礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治大帝の御決断にならって、かく決心した

2017-08-09 05:56:52 | コラムと名言

◎明治大帝の御決断にならって、かく決心した

 富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、第四二号「終戦の詔勅下る」を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 この日〔一九四五年八月一三日〕近衛公はかゝる情勢を憂慮し、小田原から上京しようとしたが、小田原への艦載機の来襲投弾で、一時箱根に引返したが、機上よりする機銃掃射を受け退避を繰り返しつゝ、一三日午後三時半漸く東京に出て、木戸内府を訪うことになった。又近衛公は別に細川女婿〔細川護貞〕をして、鈴木総理に書簡を送り、この際形式や文字に拘泥せず、大局から国家を救うべきことを説いた。これは八月十四日のことであった。事情かくの如く窮迫してきたので、木戸内府は、陛下に依って、政府閣僚と最高戦争指導会議の構成員と連合の御前会議を願い、一気に終結を下命して頂くほかないと力説し、鈴木総理も同意したので、十四日午前十一時頃から、この御前会議は開かれることになった。陸海両総長〔梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長〕と陸相〔阿南惟幾〕は、先方の回答は甚だ不満で、国体護持も困難に思われる。もし改めて問合せることができないなら、むしろ戦争を継続して、死中に活を求めるに如かずと、各々声涙共に下る論述であった。
 これに対し、陛下は他に意見がないなら、自分が言う、卿等はどうか自分の意見に賛成してほしいとて(高木惣吉氏「終戦覚書」による)
 私の意見は去る九日の会議で示した所と少しも変らない、我問い合わせに対する先方の回答は、あれでよろしいと思う。天皇統治権に対し疑問があるように解する向〈ムキ〉もあるが、私は外務大臣〔東郷茂徳〕の見解通りに考えている。私の戦争終結に対する決心は世界の大勢と我国力判断によっている。私自らの熟慮検討の結果であって、他から知恵を付けられたものでない。皇室と国土と国民がある限り、将来の国家生成の根幹は充分であるが、彼我の戦力を考え合わせるときは、この上望みのない戦争を続けるのは、全部失う惧れ〈オソレ〉が多い。
 私の股肱〈ココウ〉と頼んだ軍人から武器を取り上げ、又私の信頼した者を戦争犯罪人として差し出すことは、情において洵に〈マコトニ〉忍びない。幾多の戦死者、傷病者、遺家族、戦災国民の身の上を思えば、これからの苦労も偲ばれて同情に堪えない。
 三国干渉の時の明治大帝の御決断にならって、かく決心したのである。陸軍の武装解除の苦衷は充分わかる。事こゝに至っては、国家を救うの道はたゞこれしかないと考えるから、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、この決心をしたのである。今まで何も聞いていない国民が、突然この決定を聞いたら、嘸かし〈サゾカシ〉動揺するであろうから詔書でもなんでも用意してもらいたい。凡ゆる手を尽す。ラジオ放送もやる。
 と純白の手袋をはめられた御手で、眼鏡を拭われ、又御涙頻りに落つる両方の御頬〈オンホホ〉を、御拭い遊ばされつゝ仰せられた。並居る者、たゞ声を挙げて嗚咽、慟哭するのみであった。かくして陛下の御聖断により、こゝに国家的決断は下されたのである。
 そこで政府は早速、終戦の手続を始めたのであるが、こゝに至って尚、陸軍が妨害して連合国への受諾を打電させない、漸くのこと発電されたのは、午後十時を過ぎていた。そして、日本国民として忘れられない終戦の大詔は午後十一時に渙発されたのであった。
 陛下は宮内省の一室で放送の録音を遊ばされた。その頃から、近衛師団に不穏の空気ありとの情報があったが、果せるかな十四日夜半、近衛兵はその長官たる師団長〔近衛第一師団長森赳中将〕を殺し、その命令書を偽造して持っていた畑中中佐〔畑中健二少佐〕の指揮する六百余名の者が、皇居を包囲し、宮城に乱入し、通信施設を占領遮断し、陛下御放送の録音盤を奪取しようと捜索し、木戸内府や石渡〔荘太郎〕宮内大臣を捕えようとした。又他の一隊は、鈴木首相、平沼枢相、木戸内府の邸を襲撃し、放火などした。録音テストを終って退出しようとしていた下村〔宏〕情報局総裁らは捕えられて監禁されたが、木戸、石渡氏は宮内省の地下金庫室に匿れて難を免れた。外部との連格は偶々海軍武官府から海軍省への直通電話が、一本だけ安全だったので、それでようやく連絡がとれた。東部防衛司令官田中静壱〈シズイチ〉大将は、このとき自ら鎮圧に乗り込んで、叛乱将校を説論し、十五日午前八時頃には鎮静に帰することができた。後田中大将は部下よりかゝる叛乱者を出したるの責任を痛感して自刃された。この田中氏は私の警保局長時代、内閣書記官長時代から御昵懇に願っていた方で、立派な典型的武人と申すべき大将であった。惜しい方である。録音盤も幸いにして無事であった。阿南陸相は十五日早朝自刃された。この人も立派な誠忠の武人であった。強硬なる陸軍を背景に、一方では陛下の和平への思召、さては彼我戦力の大差、勝ち目も薄いこの戦争をどう指導して行くか、悩みに悩まれたことは察するに余りある。胸中秘かに終戦への機をねらっていたので、たゞの玉砕論者、強硬論者ではなかったように思われる。『大罪を謝す』と書して自決して行った阿南氏の胸中には果して如何なる感慨があったことであろうか。阿南氏は表面強硬な態度を取っていたが、心中では終戦に賛成だったのだ。たゞ主戦論の強い陸軍をどうして混乱なく終戦に通くかを考えながら、苦心していたのだという人が多い。これに比べてこの苦衷の一かけらだに持ち合わさずして陸軍旺ん〈サカン〉なれば、軍に迎合し、敗戦すれば、ひたすらに軍部攻撃をなすことによって、自分の平和主義であることを、敵に認めさせたいと努めた終戦直後の多くの日本の政治家は、正に罪慚死に値するものではなかろうか。
 昭和二十年八月十五日正午、陛下御自らマイクの前に立たれて終戦の詔勅が全国に放送されたのである。一億国民文字通り正に泣く。
 私は十四日夜、湖尻〈コジリ〉の家族疏開先に泊り、翌十五日朝早く山を降りて、恰も正午、入生田の酒井鍋次氏宅に、上京の徐次、少憩させて頂いて、この御詔勅の放送を酒井氏御夫妻と共に聴く、断腸の思い、只々嗚咽あるのみ、悲涙、頬をつたうをどうすることも出来なかったのである。

 以上で、第四二号「終戦の詔勅下る」の紹介を終える。
 文中に、「細川女婿」という言葉があるが、注記したように、細川護貞を指す。近衛文麿の次女・温子は、細川護貞に嫁している。
 高木惣吉氏「終戦覚書」とあるのは、高木惣吉著『終戦覚書』(弘文堂書房、一九四八)〔アテネ文庫12〕を指す。明日は、この本を紹介してみたい。

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