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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『日本人は本当に無宗教なのか』に長文の感想文をいただいた

2019-11-19 08:25:35 | コラムと名言

◎『日本人は本当に無宗教なのか』に長文の感想文をいただいた

 数日前、畏敬する思想家の塩崎雪生氏から、拙著『日本人は本当に無宗教なのか』についての感想文を拝受した。感想文と言っても、ただの「感想」ではない。A4用紙一〇ページに及ぶ本格的な「書評」である。いや、書評というのも当たらない。書評という形をとって、塩崎氏が、その思想の一部を披歴された貴重な文章である。
 以下、その文章を紹介させていただくが、長いので、何回かに分けて紹介する。なお、文章には表題がなく、小見出し等も付されていない。一行アキの部分は、引用にあたってもそのままとした。

拝復 先日は御新著御恵送いただき、誠にありがとうございます。さっそく一読しました。
 以下縷縷述べましたのは書評とも感想ともつかぬとはいえ、貴著繙読を通じて想い起こされたことを書き綴ったものです。あるいは貴殿にとつては苦笑を禁じえない記述も多々見受けられるかもしれませんが、御通読願えれば甚だ幸いに存じます。

 2015年のことですが、当方は某大学院で朱子の文集を読む演習を受講していました。朱子が門人の問いに答えた書翰を蜿蜿と読むというものでしたが、文中間々仏教についての言及がありました。ご存知の如く朱子学は排仏思想ですから、門人が仏教に対し浮気ごころを示すと、朱子に忽ち釘を刺されます。しかし朱子学そのものは仏教的思惟の上に立脚しているという側面は蔽い難いわけですから、大局から見ればきわめて滑稽な様相を呈してもいます。それはさておき、ある日、ある発表者が訳解しておりましたところ「怕生死」(シヤウジをオソる)という一文が出てまいりました。発表者が「しょうじをおそる」と訓みましたところ、担当教授が途端にヒステリックになって「ショージでもセージでもどっちでもよい!」と言い放ちました。当方はこれを聞いておやおやっと思いました。
 「生死」(シヤウジ)という語は梵語のsamsāraの漢訳語で、「輪迴」と同義です。つまり通常用いる「生死」(セイシ)とは意味するところがまったく異なります。担当教授はその相違を知らずに上記の言を発したのでしょう。すなわち、丨生死」を単に「生き死に」を意味するとだけ解しているわけです。
 生死(=輪廻)を怕れることは、発心の端緒とよぶべきであり、重要きわまりない事柄です。生死は仏教存立の前提です。マルクス主義にとっての資本主義のようなものです。生死がなければ仏教を唱える必要もないのです。なぜ生死を怖れるのか。それは来世にどのようなものとして生まれるのか誰にもわからないからです。親鸞も「人身受け難し」と強調しています。単に生き死にを怖れて仏門に入ろうとする者などおりましょうか。仏門に入れば 永遠の生命を得て不死身になったりできるのでしょうか。仏陀ですら死亡しています。そのようなことはいかなる痴愚の徒でもわかることです。あるいは生きるも死ぬもへっちゃらの心境になるのでしょうか。仏教はそんな阿Qの「精神勝利法」みたいなものではなく、 もっと具体的なものです。生死(=輪廻)を怖れればこそ、仏道修行を志すわけです。なぜなら、仏教は輪廻からの解脱を説く教えだからです。仏教は輪廻からの解脱のみをひたすらめざす教説です。それ以上でもそれ以下でもありません。仏陀は死亡しましたが、輪廻からは解脱したわけです。もしも解脱していなければ仏教は虚説ということになるでしょう。
 しかしまことに奇妙なことに、この平易な重要事項に注意を向けられることは絶えてないというのが現在の(少なくとも日本の)実情です。真摯に仏教について考えようとする人が誰もいないのです。上記の教授などは朱子学畑の探究心に乏しい迂儒にすぎませんからおよそ取るに足りませんが、当方が見たところ仏教専門家であってもほぼ大差はありません。
 2009年に当方は大蔵出版から『地蔵十輪経』の註釈書を刊行しましたか、同書に附した解題において約100頁にわたる大乗仏教批判を縦横に展開しました。そして余吻に『地蔵十輪経』漢訳者である玄奘についても筆誅を加えています。信じ難いことですが玄獎は「輪廻」という概念が理解できていませんでした。「生まれ変わり」と「よみがえり」の区別ができていないのです。仏教伝道史上の大偉人と称される玄奘ほどの人物がこのていたらくなのですから、他は推して知るべしであります。「輪廻」はきわめてインド的な観念ですから漢民族には充分理解されなかったとしても異とするに足りないのかもしれませんが、いのちがけでインドに渡ったかの玄奘ですら、となるといささか悔り難い事態とは申せましょう。
 そもそも日本人が「輪廻」という考えを受容したのはいつごろからなのかはわかりかねますがおそらく当初からインド的捉えかたはしていなかったのは確実でしょう。現今でも 「地獄に堕ちる」などという表現をしますが、その場合、通常故人がその故人生前の姿のままに地獄に趣くと捉えてはいないでしょうか。しかしこれは「輪廻」に対する無理解の最たるものです。亡くなった故人は地獄に趣く場合、地獄において呱々の声をあげて生まれるのです。別人格となるので前世の記憶などはなにもありません。地獄に生活しているあらたな父母の間に赤ん坊として生まれるのです。そして出生直後から無理無体に責め苦にさいなまれるわけです。先日報道された連日連夜の虐待のすえに無残にも悪鬼羅刹めいた両親にあやめられてしまった幼児のように。

 1995年に地下鉄サリン事件が起きましたが、そのころ当方は「日本宗教学会」に所属しておりました。当時学会では事件発生以前にはオウム関連の研究発表が盛んになされ、事件 以後にはなにごともなかったかのごとくオウムについては誰しも口を閉ざすというありさ まで、その厚顔無恥ぶりに堪え難さを覚えたため、間もなく退会しました。事件をめぐって学会の統一見解を示すなどということもなかったため、会費を払ってまで会員をつづけることに意義を見出だせなかったのです。いま想い返してみれば、当方自身が会員としてなんらかの動議をおこすということもできたのではないかとも思いますが、おもだった新興宗教の代表者などが会員として麗々しく名を連ねているという状況下においてどれだけの効果を期し得たでありましょうか。当方の退会を愚かしいと思う向きもあるようですが、そのような人たちは、おそらく学会加入を「業績」産出・地位確保のための手段としか捉えていないのでしょう。いかなる事件が発生しようと馬耳東風、余人もほとんど関心を示さぬマニアックな瑣事玩弄に没頭しては「業績」とやらの蓄積に耽り、地位保全に汲々としている醜態は見るに耐えません。あれだけの無軌道な悲惨事が出来(しゅったい)しながら、なんらの意志発動もないということは、当方にとっては学問の死とすら思われます。
 貴殿はおそらくすでにお忘れになっておられるかと思いますが、いまから25年ほど前「歴史民俗学」の合宿の際、貴殿は当方に対し「恒産なくして恒心なし」とおっしゃいました。無論当方の窮状を思いやられてのご忠告であったことは充分に理解しております。しかしながら当方は思うのです。恒産を得て、その上で将来され得る恒心とは、あるいは単にその恒産存続のみに腐心する可憐なる精神に過ぎないのではなかろうかと。
 マックス・ウェーバーは『職業としての学問』のなかで、「取るに足りないような微細な発見をつづけてゆくことこそが学問のあるべき姿なのだ」といったような主旨の言葉を述べています。そしてまた「講壇上に指導者を求めてはならない」と強調しています。これらの発言を冷静に考えてみますに、確かに「職業」としての「学問」であったならば、ミクロな研究を日常的にひたすら繰り返しつづけ「業績」をこまめにまとめて日々の生活の資を得ることに尽きるのだろうと思います。そういった生活本位の者たちに「指導者」たれと求めること自体所詮悖理であるのでしょう。当方が「日本宗教学会」に期待したことはおよそ見当はずれの買いかぶりであったのかもしれません。しかしなから、当方は心底思います、「学問」とは「職業」ではないのだと。とりわけ宗教研究に関しては、職業臭を持ち込むやや途端に「学問」そのものの堕落が露わになります。宗教研究は畢竟「信仰」と関わらざるをえないからです。そしてまた、「学問」を殺し特定宗派に御用奉仕することなどは愚の骨頂の最たるものです。   【以下、次回】

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