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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「市民ケーン」(1941)は今日なお映画史上の傑作

2017-08-19 04:19:26 | コラムと名言

◎「市民ケーン」(1941)は今日なお映画史上の傑作

 一か月ほど前、神保町の古書展で、『シナリオ「市民ケーン」(オリジナル版)』という冊子を見つけた。世界映画社刊、一九六二年二月発行、編集兼発行人は岩淵正嘉(以上、奥付による)。
 表紙を除く本文は、今や姿を消した「タイプ印刷」である。表紙には、世界映画資料シナリオシリーズ№1、世界映画資料別冊・昭和37年2月号などの文字がある。映画の一シーンから取った写真もある。なぜか定価の記載はなし、古書価は三〇〇円であった。
 ことによると、これは貴重な資料ではないのかと思い買い求めた、というわけではなく、単に安かったので買ってみた次第である。
 表紙見返しのところに、本資料を転載・引用する際は、「世界映画資料」第○号所載より、というクレディットを明記せよという指示がある。要するに、転載可、引用可ということだろう。
 ということで、本日は、同冊子の「はじめに」を紹介してみたい。署名は付されていないが、筆者は、たぶん、岩淵正嘉〈イワブチ・マサヨシ〉氏であろう。

  は じ め に
 一九一五年、生粋のアメリカっ子として、オーソン・ウェルズは生れた。演劇の血をひき、自分でも少年時代から舞台に立っていたが、やがてラジオ界に転じた。一九三八年に火星人襲来を扱った空想科学ドラマを放送したが、その迫真性の為に聴取者の中から死傷者を出す程だった。思わぬ社会的混乱をまき起した彼は、非難と同時にプロデューサーとしての名声を得た。RKO社は白面の青年オーソン・ウェルズに映画の監督を依頼し、その製作に関する全権さえ与えたが、一九四一年に至って実際に彼が処女作「市民ケーン」を完成したとき、おぞ毛を振って〈フルッテ〉手を切りにかかる。この作品が当時の新聞界のボスであるW・R・ハーストに対する諷刺だとして、ハースト系の諸新聞が一斉に攻を加撃を加え、手を廻して圧力をかけたのである。この攻撃が却って宣伝となって、映画は成功したが彼自身はその後ハリウッドから退かざるを得なくなった。オーソン・ウェルズのその後の作品は「市民ケーン」の水準には達することが出来ない。それは圧迫の為と、彼自身がそのベストをここに注ぎつくした為である。
 しかし、「市民ケーン」そのものは、内容と技術の両面で今日なお映画史上の傑作たることを失わない。例えば、イギリスの権威ある映画誌「サイト・アンド・サウンド」が昨年〔一九六一〕世界中の映画人七十名に問うた「映画史的べスト・テン」では、「市民ケーン」が作品部門での第一位、オーソン・ウェルズは監督部門での第□位を占めている。
 テキストについて一言すると、このシナリオは戦後ソビエトにおいて出版された「アメリカ映画シナリオ選」(一九六一年)から得た。従って、ロシア語からの重訳である。また、これがオリジナル版である為、映画として出来上った「市民ケーン」とは部分的に異同がある。例えば、昨年NHKテレビで放映されたとき御覧になった方も多いと思うが、シナリオの方では初めのニュース映画の部分がずっと長いし、最後の「バラのツボミ」の■■の焼けるシーンがない。これは、この重要なアイデアが実際の製作中に思いつかれたことを示すのではあるまいか。
 また、ケーンの邸宅の名「ザナドゥ(またはクサナドゥ)」は、英国の詩人コルリッジの長詩「クブラ・カーン」に出て来る地名であって、元王朝の大汗(クビライ)がここにすばらしい宮殿を建てたことに因むものである。

 文中、「監督部門での第□位」とあるのは、原文のまま。□の部分は、原文ではブランクになっている。
 また、「■■の焼けるシーン」■■は、引用者の判断で、あえて伏せた。■■を書いてしまうとネタバレになってしまうからである。まだ、この映画を観ておられない読者は、ぜひ、この映画を最後まで、ご覧になって、■■に入るべきニ文字が何であるか、確認していただきたい。

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