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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

文化的な行為の記念のために

2011-04-10 23:14:36 | today's focus
すでに多くのネット・コミュニケーションで流れている斉藤和義氏の替え歌。
ぼくから見ると、彼が自分の曲の替え歌を作り、それをYoutubeに流したのは、
今の日本で唯一と言ってよい文化的な行為だったと思う。

「みんなが一つになろう」キャンペーンから見ると、氏の行為はどうみなされるのだろう?

この国を歩けば、原発が54基
教科書もCMも言ってたよ、安全です。

俺たちを騙して、言い訳は「想定外」
懐かしいあの空、くすぐったい黒い雨。

ずっとウソだったんだぜ
やっぱ、ばれてしまったな
ホント、ウソだったんだぜ
原子力は安全です。

ずっとウソだったんだぜ
ほうれん草食いてえな
ホント、ウソだったんだぜ
気づいてたろ、この事態。

風に舞う放射能はもう止められない

何人が被爆すれば気がついてくれるの?
この国の政府。

この街を離れて、うまい水見つけたかい?

教えてよ!
やっぱいいや…

もうどこも逃げ場はない。

ずっとクソだったんだぜ
東電も、北電も、中電も、九電も
もう夢ばかり見てないけど、

ずっと、クソだったんだぜ
それでも続ける気だ

ホント、クソだったんだぜ
何かがしたいこの気持ち

ずっと、ウソだったんだぜ
ホント、クソだったんだぜ
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外国人のための地震情報:Some Earthquake Information on Internet for Foreign Residents in Japan

2011-03-12 22:52:02 | today's focus
(1)伝言 Message on emergency telephone

緊急用ダイヤルで伝言を残す(giving your message in the following number)
171+1+your telephone number

緊急用ダイヤルで伝言を再生(replaying messages in the following number)
171+2+your telephone number

(2)Person finder (消息情報)
http://japan.person-finder.appspot.com/

left side box: looking for a person
right side box: providing your information

(3)Multilingual portal site(多言語情報):
(3a)多文化共生リソースセンター東海
http://blog.canpan.info/mrc-t/

(3b)NEW: Japan earthquake how to protect yourself(東京外大学生ボランティア)
http://nip0.wordpress.com/

(4)防災のページ Disaster Prevention Page (ちば国際コンベンションビューロー)
http://www.mcic.or.jp/bosai/bosaiindex.html

(5)宮城県災害時外国人サポート・ウェブ・システム (Foreign poeple Support Web System at Disaster in Miyagi Prefecture)
http://emis-miyagi.jp/index.php



(6)外国人を助けるための情報
(6a) Bousai-frontier.net(防災マニュアル)(横浜市)
http://bousai-frontier.net/manual.html

(6b)新版・災害が起こったときに外国人を助けるためのマニュアル(弘前大学人文学部社会言語学研究所)
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/kokugo/newmanual/top.html
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漱石が言う

2010-06-29 21:38:18 | today's focus
さて、ユーウツな話が2回続いたけれど、じつはもう1つのユーウツがぼくにはあった。

それは学会シンポジウムの複言語主義の基調講演の中で出てきた異文化適応能力というものだ。ぼくが研究したり学生に話したりしている接触場面にしろ多文化接触にしろ、じつは言語教育的には類似なものと言ってよい。複言語主義にユーウツを感じたとすれば、自分自身の拠って立つ場所についても疑惑の目を向けることになる。だから、講演を聴きながらぼくがメモしていたのは、異文化適応能力をEU市民の必要条件のように言うくらいなら、老子の小国寡民のほうがずっとマシではないかというものだった。

異文化をすぐに理解して共感し、円滑にコミュニケーションができる能力を養うことが市民の必要条件だとは少しも思えない。それはペラペラ英語能力よりもタチが悪い気がする。それよりも自分の足場をよく理解して静かに暮らすほうがずっとすてきではないか?もし遠方からまれびとが来たならごく自然に客人として遇すればよいではないか?その客人が住み着くならごく自然にその人に対すればよいだけではないか?

しかし、老子が良いというのと、接触場面研究とその教育とは矛盾しているのではないか?

そんなことをしばらく考えていた。

週末に本屋をのぞいて見つけたのは水川隆夫著『夏目漱石と戦争』(平凡社新書)だった。まだ読み始めたばかりなので本の評価は出来ないが、最初の数ページを読んだところで、漱石が学生時代から、人が国家国家と叫んでいることに文句を言っている言葉が目に入った。彼はそして教育についてこのように述べる。

固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)という目的ある以上は、金を得る為めにと云うも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を欲しいままにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては毫も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を涵養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず。(p.20)


ぼくが複言語主義をユーウツに感じた理由の一端が100年以上前のこの言葉の中にある。複言語主義はそれ自体、接触場面研究と同様に意義のあるものだが、それがEU社会の発展のためと位置づけられた途端に、教育外の目的を忍び込ませたとても窮屈で、教育される当人をないがしろにする性格を帯びてしまう。言語政策学会自体がそうした志向を本来的に持っていそうだし、多文化共生もまた当事者を忘れているのかもしれない。接触場面研究とその教育は当事者のためのものであり、個人に立脚している。それは第三者が必要だからと当事者に押し付けるものではなくて、当人の可能性と自律を促すものに過ぎない。

青臭い議論かもしれないが、ぼくは青臭くて構わない。
いやはや漱石に救われるとは思わなかった。

写真は学会を抜け出して小一時間遊んだ法隆寺本堂横の何かの実。枇杷ではないと思うんだけど。玉砂利の上に無数に落ちていた。
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複言語主義のユーウツと楽観

2010-06-22 22:29:22 | today's focus
これも日本言語政策学会ネタ。最初のシンポジウムの基調講演はHenny Rönneper氏 (ドイツ 、 ノルトライン ・ヴェストファーレン州 (NRW)文部省 外国語教育担当官) による「CEFR における新しい能力概念―ヨーロッパ及び世界での言語行動力育成を目指して―ドイツ、NRW の外国語教育政策」だった。

承知のように、ヨーロッパ共通参照枠組CEFRについては日本でもここ数年ホットな話題だし、国際交流基金や慶応大などで日本社会への応用が試みられている。

レネパー氏の講演は、ドイツの州における政策例だったけれど、複数の言語能力と異文化適応能力をもってEU市民の基礎を作り出そうという意欲と理想にはやはり圧倒されるものが確かにある。少数言語や地域言語も含めて多くの言語を学校で学べるようにするためにいったいどれほどの予算を投入するのかは聞きそびれたけれど、とくにドイツの例を聴けば、やはり徹底的であり、システムがある。

能力レベルの記述やその自己評価としてのポートフォリオなどの話は、もちろん事前に知っていることではあるが、ぼくは聞きながらだんだんとユーウツになってしまった。市民は自分で外国語を学んだり学ばなかったりする自由がないのだろうか?外国語を学ぶにしてもその目的を自分で考える自由はないのだろうか?外国語学習に関心がなくて自分の村で一生過ごしたい人はどうなるのだろうか?なんて、根が外国語の苦手なぼくは思わざるを得ないのだ。

講演の内容はやがて市民能力を測定するというところまですすんでいく。市民能力という概念は、1つの国と重ならない。やはりEU市民としての、隣国の市民に対する理解と尊重とコミュニケーションが可能な力を指すものだ。しかし、それでもこうした市民能力が評価されるということは、その能力を持たない人をシステムが排除する、あるいは封じ込めることになるのだろう。それは望ましいことかもしれないが、外国人としてEUに住むことを考えれば、EUで暮らすことはさらに壁が高くなってしまう、あるいは隔離されてしまうことにはならないだろうか?ポストモダンとは過渡的な段階でしかないのだが、EUは明らかに規模を拡大しながらモダンを構想しているように感じられてならない。

そんな、まるで専門家落第のような感想をもちながらほとんどぼくはユーウツだったわけだが、それでもこうした政策はもしかしたら机上の、計画好きな人々の間で話題になっているに過ぎないかもしれないとふと思うのだ。だってぼくの知っているヨーロッパの人々は他人から与えられるものをすぐに受け入れるような人々ではなかったからだ。オーストリアの田舎ではいまでも牛を飼ってミルク作りに精を出している人々がいるし、牛は相変わらず反芻を続けて進歩する気配はない。モダンが進めばすすむほどアンチモダンが働く。

というわけで複言語主義については、その構想力と参照枠組の精緻さを是としながら、それをやりすごす人々と牛たちの間で様子見することにしようと思った次第である。
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日本語教育のユーウツ

2010-06-21 22:04:25 | today's focus
ちょっと長い話。しかもネガティブな...

1,2週間前のNHKのレポートでマレーシアの話が合った。あの"Look EAST"政策で日本に留学生を送り続けていたマレーシアの話だ。マレーシアでは日本留学制度はまだ続いているが、じつは希望者が集まらないらしい。映像では日本に留学して良いことがあるとは思えないといった意見がさまざまな人々から投げ掛けられていた。

マハティール前首相もインタビューで「日本を見習うことは今はないです。見習ったら経済停滞になってしまうから。見習うべきは中国と韓国です」と正直に答えてもいた。ごもっともな話だ。だから将来何かで活躍しようと考える積極的な人間はいまは日本を目指さない。日本にやって来るのはアニメや文化好きの、どちらかというとのんびりとした若者か、そうでなければ、これはずいぶん前から指摘されていることではあるけれど、ほかの国に行くだけの才覚がない人が来ているということのようなのだ。

隔世の感がある。

レポートを聞きながらぼくは「それはそうだろう」と呟いた。でも、この明らかな事実はかすかにぼくを動顛させていたかもしれない。

先週末は大阪の関西大学を会場にして日本言語政策学会が開催され、ぼくも参加させていただいた。梅雨の大阪は東京に比べるとじっとりと蒸し暑くて、すっかり疲れてしまったが、それでも大阪にいた頃毎日使っていた阪急電車の路線に乗れて懐かしさもひとしおだった。

学会のオープニングで会長挨拶があったが、それに続けて欠席した文科省副大臣の挨拶が読まれた。外国人の定住が拡がり、多文化共生と日本語教育が緊喫の課題となっている、ぜひとも学会の力を得たいというような趣旨の話だった。NHKのレポートを聞いたばかりだったからかもしれない。副大臣は何を言っているのだろうと思った。経済も停滞し外国人に活躍してもらうだけの場も作っていない日本で、そして留学生も集まらない日本で、日本語教育がなぜ緊急の課題になるのだろうか。タイムラグがあるのかもしれない。日本語教育界がこぞって必要性を叫んだ結果、ようやく今になって文科省も取り上げてくれたということなのか。しかし、タイミングは逸している。

もちろん、今のような停滞期であっても日本語教育を必要とする人々は少なくない。それは事実だ。しかし、日本語教育だけが際立って重要だということにはならない。外国人をとりまくさまざまな社会的な課題のほうが重要かも知れないし、語学ということであれば日本人の中国語や英語の教育の促進のほうがもっと大切かも知れない。ぼくは日本語教育界で食べさせてもらっている身ではあるけれど、客観的に見て、日本語教育が今の言語政策で最重要課題だとはとても思われないのだ。

もしかしたら、日本語教育が、ではなく日本語教育界の生存が危ぶまれている、そのことが緊喫の課題なのだということなのだろうか?それならまだ理解しやすい。利益団体としての主張ということなら構図はわかりやすい。いくつもの雑誌が休刊しているし、大学院で日本語教育学を専攻しようとする日本人も激減している。志願者のほとんどは留学生だが、だからといって日本語教育に憧れているから志願しているとは一概に言えない事情がある。しかしいずれの場合もやはり日本語教育自体が緊急の課題というわけではないと言わざるを得ない。

ぼくが動顛したのはなぜか。これまでの威勢が良く、黙っていても日本語を学習したい人々がやってくる日本語教育がもはやないということ。これは現在の日本語教育を肯定しようが批判しようが、その議論を根底から無意味化させてしまう。くどくどと言わないが、何のことはない、ぼくの日本語教育もずいぶんと親方日の丸だったのだ。

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チームワークについて

2010-06-03 23:09:06 | today's focus
久しぶりのtoday's focus。

そろそろサッカーのワールドカップです。

先日の韓国との練習試合は日本の選手たちがぐたぐたで試合になりませんでした。日本代表はとくにジーコ時代はほんとうによくそんな状態になっていたのを思い出していました。サッカーの記事を読むと、ヨーロッパや南米のチームの監督が「規律」ということを強調することがあるけれど、あれは何なんでしょうね。チームの約束事を共有するということかしら。日本のチームで驚くのは、この約束事の共有ということがほんとうに苦手だということですね。1つの試合の中でも攻めるべきか守るべきかということすら共有できないみたいです。きっとサッカーは野球などとちがってあまりにも自由裁量の範囲が広いから、すべての選手が状況のなかで1つのことを共有することができないのかもしれません。でも個性の国と言われる欧米や南米はそれをなんなくやっているわけです。

私思うに、きっとチームワークの概念が日本とは違うのかもしれません。

日本で言うチームワークはまさに権威によって1つの約束事を受け入れさせるときに成り立つもので、十分な権威が示されないときはメンバーはばらばらな方向に進んでしまうわけです。それでもサッカーの選手は試合に出場する参加者playerなので、ときどき思い出して一人一人が自律的に共有の努力をすることができます。イングランド(イギリスではないところが面白いけど)との練習試合はそんな一瞬だったのかもしれません。杉本良夫さんとロス・マオアーさんの反日本人論の著書を開くと、日本人が集団主義だというのはあやしいものだとかかれていますけど、それも同じような趣旨かもしれないんです(我田引水か!)

さて、思うような結果が出せていない日本代表に対して観戦する側はあらんかぎりの批判を展開することが出来ます。なぜって私たちはplayerではなくaudienceだから。政治について、私たちはたまに選挙権を行使してplayerになるのですが、気分としてはきっとほとんどの時間は自分がaudienceであると信じているような気がします。国民は選挙の時以外は奴隷だといったのはルソーでしたっけ?なので、自分たちが選んだ人々が現実にぶつかってうまくいかなかったりすると、もうaudience気分で批判の嵐になる。「選んだ責任」といった概念はついぞ聞いたことがないのですね。私たちはだまされたんでしょうか?もしそうなら自分が騙されるほど愚かだったことを告白しているに過ぎないよね。努力をしてみたけれど目標を達成できなかったことは、努力をせずに目標を変えてしまうことよりもひどいことなのかな?もし選んだ責任が私たちにもあるとするなら、目標を達成出来なかったことを批判しながらも努力したことを認めるということがないと、私たちは政治的に未熟ということになるのではないかと思います。なぜならそれは市民としての、playerとしての自分の自覚が少しもないことになるから。

サッカーの日本代表の騒動と首相辞任とがまるで重なって見えてしまうのはとても悲しい。そう、もう1つ重なって見えるものがあります。500人の陪審員のやじや怒りの中で言葉を尽くして朗々と弁論を続けたあの道化師、そう、ソクラテスの状況が重なると言ったら大げさすぎるでしょうか?
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昨今日本語教師事情と有閑階級の理論?

2009-07-14 23:18:02 | today's focus
関東では梅雨明けとなった。

さて。

こんなことを言うと厭がられるかもしれないが、ぼくは仕事については運が良くてよく回ってくるほうなのだと思う。だから、国研の養成プログラムを終えた後は、大学の常勤のポストを渡り歩くことが出来たわけだ。優秀とかそんなこことではなく、やはり巡り合わせとか、人に恵まれたとか、そういった運や縁の結果なのだと思う。

ところで、今日は島田和子さんが書いているインターネットの新聞コラムをみかけた。

「日本語教育振興協会20周年」問われる日本語学校の未来ー教師の努力に大きく依存する日本語教育のあり方見直すべきとき」というものだ。

日本語学校の常勤講師の手取りの平均が21万程度だが、転職をして日本語教師になった人の78%は転職してよかったと答えているという。つまり、日本語教育は、待遇はよくないにもかかわらず熱意を持ち続ける教師たちによって支えられているが、留学生30万人計画が叫ばれている中で、こうした貧弱な日本語教育政策を続けていてよいのかという問題提起になっている。

この問題提起は、昨今の大学における日本語教員募集にも言えるだろう。任期制で延長なし、昇任なし、しかも助教で採用するという方式が急速に拡がっている。

おそらく日本語教育の理想など語る場所はどこにもないのだろう。ぼくはこのブログで役にも立たないことを夢想しているのだが、それはもしかしたら無遠慮で野蛮な「有閑階級」の営みなのかもしれない。

教育のインフラはいつかすっと立ち上がるときが来るのだろうか?
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形態はそれを使用する人が与える意味に従う

2009-04-21 23:46:12 | today's focus
先週から授業が始まる。雑誌投稿論文の校正も終わってあとは印刷されるのを待つのみ。

雨が降る前に帰ろうと自転車をこいだのが、途中で雨が降り出す。しかし雨粒は小さく、春の雨で、冷たくはない。しかし、みるみるうちに全身ずぶ濡れになる。

ぼくはもうずいぶん前からのMacユーザーなのだが、3月に街の本屋で見つけた『Macintosh名機図鑑』(大谷和利著、枻出版社、2008)の中で目にとまったのが上の言葉。

Macのデザインを長年手がけるジョナサン・アイブズについての説明なのだが、モダンデザインがバウハウス以来、形態は機能に従うとしてきたものを、アイブズは形態は(ユーザーがその製品に与える)意味に従う」として、個人個人のユーザーがさまざまなコンテキストでコンピューターに見いだす意味という、個人的な関係を重視したデザインをしているのだそうだ。

デザインについてはもちろん何も知らないが、モダン社会の言語学が追究してきた機能が形式を束ねているとする見方と、モダンデザインの言葉とはじつに並行関係にあるという気がしておもしろい。社会言語学でも、談話分析においても、機能分析がさかんに行われるわけだが、言語使用という現実はあってもそこには言語使用の主体がない。だから容易に機能分析は構造主義と手を結ぶことが出来る。

しかし、アイブズのように、言語の使用者が言語や言語使用にどのような意味を付与させるかに注目する立場に立つと、まったく新しい視界が開けてくる。人が言語使用を管理するとは、このような個人の言語に対する解釈や意味づけの作業のことなのだと考えると、言語管理理論はアイブズのポストモダンなデザイン論と似ているようにも感じられてくるはずだ。言語管理理論が前提にしていることは、こうした個人が解釈を拡げたり、新たな文脈を求めたり、あるいは回避によってべつな意味を示したりする、場におけるそうした言語使用の主体をとらえることなのだと思う。

もう一言言うと、こうした言語管理を通じて、コミュニケーションにおいて人はどのように自分を表示しようとするかという、極めてゴフマン的なポストモダン社会のテーマもまた視野に入ってくるのだと思う。
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『世界の日本語教育』休刊

2009-04-08 22:50:56 | today's focus
毎年この時期のブログを読みかえすと、いつも桜の花弁の散りかたについて書いている。今日も、じつは大学の桜並木から風もないのにおびただしい花弁がカーテンか滝のように散り続けているのを見た。中原中也との最後の思い出を小林秀雄が書いた短いエッセーに、鎌倉の寺の境内にある海棠は、あれはわざと花弁を散らしているのだ、何という静寂、何という完璧さ、と書いていたそんな感じもあった。しかし、無粋なことを言うと、それはなんだかむせかえる杉花粉のようにも見えて、鼻がムズムズしてしまった。

さて、表題のこと。昨年から編集委員を仰せつかっていた国際交流基金の雑誌『世界の日本語教育』が今回の19号をもって休刊となってしまった。国立国語研究所の日本語教育部門が解体されることになり、国際交流基金も必死に生き残り策を考えているらしいが、その一貫で、雑誌は当面休刊ということらしい。

ぼくのように海外で日本語教育を始めた人間にとっては、基金とその雑誌は、国研(あ、すみません、私もOBです)や日本語教育学会などの国内の日本語教育と違った風通しの良さを感じてきたこともあり、とても残念ではある。『世界の日本語教育』は教育研究、学術研究の両方をうまくバランスを取りながら、海外の教師や研究者の論文投稿を積極的に促進してくれたものであり、文字通り世界のさまざまな国や地域で行われている日本語教育のハブとなっていたはずである。

雑誌編集について、さらにpeer reviewの原則を強めたいと思ったりしていたのだが、今はそれもかなわない。

留学生30万人計画がすすめられつつあるこの時期、何ともチグハグな文化政策である。あ、そうか、ニッポンには文化政策などなかったんだった。
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I will listen to you, especially when...

2008-11-05 23:15:49 | today's focus
"There will be setbacks and false starts.
There are many who won't agree with every decision or policy I make as president. And
we know the government can't solve every problem.
But I will always be honest with you about the challenges we face.
I will listen to you, especially when we disagree."
(Barack Obama, 4th November 2008, Chicago)

彼の未来に幸あれ!
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