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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

新憲法は欽定憲法であると主張する人もあるが

2022-07-11 01:08:56 | コラムと名言

◎新憲法は欽定憲法であると主張する人もあるが

 柳瀬論文の紹介に戻る。『国家学会雑誌』第六二巻第七号(一九四八年七月)から、柳瀬良幹「美濃部先生と新憲法」を紹介している。本日は、その五回目。

 或は以上の説に反対して、日本国憲法は旧憲法第七三条に基いて制定された欽定憲法であることを主張する人もあるが、到底理由ある主張とは思はれず、又必ずしも以上の説よりも巧妙な説明とも思はれない。例へば最も熱心に之を主張される一人は磯崎辰五郎氏であるが、同氏が「美濃部博士の近著を読む」(一)(法律文化三巻五号)で述べられてゐるところは、唯日本国憲法が旧憲法第七三条に基く欽定憲法であるといふことばかりで、かく解する理由も示されなければ、又それから生ずる困難な問題についても何の解決も与へられて居らぬ。例へばかく解するとき直ちに起る問題は、一体憲法制定権を天皇の手から国民の手に移すような変革が旧憲法第七三条に依つてできることであるかどうか、又旧憲法第七三条では明かに許されない筈の草案に対する追加修正を議会が敢てした事実をどう説明するかであるが、氏は之に対して、それが憲法上できることかどうかは別として、憲法制定権者たる天皇ができると解釈して草案を議会に提出し、又議会が修正できるとして修正し、天皇が之をそのまま裁可された以上、それは有効と認めなければならぬと言はれる。けれども、この議論は、之を突きつめれば、憲法には一定の固有の意味はなく、天皇や議会の解釈次第でどうでもなるといふ議論であつて、到底承服することはできぬ。〔磯崎〕氏は日本国憲法の制定が旧憲法第七三条の手続に依つたのはそれが民定憲法たる建前から言へば矛盾であるが、司令部もそれを承認し、議会の議決と天皇の裁可とがあつた以上、有効な制定と認める外はないといふ〔美濃部〕先生の言葉に対して、「これは一体何を意味せんとせられるのか明瞭でない」と言はれてゐるが、右に述べた氏の議論は全く之と同じことで、若し先生の言葉を意味不明といふならば、氏の議論も同じく意味不明と言はなければならぬ。次に日本国憲法を欽定憲法と解するとき、それが憲法自身の前文と矛盾するものとなる点については、氏は問題の前文が日本国憲法の一部であるところから、それは憲法制定の経過を述べたものではなく、制定された憲法の性格を述べたものと見得ることと、その字句が「確定」であつて、「制定」でないこととを挙げて、必ずしも矛盾は生じないとせられてゐる。そのうち、前の点は自分も嘗て同様の考をとつたことがあり(法律時報一九巻一号)、今でも前文だけについて言へばそのような解釈も可能であると信じてゐるが、後の点に至つては甚だ怪しい。氏は「確定」とはただ国民が議会を通じて充分にその審議に参加したことだけの意味と解されてゐるようであるが、自分では発案権も最後の決定権ももたない者が唯賛否の意見を言ふ機会があつただけで自分で憲法を確定したと果して言へるであらうか。氏は確定といふ漢字ばかり眺められたから斯様な意見を思ひつかれたのであつて、若しその外に、前文にはなほ日本国民は従来の憲法を排除するといふ字句があり、又右の「確定」が英文では“do ordain and establish”となつてゐるのを知られたならば、到底このような議論はできなかつたらうと思ふ。最後に般も重大な問題は、日本国憲法を欽定憲法と解するときはそれがポツダム宣言と牴触するものとなる点である。この点は、若しもそれ故に日本国憲法は無効であると断ずるのならば兎も角〈トモカク〉、そうでない限り、それが牴触でない理由を説明せねばならぬのであつて、そして氏はその理由として、最終の政府の形態は国民の自由に表明する意思に依つて決定せらるべしといふ連合国の回答は、憲法の内容を変じて天皇主権から国民主権に改めることの要求を含むものではないことを挙げて居られるが、之は全く理由にならない。何故ならば、連合国の回答が直接憲法の内容の変更を命じたものでないことは氏の言ふ通りであるが、今問題は憲法の内容を変ずるか変じないかではなく、それを変ずるか変じないかを誰が決定するかであり、そしてそれは国民であるべきであつて、天皇であつてはならぬといふのが右の回答の意味であるからである。氏が証拠として引用される当時の憲法改正不必要論も、唯改正の必要がないといふだけの議論であつて、必要があるかないかを誰が決定すべきかを論じたものではない。それ故、若し日本国憲法の制定が旧憲法第七三条に基いて天皇に依つて行はれたとするならば、それは当然ポツダム宣言に牴触する疑〈ウタガイ〉があると言はなければならないのであつて、要するに、日本国憲法は欽定憲法と解することはできないといふ先生の意見は氏の議論に依つては少しも論破されてゐないのであつて、そしてそうである以上は、之と矛盾する旧憲法第七三条に準拠した制定の手続の法律上の意味は当然に先生の説の如く解釈する外に途がないのであり、又そのように解釈すれば充分に矛盾なく説明ができるのである。それは事実の問題ではなく、事実の意味の解釈の問題であり、説明の問題である。氏はこの点の先生の議論に対して頻りに事実上の証拠を求めて、天皇の裁可が認証であるならそれを認証と規定した法規を示せとか、帝国議会が日本国憲法を制定したのであるならそういふ権限を議会に与へた人を言へとか言つて居られるが、それはすべて之等の議論が事実の解釈である性質を理解しないことから来たことで、事実の叙述とそれの意味の説明との区別を理解しない間違だと思はれる。【以下、次回】

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