礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大野晋さんは思ったことを率直に言う人だった

2024-01-04 04:14:27 | コラムと名言

◎大野晋さんは思ったことを率直に言う人だった

 昨2023年は、いろいろな分野の本を読みあさった。印象に残った本、勉強になった本は少なくないが、中でも強く印象に残っているのは、12月に読んだ田中克彦さんの『ことばは国家を超える』(ちくま新書、2021年4月)である。
 このあとしばらく、同書の紹介をおこなってみたい。もちろん、紹介するのは、私が個人的に興味・関心を抱いたところである。
 最初に、同書の「あとがき」の一部を紹介する。

 本書では大野晋〈ススム〉、服部四郎さんについては、きびしい書き方をしたかもしれないが、すでに亡くなられたこの人たちに、どんなに深い親しみを抱いているかはおわかりいただけると思う。思いが深ければことばはきびしくなるのである。
 大野晋さんは誰よりもなつかしく感じられる人である。大野さんとの出会いは本書のなかでも述べてあるが、忘れられないのは次のようなことである。ぼくの一橋大学における師、亀井孝が亡くなってしばらくしてから突然電話がかかってきた。「おい田中くん。亀井はもう死んだんだよ。これからはキミはもっとぼくのことをほめて書いてもいいんじゃないか」と。
 亀井孝、大野晋、金田一春彦はいずれも東京大学国語学科の仲間で、それぞれの間にはさまざまな面での競争があったはずだ。ぼくは世間でよく話題になり、名著も出される大野さんには、わざとあてこすったような文章をよく書いた。それでも大野さんはきっとぼくの気持をわかってくれるだろうと思ったからだ。大野さんは、ぼくの書きかたが亀井孝への気くばりからだろうと考えていたらしい。しかしそうばかりではなかった。とにかく大野さんは、思ったことをずばり率直に言う人だった。ここに引いた電話はその一例である。
 次に服部四郎である。この方の専門はモンゴル語だから、いやでもかかわりができてくる。学生時代に、あまりよくは知らないこの人に、カストレンのブリヤード語についての本を見せていただけないかと頼んだところ、マイクロフィルムをとつていただいた。その親切は意外なほどだったが、ほんとに親しく話をしたのは、一九七六年の第三回モンゴル学者会議で、ウランバートルでだった。その時は、氏が満洲国に留学時代、ハイラルで知りあい、結婚されたという、亡命タタール人の娘であった奥さんと御一緒だった。服部さんは、「近頃女房は足が悪くてね、毎晩私はこの人の足をもんでいるんですよ」と話された。
 その奥さんは、滞在中のある日、参加者一同草原を散歩していたとき、突然、「田中さん、ちょっと私の前に、ここに来なさい」と声をかけられた。私はおとなしくそれに従った。すると、この方は、「田中さん、あなたは間違っています。世の中は何でも自分の思うようになると考えているでしょう。それは間違いです。私にも、あなたと同じ年の男の子がいるのでよくわかります。」というお話だった。この人はひそかにぼくの言動を観察していたのだ。しかしぼくのどこに「世の中は自分の思い通りに」が現れているのかわからないし、そもそも服部さんにそのような息子さんがいるのか、ぼくは全く知らなかったし、知ろうとも思わない。
 けれども奥さんのタタール人の親せきには多くの同族がロシアからイスタンブールに逃げて来て、先生はその生活のめんどうを見ておられるのだという話を聞いた。そして服部 さんにも、いろいろな苦労があるんだと知ったのである。
【中略】
 本書に登場するこの人たちのことを、自分の学問的な好みから、批判的に書いたとしても、決して悪意をもって書いたのではない。ぼくには心服し、尊敬している人を、そのままほめちぎったりあがめたりしたくはないという、ちょっとゆがんだ気持ちがある。〈240~243ページ〉

 含みの多い文章である。それゆえに読み手の関心を引く。
「大野さんは、ぼくの書きかたが亀井孝への気くばりからだろうと考えていたらしい。しかしそうばかりではなかった」という箇所がある。「そうではなかった」とは書かず、「そうばかりではなかった」と書いている。田中克彦さんは、自分に、「亀井孝への気くばり」があったことを否定していない。
 大野晋は、田中克彦さんには、「亀井孝への気くばり」があることに気づいていた。亀井孝の死後、そのことを、ズバリ、電話で伝えた。「大野さんは、思ったことをずばり率直に言う人だった」と田中さんは言う。大野さんには、鋭いところがあった、と認めているのである。田中さんというのは、なかなか正直な方だと思う。
 亀井孝(かめい・たかし、1912~1995)というのは、国語学者・言語学者で、一橋大学名誉教授。田中克彦さんは、一橋大学の大学院で、亀井孝の指導を受けた。ちなみに、田中さんも、一橋大学名誉教授である。
 さて、田中克彦さんは、「思いが深ければことばはきびしくなる」という信条を持っておられたようだ。「ぼくには心服し、尊敬している人を、そのままほめちぎったりあがめたりしたくはないという、ちょっとゆがんだ気持ちがある」とも言っている。それにもかかわらず、「大野さんはきっとぼくの気持をわかってくれるだろう」と、田中さんは考えていたらしい。
 しかし、これは自分本位の希望的観測というものである。大野晋は、田中さんの「ゆがんだ気持ち」など、理解していなかったし、理解する気持ちもなかったに違いない。
 服部四郎の夫人であるマギレさんは、田中克彦さんを呼びつけ、「あなたは間違っています」と指摘したという。マギレさんは、田中さんの日ごろの言動を観察し、田中さんの「ゆがんだ気持ち」に気づき、それを本人に指摘したのではないだろうか。もし、そうだったとすれば、マギレさというのは、鋭い人であり、また厳しい人でもあったと思う。
 なお、田中さんは、服部四郎夫人の名前を「マギレ」と記している(本書243ページ)。ただし、インターネット上では、夫人の名前は、「マヒラ」として紹介されている。

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