◎アメリカ映画は構成がすこぶる合理的である
双葉十三郎『アメリカ映画入門』(三笠文庫、一九五三)から、「アメリカ映画の特徴」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
次に、アメリカ映画を鑑賞する場合、特に戦後親しまれるようになつた若い方々に於て、是非とも知つて置いて頂かなければならないのは、アメリカ映画の形式、即ち、映画構成上の方法・形式である。
第一に、構成の合理性である。アメリカ映画劇は、その全体構成に於て頗る〈スコブル〉均斉がとれ、合理的な展開が採られている。日本映画の様に、途中で話の辻褄〈ツジツマ〉が合わなくなつたり人物が消えてしまつたりすることがない。飽くまで正確に計算され、輪廓も明瞭で、きちんと纏められているのが常である。これは、原作を入手してから、脚色、撮影台本へと至るまで、数人乃至数十人の手を経て、徹底的に捏ね〈コネ〉まわされ、十二分に検討されて、はじめて撮影の現場に持ち込まれるからで、脚本にしても一作品を、二人乃至三人で共同して書く場合が多く、文珠の智慧の諺どおり凡ゆる手段をつくすので、隙もないし面白さもたつぷりな作品に仕上げられるわけである。要するにぴつたりと割切つてしまうという合理性、それが、如何なる場合のアメリカ映画にも当嵌まる〈アテハマル〉のであつて、フランスやドイツの作品に見られる様な、一部分は素晴らしいが、全体としてみると片輪である、といつた現象は稀にしか起らない。小さいなりに、詰らないなりに、夫々均斉よくまとめられているのである。
この構成の問題で、ひとつ附言して置きたいのは、所謂ヤマ場についてである。ミセ場といつてもいい。又、スペクタキュラアな狙いと云つてもいいが、アメリカ映画に於ては或る場面に徹底的に力を注ぐのがひとつの定石〈ジョウセキ〉になつている。たとえば、暴風雨を採入れた「ハリケーン」の様な作品がある。南海のラヴ・ロマンスが全体の基調ではあるが、何もかも吹飛ばしてしまう颱風場面をヤマ場にしようということになると、この場面を徹底的に大規模に撮りあげ、これだけでひとつの話題になる様に企画する。即ち、その作品の何を呼物〈ヨビモノ〉にして売るかを明瞭にし、その目的に全力を尽すのである。日本映画の場合であると、前述の技術や資本の関係で、それが難かしい。レヴュウ場面や颱風や大地震の様な特殊な条件を必要とするものは別として、普通の作品でも、その力点を置くべき場面の追求が足りない。例えば、悪漢を追跡する猛烈なスピィド場面があるとする。アメリカでは、それを一巻なり二巻なり、全体の長さから云つて不均斉なくらい 大きな分量に盛り上げて、手に汗を握る呼物場面とするが、日本映画では、其処〈ソコ〉まで押し通さない。いい加減のところで誤魔化して〈ゴマカシテ〉しまう。従つていい印象は得られないことになる。【以下、次回】