◎必要以上の迎合の競争に浮身をやつさなかったか
田中耕太郎『教育と政治』(好学社、一九四六)から、「言論界の責任と其の粛正」という文章を紹介している。本日は、その三回目。
三
反省すべきことの二は言論人の責任である。彼等の多くは明治以来或は徒ら〈イタズラ〉に西洋思想の形骸のみを捕捉し、新奇のみを追ひ、流行に従ひ、或は社会大衆の卑近な要望への迎合を事とし来つた〈キタッタ〉のである。節操なき「転向」と巧妙な便乗が公然と行はれた。大衆の無定見と健忘性とは論壇に此等の徒輩の百鬼夜行のアナーキー状態を出現せしめた。確固たる見識と殉教的信念とは求め得られぬ故に、彼等は極めて容易に独裁に屈従する。往年のマルキシズムの独裁は一般民衆への智識階級の迎合である。近年の全体主義の独裁は官権への迎合である。両者共に我が思想界の根本的欠陥を暴露してゐるのである。
東條〔英機〕内閣の倒壊と共に言論の暢達〈チョウタツ〉が一つのスローガンとなつた。然し我々は暢達さるべき言論の内容を為す識見が言論界に存してゐたか否かを疑つたのである。
此の点に於て我々は有力な日刊新聞及び綜合雑誌経営者の態度を常に遺憾とせざるを得なかつた。如何に統制と検閲とが厳重苛酷であつたかは十分諒とする所であるが、それにしても彼等は残された最も狭い自由の範囲でもそれを十分活用して自己の主張を貫く努力を致したのであらうか。彼等は必要以上の迎合の競争に浮身をやつしてゐなかつたであらうか。其処には必要以上に軍と右翼の恐怖病に襲はれて迎合に終始した官僚と同じ軌道を歩まなかつたであらうか。多くの操觚者や学究達また絶滅してはゐない僅かの自由の範囲を用心深い態度で利用しなかつたか。或は良心に反する言説をなすより寧ろ純学理的問題に沈潜するか、或は黄金の沈黙を守る態度を採らなかつたか。綜合雑誌経営者達は執筆者の思想的経歴殊に転向者の場合にそれが十分納得出来る理由を以て為された良心的のものか将た〈ハタ〉人気取りや迎合に基くものなるかを問はず、単に百貨店の装飾のやうに徒〈イタズラ〉に顔振れを並べて大衆の興味を繋ぐ営業政策を採らなかつたか。
今や国是は軍国主義と全体主義を去つて、平和主義と民主主義に就かざるを得なくなつた。我々は希望する。世界政局の重圧の下に止むを得ずこれを強制されたといふ態度であつてはならない。平和主義と民主主義とが国際国内の両方面において根本原理たるが故に心の底からさう信ずるのでなければならぬ。然らざる限りそれは往年の転向者が司直の強要によつて手記を書かせられたのと同様の態度と云はなければならない。連合国側はこれを看破し得ない位遅純ではないのである。
我々国民も亦此の際操觚者流の巧妙な看板の塗り換へが行はれることを厳重に監視しなければならぬ。仮令〈タトイ〉彼等の口にする所が今後の日本の国際的及び国内的政策に合致するにしても、それが時勢迎合時局便乗の動機に出でてゐる限り(これから無節操者流の国際主義、平和主義への迎合が続出するだらう。既に其の徴候が認められる)彼等の跳渠〈チョウリョウ〉は道義国家の建設に百害あつて一利ないのである。何となれは思想的節操こそは言論人に対する最小限度の而して最大の要求、彼等自らが死守すべき生命でなければならぬからである。〈三四五~三四七ページ〉【以下、次回】
「彼等は必要以上の迎合の競争に浮身をやつしてゐなかつたであらうか」とある。ここで「彼等」とは、直接的には、日刊新聞経営者、綜合雑誌経営者を指しているようだが、官僚、操觚者(文筆家)、学究もまた、必要以上の迎合の競争に浮身をやつした「彼等」に含まれると理解した。
歴史は繰り返す。「安倍一強」体制が崩壊した今日、同体制に対して、必要以上の迎合を続けてきた官僚、マスコミ、言論人、学者らの存在が明らかになろうとしている。ただし、彼らについて、厳しい検証が始まっているというわけではない。
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