年 再興第10回院展初日に関東大震災が起こる。(9/1)
*1930年昭和5年「ローマ日本美術展覧会」開催の為、大観夫妻と共に御舟も渡欧。
その後御舟だけ単身で10ヶ月各国歴訪する。
その際にエル・グレコが見たいといっていたそうだ。
*そして、2013年、平成25年に再興日本美術院第98回展覧会が開催予定される。
ざっと、山種コレクションの成り立ち、院展の歴史を辿りつつ、
それぞれの画家のエピソードが加えられ、その歴史の中に山種美術館が濃厚に
加わってきたことが良く伝わってきました。
*今回の展覧の絵画について。
御舟の作品120点の所蔵の中から、選りすぐりの30点を展示し、
代表作「炎舞」は一年半ぶりの展示となった。
「炎舞」は山種の人気作品で、見飽きることのない作品。
炎はまるで青不動の炎のよう、背景の深い紫はもう二度と描けない色合い。
ある人がとらやの羊羹、梅の香のようだと言ったことがあるとか。
(我が家に丁度その羊羹があり、深淵なる紫を味わうことが出来ます)
*御舟絶筆、「盆栽梅」の公開。
未完の作品だが、構想したスケッチもあわせての展示。
晩年には家族を離れて修行したいと言っていた。
小笠原という案があったが、結局は西伊豆に行くことになっていたが、
チフスで急逝してしまい、叶わぬ事となった。40才だった。
*日本画家は西洋画の人物デッサンをしたことがないので、
古径、御舟たちは初めてモデルを使ってヌードデッサンにチャレンジした。
また、奥さんをモデルにすることもあった。
*大親友だった古径とは2~3時間も絵のことで話し合うことがあった。
*御舟のことば
梯子を登り得る勇気を持つ者よりも、更に降り得る勇気を持つ者は、
真に強い力の把持者である。
日本画家として名声を得ても、その地に安住することなく、
チャレンジしていく勇気を持っていた。
*館長が御舟を研究するきっかけとなったのは
幼心にも怖い絵だと感じていた「紅梅・白梅」の二幅の絵だったそうだ。
御舟の絵から漂う、写生だけではない、何かを感じたのだと思う。
*他、展示されている画像を紹介しつつ、その絵にまつわるお話など
実体験も織り交ぜてのお話など、山種との生きた歴史を引き継いだ
館長の心意気さえも感じ入ることが出来た。
講演会は大盛況でしたが、下界は今年一番の酷暑のようで、
そんなことを一瞬忘れ、瑞々しい絵画の世界に身を投じて
また、日本絵画独特の自然との共存でほっとするひとときでした。
講演会前にショップで求めた展覧会オリジナル和菓子は
食べてはいけないレベルのかわいらしさ、美しさでした。
朗報!山種美術館50周年記念展には大々的に御舟を特集されるそうです。
山崎種二、二代目富治、そして当代に引き継がれてきた
山種コレクションの歴史を辿ると言うことは
ひいては日本絵画の近代史を学ぶこととなっていること。
その歴史の帯の上にすっくりと和服姿で未来を見据えて精力的に
活動されている当代館長、妙子さんが今を生きているということ。
そう思うと、一大事件の現場に立っているような
ちょっと熱い気持ちがわき上がってくるような、
それもそのはず、今夏一番の熱帯酷暑の講演会でした。
この展覧会は10月14日までのロングランです。
秋の兆しが見える頃、再訪したいと思いました。
山種美術館のサイトはこちら
追記:山種美術館の山崎の「サキ」がPCで上手く変換できませんでした。
山の横は立に可を使う漢字を使用されていますが、
便宜上、一般的な山崎の「崎」を使用しましたので、ご了承下さい。
拙ブログも読んで下さり、お礼申し上げます。
Takさん、遊行さん、どちらも長年拙い私の美術鑑賞の頼りになる大先輩です。
欧州在住とは日本への思いもことのほか深くなるのではないでしょうか?
本展のあとは古径と土牛展ですし、きっとしっとりした雰囲気を感じられるのではないでしょうか。
ご無事で帰国を!
初コメントです。
速水御舟いいですね。
欧州在なのであまり日本画を鑑賞する機会がないのが残念です。
今回の記事はとても興味深く拝読しました。
ますます展覧会に行きたいと思いました。
秋に帰国する予定はあるのですが、ギリギリ無理かもしれないのが無念です。