◎私は不幸にして先生と見解を異にする(田中二郎)
『国家学会雑誌』第六二巻第七号(一九四八年七月)から、田中二郎の「美濃部先生の行政争訟論」を紹介している。本日は、その三回目で、「二」の後半を紹介する。
司法権は専ら民事及び刑事の裁判を意味するものと解するか、司法権の中には行政裁判を含めて一切の法律上の争訟の裁判を意味するものと解するかによつて生ずる最も著しい差異は、前前によれば、民事以外の事件については、ただ法律の特別の規定により訴訟を提起しうべき権利を認められている場合にのみ、訴訟を提起しうべきものとするのに反し、後説によれば、一切の法律上の争訟について、裁判所に訴訟を提起しうべきものとする点にある。
美濃部先生は、「新憲法に於いても、憲法それ自身には、其の所謂司法権を一切の法律上の争訟に付いての裁判権と解し、又は行政権の違法の行為に依り権利を毀損せられれりとする者が如何なる行為に対しても常に裁判所に出訴して之を争い得べきものと解すべき何等の根拠も無い。」といわれ、「それ等の点に付いての規定は、新憲法は総てこれを法律の定むる所に譲り、自らこれを規定することは全く為して居らぬものと解すべきである」と述べておられる(時報四頁)。
この点については、私は、不幸にして先生と見解を異にする。司法権の語は、従来は、民事及び刑事の裁判権に限定されていたが、新憲法の下においては、「一切の法律上の争訟」を裁判し、その権利関係を確定する権限を意味するものと解すべきで、その例外は、憲法自ら〈ミズカラ〉が裁判所以外の機関に裁判権を与えた場合(一)に限つて認められるものと考えるべきであろうと思う。
かように解すべき理由としては、種々の点をあげることができる。第一に、司法の観念は従来は確かに民事及び刑事の裁判を意味した。それはヨーロッパ大陸諸国の司法の観念をそのままに認めたものに外ならなかつた。併し新憲法は、著しく英米法の制度・観念の影響を受けているのであつて、新憲法の下における司法が当然に、旧憲法の下におけるそれと同一に解されなければならぬという理由はないのではなかろうか。新憲法第七六条第二項の規定や第八一条の規定は、むしろ司法権の中に行政事件の裁判をも含むことを前提としているといいうるのではないかと考える。第二に、実質的な見地からいつても、新憲法は旧憲法と異つて、法治国家の原則を確立し、その保障的機能を司法権に期待していると見るべきで、基本的人権の尊重確保を第一義とする新憲法の下では、旧憲法の下におけると異つて、違法な行政処分に対する人民の救済は、一般的に且つ確実に保障されていなければならない(二)。行政権に対する基本的人権の裁判的保障が、憲法自体の中には、欠けているという解釈は新憲法の根本精神からいつて正しい解釋とは称しがたいのではないかと考える。新憲法第三二条に「何人も、裁判所における裁判を受ける権利を奪はれない。」とあるのは、単に民事刑事の裁判に限らす行政栽判をも含めて、裁判を受ける権利を奪われないという趣旨に解すべきであろう。第三に、形式的に新憲法の規定について見ても、第七六条第二項に、「特別裁判所は、これを設置することができない。」とあるのは、美濃部先生のいわれる民事刑事に関する特別裁判所という以外に、行政裁判所をも含め、これを設置することができないという意味に解すべき余地がないではないし、「行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。」とあるのは、却つて、行政機関は終審としてでなければ、裁判を行うことができないわけではないことを示す反面において、行政事件も原則としては、本来、司法権に属することを前提していると解せられないであろうか。又、憲法第八一条に、裁判所が行政処分の違憲の判断をなす権限を有することを規定しているのも、一般的に、行政処分の違法の判断をなす権限を有することを当然のこととして予定しているものというべきであつて、凡そ適法違法の判断を司法権より除外すべき理由はない。若し、それが司法権の範囲より除外されるべきであるとするならば、むしろ旧憲法第六一条の規定のように、憲法上、これに関する明文の規定を必要とするのであつて、新憲法にこの種の規定を欠いたことは、むしろ本則に戻つて、司法権の中に、行政裁判をも含ましめる趣旨と解するのが妥当であろうと思う。裁判所法第三条に、「裁刺所は、日本国憲法に特別の定めある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。」とあるが、その前段は、新憲法の右の趣旨を明らかにしたものであり、後段においてはじめて、行政裁判を含む法律上の争訟の裁判以外にも、法律において特に定める権限を有することを示したものと解せらせられる(三)。
尤も、ここでいう法律上の争訟というのは、単に一切の争という意味ではない。ここで法律上の争訟というのは兼子〔一〕教授も述べておられるように、法律の適用によつて解決調整さるべき、主体間の具体的な利益紛争乃至利害の衝突による事件を指すのであり、従つて、法の適用によつて、是非曲直を定め得ない、単なる政治的又は経済上の闘争や紛争は争訟ではないし、又法律的問題であつても、具体的利害の伴わない、憲法や法律の解釈論争の如きもこれに含まれない(四)。
従つて、司法権が行政裁判を含むという見解をとつたからといつて、美濃部先生が指摘されているように、「性質上全く裁判所の裁判に適しない例えば試験若くは選考に於ける合格不合格の決定の如き」が当然に裁判所において争われうるということにはならない。又、行政機関がただ前審として行政事件を審判し、この意味において司法権の一部に関与することは、憲法自らの認めているところであつて(七六条二項)、これを特に排斥する理由もない。これを司法権と呼ぶか行政権と呼ぶかは、単なる用語の問題にすぎないのではないかと考える。
(一)例えば、憲法第六四条による弾劾裁判所による弾劾裁判とか憲法第五五条による国会議員の資格争訟とかの如きがそれである。
(二)兼子、新憲法と司法(新憲法大系一〇巻)四四頁以下。
(三)いわゆる法律上の争訟以外に、例えば人事委員の弾劾裁判(国家公務員法九条)とか行政権に対する行政監督的機能(地方自治法一四六条の如きもその一例と見るべきか)とかを裁判所の期限とするが如き、その例といいうるであろうか。
(四)兼子、前掲書四六頁。