礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

10日午前2時に及んだ最高戦争指導会議

2017-08-11 04:25:03 | コラムと名言

◎10日午前2時に及んだ最高戦争指導会議

 昨日は、高木惣吉著『終戦覚書』(弘文堂書房、一九四八年三月)〔アテネ文庫12〕から、「八 最悪の事態に」を紹介した。本日は、それに続く、「九 悲しさ終止符」を紹介する。この章は、かなり長いので、何回かに分けて紹介することになろう。

  九 悲 し き 終 止 符
 九日〔一九四五年八月九日〕緊急閣議、続いて最高戦争指導会議、何れも抗戦継続の無理を認め、ボツダム宣言受諾の方針に反対はなかつたが、その条件につき鋭く意見が対立した。唯、天皇の地位に就ての留保だけに止めるというのは多数であつたが、更に保障占領を行わぬこと、自発的撤兵と自主的武装解除、戦争犯罪人の自主的処罰の三条件を追加すべきであるとの主張が出たのである。ところがこの会議の最中、長崎は第二の原子爆弾に見舞われた。
 まとまりのつかぬ六巨頭会議〔最高戦争指導会議〕は、午後一時すぎ一旦休憩して、緊急閣議を開くことになつた。戦争見透しにつき米内〔光政〕はごく簡単にとても見込みのないことを述べたが、阿南〔惟幾〕は「敵の本土来襲の際は,少くも最初は撃退できることは確かで、必勝の予断はつきかねるが、さればといつて必ず敗れるとはきまらぬ。決然戦を辞せなければ、死中に活を得る算がないでもない」とその一縷の望を強調した。内務〔安倍源基〕、文部〔ママ〕を除いて各大臣概ね外相〔東郷茂徳〕の、ポツダム宣言を、国体維持の事項だけに条件をつけて受諾すべしとの意見に賛成であったが、閣議は午後十時になつてもまとまらぬ内、総理は至急の御召しとあつて参内して行つた。
 この決戦論の嵐をくぐつて、阿南の説得に心魂を傾けた松谷〔松谷誠総理秘書官〕の苦衷も遂に酬いられず、大勢の赴くところ陸相を取巻く決戦派の影響に手のつけようもなく、事態は速かに収集しないと不測の変化を心配される旨内府〔木戸幸一〕に連絡した。この日夕刻丁度筆者も華族会館で、松平官長〔松平康昌内大臣秘書官のことか〕と会つて、無条件受諾の方向に、政府を急いで引張らねばならぬと話合つたのであつた。
 午後十一時五十五分御前会議が開かれた。当夜の出席者は総理、外相、陸相、海相、参謀総長〔梅津美治郎〕、軍令部総長〔豊田副武〕、特旨によつて枢相〔平沼騏一郎〕、それに書記官長〔迫水久常〕、陸海両軍務局長〔吉積正雄、保科善四郎〕が陪席した。
 官長からまずポツダム宣言の仮訳文をよみあげ、次に外相からの経過の説明に加え、今や戦争終結に最好の時機に達したので、国体に変更を及ぼさないとの諒解の下に、無条件受諾の外ないことを条理正しく披露した。ついで陸相はこれに反対であるとの前置きで、わが戦力は猶〈ナオ〉厳存し、敢えて絶滅した訳ではない。もし敵が本土に来寇すれば、それこそ大打撃を与うる絶好の機会で、その準備は着々として整えられている。敵に打撃を与えた後にこそ終戦の機会も恵まれる。この際は宜しく死中に活を求むる気魄を以て、本土決戦に邁進するを適当と信ずる。しかし若し乙案(条件付受諾)で終戦することが可能ならば、これに対しては賛成である、と述べ海相、枢相は外相の意見に同意したが、次に参謀総長と軍令部総長は、わが戦力を以ては必勝を期する確算はないが、さればといつて必らず敗れるとも断定できぬ。戦局至難ではあるが、一億玉砕の決意で一切の施策をやつたら、死中に活を求むることも可能だと交々〈コモゴモ〉陸相に加担する意見をのべた。
 主張は依然として対立したままで外相、海相、枢相は甲案(無条件受諾)を可とし、陸相、両総長は乙案を可とし、十日午前二時になつてもなおまとまる様子さえ見えなかつた。【以下、次回】

 最高戦争指導会議というのは、総理、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長を構成員とする会議である。文中に、「六巨頭会議」とあるのは、この最高戦争指導会議のことを指している。
 また、文中に、「内務、文部を除いて」とあるのは、「内務、司法を除いて」の誤りと思われる。当時の司法大臣は松阪広政。ちなみに、当時の文部大臣は太田耕造である。

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