礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本軍閥の外形は破壊した(マッカーサー元帥)

2021-08-22 03:54:02 | コラムと名言

◎日本軍閥の外形は破壊した(マッカーサー元帥)

 富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、「(四三)八月十五日直後の政局」の章を紹介している。本日は、その三回目。

 八月二十八日、米軍の先遣隊が厚木に進駐し、マッカーサー元帥も三十日到着した。次で〈ツイデ〉九月二日には東京湾で、米艦ミズリー号上、降伏文書への調印が行なわれた。この間我国内各地に不穏な行動もあり、諸所に自刃沙汰も多かった。軍部内の反抗も噂されたが、何れも大したことにはならなかった。これは、結局、天皇陛下に対する国民の絶対信頼があったからで、終戦されたのも天皇、終戰後の流血の大悲惨事を見なかったのも天皇の偏えに〈ヒトエニ〉おかげであるといえよう。
 九月四日臨時国会開会、九月十一日極東軍総司令部は東条英機等三十九名を戦争犯罪者として逮捕、東条氏はピストル自殺を図って失敗、小泉〔親彦〕元厚相(陸軍軍医中将)並〈ナラビニ〉橋田〔邦彦〕元文相は自決、翌十二日杉山〔元〕元帥も自決した。
 九月十三日、総司令部は第二回目の戦犯容疑者を発表し、緒方竹虎内閣書記官長もこの中に含まれていた。これは一時保留となったが、今後続々戦犯の発表があるようでは、内閣の構成員にも及ぶ恐れがあるということで、内閣は早くも難関に直面するようになった。近衛公は九月十三日夕五時、マッカーサー元帥を横浜税関の建物に訪ねた。通訳が下手であったため、余り具体的な話もできず、約一時間の会談で、元帥だけの話を聞くことに終ったが、席上元帥は日本軍閥の外形は破壊したから、近衛公らがその内実を破壊する任務があるとし、日本軍閥に対し非常な嫌悪を示したのであった。
 又政府と総司令部との連絡事務につき、種々非難があり、これが重光〔葵〕外相非難となってきた。そこで緒方書記官長が、この連絡事務局を内閣に置く案を作ったところ外相はこれに反対し、遂に九月十七日、外相辞任ということになった。そしてその後任に吉田茂氏が就任することになった。吉田外相実現については、近衛公並に小畑〔敏四郎〕国務大臣の推挙が非常に力強く動いたことはいう迄もない。吉田外相就任数日後、私が吉田さんにお逢いしたら、吉田さんは『私に外相就任の文渉があったので、極力、私は幣原〔喜重郎〕氏を推した。がどうしてもということだったので、私は幣原氏を実質上の外相として、私はその下の外務次官のつもりで、万事、幣原外交で行くという条件の下に、引きうけたのです』とのことであった。その後私が臥床中の原田熊雄氏を大磯の邸に訪ねたところ、非常に吉田外相実現を喜ばれると共に『吉田の奴、外務大臣なんて勤まるかしら。我まま者で政治家という型ではない、君もどうか吉田を外から援けてやって下さいよ。頼みますよ』と例によって涙を眼にためながら、美しい友情を示されたことを私は憶えている。【以下、次回】

 原田熊雄(一八八八~一九四六)は、最後の元老・西園寺公望の私設秘書として知られる。近衛文麿、木戸幸一とは、京都帝国大学における同級生。

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