「長崎港図」 出島は扇形の人工島
◆出島の誕生
寛永13年(1636)江戸幕府はポルトガル人によるキリスト教布教を禁止するため、
人口島を築きそこにポルトガル人を収容しました。
この人工島が「出島」 です。
その後、「鎖国令」 によりポルトガル船の来航は禁止され、一時、
無人島となりましたが、寛永18年(1641)、「平戸のオランダ商館」 が、
出島に移転。それ以来、安政6年(1859)までの218年もの間、出島は
西洋に開かれたわが国唯一の窓口でした。
出島は、鎖国時代の貿易、文化の拠点、
世界を知り、日本を紹介する国際文化の舞台だったのです。
「※ カピタン部屋」
カピタン部屋は、「オランダ商館長」 の事務所であり、住居でもあります。
また、大名などが出島を訪れた時の接待の場としても使われました。
カピタン部屋の中は、正に「和蘭融合」 の世界、
中でも私が心を奪われたのがそれぞれの部屋に使われている、
様々な模様の「壁紙」です。
建物の骨組みは木造の日本建築の様ですが、そこにはめられた建具、
その色、そして、壁に張られた唐紙は、模様も大胆で、色彩も豊かです。
このカピタン部屋で、和・蘭の貿易等の交渉や友好の宴が繰り広げられて
いたのですね。
窓の外は…
長崎電気軌道の路面電車が走っていきます。
鎖国時代、出島が国際文化の舞台だった頃は、
窓の外には海が大きく広がり、沢山の異国の船が出入りしていました。
カピタンは遥か彼方を眺めながら、時には母国を思ったこともあったのでしょうね。
今、沖へと退いた出島辺りの海沿いは、複合商業施設「出島ワーフ」が出来ています。
(※カピタン: 元々はポルトガル語で、仲間の長の意味。日本は一番初めに
ポルトガルと南蛮貿易を開始したため西洋の商館長をカピタンと呼ぶように
なった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったがカピタンと
いう呼び方は変えなかった。)