礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

甘粕石介「三木清氏のこと」(1947)

2014-11-04 08:34:09 | コラムと名言

◎甘粕石介「三木清氏のこと」(1947)

 書棚を整理していたら、古い『蛍雪時代』が出てきた。一九四七年(昭和二二)一〇月号(第一七巻第七号)、定価二〇円。だいぶ前に、古本として入手したものである。
 A5判で、本文六四ページ。当時の受験生は、この雑誌がその後、電話帳のようなボリュームになることは、想像もしなかっただろう。
 巻頭言、エッセイ、座談会、学習指導講座、学生ユーモア、誌上模擬試験など、内容はきわめて充実している。本日は、この中から、甘粕石介〈アマカス・セキスケ〉のエッセイ「三木清のこと」を紹介してみよう。

 三木清氏のこと  甘粕石介
 三木清氏は日本の敗戦の年、獄中で亡くなられた。この時の様子は、当時の新聞に表れた通り、真に気の毒なもので、当局は最後まで氏の重病を遺族に報ぜず、いきなり屍体引取りのことを通達し、それと一しよに、申訳だけに、きとくの報せを送つてよこしたものであつた。このきとくの病人には当時医師も看守も看病人も誰もついていなかつたので、独房の中で氏は誰にも知られず、たつた一人で死んでゆかれたのである。だが氏はどうして戦時下の官憲によつて投獄されたのだろうか。それは一人の氏の信頼する共産主義者を敢えてかくまつたためであり、また氏の思想が危険だと見られたためである。ここに氏の一つの本質が見られるのである。
 こんにち三木清氏の思想は三木哲学と呼ばれ、若い人の間に非常な共感を呼び起し、その著作は西田〔幾多郎〕博士の著作に劣らぬ人気を得ている。この思想は根本的には西田哲学に根を置いたものであつて、吾々が五感を通して知る客体としてのこの現実の世界は真の実在ではなく、真実在は作るもの、行為するものとしての主体であるというのが大体の趣旨である。しかし西田哲学とちがつているのは、もつと論理的で、平明であり、この原理が西田哲学ではずつと原理的なのだけを追求して行つたのに対して、三木氏の場合は、そういう見地から社会のいろんな事象、人生の諸問題、文学上の諸問題など具体的な問題をとり上げたことにある。この点からも三木清氏の思想は若い人々から迎えられているのである。
  〇
 三木清氏から若い人が学ぶべきことは、一つはその盛んな勉強心である。小学校時代は、時代も時代であつたが、田舎であつたため、学校の教科書以外のものは何も知らないですごしているが、中学三年生位から先生の感化やすぐれた友人の影響で、じつに猛烈な勢いで勉強を始めている。殆んど暗記する位に読んだ蘆花ものを手始めに藤村、鴎外のもの、紅葉、露伴、漱石、一葉、樗牛、独歩、花袋、白鳥、荷風、潤一郎、三重吉などの日本文学、白秋、露風、牧水などの歌詩、それに外国文学はワイルド、これは東京の丸善からわざわざとり寄せて、原書で読んでいる。それから日本歴史、これは教科書で読むのでない。常山紀談とか日本外史とか福本日南の「元禄快挙録」で学んだのである。その外に漢詩を習つたりしている。
 氏の中学時代の勉強ぶりを見ると、まず教師と友達との影響がじつに大きく、青年時代においてよい教師とよい友達をもつたものがどんなに幸福か、教師と友達とがどんなに大切か、ということをつくづく感ぜさせられる。よく同級生の中から偉い人物が並んで出ている例があるが、これは偶然ではなく、こんな理由があるのだろう。この反面、十分伸びて社会に大きな働きをなし得る人で、教師や友を得なかつたために、平凡に終つた人の多いことも考えられる。それにつけても、このような損失を、もつと少なくするように、こんごの社会は合理的な方法を考えてゆかねばならぬ。
 つぎには三木氏がよい上級学校に入るために受験勉強をする、というような考え方でなく、内から燃えるような要求に推され、大きな希望に導かれて、むさぼるように勉強したことである。その結果田舎の中学からたつた一人一高に入学もしている。これまではもちろん、こんにちでも入学試験制度のせいもあるが、中学生が卑近な目的だけ目ざして、内心の要求なしに、功利的に勉強し、何となくこせこせしている風が作られているのは、残念なことである。
  〇
 三木清氏から学ぶべきもう一つの点はその人間である。三木清氏は博学な点では驚くべき人であつたし、また専門の哲学の外に詩歌小説の方面、芸術の方面にも理解が深く、多くの古典に通じ、よい趣味とよい芸術的感覚をもち、「教養の人」というべき部類に属する人であつたが、日常生活では少しもそういうことを衒う〈テラウ〉風がなかつた。「教養人」、「趣味人」という人々にはずいぶん臭みのある人があるが、そんな点はなく、野人という感じであつた。田舎臭いところがあつて、面白い人であつた。またある意味で野心家であつたが、少しも策略を弄するような所がなく、純真な人であつた。当るべからざる意気をもち、実力もないのに世間から偉く思われている名士たちを心から軽蔑していたが、一方気の弱い人であり、自己を絶えず反省する人であつた。だがもう一つ大切なことは、信義を重んじた人であつた。このことは始めにも述べたが、あの戦争中の憲兵政治に絶えず危険人物として監視されていた中で、あれだけのことをやるには、地位や名誉はもちろんのこと、家族の生活、自分の生命までも投げ出す覚悟がなければできないのである。これは実に立派な、人の真似のできないことである。三木氏はそれまでも、氏が一面にもつていた自由思想と、社会の不正をにくみ、しいたげられた人民大衆への愛の心のために、同じ西田門下の人々や、その他の哲学者のように、大学教授にも、博士にもなれなかつたのに、それで足りず、最後には獄に投ぜられ、殺されてしまつたのである。そして一方三木氏が心から軽蔑していた同じ西田門下の哲学者たちは、大学教授や博士になつて、時めき、それで足りず軍閥の御用学者になつて、今度の戦争が神聖な戦争であると、哲学的に証明することに努めたのである。
  〇
 三木清氏の人物は確かに複雑であつた。そこには明らかに二つの矛盾するものがあつた。一つは人生に対する宗教的な諦念、一つは社会の生きた現実に対する活溌な関心と、不正不義や卑俗卑屈を憎む心、古典的な教養の人と野人、その他前に述べた如くだが、氏の思想もまた相反するものを一つにしていた。西田哲学的、宗教的、教養人的なものが確かに基調をなしていたが現在の社会秩序に対する根本的な不満、深い憎悪と、社会主義に対する深い同情とこの二つである。これがあつたればこそ軍国主義者から危険視され、些細なことを口実にして、獄死させられでしまつたのである。
 私が不思議でならぬのは、こんにち三木清氏の偉大なことを賞めたゝえる友人の哲学者や思想家たちが、前の一面だけをとり出して他の一面を少しも言わないことである。今でも私が三木清氏が偉いと思つているのは、こんどの戦争の最中に、早くからドイツと日本とが必ず負けること、ヒツトラーと東條大将とが自殺することを断言していたことである。これは全くその通りになつた。その時期までも大体当つていた。これは単に西田哲学の中からはどうしても出て来ないことである。これは氏が他の半面の思想をもち、態度をもつていたことをよく証明するものである。ところがこの半面の思想については少しも語られないし、あまり知られていない。獄死した人であるということもだんだん忘れられている。こういう半面の思想をも知らねば三木清氏の全貌は分からず、彼が獄死せねばならなかつた理由も解からない。それからもう一つ不思議に思うのは友人たちが賞めるようにそれほど偉い学者がどうして役人から尊重されなかつたのか、またそんな立派な人物をあたら殺してしまつたのなら、その殺してしまつたものを憎む心、そういう不合理を根絶しようとする心が、少しも見られないことである。これはどういうわけであろうか。

 終戦直後、受験生に向けて書いた三木清論であるが、今日読んで、なお訴えるものがある。
 筆者の甘粕石介は、哲学者で、ヘーゲルとマルクスの研究で知られる見田石介〈ミタ・セキスケ〉のペンネーム。甘粕は、見田の旧姓である。社会学者の見田宗介〈ムネスケ〉氏は、その子息。

*このブログの人気記事 2014・11・4

古畑種基と冤罪事件

小野武夫博士、ハサウェイ女史と出会う

研師としての柏木隆法氏(その2)

石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか

伝説のレスラー、ズビスコによる「史上最大級の騙し討...

1950年当時使われていた英語の略語(『英語の綜合...

やらせる、納得させる、それが駄目なら強制する

東京支部(渋谷)における「朝詣り」の様子

当時の雑誌が報じた力道山・木村政彦戦の内幕(『真相...

コメント