礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国家の宗教主義が類似宗教を生み出す(戸坂潤)

2014-11-30 04:39:25 | コラムと名言

◎国家の宗教主義が類似宗教を生み出す(戸坂潤)

 今月二三日および二五日に、高津正道の『邪宗新論』(一九三六年一二月)を紹介した。そのあと、二七日から二九日まで、戸坂潤の「ひとのみち事件批判」(一九三六年一〇月)を紹介したわけだが、この両者の「宗教論」を比較してみて、改めて、戸坂潤の思想的センスの良さに驚いた。
 戸坂潤は、連載【1】で、「ひとのみち教団は類似宗教の公式的典型だ」ということを言っている。また連載【2】では、「インチキ宗教」という言葉を使っている。戸坂にとって、「類似宗教」と「インチキ宗教」は、ほぼ同義と言ってよいだろう。
 一方、高津正道は、大本教、ひとのみち、生長の家、天理教、金光教などを一括して、「新興諸宗教」とよび、これを「邪教」として位置づけている。
 これを見た限りでは、戸坂と高津の宗教観に、さしたる違いはないかのようである。しかし、戸坂が連載【2】で、「だから『ひとのみち』だけがインチキ宗教なのではなくて、たまたまそれが露骨なために、宗教なるものゝインチキ性を思い切つて露出したまでだといふのである」と述べている点に、注目しなければならない。ここで、戸坂は、「宗教」という存在そのものが、「インチキ性」を帯びている。類似宗教にせよ、既成の宗教にせよ、「インチキ宗教」であるところに違いはない、という認識を示しているのである。この認識は、高津にはなかったものであった(二六日のコラム参照)。
 さらに、戸坂は、連載【3】で、「要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチユアにほかならないのである」ということを述べている。ここでいう「宗教主義」とは、国家における宗教主義のことを指している。

 宗教復興・精神作興の声を利用して類似宗教が進出したといふ関係当局の見解は、最も天晴れ〈アッパレ〉といはねばならぬ。全くさうなのである。だから私は、当局の思想対策と類似宗教簇出〈ソウシュツ〉とは、社会的に同じ本質の二つの現象だといつてゐるのである。

 連載【3】から、再度、引用してみた。実に鋭い認識である。この認識は、もちろん、「類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチユアにほかならない」という言葉につながっている。この戸坂の言葉を、私なりに言い換えれば、国家が思想対策のために、怪しげな「宗教主義」に走れば、当然、怪しげな「類似宗教」があらわれてくる、ということになる。おそらく、戸坂は、この時点で、日本がすでに、疑似宗教国家に転化しようとしていることを、見抜いていたのではないだろうか。まさに、「眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない」ということである。

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