◎戸坂潤とイー・ザピール
ザピールとライヒの『フロイド主義と弁証法的唯物論』(京都共生閣、一九三二年三月)を紹介している。本日はその三回目(最後)。
本日は、戸坂潤の『イデオロギー概論』から、イー・ザピール(I. Sapir)の論文「フロイド主義、社会学、心理学」に言及している部分を紹介してみたい。
フロイド主義精神分析は無論、個人精神の、広義に於ける個人意識の、分析である。なる程その際、個人は単なる個人と考へられずに、正に社会に於ける・社会的・個人と考へられてゐる。それであればこそ、検閲や抑圧・錯綜や昇華の概念も成り立つことが出来た。だが、この個人の有つ意識は、吾々の言葉に従ふならば、あくまで個人的意識であつてそれ以外の意識の概念ではない。といふのは、意識――それは個人が所有するのであるが個人によつて所有されるといふ点にその性格があるとは限らない――の概念は、専らそれが個人の所有であるという限りの意味に於てのみ、把握されてゐるのである。この意識は如何に社会によつて制約されると考へられてゐても、制約される意識自身が初めから個人的意識の概念によつて制約されてゐるから、社会的といふ規定はすでにこの意識に加へられるべく余りに立ち後れがしてゐる。だからこそフロイド主義による個人の意識――精神――に於て、元来その社会的性格は至極表面的・付加的であらざるを得ない。――フロイド主義精神分析は、個人心理学的方法を以てその方法とする*。これが今のカリカチュアの本質なのである。
*吾々はこの点及び他の点に就いて、I. Sapirがフロイト主義に加えた批評に同意出来る(I. Sapir, Freudismus, Soziologie, Psychologie. Unter dem Banner des Marxismus, Ⅲ, S. 937 f. Ⅳ, S. 123 f)。
戸坂潤の『イデオロギー概論』も、ザピールの論文も、部分的にしか読んでいないので、趣旨はよく理解できなかった。もっとも、基礎的な素養を欠いているので、両者をよく読んだとしても、たぶん同じことであろう。
ちなみに、ザピール論文を収めた植田正雄訳『フロイド主義と弁証法的唯物論』(京都共生閣)が出たのは一九三二年(昭和七)三月で、戸坂潤の『イデオロギー概論』(理想社出版部)が出たのが同年一一月であった。戸坂は、同書で、植田訳『フロイド主義と弁証法的唯物論』について言及していないが、ザピール論文の植田訳を参照していた可能性もある。
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