◎双葉十三郎、映画『我等の生涯の最良の年』を論評す
昨日に続いて、双葉十三郎の『アメリカ映画入門』(三笠文庫、一九五三)の内容を紹介する。
本日、紹介するのは、ウィリアム・ワイラァ監督のRKO映画『我等の生涯の最良の年』(一九四八年三月)について論評した文章である。ただし、この文章はかなり長いので、本日は、その前半部分のみを紹介する。
ウィリアム・ワイラァ
我等の生涯の最良の日〔The Best Years of Our Lives〕
ウィリアム・ワイラァ〔William Wyler〕が監督した「我等の生涯の最良の日」はアカデミィ賞を九つも貰つたと鬼の首でもとつた様にさわぎたてるほどの映画ではないが、たしかに力の入つた立派な作品であることには間違いない。
復員者の問題はアメリカでも重要な社会問題のひとつだが、この映画は逸はやくこれを採りあげて、しかも堂々たる長篇につくりあげたところに大きな意義がみとめられるわけで、つまり、時局的作品としては最高峰をゆく決定版を、のつけに作りあげてしまつたという名誉を担うものなのである。
が、この決定版という意味は、典型的という意味にも通じる。つまりこの作品は、最も普通な形式を用いて、極めて丁寧に扱つているのであり、ニュウロティック〔神経質〕その他の特異な角度を持つた作品は別として、一般的な穏当な角度による作品としては、最大限のところまで行つていると考えてよいと思う。主人公には三人の復員者が択ばれ、型通りにその三人がそれぞれ三つの階級をあらわしている。映画はこの三人の帰郷後の生活を、ひとりひとり丹念に追つているのである。ただ問題は、それが全部うまく行つているかどうかにある。
こうした平行的な扱いは仲なかむずかしい。どの部分にも万遍なく力をそそぐことは容易でなく、どうしても描き足りない部分が出来て、そのなかのうまく行つた部分が中心になる様な結果を招く。この作品でも同じことで、三時間にちかい長尺を以てしても、やはり手をぬかなければならないところが出来て、結局フレドレック・マァチ〔Fredric March〕とマァナ・ロイ〔Myrna Loy〕の家庭が主流の様な感じになつてしまつた。もちろんそれでもいいのであるが、それにしては他のデナ・アンドリュウス〔Dana Andrews〕とハロルド・ラッセル〔Harold Russell〕の挿話に場面が食いすぎているので、一本の筋を通して統一した作品にもなつていない。そういうわけで、私にはこのロバァト・E・シャアウッド〔Robert E. Sherwood〕の脚本が、それほどうまいとは思えないのである。
ウィリアム・ワイラァの演出にしても同様である。最近の彼はだいぶ傾向がかわつて来ているという噂だが、戦前の私たちが知つている彼は、ひとつの主題をとりあげ、ひとつの主体に食いさがり、ぐいぐいと抉りながらふかく描いてゆくのが得意だつた。が、この映画は三人のグループに三分されているので力が分散されて、いささかふやけてしまつている観がある。が、やはりマァチ=ロイの家庭を中心と考えているらしく、この家庭に関するかぎり、彼の才能は十分にみとめることが出来る。結果からみれば、この家庭だけを追求して行つたら、ワイラァの面目を発揮した快作が生れたかもしれない。実際の場面にあらわれたものをみても、この家庭に関するかぎり純粋であるが、他の場面へゆくと時局的な必要からわざわざ加えたようなものがあり、そうした部分がなにか本当でない様に感じられる。
順を追つて云えば、巻頭三人が飛行機で故郷へ帰るまでは実によい。分裂していないためでもあろうが、よく描かれている。が、同乗した自動車から一人ずつ家の前でおりてゆくあたりから、すこしゆらいでくる。最初のハロルド・ラッセルの家の場面など、家人や婚約者が彼の鉄の手〔義手〕を発見するまでの描写がひどく鈍いのである。三番目のデナ・アンドリュウスが汚ない我家へ帰る場面も特にいいとは云えない。ただ、二番目のマァチが部屋へ入り、マァナ・ロイが迎えるあたりの描写が出色である。以下、マァナが宴席で挨拶を試みるあたりまでが花で、その後はもたもたしてくる。デナ・アンドリュウスとヴァーヂニア・メイオ〔Virginia Mayo〕の扱いもコンヴェンショナル〔月並〕だし、ハロルド・ラッセルの扱いも鉄の手を尊重するあまり、思わせぶりになつてくどい。けれど流石にワイラァだけのことはあつて長距離のペエスはととのつており、途中で投げ出したい様な気持になるようなことはない。ただし、このゆるやかなペエスにもかかわらず、ラスト・シインがあまりにも簡単なため、いささか尻切れとんぼの感じがする。これだけの長尺にかかわらず余韻がない。【以下、次回】