礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この映画のモチーフは敗戦と天皇の処遇か

2024-05-24 01:00:20 | コラムと名言

◎この映画のモチーフは敗戦と天皇の処遇か

 黒澤明監督は、戦後版『虎の尾を踏む男達』に、どういう着想を盛り込んだのか。この作品に、どういうメッセージを託そうとしたのか。
 この問題については、もう一度、関係文献に当たった上で検討しなければならないところだが、今、ほかに調べ物があって、その余裕がない。
 とりあえず今回は、当ブログにおける過去の記事を、ふたつ引用し、それぞれに若干の補足を加えることにしたい。本日、引用するのは、2015年2月25日の記事「映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判」である。

◎映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
 今月二二日〔2015・2・22〕の東京新聞書評欄は、中村秀之氏著『敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画』(岩波書店、二〇一四年一〇月)を採り上げていた(小野民樹氏評)。また、同日の毎日新聞書評欄は、矢作俊彦氏著『フィルムノワール/黒色影片』を採り上げていた(池澤夏樹氏評)。
 この二冊の本には、共通点がある。それは、黒澤明監督の映画『虎の尾を踏む男達』(一九四五年九月製作、一九五二年四月公開)が登場することである。ふたつの書評においても、評者はそれぞれ、この黒澤作品について言及している。
 かつて私は、DVDで、『虎の尾を踏む男達』を鑑賞したことがある。畏敬する映画評論家の青木茂雄氏が、かねて、この映画を激賞していたからである。見てみて、大河内傳次郎の演技には感心したが、映画自体は、それほどの傑作とは思えなかった。
 ところが、小野民樹氏(大東文化大教授)は、前記書評の中で、次のように書いている。
《一九五二年四月二十八日に、「案外ひっそり」と独立を回復した以後の数年間「ポスト占領期」の日本映画の重厚な考察である。まずは、独立四日前に公開された『虎の尾を踏む男達』の不思議なラストシーン。著者はこの映画撮影中に8・15を知ったという黒澤明自身の流布した「神話」を文献資料によって覆し、敗戦の心境が既に読み込まれた映像だと論証する。義経はいまだ処遇不安定な天皇で、大空に溶け込んでいった弁慶ら臣下の軍人達は調達した強力〈ゴウリキ〉を置き去りにしたのだ。》
 これは、注目すべき指摘である。特に、「大空に溶け込んでいった弁慶ら臣下」という指摘に驚いた。私は、中村秀之氏の『敗者の身ぶり』という本は、まだ読んでいない。しかし、同書には、どうもそういうことが書かれているようなのだ。
 一方、池澤夏樹氏は、前記書評の中で、この映画を「進駐軍が公開を禁じたことで知られる作品」と紹介していた。寡聞にして、その事実も知らなかった。
 いずれにしても、この『虎の尾を踏む男達』という映画は、もう一度、見てみる必要があると思って、一昨日、しまってあったDVDを再び取り出した。
 インターネット情報によれば、冒頭、タイトルの下に、「1945年9月製作」という文字が出るという話だったが、私の持っているDVD(コスモ・コンテンツ)では、その字が出なかった(「東宝」という社名も出なかった)。
 再度、これを観賞してみると、細かいところまで神経が行き届いた映画であった。脚本(黒澤明)やカメラ(伊藤武夫)が、きわめて高いレベルにあることも確認できた。
 さて問題は、ラストシーンである。たしかに「不思議なラストシーン」である。
 一行は、富樫の使いの者(清川荘司)から酒の提供を受ける。たちまち、野外で酒宴が始まる。榎本健一演ずる「強力」も深酒し、その場に寝入ってしまう。ふと目を覚ますと、山伏たち一行がいない。思わず、エノケンが走り出すところで、エンドマーク。
 このとき、空にたなびいている雲が、実に不気味である。やはり、山伏たち一行は、「大空に溶け込んで」しまったのか。ということは、仁科周芳〈ニシナ・タダヨシ〉(のちの十代目岩井半四郎)演ずるところの源義経もまた、「大空に溶け込んで」しまったのか。それとも、源義経のみは、東北へ向かって旅を続けたのか。
 前引のように、この映画において源義経は、「いまだ処遇不安定な天皇」に擬されているらしい。ということであれば、この映画のモチーフは、敗戦とそれにともなう天皇の処遇とである。「安宅関」は、これから始まるであろう「東京裁判」を予見したものということになるが、はたしてこの見方は妥当か。

 以上が、2015年2月25日の記事の全文である。
 中村秀之氏は、「弁慶ら臣下の軍人達」が「大空に溶け込んでいった」と見立てたが、DVDを見なおしたところ、この見立てには無理があると思った。源義経、そして弁慶らの臣下は、エノケンを置き去りにして旅立ったと見るほうが自然であろう。
 一方、この映画を「敗戦の心境が既に読み込まれた映像」とする中村氏の見方は当たっていると思う。源義経を「いまだ処遇不安定な天皇」とする捉え方も鋭い。おそらく黒澤明監督は、戦中版『虎の尾を踏む男達』に、そういう着想を盛り込むことで、これを、戦後版『虎の尾を踏む男達』に改編しようとしたのであろう。
「安宅関」は、これから始まる「東京裁判」を予見したものと書いたが、これは、あくまでも礫川の仮説である。この仮説に従うと、弁慶らの臣下は、富樫左衛門(とがしのさえもん)の部下たちによって、安宅関に連れ戻されたという見立てが可能になる(源義経は、東北への旅を続ける)。

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