◎神道は「宗教以前」の偶像教
塩崎雪生氏の、拙著『日本人は本当に無宗教なのか』についての感想文を紹介している。本日は、その三回目である。
昨日紹介した部分のあと、一行アキがあり、さらに次のように続いている。
当方は、日本人とは「偶像崇拝」の民である、と捉えています。当方は貴著のなかに「偶像崇拝」の語がどこにも見当たらなかったことを残念に思いました。貴殿も充分ご存知かと 思いますが、記紀によれば、俗に「仏教公伝」とされる欽明朝におけるエピソードでは、百 済渡来の仏像の扱いをめぐって蘇我・物部両氏が抗争します。その一連のやり取りを冷静 に観察すれば誰しもわかることなのですが、この争いはあくまで仏像というお人形をどう扱おうかという騒動なのです。信仰心などは感じられませんし、教義についての検討がなにもなされていません。古来の国神を採るか、それとも胡神を採るか、と息巻いていますが、実のところは金箔を塗りたくった偶像をめぐるから騒ぎなのではないでしょうか。そしてまた、近世において切支丹弾圧に用いられた踏絵こそは紛うことなき偶像そのものです。あのようながらくたによって「信仰」を問わんとする為政者も、踏むを躊躇する切支丹側もともに偶像をめぐって狂奔する土人程度の民度であったのだと指摘せざるをえません。(あまり注目されないことですが、ポルトガルが持ち込んだのがカトリック(つまり偶像容認教)であったので、偶像崇拝民族日本人に容易に受け容れられたと思われるのです。のちに禁教後徳川将軍家と通商をつづけたオランダはブロテスタント(偶像厳禁教)ですから、とりたてて幕府と軋轢を生ずることがなかったのではないでしょうか。)
貴著では「靖国問題」については特段ページを割いてはおられなかったと思いますが、こ の「靖国」についてもやはり偶像崇拝と見なすべきだと当方は年来考えています。そもそも「戦死者が神になる」などという安易な揚言が出てくること自体まったく笑止千万なわけですが、こういった発想の根抵には、ある注目すべき真実が横たわっているのだと解するこ とができます。それは、神道において祭神として祀られているのはとりもなおさずみな人間なのだということです。傑出した特殊能力を持った者、軍事的侵略者、民衆福祉に功績があった者などが、その死後に(否な、生前からの事例もありえます)神格化され、尊崇されているにすぎないのだということです。そうであるならば、神がやおよろずであってもなんら奇妙ではありません。多神教とは畢竟偉人崇拝であり、それはつまり偶像崇拝なのです。偶像崇拝とは、神以外のものを神としてあがめることですが、人物崇拝はその顕著な事例と見なさなければなりません。「靖国」の神にぬかづくことを、自民党が主張する如き「戦争犠牲者の慰霊」を通じての「平和への誓い」などといった屁理屈と結びつけようとするのはどだい無理なのです。「靖国」の神に対してもしも祈願すべき事柄があるとするのなら、それはまさしく「英霊」(軍神)の威力を発動させる「戦捷」のみでありましょう。
久米邦武が「神道は祭天の古俗」などと言いましたが、神道はそれほどハイレベルなもの ではないでしょう。「祭天」つまり「天」を祭るとは、おもに漢民族における高度に発達した信仰観から生じたほとんど一神教的発想と呼ぶべきものですから、人間崇拝の段階にとどまる日本人の営為に対してはふさわしき表現とは認めえません。神道はあくまで世俗本位の教えです。大和朝廷成立以後においては、それは政治(まつりごと)と不離一体のものとなりました。明治以後「神道=非宗教」論が幅をきかせますが、そもそも信仰的思惟の錬磨に乏しい民族ですから「非宗教」と呼ぶよりも「宗教以前」の偶像教と見なすべきなのです。
政治が「宗教」を「統怡の具」として用いようとするのはいつの世においても行われつづけてきたことです。しかし自覚ある「信仰」を持った者は、浮動する政治などに煩わされることはありません。そもそも仏陀は一国の王子たる地位を棄てて(政治を抛擲して)「出家」を遂げており、またイエスはピラ卜に「汝はユダヤの王なるか」と詰め寄られた際「我が国はこの世のものならず」と答えているではありませんか。阿育王の「仏教政治」であれ、ローマ法王庁であれ、現実政治に資せんとする「宗教」は、畢竟教義を取り違えたまがいものなのです。 真正なる「信仰」を持てば必定アナキズムたらざるをえません。
「信教の自由」の問題についてもひとこと触れたいと思います。当方はこの語に対し心底 甚だしい嫌悪を禁ずることができません。
この語は(少なくとも現代日本においては)、なにも信じないことを標榜するための護符として用いられています。「信仰」などくすりにもしたくない徒輩か、熱心にこの語を練り返し繰り返し口にするのです。実にばかばかしいことだとつねづね思っています。
もしも「信仰」を持った者ならば、このような用語に取り縋ることなどないでしょう。そ もそも「信仰」は法律や国家権力に認められることによってはじめて成り立つものではあり ません。かえって法律や国家権力の暴虐のもとで苦難を味わうことによってこそ本物の「信仰」は確立されるのではないでしょうか。憲法の記載はどうあれ世には「信仰」の不自由が充ち満ちています。誤解・黙殺・侮蔑等々。それらからの自由は安易に法律などによって受動的に下し置かれ附与されるのではなく、果敢に「信仰」をつらぬいて自力奮闘することに よってのみ得られるのではないでしょうか。「言論・表現の自由」も同断です。 【以下、次回】
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