礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

連合国最高司令官の許に使者を派遣せよ(米国政府)

2021-08-24 01:51:11 | コラムと名言

◎連合国最高司令官の許に使者を派遣せよ(米国政府)

 ここで、「マニラ使節」(降伏使節団)の話に戻る。
 本日以降、河辺虎四郎著『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介してゆきたい。同書の著者・河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)は、敗戦時の参謀次長・陸軍中将で、「マニラ使節団」の団長を務めた(一八九〇~一九六〇)。
 なお、同節の末尾、「不時着事件」のところは、今月三日および四日に、当ブログで紹介済みである。

    第六節 マニラへの使節

 使節きまるまで
 八月十六日米国政府からつぎの要旨の通告が電報された。
《A 直ちに連合国最高司令官の許に使者(複数)を派遣せよ。この使者はつぎの諸要件を備えなければならぬ。
  a 日本軍隊および司令官(複数)の配置に関する情報を持つこと。
  b 連合国最高司令官およびその同行する軍隊が、正式降伏受理のため、連合国最高司令官の指示する地点に到着し得るよう、連合国最高司令官の指令する打ち合わせをなすべき十分の権限が与えられてあること。
 B 降伏の受理およびこれが実施のため、ダグラス・マッカーサー元帥が連合国最高司令官に任命せられた。同元帥は正式降伏の時、場所およびその他詳細事項に関して、日本政府に通報するであろう。》
 別に連合国最高司令官の名をもって、日本国天皇、日本国政府および日本国大本営宛として、つぎの趣旨の通告が送られた。(飛行の技術上の細部省略)
《連合国最高司令官は、日本国政府に対し、フィリピン・マニラ市にある連合国最高司令官の司令部に、日 本国天皇、日本国政府、日本国大本営の名において、降伏条件を遂行するため必要なる諸要求を受領するの権限を有する代表者を派遣することを命ずる。
 右代表者は、到着とともに、連合国最高司令官の要求を受領するの権限が与えられていることの天皇の証明文書を、連合国最高司令官に提出しなければならぬ。
 右代表者は、日本国陸軍、日本国海軍および日本国空軍をそれぞれ代表する権限ある顧問を帯同するものとす。
 前記代表一行の安全航行の手筈は、つぎのように定められる。
 右一行は日本飛行機により、伊江島の飛行場にいたり、同地より米国の飛行機によりフィリピン・マニラに輸送せられるものとす。右一行の日本への帰還も、同様の方法によるものとす。
 右一行の飛行機は一九四五年八月十七日東京時間午前八時より十一時の間に九州佐多岬の線を出発するものとす。》
 この日、以上の二つの敵側からの通告によって、マニラ行きの使節の選定が、当然当局者の問題となってきた。
 私は、この使節の任務が、降伏文書に調印する程度の高級な地位を要するものであるならば、陸軍側としては〔梅津美治郎〕参謀総長が、これに当たるのが妥当であろうと信じたので、自ら総長に意見を述べたが、なかなか引き受けようとの意志も表明されない。そこで、私は土肥原〔賢二〕大将および杉山〔元〕元帥に頼んで、総長の説得方尽力を求め、土肥原、杉山両大将も一応梅津総長を説いたが、総長はいろいろの理由で承知をしないのであった。だが、この使者の任務が、比較的軽易な事、たとえば正式調印日までの予備的行為の打ち合わせ、または書類伝達の如きであるならば、次長級ぐらいが適当であるかも知れない。そうなれば、かつて大西〔瀧治郎〕軍令部次長とも〝降参だけはしたくないものだ〟と語り合ったあの晩もあったが〝忍び難きを忍ばねばならぬ〟と詔書のお言葉をそのままに下僚に求めながら、口惜しいからなどとの感情で使命を回避する気にもなれない。いずれにせよ、明十七日の出 発は不可能であることを通告するとともに、使節の任務を明確にすることが必要だとされ、政府および大本営の名をもって、二つの電報が連合国最高司令官宛に発せられた。
 その一は、「‥‥八月十七日わが方代表者の飛行方を取り計ろうことは不可能なり‥‥直ちに必要な準備に着手する‥‥派遣期日は追って通告する‥‥」の意であり、その二は、使節の任務について二方面の通告の間に差異あることを指摘し、「委任状ニ差異アル故、何レカ明確ニセンコトヲ希望ス」との意を含めた通電(第四号)であった。
 十七日午後、連合国最高司令官発で、大本営宛つぎの趣旨の電報が来た。
《八月十六日付貴電第四号に関し、降服条項に署名することが、マニラに派遣せらるべき日本代表の任務に含まれおらずと憶測せられたるは正確である。本司令部よりの指令は明瞭にしてこれ以上遅滞することなく応ぜらるべきである。》
 右の文意でも窺われる如く、先方では、日本側がなんとか押問答をして、使節の派遣を遅らせようかと、ないしは何事か小策を弄するものと解釈するかも知れんとわれわれは考慮した。
 前記の敵側の回答によってマニラへ使節の立場が明らかとなり、かねて陸軍省側で使節団の人員選考の仕事に従っていた永井八津次〈ヤツジ〉少将が私の意向をたずねに来た。私は即座に〝上司が私でよろしいといわれるなら行きます〟と答えた。
 随員の選定については、先方の要請条件もあり、陸軍は陸軍省および参謀本部から適任者を出すこととし、海軍側及び外務側からも適当な随員を選定してもらうこととした。
 十七日夕刻にいたりつぎの趣旨の電報を連合国最高司令官に宛てて発せられた。
《(第七号)
 わが方のマニラに赴くべき代表の人選決定した‥‥八月十九日東京出発の予定‥‥詳細追報》
 八月十八日朝までに、陸軍側の随員選考漸く確定した。それまでに一部の人が私を相当にてこずらせたのであったが、結局つぎの七名が行くこととなった。
  天野〔正一〕少将(第二課長) 山本〔新〕大佐(第六課長) 松田〔正雄〕中佐(第二課、航空)
  南〔清志〕中佐(軍事課)  高倉〔盛雄〕中佐(軍務課)
  大竹〔貞雄〕少尉および竹内〔春海〕少尉(ともに通訳要員として第二部より) 【以下、次回】

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