◎マァナ・ロイが実にいい味を出している
双葉十三郎の『アメリカ映画入門』(三笠文庫、一九五三)の内容を紹介している。
昨日は、ウィリアム・ワイラァ監督のRKO映画『我等の生涯の最良の年』(一九四八年三月)について論評した文章の前半部分を紹介した。本日は、その後半部分を紹介する。
この間、賞賛に値するのは、いくどもくりかえす様だが、マァチ=ロイの家庭である。帰宅してなにかぎこちないマァチの気持、酒場へゆきたくなるところや、朝おきて鏡をみる場面や、寝巻のままシャワァへ入る件り〈クダリ〉。また、これに対するマァナ・ロイの心理的及び肉体的な反応は、暗示的な手法を生かして心憎いまでに描かれている。夫妻が娘テレザ・ライト〔Teresa Wright〕に示す心づかいや、アンドリュウスとの恋愛問題で云い争う場面なども、まことにいい。デナ・アンドリュウスもこの家庭内ではよく扱われており、朝になって知らぬベッドに眠っていたのに気付くといきなりポケットに手を入れてお金をしらべ、戸棚をあけて女の靴がずらりと並んでいるのをみて苦笑するあたりは出色であり、台所でのテレザ・ライトとのやりとりにマァナ・ロイがからんでくる場面もうまい。尤も、この若い二人は、中心人物を結びつけるという約束にしたがつて恋愛関係を成立させたような感じであるが、これも脚本の弱点のひとつである。シャアウッドの功績は、むしろ右のマァチ=ロイの家庭のニュアンス〔陰影〕に満ちた台詞に求めるべきである。
俳優は、マァナ・ロイとフレドリック・マァチがとびぬけていい。ロイは持ち味をそのまま出しているだけといつてもいいが、実にいい味を出している。私の趣味からすれば、先ず第一に彼女に賞を与えたい。マァチも過去の臭い芝居がよく抑制されて、見事な性格心理描写を行っている。ワイラァの指導の力も大きいであろうが、齢〈ヨワイ〉五十を重ねて、ようやく血気を脱し老熟の境〈キョウ〉に達したとみるべきであろう。
この二人についではナレザ・ライトである。ハロルド・ラッセルは短篇に一度出ただけの素人にしては驚くほどよくやつているが、彼の鉄の手が強調されすぎているのは、戦傷者更生をひとつの目的にするこの映画の性質上、当然のことであろうから、余計なことは云わないでおく。デナ・アンドリュウスが案外ふるわないのは、脚本の扱いが悪いせいもあろうが、彼のファンとして頗る残念である。ヴァーヂニア・メイオはタイプだけ。ホォギィ・カァマイケル〔Hoagy Carmichael〕はパァスナリティで生きている。
最後に、この作品でもうひとつ問題にしていいのはグレッグ・トォランド〔Gregg Toland〕のカメラである。パン・フォカスとよばれる撮影法で、前景後景、画面の焦点が殆んど全部かつちりと合つている。「市民ケィン」以来次第に常用されはじめたこの方法の元締だけあつて、随所に見事な場面をつくりあげている。酒場などでは、いちばん手前にビアノをひいているカァマイケルとマァチ、その次にバァに居る客、次いで椅子に坐つている客、そしていちばん奥、店の入口にある電話のブウスの中のアンドリュウスと、四段になつており、アンドリュウスがテレザ・ライトに絶交の電話をかけて出てゆく有様が、はつきりわかる。この様な方法が可能になつてくると、演出も平面的なショットを単位としてそれを配合するという、過去の手法とはだいぶ趣が変つてくる筈である。すでに公開された作品にもこうした例を求めることができるが、思想や扱いはともかく、すでに私たちが持つている著名監督者たちの演出手法に対する概念も、過去のものとなつてしまう虞れがある。
双葉十三郎の『我等の生涯の最良の年』に対する映画評は、このままでは、わかりにくいところがあるので、次回、若干の補足的説明をおこなうことにする。
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