礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

新年号誤報、「光文」事件とその証言

2017-12-26 05:46:19 | コラムと名言

◎新年号誤報、「光文」事件とその証言

 昭和元年(一九二六)というのは、一二月二五日から同月三一日までしかなかった。大正天皇が同年一二月二五日午前一時二〇分に崩御し、その日のうちに、年号が「昭和」に改められたからである。
 さて、この日の早朝、東京日日新聞〈トウキョウニチニチシンブン〉が、号外および朝刊で、新年号は「光文」であるとスクープし、結果的に、これが誤報となるという事件があった。いわゆる「光文事件」である。
 この事件については、東京日日新聞のスクープがあったので、当局が第一案であった「光文」を撤回し、別案の「昭和」を採用したのだという説が、長く信じられてきた。その一方、「光文」という案が存在したのは事実だが、最初から有力案ではなく、東京日日新聞の「光文」報道は、あくまでも誤報にすぎなかったとする説にも説得力がある(ウィキペディア「光文事件」)。
 この事件に関し、本日は、『サンデー毎日臨時増刊』一九五七年(昭和三二)二月一五日号から、「〝光文〟事件の真相」という文章を紹介してみたい。

三 十 年 の 謎
 〝光 文〟事 件 の 真 相
  =昭和の元号が制定されるまで=   川 辺 真 蔵
 
  ――報道戦と新聞界の消長―― 【略】
  ――先帝崩御の夜の編集局――
 葉山に御静養中であった大正天皇の御病態が入沢〔達吉〕侍医頭〈ジイノカミ〉の談話として、「気管支炎の御病状を拝する」旨を公表したのは多分大正十五年〔一九二六〕も終りに近づいた十二月十一日でなかったかと記憶する。それから十七日には御重体、十八日には、「リンゲル氏液注入も効果著しからず」とつぎつぎに病状重体化の発表が行われ、宮内省の大官はいうまでもなく、閣僚もみな葉山につめ切る始末で、国をあげて国務は一時中止した観があった。したがって新聞社の仕事も御病態の一進一退を報道することと、天皇万一の場合についてのいっさいの準備をして置くことに限られることになった。当時東京日日(今の毎日)は城戸元亮〈キド・モトスケ〉主幹の下に、報道委員会を組織して島崎新太郎副主幹が委員長、関係部課長が委員として本部を編集局内の一角に設け、企画と報道を集める中心根拠としたが、さらに葉山の現地には、楢崎観一内通部長を総指揮官に、新妻莞〈ニイヅマ・カン〉社会部副部長、森田親一政治部副部長を補佐役として二十名前後の社員を派遣し、遺憾なく活動力を発揮させるという用意周到の陣を布いたのであった。私はその頃永原茂樹君と二人の整理部長だったので、夕刊と朝刊を交互にわけて紙面整理の責任に当ることにしていた。
 さていよいよ崩御の当日のことである。その月私は朝刊編集の番であった。夜に入ってから刻々形勢が重大化して来ていたが、真夜中になって、いつ大へんの発表があるか予測ができない状態になったので、夕刊しめ切り後一時帰宅していた永原君がまた出社して来ていた。私は御大変の際に処する社説その他を体裁よく整理するため、そのほうに専念することにして、報道関係の編集は永原君に代ってやってもらうことにした。社説の原稿は当時社友であつた竹越三叉〈タケコシ・サンサ〉氏が起草したものであった。
 崩御は二十五日午前一時二十五分、そしてその発表は午前二時四十分であった。この発表が葉山の現地から電話でくると社内がテンヤワンヤの有様であったことはいうまでもない。新聞の本紙をつくる一方、号外も出した。しかも深夜であるから売る目的ではむろんない。家並〈イエナミ〉にたたき起して無料でこれをくばり回る手配をしたのであった。
 こうしていよいよ本紙の大組〈オオグミ〉ができあがり、降版〈コウハン〉に回したのは午前四時を過ぎた頃であったろうか。印刷機の音が工場に聞え出すとともにホブと一息いれた頃には、実際誰も彼もみな身も心もクタクタになっていた。
 ――翌朝の得意と失意と――
 しばらくのあいだ、私はガランとした報道本部になっていた室の片すみで、椅子にもたれたままウトウトしていた。そのうちに昨夜早く帰っていた社員がボツボツ顔を出して来た。その当時政治部副部長で、後に読売に転じ、さらに中央大学の理事となって総務局長をやった四方田義茂君が出て来たのは午前九時頃でもあったろう。四方田君は非常にきげんがよかった。「今朝の新聞はよかったですよ、まず配達が早かったんです、それにすべてがそろっていましたよ、年号の出ているところは他にありませんよ、実際よかったですよ」と新聞のできばえをたたえていた。年号とばいうまでもなく「元号は光文」に決定したことを伝えた記事であった。その頃社内では、これが一つの大スクーブであると信じて、誰もそれが大きい問題になろうなぞと疑うものはなかったのである。
 ただそのうちに、後で考えれば、きわめて気にかかることが一つあった。それはその朝になってもまだ枢密院議員が、葉山の御所から退出していないということであった。枢密院議員が一人も御所から退出していないということは、枢密院の会議がなお継続していると見ねばならない。枢密院の任務はもちろん他にもいろいろあったかもしれないが、最も主要な任務の一つは元号の制定にあることはいうまでもないところだ。その枢密院の会議がなお終らないうちに、元号を報道して、果してそれが成功するかどうか。実はその時そこまで周到に考え抜くことが、新聞人としてもつべき当然の心がけであらねばならぬといえるかもしれない。
 時が経つにつれて多少の不安が生じて来た。正午頃になってどこかの号外が出た。それには元号が「昭和」となっていた。そのうち葉山のほうから電話が来た。枢密院が散会した。元号は昭和と発表された。光文という元号は葉山の方からは送っていないはずだ。一体どこから出たのかという抗議である。それはそのはずで、この記事は葉山の現地から出たものでなく、東京で西村公明政治部長の手から出たものであった。しかもそれは確実なる筋から出たものとして城戸主幹に提出されたものであった。
 こうした次第で元号に関する東日〔東京日日新聞〕側の報道は社外では大きなミスとみなされるとともに社内では大きな責任問題となった。特に当時の本山彦一〈モトヤマ・ヒコイチ〉社長は皇室に対して最も深い尊敬を払っていた人だけに、自ら宮内省に出頭して陳謝の意を表明したばかりでなく、責任をとって社長の地位を辞任するといい出したのである。それからしばらくのあいだスッタモンダが続いたが結局、城戸主幹が一時退陣して閑地につく、島崎副主幹が委員長、私は当日整理の責任部長であったという理由でそれぞれ罰俸、西村政治、永原整理両部長はともに譴責〈ケンセキ〉ということで一段落した。しかしこうした事件のてんまつが社内の一般人心に及ぼした影響は決して軽いものではなかった。その頃、私はあるところで新聞界の元老馬場恒吾〈ツネゴ〉氏に会った。「君のところはえらい騒動をやっているね、速報が新聞の一つの使命となっている以上、時に多少のミスをやるのも止むを得ないよ。われわれだって随分経験していることだ。あんなに騒いだら社内の元気に影響してどうにもなるまい」馬場氏はこういっていた。それまで攻勢を続けて来ていた毎日側がその後ともなれば朝日、読売の攻勢に苦しまねばならなかったのは、この問題の直後において特に顕著であったように思う。【以下、次回】

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2017-12-28 01:15:57
昭和の元号は、『書経』からとったと聞いていています。
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