◎『市民ケーン』のオリジナル脚本を読む
昨日の続きである。『シナリオ「市民ケーン」(オリジナル版)』(世界映画資料別冊、一九六二年二月号)によって、映画『市民ケーン』(RKO、一九四一)のオリジナル脚本を、少し読んでみたいと思う。
かつて、南雲堂から、「英和対訳シナリオシリーズ」というものが出ていた。その「24」、南雲堂編集部編『市民ケーン』(一九六六)が今、机上にある。読んでみるとわかるが、これは厳密に言えば、「シナリオ」ではない。つまり、映画を作るための「シナリオ」ではなく、すでに出来上がった映画作品について、その場面やセリフを再現したものである。
一方で、世界映画資料別冊のシナリオ「市民ケーン」(オリジナル版)は、文字通りの「シナリオ」である。これは間違いなく、『市民ケーン』という映画を作るために用意されたシナリオである。
そのオリジナル脚本から、ケーン少年(六歳)が、コロラドの田舎から都会に留学する(させられる)ことになった場面を見てみよう。
一九八〇年
昼。
果しなくひろがる目もまばゆいばかりに白い雪の原野。六才のチャールズ・フォスター・ケーンのすがたが現れる。かれは、スクリーンから観客に向って雪を投げつける。
かれは、小さい旅館の建物に向って投げている。
それに看板がかかっている。
〝ケーン夫人の旅館。最高の食事と部屋。お問合せ下さい〟
チャールズ・フォスター・ケーンの雪ボールが看板に当たる。テャールズは新しいボールを作る。
【一行アキ】
客間。二八才のケーン夫人が窓か息子を眺めている。
ケーン夫人(叫ぶ)『チャールズ! 気をつけなさい』
サッチャーの声『ケーン夫人………』
ケーン夫人(窓から叫ぶ)『チャールズ、えりまきをもっときつく首にまきなさい』
子供がかけて行くのが見える。ケーン夫人がふりむく。彼女の顔。意志のつよそうな、しかし善良そうな苦労人の顔がある。
サッチャーの声『私の考えでは、かれに言わねばなりません………』
カメラが後退する。テーブルのかたわらにサッチャーが立っている。それは二六才の傲慢な男である。
テーブルには、かれのシルクハットと書類が置いてあった。
ケーン夫人『私が今、この書類に署名します。サッチャーさん』
父のケーン氏の声『お前さんたちは、私が子供の親父だということをまったく忘れてしまっている』
この声に、ケーン夫人とサッチャーは声のほうを向く。カメラはさらに後退する。父親のケーンが見える。
ケーン夫人『すべて私がサッチャーさんに言ったようになるんです』
ケーン氏『私には、しようと思えば、裁判にももち込めるんだ。父親は権利をもっている。宿賃の足りなかった客が、くずのような権利書をおいていった。もし、実際に値打ちのあるものならば、その財産は私のものでもあるんだ……。私は個人的にフレッド・グレイブスを知っている。このようなことが起ると思えば、かれはわれわれ二人にこの書類をのこしただろう』
サッチャー『しかし、書類はケーン夫人の名前だけで手続されています』
ケーン氏『しかし、かれは、宿代のかわりにわれわれ二人に置いていった。そのうえ、私は子供を銀行の後見にまかせることには賛成できないね。というのは………』
ケーン夫人(静かに)『ジム、無作法に話すことをやめてもらいたいわ』
サッチャー『少年の教育、宿舎など、すべての問題について銀行の結論は出ています』
ケーン氏『銀行とか、後見とかいう考え自身が………』
ケーン夫人と夫の眼が合う。かれが言い出した言葉を途中でやめたことは、彼女の勝利を物語っている。
ケーン夫人(さらに静かに)『ジム、無作法はやめて頂だい』
サッチャー『われわれは、あなたのコロラドの鉱山を完全に管理します。私はくりかえして言いますが、この鉱山の唯一の所有者はケーン夫人です』
ケーン氏は何か言おうとする。二度ばかり口を開いた、何も言いだせない。
ケーン夫人『どこに署名するのですか。サッチャーさん――』
サッチャー(指で示す)『ここです、ケーン夫人』
ケーン氏(悲しそうに)『あとで私が警告しなかったと言うな………。メリー、それが最後のお願いだ………。みんなは、私が良い夫でなかったと思うだろう……』
ケーン夫人は、ゆっくりとかれに眼をむける。ケーンは黙る。
サッチャー『あなたとケーンさんは、生涯年五千ドルを受けとるでしょう……。のこりは………』
ケーン夫人は書類に署名する。
ケーン氏『ふん、すべてが良くなるとでも思っているのだろう』
ケーン夫人『勿論です……。サッチャーさん続けて下さい……』
サッチャーと話しながら、ケーン夫人は子供の声に耳をかたむける。ケーン氏は窓に近寄る
窓にチャールズが見える。かれは雪だるまを攻撃している。雪ボールで狙って片ひざをまげる。
【一行アキ】
チャールズ『暴徒どもが戦斗を欲するなら、望みどおり戦ってやる! われわれの条件は無条件降服だ。敵に向って前進! アメリカ万才!』
ケーン氏は窓を閉める。
サッチャー『すべてのこりの財産は――そして資本とそれからのすべての収入は、あなたの息子さん、チャールズ・フォスタ・ケーンが成人されるまで、責任もって銀行が管理いたします。かれが二五才になった暁には、かれがそのすべての財産の所有者となります』
ケーン夫人、窓に近づき、それを開ける。
ケーン夫人『続けて下さい。サッチャーさん』
窓にふたたびチャールズが見える。
チャールズ『おれに勝てるものか、アンディ・ジャクソン! おれは古つわもののヒッコリだ!』
雪ボールを雪だるまに投げつける。当らない。四つんばいになって、雪だるまににじり寄る。
サッチャーの声『もう五時です。ケーン夫人……。息子さんと別れを惜しんでおかなければ……』
ケーン夫人とサッチャーが窓ぎわに立つ。
ケーン夫人『かれのトランクは出来ています……(彼女の声が心の動揺にとぎれる) 私は二週間も前に荷物をまとめておきました』
彼女はそれ以上話すことが出来ない。入口に行く。
サッチャー『シカゴで教師と会うことになっています。私が自分で連れて行きたいのですが、あなたは何事も秘密にしておきたいらしいので……』
サッチャーは口をつぐみ、黙ってケーン氏を見つめる。やがてケーン夫人に続く。ケーン氏も、かれらのあとについて行く。
【一行アキ】
雪のうえに手に小そりをもったチャールズがいる。かれはケーンの家の前で遊んでいる。それは、木製屋根の古びた二階建てである。
小ケーンは、かれに近づいてくる母親たちを注意深く見つめている。
チャールズ『ねえ! ママ! ママ、見える? (雪だるまをさし示す) 僕はその口からやっとパイプを引き抜いたよ。雪が降り出したらまた、くわえさせるよ」
ケーン夫人『坊や、家に入ったほうがいいわよ。お前の支度をしなければなりません……』
サッチャー(チャールズにちかづく)『チャールズ、私はサッチャーだよ……』
ケーン夫人『サッチャーさんですよ。チャールズ』
サッチャー『はじめまして、チャールズ』
ケーン氏『このひとは……東のほうからおいでになった……』
チャールズ『ハロー、ハロー、パパ!』
ケーン氏『ハロー、チャーリー』
ケーン夫人『チャールズや、お前は今夜サッチャーさんと旅に行くのよ。十時の汽車で乗って行くの』
ケーン氏『それは火を吐くあの汽車だよ』
チャールズ『それでママは行くの』
サッチャー『ママは一緒に行きません、チャールズ……』
チャールズ『どこへ行くの』
ケーン氏『お前はシカゴやニューヨークを見るんだ。きっとワシントンもだぞ。ねえ、サッチャーさん』
サッチャー(心から)『勿論そうです。生れてはじめてこんな旅行のできる少年が、私にはうらやましい』
チャールズ『ママ、何故一緒に行かないの』
ケーン夫人『パパとママはここにのこらなければいけないの、チャールズ』
ケーン氏『お前は、今からはこのサッチャーさんと生活するんだ。チャーリイ! そして、金持ちになるんだ。ママはお前のことを考えている。つまりええと、ママと私は、ここでお前の教育をしてはいけないと決心した。きっとお前は、アメリカでも屈指の金持ちになるだろう。そしてお前は………』
ケーン夫人『お前は淋しはらないわね、チャールズ……』
サッチャー『われわれは陽気に生活するさ、チャールズ……うまく行くだろうよ……』
少年はかれをじっと見る。
サッチャー『チャールズ、握手しよう』
チャールズは相変らずかれを見つめている。
サッチャー『私はまだそんなに年とっていない。握手しよう! 君は何を言いたいんだね』
チャールズの手をとろうとする。ひとことも言わずに、小そりでサッチャーの腹を打つ。サッチャーは身をさける。呼吸が苦しそうである。
サッチャー(笑顔をつくろいながら)『チャールズ、足でけらないのかい。そりはなぐり合いの道具じゃない。そりはすべるためのものだ。ニューヨークに行ったら、チャールズ、小そりを買おう……』
ふたたび、少年の肩に手をかけようとするが、チャールズはその時、足でサッチャーをける。
ケーン夫人『チャールズ!』
少年は母親にかけより、彼女にだきつく。ケーン夫人も、息子をだきしめる。
チャールズ(狂気のように)『ママ! ママ!』
ケーン夫人『何でもないのよ。チャールズ。何でもないのよ……』
ケーン氏『サッチャーさん、お願いです。この子をなぐってやって下さい』
ケーン夫人(反ぱつする声で)『あなたはそう思うの、ジム』
ケーン氏『そうだ』
夫を見すえながら、ケーン夫人ははっきりと言う。
ケーン夫人『だからあなたの干渉できないところでかれを教育するのだわ』
【一行アキ】
古い型の寝台車の車輪がレールを回転してゆく。
【一行アキ】
夜。
汽車。
列車の仕切座席。サッチャーは、チャールズのベッドのかたわらに立っている。かれは黙って少年を眺めている。かれの眼は、いらだちと同情と自己の無力感をあらわしている。
チャールズは顔を枕にうづめている。胸も張りさけるように号泣している。
【一行アキ】
チャールズ『ママ! ママ!』
この部分を読んだあと、DVDで、映画の当該部分を観てみた。いろいろ気づいたことがあったが、あえて挙げない。一言だけ言えば、「ケーン夫人」(ケーン少年の母)に対する印象が、ほんの少し変わった。