◎美濃部達吉、帝国憲法から新憲法への法的継承性を否定
今年にはいって、加藤典洋〈ノリヒロ〉氏の『敗戦後論』(講談社、一九九七年八月)を読み直してみた。この本が世間で話題になったのは、つい最近のことと思っていたが、それから既に二〇年も経っていることに驚いた。冒頭にある学校対抗の「相撲」の話などが、妙に懐かしかった。
同書所収「敗戦後論」(初出は一九九五年一月)のⅡ「ねじれと隠蔽」には、新憲法制定時における、憲法学者・美濃部達吉の言動についての記述がある。
今回、再読して気づいたことだが、加藤氏のこの記述は、黒木創〈ソウ〉氏の『リアリティ・カーブ』(岩波書店、一九九四年八月)を踏まえたものであった。その本は、読んだことがなかった。早速、図書館に行って借りてきた。
黒木氏の本には、八つの文章が収められているが、最後に置かれている「死者の月」のみは、この本のために書き下された文章であるという。その文章のうち、5「三つの憲法」に、美濃部達吉への言及がある。少し、引用してみよう。
美濃部達吉は、枢密院でただ一人の、憲法改正案への反対者となった。
四月二二日〔一九四六年〕、第一回枢密院帝国憲法改正案審査委員会の席上で述べられた彼の反対意見は、およそ次のような論旨である。
1 ポツダム宣言を受諾した時点で、明治憲法第七三条に規定された憲法改正の条項は、無効となっている。
2 新憲法によって廃止される枢密院がその新憲法についての諮詢を受けたり、貴族院がそれを審議したりするのは、不適当である。
3 国民が制定すると前文で述べられている新憲法が、政府によって起草され、限られた修正しか議会には許されず、しかも天皇の「御裁可」によって公布されるのは、おかしい。
彼はさらに付け加えて、「速ニ政府ハ本案ヲ撤回スルヲ可トスベシ」。また、「来ルベキ議会ニ於テ憲法改正ノ方法ヲ議シ」、その上で、新たな手続きによって新憲法が制定されるべきであると語気強く述べている。そして、第二回委員会では、新憲法の最終決定は「国民投票」によるべきであると主張している。(村川一郎編著『帝国憲法改正案議事録』)
これはどういうことだろうか。
ここで美濃部は、帝国憲法から新憲法への法的継承性を否定しており、新憲法はいわば〝革命法〟として制定するほかないと主張していることになる。一方、政府側関係者は、この「政府案」が事実上はアメリカ側が起草したものであることを、表だてて論議するわけにはいかなかった。たとえもともとはGHQの起草によるものではあっても、それが「天皇」による憲法改正議案提出の勅令、また「天皇」による新憲法の公布を通して正統性を確保することこそが、このきわどい法的・政治的トリックの鍵となる。にもかかわらず、美濃部は、その「天皇」の法的位置づけこそを突いているのだ。
また、彼は憲法改正案第三七条「国会は、国権の最高機関」との規定について、「国会ハ国民ヲ代表スルモノナレバ、最高機関ハ国民ニシテ国会ニ非ズ」とも論駁している(第六回帝国憲法改正案審査委員会)。つまりは、彼は急進的な国民主権論者ということなのだろうか?
だが、彼の主張には、なにかもっと複雑な性格がある。〈二二九~二三〇ページ〉
美濃部は枢密院の帝国憲法改正案審査委員会で唯一の反対者となり、賛成多数によって議決された案件は、本会議にまわされる。枢密院本会議には、天皇が臨席する。幾人かの発言がなされたのち、起立による採決に移ったが、ここでも美濃部ただ一人だけが起立しなかった(四六年六月八日)。
この年正月に「人間宣言」を発し、新憲法発布の当事者に予定されている天皇の前で、枢密院議事録には反対一名が記録されたのである。
一〇月、衆議院、貴族院での修正を経て、憲法改正案はふたたび枢密院に諮詢されたが、このときは、美濃部は委員会、本会議ともに欠席している。〈二三六ページ〉
黒木氏は、美濃部達吉の枢密院における言動を紹介することによって、日本国憲法の成立の背後に、「きわどい法的・政治的トリック」があったことを指摘したのであった。この指摘は重要である。しかし黒木氏のこの指摘が注目され、それゆえに、『リアリティ・カーブ』という本が評判になることはなかったと記憶する。
一方、加藤典洋氏は、黒木氏のこの指摘を受けながら、「敗戦後論」という文章を書いた(初出は一九九五年一月)。その反響は大きかった。なぜか。それは、加藤氏が、敗戦にともなう「ねじれ」という問題意識を持ち、その問題意識に立って、「美濃部達吉」を、「日本国憲法」を、そして「敗戦」を論じたからである。【この話、続く】