礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桑原武夫「第二芸術」(1946年11月)を読む

2019-10-17 04:23:33 | コラムと名言

◎桑原武夫「第二芸術」(1946年11月)を読む

 本日は、桑原武夫の「第二芸術」を紹介してみよう。初出は、雑誌『世界』の一九四六年(昭和四六)一一月号であるが、『現代日本文化の反省』(白日書院、一九四七年五月)から引用する。
 全文の紹介ではなく、重要と思われるところのみ。また、仮名づかいなどは、『現代日本文化の反省』に従う。まず、七六~七八ページのところを紹介する。

 そもそも俳句が、附合ひ〈ツケアイ〉の発句〈ホック〉であることを止めて独立したところに、ジャンルとしての無理があつたのであらうが、ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難である。そこで芸術家の地位は芸術以外のところにおいて、つまり作者の俗世界における地位のごときものによつて決められるの他はない。ところが他の芸術とちがひ、俳句においては、世評が芸術的評価の上に成立しがたいのであるから、弟子の多少とか、その主宰する雑誌の発行部数とか、さらにその俳人の世間的勢力といつたものに標準をおかざるを得なくなる。かくて俳壇においては、党派をつくることは必然の要請である。しかも その党派成立の目的が勢力にある以上、一党派の中で有力になれば分れて別派をつくるのは自然であり、かくて各地方に中天狗、小天狗が生じる。俳句雑誌は現在すでに三十数種あるといふ(俳句研究、六月号)。芭蕉自身も党派を作つたが、たゞ作品がよかつたので彼を党人視する人が少ない。(しかし、其角、凡兆、越人などが晩年の芭蕉から離れたことは注意を要する。)以後何々庵第何世といふやうなことが流行したのも、この要請によるのである。たとへば虚子、 亜浪といふ独立的芸術家があるのではなく、むしろ「ホトトギス」の家元、「石楠〈シャクナゲ〉」の総帥があるのである。小説界にも昔は硯友社とか赤門派、三田派などといふものがあつたが、今はさすがになくなつた。石川淳氏でも坂口安吾氏でも友人はあらうが、小説家としては独立人である。ところが俳人の大部分はいまだに党人である。何々庵何世とはいはないが、精神は変つてゐない。げんに「讀賣新聞」八月二十三日号には、俳句講座の広告に「池内友次郎先生(虚子氏令息)指導」とあつた。廣津和郎先生(柳浪氏令息)などとはいはないであらう。
 党派といつたが、近代的政党のやうではなく、中世職人組合【コンパニオナージユ】的なのであるから、そこには当然神秘化の傾向が含まれる。定まつた統領があつても、神秘化するためには、あたかもヨーロッパ中世の職人組合がそれぞれ特定の保護聖者をいたゞいてゐたやうに、古い権威を必要とする。その聖者が芭蕉なのである。さび・しをり・軽み等々はその経文である。芭蕉自身がこれらの言葉に明確な定義を与へずにおいてくれたことは、幸ひであつた。「私と俳句と自然の偉霊とは三にして一である」(亜浪)などといふ言ひ方が、こゝではいまも通用してゐる。
 神秘的団体においては上位者が新しい入団者に常に説教することが必要とされる。かくすることによつてその権威が保たれるのである。事実俳人ほど指導の好きなものを私は知らない。俳三昧、誠をせめる、松の事は松に習へ、人間の完成、等々。ところで行住坐臥すベて俳諧といふやうな境地は、封建時代においてさへも専門俳人以外には実行不可能なことであつた。さういはれた人は、その教へが自分たちには不可能事と思はれるので、却つてそれを説く人を尊敬するといふことになる。しかし、さうしたことを教へる人がみづからそれを実践し得るものかどうか。【以下、中略して次回】

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