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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

僕が入ると十人の屍体が並べてありました(井形忠夫)

2019-11-25 01:53:54 | コラムと名言

◎僕が入ると十人の屍体が並べてありました(井形忠夫)

 雑誌『座談』第二巻第三号(一九四八年三月発行)から、「帝銀毒殺事件楽屋話」と題する新聞記者七名による座談会の記録を紹介している。本日は、その二回目。
 座談会に出席した記者七名の名前は、冒頭で明記されているが、個々の発言については、名前ではなくA~Gのアルファベットが用いられている。このうち、発言者名が推定できるものについては、アルファベットの下に、〔 〕で、社名と氏名を入れておいた。

 惨鼻を極めた現場
記者 現場は御覧になりませんでしたか。
〔読売新聞・井形忠夫〕 見ましたよ。僕が見たのは七時半ぐらゐです。通常、現場といふものは発生当時そのままで推持されてるものなんですが、もうすつかり壊されてました。といふのは、人の出入りが非常に多かつたんです。通用門の溝板の上へ村田正子といふ女の子か倒れてゐた。それを通り掛つた人が見て交番へ知らせると同時に、附近の酒屋さんもそれを発見して、近所の人が大勢集つて銀行の中へ入つて、介抱したり、医者を呼んで来たり、いろいろやつたために現場を壊しちやつたんです。
 僕が入つてみると、四畳半に三人、八畳に七人、十人の人が死んでました。それが凄いんだ。眼をクワッと開いて、鼻と口から血泡を噴いて、手足は硬直してるし、ひどかつたな。僕も今まで殺し(殺人事件)の現場は大分見たけれども、あんな十名も並べられてる現場といふのは、気もちのいいものぢやなかつたですね。
記者 チャンと屍体が並べてあつたんですか。
 ありました。洋品店で使ふ正札のやうな紙に名前を書いて、帯の間へ挟んであるんです。(笑声)
記者 それから各社が独自の活動に入つたわけですね。
 まづ各社は附近に本部を設けたんですが、うちの場合は現場から二十メートルぐらゐ離れた所にお茶屋がある。その三畳を独占して、わが社旗などを立てて、それから応援を呼んだんですよ。二人ぢや足りませんからね。さうすると十人ばかり駈け付けて来ました。被害者が十六人で、その写真を翌朝までに取らなかつたら、ほかの社にやられるといふわけですね。その晩は写真の獲得に前略を尽くしたわけですよ。
記者 各家庭を訪問したんですか。
 さうなんです。
〔朝日新聞・堀長隆〕 小使さんの写真はやられたな。
 あの小使さん一家四人だけやられたんですよ。十六人の中十二人だけは取つたんですがね。四組くらゐに分れて、夜中に叩き起して写真を取つて歩いたんですが、小使さん一家は家が銀行の中にあつて、一家全員がやられてる。そこで親戚なんかを洗つたんですが、ないんです。実家が埼玉県にあるといふことが判つたけれども、ちよいと遠いんです。支局に 連絡すればよかつたものを、遠いからガソリンも足りないし、やめちやつた。それで毎日さんにやられたわけです。
記者 毎日さんは支局で取つたんですか。
〔毎日新聞・三谷博〕 僕も当時現場にはゐなかつたんですが、いろいろ話を聴いてみますと、新聞社としてはまづ被害者の写真を取るのが一つの活動ですからね、七人が写真にかかつて、自動車六台で廻つたんです。それで大体において全部写真を取つたんですがね、十六人のうち一名だけ取れなかつたんです。その一名といふのは告別式にも写真がなかつたんですから、写真のある者は全部取れたんです。【以下、次回】

 念のために注釈しておくと、ここで、記者たちのいう「写真を取る」とは、「顔写真を入手する」の意味である。

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各新聞社記者による「帝銀毒殺事件楽屋話」

2019-11-24 01:45:40 | コラムと名言

◎各新聞社記者による「帝銀毒殺事件楽屋話」

 敗戦直後の一九四七年(昭和二二)一二月、文藝春秋新社から、『座談』という雑誌が創刊された。その第二巻第三号(一九四八年三月発行)に、「帝銀毒殺事件楽屋話」と題する座談会の記録が載っている。読んで、なかなか貴重な「史料」だと思ったので、本日以降、何回かに分けて、これを紹介してみたい。
 座談会に出席した記者七名の名前は、以下に示すように明記されている。しかし、個々の発言については、名前ではなくA~Gのアルファベットが用いられている。このうち、発言者名が推定できるものについては、アルファベットの下に、〔 〕で、その名前を入れておいた。なお、「記者」とあるのは、雑誌『座談』の記者と思われるが、その名前は明記されていない。

 帝 銀 毒 殺 事 件 楽 屋 話     各 社 第 一 線 記 者

   出 席 者
 時事新報 森西 芳久 
 毎日新聞 三谷 博
 日本経済 神林 春夫
 共同通信 杉山 俊次郎
 読売新聞 井形 忠夫
 朝日新聞 堀 長隆
 東京新聞 丹野 幸作

記者 けふはお忙がしいところをありがたうございました。終戦以来、新聞紙の面白さは社会面からもり上つて来るやうに思へるんですが、今回の稀代の毒殺事件に対する記者団の活動、皆さんがぶつかつた珍しい話、さういふ裏おもての話を本筋にしてザックバランにお話していただけば、ありがたいと思ひます。どなたか、事件当初から、ひとつ‥‥。
 第一報は何処から
 その前に一つの前提を言ひたいんです。といふのは、今までのいろいろなな殺人事件とか、さういふ大きな事件になると、必ず警視庁と記者とはお互に全然秘密主義で、当局は一つも発表しない、それに対して記者は善良なる感と足を使つて捜査の線に食ひついてゆく、といふ状態なんですが、今度の場合はそれが非常に激しいわけなんです。だから、各社独自の立場でやつてゐるといつてもいいと思ふんです。殊に初めは各社が思ひ通りのゆき方をしたんですが、最近は中だるみで、どこの社が動いても大したことはないだらうといふので、本部にゐても雑誌か何か読みふけつてゐますがね、あの当初は各社が非常に緊張してやつてましたよ。
 今度の事件はとにかく毎日さんがリードしたんだから、ひとつ話してもらはう。
記者 写真なぞ華やかでしたね。
 どうして毎日さんの所へ早く入つたかといふことも。
〔三谷〕 僕はあの日、警視庁に七時半まで残る約束になつてゐたんです。ところが、あ の事件は警視庁では全然キャッチ出来なかつた。単なる集団中毒事件として、よそのはうへ報告が入つてるんですね。これを毎日が非常に早く取つたのは、実は現場近くの一読者がいち早く社へ通報してくれたんです。その時わが社ではたまたま社会部の会がありましてね、全員が集つとつたから、それツといふので全力を集中出来た。副部長級、デスク級、の連中が陣頭に立つて、第一陣、第二陣と波状的に出たため非常に早くキャッチ出来たんです。
記者 カメラなんか、非常に早くいつたやうですね。
 ええ大勢いてたやうですね。一人や二人ぢやなかつたらしいな。僕はその時、 社にゐなかつたけど。
 それから朝日さんが、すぐに‥‥。
〔堀〕 読売と一緒くらゐぢやないかな。
〔井形〕 殆ど同じですね。
 僕の所は消防の救急車から入つたらしいですね。つまり中毒事件としてね。
 救急車といふものは警察の関係でなくて消防になつてる。交通事故があつて負傷者を収容しなければならぬといふ場合には、消防署から救急車が動くわけですね。それで消防署には救急簿といふものがある。これを新聞記者になつたばかりの一年生は必ず見させられるんですが、 そこへこの事件が入つた。それを朝日さんと読売さんが取つたといふわけですね。
 毎日のやうに読者が通報しない限り、そんな所から取るより仕方がないんですね。
 今度のは毎日以外はみんなその手で取つたんぢやないですか。
 読売はどんなふうだつた?
 あれをキャッチしたのが五時十六分なんですよ。うちの白戸君といふ記者が当夜の居残りで、これがたまたま、今夜火事がないかと見にいつたところが、救急車が三台出たんですね。救急車はふつうなら一台しか出ないんです。大きな交通なら二台とか、三台とか出ますがね。だからこれはテッキリ大きな交通事故だと思つて救急簿を見ると椎名町の帝銀で中毒患者が発生したと書いてある。遅い新年宴会をやつてメチールか何かでやられたんだらう、と思うつたんです。要するに大した事件ぢやないと思つて彼は一人でゆかうとしたんです。ところが僕は事件といふものが非常に好きなので、その話を聴いて、ぢや、一緒にゆかうといつて、二人でいつたんです。それで目白の警察へ寄つたのが五時四十五分。ちやうどその時に鑑識課へ電話してるんです。さあ大変と思つたけれども、締切時間が今は七時なんです。一時間とちよつとしかない。急いで現場へいつてみると、非常線を張つちやつて、全然中へ入れてくれないんです。この時が六時でした。あの時は帝銀と聖母病院の両方へゆかないと取材出来ないんです。それで二タ手に分れて、やつと第一報を手に入れたんですが、それが六時半。締切までに三十分しかないんです。それから社まで運んだんですが、これが記録ださうですよ。七分間ださうです。目白から読売の本社まで七分間。うちでも一番の名手といふオートバイ乗りが、信号なんか無視して走つたんですがね、とにかく七分間でいつたさうです。
 目白署の捜査主任の大西といふ警部補から聴いてみると、四時ちよつと前に、何か中毒があつたといふ報告があつていつてみたところが、あの騒ぎでね、すぐ本庁に電話したといつてるから、警視庁に入つたのは五時十分くらゐぢやないかな。
 救急車に入つたのは早かつたけど、事件ものとして入つたのは遅かつたんだ。
 僕が目白署へ着いた時に、ちやうど電話してましたよ。
 初めは警察も中毒事件としてゐたな。
 しかし捜査一課ぢや、さすがに事件が大きいと見たらしい。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・11・24(10位に極めて珍しいものが入っています)

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『氷の福音』を自費出版しました(塩崎雪生)

2019-11-23 03:30:54 | コラムと名言

◎『氷の福音』を自費出版しました(塩崎雪生)

 塩崎雪生氏の、拙著『日本人は本当に無宗教なのか』についての感想文を紹介している。本日は、その五回目(最後)である。
 昨日紹介した部分のあと、一行アキがあり、さらに次のように続いている。

 先般首里城が焼亡するという事件がありました。「世界遺産」に認定されていたとのこと ですが、当方はこの「世界遺産」という語を聞くたびに虫唾が走ります。とりわけ宗教施設などがその認定を受けたなどと聞くたびに陰鬱な気分になります。「世界遺産」という語は 歴史的生命の枯渇を連想させます。すでに用済みになった廃物がこぎれいに飾られ、内実 はなんの役にも立たないがらんどうであるにもかかわらず、「観光資源」の名のもとに小芝居を演じているように当方の目には映ります。さまざまな宗教施設が、そこで取り組まれていた信仰的実践を没却して、形骸的遺構のみ保存されてもまったく無意味なのです。タリバーンがバーミヤンの大仏を破壊したとき、その仏像はすでに廃物でありました。生きた信仰を実践してゆく上では正しからざるものの超克が当然なされなければなりません。「世界遺産」、それは信仰的生命の枯渇を表示する名辞にほかなりません。かかる当方の発言を聞いてそれでも「世界遺産」をひたすら護ろうとする者は、おそらくやみくもに上述の「信教の自由」などを楯にとって反論するに違いありません。
 貴著では最終頁に至るまで「宗教とは」をめぐって絶えず揺れているように拝見しました。 当方が思いますに、やはり日本人の「信仰」を考察するにあたっては、それをいかなる方向に導くべきかについての構想と熟慮とがなによりも肝要なのではないでしょうか。

 最後に、貴著では触れられていないイスラーム(もっとも貴著は日本人の宗教を論じているので、日本宗教とはおよそ呼び得ないイスラームがとりあげられていないとしてもなん ら不都合はないのですが)について当方の考えをお示ししたいと思います。
 1997年に参加した「歴史民俗学」合宿の際にも述べたのですが、日本におけるイスラーム受容は当初から反ユダヤ主義受容の裏面としての奇矯さを帯びていました。その点が仏 教・キリスト教の場合といちじるしく異なっています。イスラームの教義は徹底した偶像排斥教ですから、日本の民族性にはまったく適合する余地がありません。これこそこれだけグローパル化などと叫ばれている現在においても日本人がイスラームとまともに向き合えない真因であります。そういった国民性の上に、軍部や政客による反ユダヤ宣伝に附随したものとしてイスラームが持ち込まれたので、きわめて奇妙奇天烈な異物としての性格がいつまでたっても拭い去られません。「大日本回教協会」なるものが結成されましたが、ムスリムなどひとりも所厲しない団体であって、代表者は反ユダヤの論客四王天延孝、その所期するところは占領地域居住の回教徒懐柔・宣撫でした。つまりあくまで外部からイスラームを拱手傍観するだけで国策に利用しようとしているのです。素人目ですらこういった及び腰の態度がなにものももたらさぬことなど見え透いているではありませんか。
 イスラームは世界三大宗教の一つなどと一般的に言われています。しかし、当方が観察 しますに、信者数や布教面積などはともかく、他の二教に比べ普遍性に欠くところがある のは事実です。まず、かの聖地崇拝をまず挙げなければなりません。信者たるものメッカ巡礼を必ず一度は成し遂げなければならないともとめられるわけですが、これは特定地域のみを神聖視する未熟な教説です。また、聖典「クラーン」を古典アラビア語のみで伝承しようとする言語的固執。これはアッラーが用いた言葉そのままを伝えなければならない、とする護教精神の発現なのでしょうが、ある特定地域でしか用いられない言語のみを神聖視する退嬰性の発露でもあります。少なくともこの2点が克服されない限りイスラームは他の二教と肩をならべることは覚束ないでしょう。戸板潤の言葉を想い起こしてください。
 「イスラーム国」が「原理主義」を振りかざしてカリフ制の復活など企てています。ご存知の如くこれは預言者ムハンマドの血統を引く者を指導者(真正君主!)として仰ぐ運動なのですが、かかる策動は特定の人物およびその血統のみを神聖視する倒錯した熱情に基づいています。およそ神以外を神聖視するのは反イスラームなのです。真のイスラーム(この語は古典アラビア語では単に「信仰」の意)はかかる錯誤に惑わされるようなことはありません。

 2013年に当方は『氷の福音』と題する著作を自費出版しました。この書籍は表面上「天地真理」研究を装っていますが、その実、上述の如き宗教研究によって得られた見解を盛り込んだものです。端的に言えば、偶像(=idol)崇拝批判の書です。刊行後すでに100冊ほど売りましたが、ある購入者が精読もしないでブログ上に一知半解の感想をわけ知り顔に書き綴っているため、それを読んだ人にはおそらくはなはだしい誤解を与えているはずです。また、その他にもツボをはずしたような論評が横行していますのでにがにがしき限りです。売れ行きがなかなか伸びない主因はここにあると睨んでいます。章炳麟は「文明が進めば悪徳も進む」と言いましたが、インターネットにおけるかかる弊害は避け難いとはいえ、今後なんらかの方策を講じなければならないと思っています。
 『氷の福音《天地真理》をめぐりたる象徴学的研究』
  A 4判約300ページ 定価3500円 送料360円
 現在この著書が当方のおもな収入源です。「天地真理についての本などいらない」という向きが多いのであえて寄贈は致しませんが、もしもご関心をお持ちの場合はお送りします。
                  敬具
 2019.11.14       鹽崎 雪生

※inaka4848さん、いつもボタンを押していただき、ありがとうございます。この間、押していただいたボタンについては、書き手である塩崎さんも喜んでおられることでしょう。

*このブログの人気記事 2019・11・23

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「大乗仏教」は「仏教」ではありません

2019-11-22 02:39:32 | コラムと名言

◎「大乗仏教」は「仏教」ではありません

 塩崎雪生氏の、拙著『日本人は本当に無宗教なのか』についての感想文を紹介している。本日は、その四回目である。
 昨日紹介した部分のあと、一行アキがあり、さらに次のように続いている。

 大阪・天王寺駅近傍の「くちなは坂」をくだってしばらく歩くと某寺の裏手に富永仲基一族の墓所があります。当方が訪れたのは2006年のことですが、普段尋ねる者もないのでしょう、猫の糞かあちこちに散らばり、荒廃するにまかされた状況でした。もちろん仏教史の内幕を暴露した富永自身の墓はそこにはありません。その代わり、おそらく幕末頃造られたと思われる「富永仲基招魂碣」と刻まれたちいさな石碑が片隅に据えられておりました。
 江戸期の国学者は富永仲基の研究成果を非常に高く称揚し、仏教攻撃の最大の武器を手に入れたと認識しました。富永の思想はいわゆる「大乗非仏説」論の先蹤として確乎不動の 学的価値をいまなお有しています。しかしこの貴重な成果をなぜ僧侶たちは活かそうとしないのか、当方にはきわめて残念に思えてなりません。その理由はとても簡単なことです。(少なくとも日本の)僧侶にとって仏教は飯の種にすぎないからです。探究心もなければ信仰心もない。旧套を墨守して地位・生活の保全を図る職業坊主ばかりだからです。真摯に修行に励もうと志しているのなら、富永の学説を決して無視することはできないはずです。 もしもかりに、鎌倉期に『出定後語』が書かれたとしたならば、当時に生きた道元・親鸞・日蓮等はどのように受けとめたでしょうか。これら3人の人物は並はずれて探究心旺盛で喧嘩腰も内村ほどに強そうですから、翻然大乗を棄てて真の仏説を実践すべくアクションを起こしたのではないかと推測します。そもそも通常の理性をもっている者ならば、真実の教説が仏陀亡きのち数百年も経過してからはじめて唱え出されるなどという途方もない荒誕を信じられますでしょうか。
 「大乗仏教」は「仏教」ではありません。「仏教」の範疇のなかに「大乗仏教」が属しているのではなく、「仏教」とは別立てに「大乗仏教」は存しているのです。「仏教」は自らの努力によって仏となることをめざしますが、「大乗仏教」は決してみずから努力することなどありません。どこかの誰かが努力しているのを期待しては、それに乗っかることばかりめざすのです。「大乗経典」のなかには本来の「仏教」を誹謗する言辞(「小乗」「成仏できない」など)で満ちています。そのように誹謗することによって、おのれの怠惰・痴愚・卑怯から目をそらしたいのでしょう。しかし、かかる性質はいつの世においても大衆が通有するものにちがいありません。偽信仰たる大乗が常にはびこる根拠がここにあることにご注目ください。
 最澄はその著書『末法燈明記』のなかで臆面もなく語っています。「末法において正法を行ずるは、市中に猛虎を放つが如し」と。仏陀の教説を実践しようとするものを害獣扱いにして恥じないわけです。「末法」なるものが他でもない堕落坊主が惹き起こした事態であるにもかかわらず。これが「大乗仏教」の隠れなき実態なのです。
 現今の僧侶はみなひとり残らず、僧侶のなりをしているだけの単なる俳優にすぎません。内実を割ってみれば、「出家」どころか一般家庭の者たちとなんら変わらぬマイホーム坊主ばかりです。2004年から2008年まで、当方は裏日本の某地にある曹洞宗の専門僧堂にて講師を務めました。専門僧堂とは、そこで少なくとも2年間「修行」すれば本山同様に僧侶としての「資格」が得られるという、いわば宗門の教育機関なのですが、そもそも僧籍もない当方がかかる場において「修行僧」に対し講義すること自体、本来はありえないことでしょう。しかし「本来」などというものは、もはや夢想事にすぎなのかもしれません。現代においてはいかなる乱脈も起こりうるのです。老若さまざまな「修行僧」に接しましたが、大抵は寺の縁故者、つまり親が住職であるとか、定年退職後寺の仕事をしなければならなくなったとか、要するに生活のため仕方なくやってきた者がほとんどで、当方としては苦悶の連続でした。「修行」と称して日々おこなっているのは、掃き掃除・拭き掃除・炊事。その合間に居眠り半分の坐禅。そして連日舞い込む葬儀法要の手伝い。どうやらこの最後に挙げたものが「修行僧」たちにとっては一番重要なことのようです。つまり「修行」と称して修得がめざされているのは、住職として葬儀を任せてもらえるような者になることだけなのです。当力がどれだけ力説して「仏教なるものは本来……」などと講釈しても、これら「修行者」にとっては豚に真珠、豆腐に鎹、暖簾に腕押しなのです。生活と結びつかぬ教説などはなんら耳に入りません。そしてまた、当方の癪の種だったのは、「修行」期間が2年間とのっけから決められていることです。果たして「修行」とはそういうものなのでしょうか。できなければ何年も何十年も務めなければならないものなのではないのですか。寿司屋の修行だって5年は必要などと言います。それが短大でもあるまいし2年で許されるとは。 しかもその「修行」の日常の内実といえば……。どだいその程度のものなのだ、そもそも「信仰」の真似ごとにすぎないのだと割り切ってしまえばそれまでなのでしょうが、しかしそのような冷眼視はとりもなおさず学的探究の廃滅を招くだけです。
 2011年の地震の際、『方丈記』の記述などに注目が集まり、世の「無常」があらためて認識されるようになったらしいのですが、どうしてそのとき僧侶たちは絶好の機会到来とばかりに一大伝道に励まなかったのでしょうか。「無常」といえば仏教的世界把握の基盤です。 経典や仏教説話を繙けば、世の「無常」を知らしめて「出家」へと勧誘する挿話にこと欠きません。しかし、やはり現今の僧侶にそれを期待するのは所詮ないものねだりに終わるのです。なぜよら、「出家」という関門の持つ価値がとうの昔にうしなわれているからです。「出家」という語は、もはや「家庭生活の抛擲」を意味せず、俳優たちの単なる「化粧なおし」をさす名辞に堕しております。
 どうしてこのように日本の僧侶は堕落を随落とも思わず平然としていられるのか。その禍根はきわめて深く、牢固として抜き難いものです。それが日本仏教の特徴であるとすら言えます。すでに記しましたが、最初期の「公伝」においてそもそも仏教を偶像教と誤解していることは重大です。現今でも「仏様」といえば仏像をさすことが多く、それを寺に安置して「本尊」として崇め、住職といえばその「仏様」の由緒についての案内役にしかすぎないというていたらくです。また、拝観者も「いい顔の仏だ」などと満足げに論評するも、肝腎の教義について住職に向かって問いかけるでもない。なんらそれを期待してもいない。このあきれ果てて物も言えない状況を疑問視する者は誰もおりません。
 それに、伝来当初より僧侶となることが国家資格めいていたのものちのちのわざわいの 種であったと見なしえます。いわゆる「度牒」というものが為政者から発行され、それがまるで運転免許証や健康保険証のように社会的身分を証明する役割を果たすわけですが、このことを通じて「出家」という本来世間外の存在が国家の意志によって巧みに社会内の存在 として扱われるようになったのです。そしてまたさらには、寺院に定住するようになると、その寺は一箇の政府機関であるかのような様相を呈し、度牒を所持する僧侶は「住職」(つまりその文字の示す如く「そこに住することを職とする者」)となって小役人的に振舞うようになっていきました。「宗教」を「職業」とすることほど、「信仰」を潰乱し、なにもかも台無しにしてしまう罪悪はありません。そもそも、仏陀は「職業」どころか労働否定者ですし、イエスはといえば「大工」なのであって、伝道をもって「職業」としていたわけではありません。
 また、僧侶の妻帯について一言するならば、これは明治政府の発した太政官布告によってなんらの臆面もなくゆきわたった習俗なのであって、宗門の本山などの選択意志に始まるものではありません。つまり国家に頤使される日本仏教は限りなく世俗の境域を脱しえないものであることをここに見るべきなのです。蓮如は「王法為本」と言いました。あくまで世俗優位なのです。(もっとも浄土真宗は親鸞が「如来の聖戒守り難し」とて創出された「非 仏教」ですから、もとより肉食妻帯容認だったわけです。厳密には「仏教」ならざる「浄土教」という用語をもって呼ぶべきものです。仏陀時代には「極楽浄土」(sukhāvatī)などという語すら存在しませんでした。また、さらに言えば、「浄土教」がもっとも重視する「四十八願」の「第十八願」なるものは梵本にはもともと存しない記述です。)
 明治期に真宗の村上専精が富永学説に依拠して『仏教統一論』を著したために本願寺から僧籍剥奪処分を受けるという事件がありました。その際、村上はやはり生活の資をうしなうことを怖れ、奇妙な論理を捏ねて地位回復を果たします。それは「大乗非仏説は歴史研究上においては真実であるが、実践上においては採るところではない」という主旨のものなのですが、当方にはこの言いわけがさっぱり理解できません。学術的には正しいが、実際の場面ではそれに則ることはない。それならばなにを実践してゆくのかというと、相変わらずのナンマイダなわけです。ここでは「学問」と「実践」とがもののみごとに切り離されています。くそ坊主の面目躍如であります。一体全体「学問」とはなんのためになされるものなのでしょうか。「実践」と没交渉の「学問」とは果たして存在価値があるのでしょうか。「非合理ゆえに我れ信ず」では「学問」が存在する余地がありません。むやみに「鰯の頭」に「信仰」を捧げるものなど現代にはもはやおりません。「学問」の成果を容認すれば「信仰」が存立しないのなら、その「信仰」は捨て去るべきものであるはずです。あくまで科学的・合理的であることか求められます。内村が札幌農学校や米国留学で学んだのは「神学」などではなく、近代的自然科学ばかりでした。「仏教」「キリスト教」研究は、「仏教」「キリスト教」だけを凝視しているようではなんら価値ある成果を獲得することはできないでしょう。盲千人とまでは申しませんが、「専門家」と呼ばれる近視が猖獗をきわめていることは事実です。   【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・11・22

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神道は「宗教以前」の偶像教

2019-11-21 03:05:54 | コラムと名言

◎神道は「宗教以前」の偶像教

 塩崎雪生氏の、拙著『日本人は本当に無宗教なのか』についての感想文を紹介している。本日は、その三回目である。
 昨日紹介した部分のあと、一行アキがあり、さらに次のように続いている。

 当方は、日本人とは「偶像崇拝」の民である、と捉えています。当方は貴著のなかに「偶像崇拝」の語がどこにも見当たらなかったことを残念に思いました。貴殿も充分ご存知かと 思いますが、記紀によれば、俗に「仏教公伝」とされる欽明朝におけるエピソードでは、百 済渡来の仏像の扱いをめぐって蘇我・物部両氏が抗争します。その一連のやり取りを冷静 に観察すれば誰しもわかることなのですが、この争いはあくまで仏像というお人形をどう扱おうかという騒動なのです。信仰心などは感じられませんし、教義についての検討がなにもなされていません。古来の国神を採るか、それとも胡神を採るか、と息巻いていますが、実のところは金箔を塗りたくった偶像をめぐるから騒ぎなのではないでしょうか。そしてまた、近世において切支丹弾圧に用いられた踏絵こそは紛うことなき偶像そのものです。あのようながらくたによって「信仰」を問わんとする為政者も、踏むを躊躇する切支丹側もともに偶像をめぐって狂奔する土人程度の民度であったのだと指摘せざるをえません。(あまり注目されないことですが、ポルトガルが持ち込んだのがカトリック(つまり偶像容認教)であったので、偶像崇拝民族日本人に容易に受け容れられたと思われるのです。のちに禁教後徳川将軍家と通商をつづけたオランダはブロテスタント(偶像厳禁教)ですから、とりたてて幕府と軋轢を生ずることがなかったのではないでしょうか。)
 貴著では「靖国問題」については特段ページを割いてはおられなかったと思いますが、こ の「靖国」についてもやはり偶像崇拝と見なすべきだと当方は年来考えています。そもそも「戦死者が神になる」などという安易な揚言が出てくること自体まったく笑止千万なわけですが、こういった発想の根抵には、ある注目すべき真実が横たわっているのだと解するこ とができます。それは、神道において祭神として祀られているのはとりもなおさずみな人間なのだということです。傑出した特殊能力を持った者、軍事的侵略者、民衆福祉に功績があった者などが、その死後に(否な、生前からの事例もありえます)神格化され、尊崇されているにすぎないのだということです。そうであるならば、神がやおよろずであってもなんら奇妙ではありません。多神教とは畢竟偉人崇拝であり、それはつまり偶像崇拝なのです。偶像崇拝とは、神以外のものを神としてあがめることですが、人物崇拝はその顕著な事例と見なさなければなりません。「靖国」の神にぬかづくことを、自民党が主張する如き「戦争犠牲者の慰霊」を通じての「平和への誓い」などといった屁理屈と結びつけようとするのはどだい無理なのです。「靖国」の神に対してもしも祈願すべき事柄があるとするのなら、それはまさしく「英霊」(軍神)の威力を発動させる「戦捷」のみでありましょう。
 久米邦武が「神道は祭天の古俗」などと言いましたが、神道はそれほどハイレベルなもの ではないでしょう。「祭天」つまり「天」を祭るとは、おもに漢民族における高度に発達した信仰観から生じたほとんど一神教的発想と呼ぶべきものですから、人間崇拝の段階にとどまる日本人の営為に対してはふさわしき表現とは認めえません。神道はあくまで世俗本位の教えです。大和朝廷成立以後においては、それは政治(まつりごと)と不離一体のものとなりました。明治以後「神道=非宗教」論が幅をきかせますが、そもそも信仰的思惟の錬磨に乏しい民族ですから「非宗教」と呼ぶよりも「宗教以前」の偶像教と見なすべきなのです。
 政治が「宗教」を「統怡の具」として用いようとするのはいつの世においても行われつづけてきたことです。しかし自覚ある「信仰」を持った者は、浮動する政治などに煩わされることはありません。そもそも仏陀は一国の王子たる地位を棄てて(政治を抛擲して)「出家」を遂げており、またイエスはピラ卜に「汝はユダヤの王なるか」と詰め寄られた際「我が国はこの世のものならず」と答えているではありませんか。阿育王の「仏教政治」であれ、ローマ法王庁であれ、現実政治に資せんとする「宗教」は、畢竟教義を取り違えたまがいものなのです。 真正なる「信仰」を持てば必定アナキズムたらざるをえません。

 「信教の自由」の問題についてもひとこと触れたいと思います。当方はこの語に対し心底 甚だしい嫌悪を禁ずることができません。
 この語は(少なくとも現代日本においては)、なにも信じないことを標榜するための護符として用いられています。「信仰」などくすりにもしたくない徒輩か、熱心にこの語を練り返し繰り返し口にするのです。実にばかばかしいことだとつねづね思っています。
 もしも「信仰」を持った者ならば、このような用語に取り縋ることなどないでしょう。そ もそも「信仰」は法律や国家権力に認められることによってはじめて成り立つものではあり ません。かえって法律や国家権力の暴虐のもとで苦難を味わうことによってこそ本物の「信仰」は確立されるのではないでしょうか。憲法の記載はどうあれ世には「信仰」の不自由が充ち満ちています。誤解・黙殺・侮蔑等々。それらからの自由は安易に法律などによって受動的に下し置かれ附与されるのではなく、果敢に「信仰」をつらぬいて自力奮闘することに よってのみ得られるのではないでしょうか。「言論・表現の自由」も同断です。   【以下、次回】

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