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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

新興俳句運動の嶋田青峰、早稲田署に拘引される

2019-10-07 03:56:14 | コラムと名言

◎新興俳句運動の嶋田青峰、早稲田署に拘引される

 昨日の話の続きである。小堺昭三『密告――昭和俳句弾圧事件』(ダイヤモンド社、一九七九)に、新興俳句運動の指導者のひとり嶋田青峰(一八八二~一九四四)が検挙される場面がある。本日は、これを紹介してみよう。

 その日――昭和十六年〔一九四一〕二月五日の朝の東京は、粉雪まじりのみぞれが降りつづく寒い朝であった。 ちょうど五年前の、永田町界隈を不法占拠する二・二六事件が突発した朝を思わせた。
 牛込区若松町の嶋田青峰の自宅に、早稲田署の三人の私服刑事がやってきたのは午前六時であった。
 応対に出た妻のフクさんが、愕然となってくちびるを顫わせた〈フルワセタ〉。
「おっしゃってください。なぜ、警察にゆかなければならないんですか、こんな朝早くに」 「警視庁からの突然の指令でしてね、自分たちではよくわからんのですが……『土上』の内容について訊きたいことがあるそうです」
「警視庁までつれてゆくんですか」
「いいえ、早稲田署まででいいんです」
 自分たちには何の責任もないという顔をして、三人の刑事は玄関口で襟をたてた安物のオーバーに、 首を寒そうに埋めていた。靴には泥がいっぱいついていた。
「とにかく、主人にお会いになってください。病気で寝ております」
 フクは二階へ案内した。
 青峰は明治十五年〔一九八二〕の生まれで、このときすでに六十歳であった。不精ひげが白かった。風邪をこじらせていて微熱があった。痰をつまらせたようにのどがゴロゴロ鳴っていた。それでも刑事は、立ったなりで同行ねがいたいと言う。枕もとに水薬の壜がある。
「ここですませていただくわけには……お医者さまからも外出はしないようにと、注意されておりますので」
 と頼む妻を無視して刑事はうながした。
「大丈夫ですよ、先生のようなご老体は、あたたかくして大事にしますから。さ、仕度してください」〈一二四~一二五ページ〉

 文中、『土上』とあるのは、俳句雑誌の名前である。当時、この雑誌を主宰していたのは嶋田青峰で、その発行所は青峰の自宅となっていた。
 青峰は、病中にもかかわらず、こうして早稲田署に拘引されていった。その数ページあとの部分を引用する。

 フクは早稲田署の特高係に、生たまごと牛乳を持参して哀願した。
「夫は病弱ですから毎日、これだけは差入れさせてやってください。でないと衰弱してしまいます」 ところが刑事は、特別食を与えるには願い書が必要だ、それを書いてこいと命じた。書き方がわからぬ彼女は、署の近くの代書屋へ走った。頤〈アゴ〉ひげをたくわえた代書人が、どういう理由の願い書だと横柄に訊いた。彼女の説明を聞いたとたん、この男は筆を投げ出してそっぽをむいてしまった。
「おまえさんの亭主はアカか。国賊じゃないか。そんなやつのための願い書なら、カネを積まれたって書きとうない。アカに生たまごと牛乳をやるのは贅沢だ。くたばってしまえばいいんだ!」
 街の代書屋でさえ、こういう態度に出る世の中になっているのだ。何が正しいことだかわかりもしないくせに、自分は忠良な国民の一人だと思いこんでいるのである。戦争中の国民のなかには、こういうのがいかに多かったことか。在郷軍人会の支部長、警防団長、愛国婦人会などの役職を買って出る人種のなかにも厭なやつがいた。〈一三二ページ〉

 ここで、小堺昭三は、「戦争中の国民のなかには、こういうのがいかに多かったことか」と述べている。小堺は、戦中における自分の体験を踏まえて、このように述べているのである。私は、戦後生れであって、戦中の体験はないが、子どものころ、周囲の大人から、戦中にいばりちらした「厭なやつ」の話を、いろいろ聞かされた記憶がある。【この話、続く】

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