◎17日、東久邇宮殿下参内、閣員名簿を捧呈
極東軍事裁判研究会編『木戸日記――木戸被告人宣誓供述書全文――』(平和書房、一九四七年一一月)に拠って、七十六年前の今ごろを振り返っている。本日は、その一〇回目(最後)。
三二〇 東久邇宮殿下に大命降下 昭和二十年八月の翌十六日午前十時陛下は東久邇宮〔稔彦王〕殿下を御召になりました。殿下は参内被遊、組閣の大閣の汰命を拝受したのでありました。近衛公も十時半に来庁せられ、殿下より近衛公に対して入閣の御依頼がありました。近衛公は御受けして直ちに殿下の御相談相手になられたのでありました。私の其の日の日記は次の如く述べてあります。
昭和二十年八月十六日
「午前八時半大金次官ノ来室ヲ求メ殿下御組閣ニツキ部屋等ノ打合セヲナス。九時四十分東久邇宮殿下御参内。十時ヨリ十時五分迄拝謁(御文庫)十時十分殿下組閣ノ大命ヲ拝受被遊〈アソバサル〉。十時半近衛公来庁。殿下ヨリ入閣ノ御依頼アリ。御受ケシ直ニ御相談相手トナル。大綱ノ決セラレタル処赤坂離宮ノ一部(東側)拝借。組閣本部トセラル。
一時五十分ヨリ二時十五分迄拝謁。四時若槻〔礼次郎〕男来室面談。
九時五分ヨリ二時十五分迄御文庫ニテ拝謁。組閣ノ経過ヲ言上ス。
今暁三時頃六、七名の者和田の宅へ来りしと。中々不穏なり。」
三二一 東久邇宮内閣成立 翌昭和二十年八月十七日午前十一時東久邇宮殿下御参内せられました、閣員名簿を捧呈し、直ちに御嘉納あらせられました。此日平和への第一歩として東久邇宮内閣は発足したのでありました。同日附私の日記は次の如く記載してあります。
昭和二十年八月十七日
「余ハ官舎ニ至ル。数日前鶴子等引越シ来ルナリ。入浴等セル中ニ役所ヨリ電話ニテ水戸ヨリ二百名程ノ兵ガ上京シ不穏ナル故帰庁セヨトノコトナリシ故四時帰庁ス。四時半東郷〔茂徳〕外相来室面談。五時大谷警察部長来室面談。」
三二二 戦争終結と陛下 私は以上説述したる如き経緯に依つて戦争を終結するに至つたのでありましたが、斯如く大した混乱らしい混乱もなく、此大戦争を終結し得たことは、実に世界に未だ其例を見ないところであります。
然し之は一つに〈イツニ〉陛下の御力に依つて為されたと云ふ外はないと私は考へるのであります。 此点に就て実は戦勢の思はしくない実情が漸次国民の間に知れ渡つて来た頃から識者の間には陛下の側近を強化せよとか、内大臣府を強化せよとかの論が大部強くなつて、態々〈ワザワザ〉私を説きに来られた人もありました。何れも戦局の前途を憂へて陛下を御輔弼〈ホヒツ〉申上げて、善処を願ひ度いと云ふことが其狙ひ処であることは私には能く判りましたし、又其必要もありましたが、私は最後の段階に於ては陛下の御力に依つて解決する外はないと確く信じて居りました。
それには予め多くの重臣達を側近に配する時は、結局是等の人の工作と誤解せられ、折角の陛下の御苦心を水泡に帰し、国内の闘争となる可能性が大きいと私は考へたのでありました。私は是等の説は採用しないで二、三人の人以外には私の心持ちは話さず沈黙を守り通したのでありました。其為め私は随分非難攻撃を受けましたが、最後には真に陛下の御力となりましたことを如実に示すことを得ました。
従つて混乱を見ずに済みました事は誠に天佑とも言ふべく、私の苦心も亦報ひられたと思ふのであります。
三二三 本土決戦廻避の満足 斯くて私としては此間に処して聊か〈イササカ〉なりとも御奉公することを得て約二千万の無辜〈ムコ〉の国民を救ひ、又本土決戦に依り何十万かの米兵の死傷を出さしめずに済んだことは私自からひそかに満足する処であります。
文中、「大金次官」とは、大金益次郎(おおがね・ますじろう)宮内次官のこと。「鶴子」というのは、木戸幸一の妻・ツルのことであろう。「大谷警察部長」については、不詳。
木戸幸一の『木戸日記――木戸被告人宣誓供述書全文――』は、このあと、「結論」(三二四~三二六)に入るが、その紹介は、割愛する。