kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

花ミモザ

2023-03-27 16:33:24 | 歴史

 

 

 

赤レンガの茶房に揺るる花ミモザ

 

 

和菓子店が出した洋菓子店で

バウムクーヘンが人気のお店があります

 

近江八幡の八幡堀の近くにも、そのお店があり

赤レンガ越しに大きなミモザの木が見えます

 

お茶とおかしを注文して、テラス席へ

モネの絵に似せたような小さな池のふちにミモザの木

 

この近くには、日牟禮八幡宮や八幡山とそのロープウェイ

山頂には「村雲御所瑞龍寺」「八幡山城跡」

 

八幡山城主は 「豊臣秀次」

信長の安土城落城後、三年目に築きました

本丸、西の丸、北の丸、出丸、秀次館、家臣たちの館などの名残の

石垣や曲輪跡があるのみです

この「北の丸」は、石垣とうっそうと茂った木のある山道で

暗くて寂しい所で、早く抜け出たいと思ったのを覚えています

 

本丸跡にある「村雲御所」は、秀次の菩提寺です

秀吉の姉であり、秀次の母である「瑞龍院日秀尼」が創建

元は京都にありましたが、昭和36年ここに移されました

 

豊臣秀次は大河ドラマでは「真田丸」

「新納慎也」さんが演じられましたね

 

この方「鎌倉殿の13人」では源頼朝の異母兄弟

「阿野全成」の役でしたね

雨、雷の中で呪文を続けるも殺されました

最期は呪文が雷を呼んだような…

ドラマ2本とも最期は殺される役でした

 

「どうする家康」にも秀次登場あり!と思うのですが

さて、どんな秀次が…

 

やはり、身内に追い詰められ自害、殺害が多いですね

戦国時代は、こわい時代です

 

時代劇のロケ地の定番「近江八幡」

歴史があります

行くたびに発見があります

 

 

 

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銀閣寺

2018-04-19 19:01:15 | 歴史

 

銀閣寺(慈照寺)に行きました

 

 

 銀閣(観音殿)~国宝

 

渋いです、 侘び寂びの世界

 

よく金閣寺と比べられますが、どちらがお好きですか?

 

 

文明14年(1482)  足利義政が隠居生活をするために

「山荘東山殿」の建立を手掛ける

(その東山殿が、のちの銀閣寺となりました)

 

これ以前、京の町は応仁の乱で、10年以上戦が続いていました 

1477年頃、なんとか戦は収まったものの京の町は焼野原、荒れ果てていました

 

戦乱で東軍西軍の助っ人に、日本各地から守護大名が集結していた間に、

国元も、その東西対立のいざこざが起こっていたみたいです

 

そのいざこざは、戦国の世という名で、

150年もの長きにわたり続いたことを思うと、

応仁の乱の張本人、足利義政という方は罪な方です

 

政治には、まるで無頓着であるけど芸術的センスは抜群の文化人が

 足利義政

 

そんなお方が建立した山荘東山殿

 実は、祖父である義満は金閣寺を建てていて、

憧れのおじいちゃんの真似をしたかったらしい

 

それで、金閣(舎利殿)に倣って観音殿(銀閣)を建てました

 

 

銀閣の前の「向月台」と「銀沙灘・ぎんしゃだん」

 

向月台

 

銀閣といっても、銀箔を施す予定はなかったというのが本当で、

応仁の乱で、財力が無くなって、銀箔無しになった

ということはないのです

当時の文化人第一人者だったかもしれない義政は

侘び寂びの質素さを大切にした人だったのですね

 

でも、建立には相当な資金が必要で、戦で底をついた幕府の財政では

何ともなりません

結局は、京の町人にお金と労働力を求めた。

という少数意見を見つけたのですが…

京都の町人が、東山文化の担い手の一部になっていたと考えると、

嬉しい気持ちです。

が、本当のことは、分かりません

膨大な古文書を紐解けば、また、色々な意見も出て来るのでしょうね

 

10年以上の戦で、家を焼かれ町を逃げ回った人達よりも、

自分の別荘を建てることの方が、たいせつだったのでしょうか…

 

今の財務省や政府の偉~いお方もひどいけど…

義政さん、政治ほったらかし、風流三昧

許せないなあ~

 

ただ、その「山荘東山殿」は「銀閣寺」というお寺となり、

 

今、世界中の人達が続々とやって来ています

 

 

 

 

お茶の井

 

 

 

 

 左大文字山

京都盆地の北西にあり、この山の麓に金閣寺があります

 

 銀閣寺の庭園の展望所から見ました


 

 

 

 

東求堂(とうぐどう)~ 国宝

北面に配置された四畳半は、

「同仁斎」と呼ばれ、草庵茶室の四畳半の間取りの始まり

 

 

銀閣寺垣

私は何も知らなくて、椿のあまりに見事なのにだけ目を奪われました

 

この参道の片側は椿の足元を竹垣で覆ってありました

下から石垣~竹垣~生垣(椿)

その見事な調和が見どころだったようです(^_^;)

 

 

金閣寺に比べ、確かに地味で境内もそんなに広くはないですが、

いいお寺です♪

 

 

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鞠と殿さま

2018-04-15 16:57:45 | 歴史

 

 和歌山城天守には、手鞠を模したシャンデリアが吊られていました♪

 

 

童謡 「鞠と殿さま」

 

てんてんてんまり てん手鞠

てんてん手鞠の 手がそれて

どこからどこまで 飛んでった

垣根をこえて 屋根こえて

おもての通りへ 飛んでった飛んでった

 

おもての行列 なんじゃいな

紀州の殿さま お国入り

金紋先箱 供ぞろい

お駕籠のそばには ひげやっこ

毛槍をふりふり やっこらさのやっこらさ

 

てんてん手鞠は てんころり

はずんでお駕籠の 屋根のうえ

もしもし紀州の お殿さま

あなたのお国の みかん山

私に見させて くださいなくださいな

 

お駕籠は行きます 東海道 

東海道は 松並木

とまりとまりで 日が暮れて

一年たっても もどりゃせぬ

三年たっても もどりゃせぬもどりゃせぬ

 

てんてん手鞠は 殿さまに

抱かれてはるばる 旅をして

紀州はよい国 日のひかり

山のみかんに なったげな

赤いみかんに なったげななったげな

 

     

 

子供の頃、この歌には想像をかき立てられたものです

 

大名行列に先だって、声が聞こえてくる

 

「下に~~下に、下に~~下に」 

 

街道の端に土下座する

お殿様たちの着物もキラキラときれいで 

髭やっこさんは、毛槍を高くほりあげて

 

ある時、女の子の遊んでいた手鞠が、行列に飛び込んできた

 

女の子の手からこぼれて飛んでった手鞠は、お殿さまが拾い上げ

長い道中をお殿様と旅して、紀州のお国まで連れられて、最後に、

 

”赤いみかんに なったげななったげな♪”

 

と、めでたしめでたしのオチがついてる結末 …ですよね?

 

ただ、江戸時代、徳川御三家のひとつ紀伊家の参勤交代の行列なら

鞠が飛んできた、女の子がそれを追いかけて行列の中に…

これは、お手打ちになってもおかしくない状況

 

この歌のように、穏便にことが済む訳がない…大変!

 

行列の規模がまたすごい 

 

たとえば、天保12年(1841) 紀州徳川家の参勤交代時の大名行列の規模

武士 1639人

人足 2337人

馬 103頭

 

これだけの行列が通り過ぎるまで、

道に伏せてじっとしていないといけなかったんですね~

 

 

 

 

 

以前、紀伊田辺に行った時、町の中を歩いていましたら

紀州手鞠を作る教室の看板が掛かった家を見ました 

手鞠は和歌山の伝統工芸品に、なったのですね

 

そもそも手鞠はといいますと、 

平安時代末期頃から、御殿まりとしてお姫さんたちにとって大切な物でした

 

紀州てまりは初代紀州藩主徳川頼宣のころから

御殿女中が幼くして嫁いだお姫さんのために作られていたそうです

 

そのお女中が宿下がりをした時、自分たちの娘のためにも作ったのが

城下の人々に広まったようです

 

昔、手鞠は、はまぐりなどの貝殻に砂や小石を入れて

真綿でくるんで絹糸でかがったものもあったとか

振ると、カラカラなのか、サラサラなのか、音がしたのでしょうね

とにかくゴムまりの様には、ポンポンはずまないでしょうね

 

 

天守閣前の広場に、「鞠と殿さま」の歌碑がありました

 

 

 

 

写真1「紀州手鞠・画像」の画像検索結果

 

見事ですね♪

 

 

 

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和歌山城

2018-04-09 17:32:54 | 歴史

 

 

 

前から行きたかった、和歌山城に行ってきました

徳川御三家のひとつ紀州徳川家のお膝元ですね

 

元和五年(1619) 家康の十男である徳川頼宣が初代紀州藩主となる

(55万5千石)

以降、八代将軍吉宗

九代家重

十代家治

十一代家斉

十二代家慶

十三代家定

そして、十四代家茂(慶福)

と、紀州徳川家からの将軍がこんなに続いていたとは、知りませんでした

 

大河ドラマ「西郷どん」の今は十三代家定(又吉直樹)ですね

そして、十四代目を、ひー様(松田翔太)で、と島津斉彬公が推してますね

 

 

さて、 

入城口

天守に上がりますと、海が見えました♪ 

 

 

 

右から、紀の川が海へ注ぎ込んでいきます

この紀の川が自然の要塞になったとのことです

 

紀の川は奈良県の大台ケ原を源流とし、

ぱっと、地図で見ると和歌山市、和歌山城の北側を

ぐるっと囲い込む様に流れていますもんね

 

 

写真の左の方に、「和歌の浦湾」

沖は、紀伊水道

大阪京都方面なら、南海電車に乗って、和歌山港駅へ

そこから南海フェリーで、南海四国航路へ

淡路島の南の沖を南西へ、四国の徳島港駅へ行けるみたいですね~♪

 

南海フェリーは国内でも稀な “鉄道連絡船”だそうですよ
 
 
上の写真で、もうひとつ

河口に紅白の煙突などが見えますが、「新日鐵住金和歌山製鉄所」です

 

 

 

天守閣は「虎伏山・とらふすやま・48.9m」に建っています

三重三階、階段でのぼりました

  

天正13年(1585) 

羽柴秀吉が紀州・和泉を平定し、弟の秀長に和歌山に築城を命ずる

普請奉行は、藤堂高虎らで、初めての「近世城郭」を一年で完成させる

 

 

  

石垣

豊臣の時代は「野面積」

 

自然石を切り出したままの形で積み上げる

使われている石が、特徴的で「紀州青石」と呼ばれる(緑色片岩)

あちこち、青緑色っぽく見えますでしょ?

 

 

 

敷石も緑色片岩ですが、これはいつ敷かれたのか…?

 

天守閣

・寛政10年、黒板張りだったのを白壁の天守に改築

・弘化3年、落雷で焼失

・嘉永3年、再建(ほぼ元通り)

・昭和20年、空襲で焼失

・昭和33年、復元(鉄筋コンクリ―ト)天守内は博物館

 

鎧兜、武器、などの展示の中で、気になった物もありました

それは、次のブログに書かせて頂きます

 

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彦根に行ってきました

2017-10-10 16:46:38 | 歴史

 

 

 月に一度のクラブ活動です

 

今回の遠足は、彦根城下を散策しました

 

先ず行ったのが 「曹洞宗・天寧寺・テンネイジ」

 

井伊家ゆかりのお寺です

 

アクセスは、JR彦根駅を挟んで、お城のある地域とは反対側へ(東側)

 

路線バスなら、簡単に行けそうですよ♪

 

今回は歩きました

 

急な坂を少し登ると小高い山の中腹に天寧寺はありました

 

 

羅漢堂(仏堂)

 

天寧寺は井伊直弼の父、井伊直中が建立 文政5年(1822)頃の創建 

 

 

五百羅漢

 

~自分の探し求める人に会える~

 

羅漢堂の本尊は、「釈迦如来」

その両脇には、「十大弟子」

堂内には、「十六羅漢」と「五百羅漢」、併せて527体

 

 

 

 

すべてのお顔を見るのは無理でしたが、前列に「稀勢の里」に似た様な… 

 

 

羅漢さんは所々に安置された頃の絵の具の色が残っていて、

当時は、鮮やかな雰囲気だったと思います

でも、朽ちた雰囲気も好きですけどね

 

 

五百羅漢さんに番号が付いていて、前列右の方が一番

どの羅漢さんにも「〇〇〇尊者」と書かれているようです

最上段なんか、見えないんですよ

今度は双眼鏡を持って行きますか!

  

とにかく、堂内は圧巻でした

 

 

 

羅漢堂の真裏には布袋尊が

 

背が1.2m、重さ300kgで木造日本一だそうです

 

皆さん、撫でて行かれるのかな? 

 

私も、分からないまま右ひざを撫でさせてもらいました

 

 

 

こちらは本堂(法堂) で前庭は羅漢石庭 

 

 

このお寺の創建には、ちょっと複雑な訳がありまして…

 

井伊直中(直弼の父)が、自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の

 

菩提を弔うため、寂室堅光禅師により建立されました

 

文政2年(1819)の春、 男子禁制の槻御殿(現在の楽々園)で

事件が持ち上がりました

奥勤めの腰元の若竹が子を宿しているらしいという噂が立ち、

それが藩主の耳にも届いたのです

大奥の取り締まりのためにも相手の名を詰問したが明かさず、

遂に不義はお家の法度、の掟に従い手打ちとなりました

 

後に、それが我が長男の直清だと分かり

直中は知らなかったとはいえ、大層心を痛め

若竹とお腹にいた子(初孫)の追善供養のため、

京の大仏師駒井朝運に命じ、五百羅漢を彫らしめ安置させたのでした

 

と、彦根藩大奥物語があった訳なんですね…

 

境内には、他に井伊直弼公供養塔、腹心だった長野主膳の墓、たか女の碑があります

 

世継ぎ問題は、どの藩も重大事項で、井伊家もご多分に漏れず

 

超大変

 

直清は嫡男、直弼は14男らしいですが、最終的には

直弼が13代彦根藩主となり、後には江戸幕府の大老ですものね~

人生なんて分からんもんです

 

ところで、天寧寺のお坊さん(ご住職かな)にお話を聞きました

 

現在全国で上映中の 「関ヶ原」

この映画のロケ地になったそうです

三成が秀吉に初対面で、お茶を振る舞った有名な話

「三献の茶」

このシーンを五百羅漢の前で撮影されたそうですよ

他に、延暦寺、日吉大社、百済寺、彦根城、姉川河口、愛知川などなど

 

司馬遼太郎原作、原田眞人監督で

 

愛と野望が激突!だそうです

 

どんなんかなあ~

 

 

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祇園祭と神功皇后

2017-07-27 16:36:16 | 歴史

 

 

祇園祭の後祭りも終わりましたが

 

行事は、7月28日の神輿洗や、31日の夏越の祓など、あと少し続きます

 

夏越の祓は町内の代表が八坂神社にお参りし茅輪くぐりを行ない、これで、

 

今年の祇園祭行事は終了します

 

 

 

ところで、山や鉾にはご神体が祀られているのですが、

 

その中で三基、神功皇后を祀っているものがあります

 

それは船鉾、大船鉾、占出山です

 

そしてこれがストーリーになっていて、

 

 

 

 

 

 

≪占出山≫

神功皇后が三韓征伐のため新羅に向かうのに先立ち

肥前国松浦郡玉島川で釣りをして吉兆を占ったところ鮎が釣れました

これは戦勝の兆しを示すものとされます

この「日本書紀」の話を題材にしています 

 

 

 

 

 

≪船鉾≫

 

そして船はいざ出陣ですが、

その時のことを題材にしたのが船鉾です

外征の時、皇后は妊娠中でした

それが所以で安産の神とされ、おなかには岩田帯(腹帯)を巻きます

それも、たくさん巻いてあり、それは後に、安産のお守りとして

妊婦さんに授けられるそうです

 

何故こんなにまでして、神功皇后は出陣したのでしょうね~

それは、

夫の仲哀(チュウアイ)天皇が熊襲(クマソ)征伐の最中、急死し、そこで皇后は

三韓征伐に武内宿禰を従え出陣したのです

どうやら、天皇は三韓征伐は反対だったようで、急死は祟りのせいという説も

 

 

≪大船鉾≫

(後祭りは行かなかったもので写真がないのです)

 

祇園祭の後祭りで最後を行く大船鉾、巡行の大トリです

これが、神功皇后の凱旋の様子を表しています

 

前祭の船鉾の出陣船鉾と、大船鉾の凱旋船鉾

特徴ある鉾の姿は、いいなと思います

 

女性天皇や天照大御神(岩戸山)をご神体にした山鉾もあるのですが、

鉾の世界は、未だに男世界、男尊女卑なところがあります

どちらかといえば、大昔のほうが平等だったかもしれません

ひょっとして、士農工商の階級が出来た頃から女性が下に見られるように

なったのかなあ?

 

全国のお祭りで男子の後継者が少なくて、

女性も参加するようになってきていますが、祇園祭もそういうところが

あるようです

長刀鉾のお稚児さんと禿は絶対男の子ですし、

お稚児さんに決まった男の子のお母さんは、お祭りの間

子供の世話も、子供に触れることも出来ません

 

こういったしきたりは、当然のこととして守られ、

反対する空気がなかったのかもしれませんね

 

さて、これから先はどうなるか分かりませんが、

千年以上続いてきたお祭りですし、更に守られてほしいです

 

 

 

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蒲団(布団)

2017-02-25 00:55:18 | 歴史

 

 

蒲団着て寝たる姿や東山   服部嵐雪

 

京都は三方を山で囲まれ、特に東山三十六峰はなだらかな山並みです。

 

一番北にある一番高い「比叡山」から南へと続きます。

 

その比叡山を寝ている人の頭と見立て詠まれた俳句は、子供の心にも訴えてきました。

 

子供の頃、有名だったと思います。

 

嵐雪は、江戸時代の人

 

淡路の武家の出で、芭蕉はお弟子さんである嵐雪を、高く評価していたそうです。

 

あ、実は「蒲団(布団)」の事なんですけどね。

 

昨年私は、蒲団(布団)が冬の季語だとは知りませんでした。

 

それで、季重なりの句を詠んでしまいました。

 

カメムシや布団干したる今日の悔い

 

この句詠んだのも、悔い。

 

 

さてこの蒲団は?  ↓

座蒲団が直虎さんの部屋にも置いてありました。

 

この原料は?

 

 蒲団の起源があって、 

 

「蒲団(ふとん)」とは、かつてはガマ(蒲)の葉で編んでつくった座禅用の丸い敷物。


鎌倉時代に中国から、禅宗と一緒に伝えられました。


座布団から始まっているのですね。


私たちがイメージするようないわゆる柔らかい綿入りのふとんが


庶民一般に普及し始めたのは昭和以降。

 

それまでは、綿布団はごく一部の富裕層しか買えない高級品でした。 

 

 

「むしろの画像」の画像検索結果

莚(むしろ)

 

かつては、むしろを掛けたり、小屋に積んだ藁(わら)にもぐって寝たそうです。

 

そう言えば、何回か前の「おんな城主直虎」の中で、

 

ムロツヨシさん演じる、村人?が、藁を積んだ中に入り込んで寝ていた、あれですね♪

 

 綿の原料はと言うと、

 

 初めて日本に木綿の種子がもたらされたのは、延暦18年(799)の頃、

 

平安時代の初めですね。


しかし最初の栽培はうまくいきませんでした。


ついで栽培の行われたのは室町末期の戦国時代。

 

栽培に成功し、京都へ持ち込まれます。


戦国時代に木綿の栽培が成功して、日本の各地に拡がりました。

 

しかし、日常使いとしてよりも戦のための物でした。


武具や陣幕、旗の他に、火縄銃の火縄の材料として重要とされていたのです。  

 

そんなこんなで、昭和時代以降にようやく、ふとんは庶民にまで普及し始めました。

 

エッ、そんなに最近? と思いませんか?

 

  

思えば、祖母や母は綿を打ち直し、また蒲団に仕立て直していた事が有りました。

 

綿は高級なものだったのですね。

 

「蒲団」 が冬の季語だという事、ガッテンガッテン!

 

冬以外は、貴重品の布団は使わなかったのかもしれませんね。

 

今は、羽毛布団の消費もドンドン伸びているのではないかと?

 

鳥さん、酉年なのに、ごめんなさい…

 

大切に使わないと。

 

 

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近江坂本

2016-11-06 18:43:16 | 歴史

 

 

滋賀県大津市坂本

 

坂本というのは滋賀県側の比叡山の麓の門前町です。

 

 

  

 

 

「穴太衆積み」の石垣を巡らした「里坊」の並ぶ街並みが特徴です。

 

「穴太衆」というのは、比叡山延暦寺の土木工事を古来より勤めていた人達で

その高い技術で里坊だけでなく神社、古民家などの石垣を造ってきました。

この石積みの特徴は加工しない掘り出したままの石を巧みに組み合わせ、

積んで行きます。

 

穴太衆が言うには、

 

『ここに積んでくれ。と石が話しかける。』 とか。

 

 

坂本にある日吉神社の参道には穴太衆積みの遺構がずらっと並んでいます。

 

「里坊・さとぼう」というのは比叡山延暦寺で修行を積んだ偉~いお坊さんが

天台座主から寺を賜り隠居生活をした、それが里坊です。

 

 

こちらはそのひとつ「滋賀院門跡」

 

延暦寺の本坊で、代々天台座主の御座所でした。

穴太衆積みの上に五本の線の入った門跡特有の白壁が風格を感じさせます。

 

こちらも滋賀院門跡です 。

徳川家光が小堀遠州に命じて造られた庭や、狩野派の障壁画が残っています。

 

 

 

 

織田信長による比叡山の焼打ち、廃仏毀釈などで、里坊もそれぞれ

過酷な道をたどって来ました。

 

80ほどあった里坊も今あるのは52となりました。

 (明治維新後にそれまでの神仏習合を廃して神仏分離が進み廃仏毀釈が発生した)

 

 

 

千余年の歴史を秘めた比叡山延暦寺の山坊、麓の坂本の里坊、

 

共に戦国時代に焼失しはしたものの、江戸時代以降再建され、

 

今は国の伝統的建造物として、守られています。

 

 

 

 坂本の町から東を見ますと、琵琶湖が。

 

空も湖も静かな一日でした。

 

 

乱世越え比叡里坊水澄めり

 

二つ三つ洞冷まじき穴太積

 

 

 

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比叡山延暦寺

2016-10-21 17:29:35 | 歴史

 

 

 

 

琵琶湖八景のひとつ  「煙雨比叡の樹林」

(近江八景としていましたが、琵琶湖八景が正しいです。申し訳ありません。)

 

 

先日 比叡山を訪れた時、正にその光景を見ることが出来ました。

 

 

 

 

 

 

比叡山延暦寺(天台宗)

 

延暦七年(788) 

伝教大師・最澄が一乗止観院を建立し、薬師如来を安置したのが始まりです。

 

標高848m、西に京都、東に琵琶湖を望む比叡山は、

 

平安京の鬼門(北東)を守る山で、仏教のスーパースターを輩出しています。

 

鎌倉時代以降

栄西、道元、親鸞、法然、日蓮、一遍はここ天台密教の地で修業したのです。

 

究極の修行と言ってもいいくらいの 「千日回峰行」は

 

この霊山と京の町をひたすら歩き続け、断食の行「堂入り」に至る過酷なものです。

 


 比叡山は僧兵の拠点としても有名ですが、

 

織田信長による全山焼き討ちをはじめ、幾度も災害に遭いました。

 

豊臣氏、徳川氏、天海大僧正の尽力でその都度再建されています。

 

現在の延暦寺の総本堂、「根本中堂・こんぽんちゅうどう」は

 

徳川家光(三代)により1641年(寛永19))に完成しています。

 

1994年、古都京都の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録されました。

 

比叡山延暦寺の住所は滋賀県大津市坂本本町なんですけど、京都の世界遺産なんですね~

 

 

 

根本中堂(国宝)

 

 

 

 門より奥は撮影禁止でした。

 

「不滅の法灯」

 

ここには1200年にわたり法灯が灯し続けられています。

法灯は3基、火が消えないよう菜種油を注ぐのも修行と言われています。

 

「油断大敵」

うっかりして油を切らし、火が消えるようなことがあってはいけない。

このことからこの四文字熟語が出来たと言われています。

 

 

大講堂(重要文化財)

 

本尊は大日如来

 

ここは僧侶が勉強をする所で、

経典に記されたことに対して問答形式で僧侶の試験が行われます。

 

本尊の祀られている前の左右の高い位置に

向かい合って台座が設けてあります。

そこに試験官の僧と受験生の僧が向かい合い、

 

一休さんのアニメでも見たことのある、

「そもさん!  せっぱ!」

が繰り広げられます。

 

そもさん(作麼生) は、 如何に、とか さあどうだ

せっぱ(説破) は 答えてみましょう


 

お堂正面の右陣左陣には各宗派の宗祖の木像が祀られていました。

そして壁面には、延暦寺歴代の僧侶OBの肖像画、とても大きなのが

掲げてありました。

この肖像画、結構すごいんです。

 

根本中堂にも引けを取らない立派なお堂でした。

 

 

昼ごろには霧も晴れ、次第に見晴らしもよくなってました。

 

 

根本中堂

 

大講堂

 

 

 御坊さまが境内を移動されてるところに出会えて、

 

京都市東山区の泉涌寺に引き続き、ラッキーでした♪

 

 

 

 

御坊さまに案内して頂きましたが、ユーモアを交えて有意義なお話でした。

  

 

今年の1月に詠んだ句がありました。

 

霊山に夕霧這うや回峰行

 

 

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杜の都は、今も…

2015-12-17 11:49:07 | 歴史

 

仙台城(青葉城)の本丸跡に立つ、伊達政宗騎馬像

 

 

視線は城下へ 

 

 

本丸跡の礎石

当時の本丸は諸大名の城郭の中でも最大級であった

 

 

とても高く頑強な石垣

断崖絶壁、そのものです

 

 

仙台市西北の方向 

 

 

東は広瀬川を臨む断崖、西は山林「御裏林」、南は竜ノ口渓谷

山、川、自然の地形を巧みに利用した山城 

 

バスは詰ノ門跡まで上がってくれたので、楽でしたが

全部自分の足で辿るとすれば、相当しんどいはずです 

 

 

 

仙台城は、地震などの被害もありながら修復を繰り返し、

廃藩置県、廃城まで伊達氏の居城として要塞として存在しました

 

明治初期から大正時代、ここは軍の本営となり壊され、

石や木を兵舎建設に 使ったり、

わずかに残った遺構も第二次世界大戦の時、米軍の仙台空襲で、

ことごとく失ってしまいました。

 

 

仙台市街を眼下にして、

 

伊達政宗は、自身の納める城下すべてに目が届く、

 

すべてを見守れる、

 

そんなお城造りを目指したのだなと思いました。

 

『 梵天丸も 斯くありたい 』

 

青葉城から政宗に見守られた、杜の都は健在でした

 

 

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