礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戸坂潤「ひとのみち事件批判」(1936)

2014-11-27 06:59:42 | コラムと名言

◎戸坂潤「ひとのみち事件批判」(1936)

 インターネットで、「ひとのみち」を検索していたところ、神戸大学の新聞記事文庫に、「ひとのみち事件批判」という文章を見つけた。哲学者の戸坂潤が執筆し、一九三六年(昭和一一)の一〇月一日から三日までの三日間、『報知新聞』に連載されたものである。
 ひとのみち教団の初代教祖・御木徳一〈ミキ・トクハル〉が、信者の娘一五歳に対する「強姦」の嫌疑で逮捕されたのは、同年九月二八日のことであった。この記事の連載が始まったのは、そのわずか三日後である。
 本日は、この記事のうち、一〇日一日掲載分を紹介してみたい。神戸大学の新聞記事文庫は、新聞記事の影印と、それを起こした文章の両方を載せているが、起こした文章では、現代かなづかいが用いられている。ここでは、原文のかなづかいに戻した形で紹介してみたい。

 ひとのみち事件批判
 宗教における思想と風俗…【1】…   戸坂 潤
『ひとのみち』教団の教祖御木徳一氏が初代教祖の位置を隠退すると時とを同じくして、関係者一同と共に検挙された。数名の処女を宗教的暗示によつてだまして犯したという犯罪が、被害者の一人の家族による告訴から露見したといふのである。同氏はその犯行を認めて性犯罪の罪名の下に送局された。
 新聞社会面を一見すると、初めは何か、ひとのみち教団そのものに手入れがあつたやうに読者に感じさせるものがあつたが、検察当局の握つてゐる弱点はまだ教団の教理に触れたものではなく、また教団そのもの――その組織、経済的内実、等――にさへも触れてはゐないのである。今の処問題は全く御木氏一個人の犯罪につきるのであつて、単にこの人物が偶々〈タマタマ〉この教団の始祖であつたというまでであり、あるひは教団の始祖であつたが故に初めて宗教的威力が自由になつたのでかういふ罪に陥つた、といつた方が正しい、といふまでである。
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 勿論この犯罪の実質は決してただの個人的な性質のものではない、この場合に限らず一般の犯罪はさいふものだが、しかし普通の場合には犯人個人の立つ社会的バツクは問題にしないことになつているのに、今の場合は信徒二百万と号する教団といふ特別のグループと宗教々理といふ特別な運動原理が控へてゐるおかげで、問題は個人から一種の社会的バツクにまで一続きのやうに受け取られ易い。当然これはしかあるべきもので、普通の犯罪の場合にそれを社会的条件にまで溯源させて見ない方が間違つてゐるのだ。――当局は教理に不敬がありはしないか、教団会計に横領がありはしないか、と見てゐるのであり、またひとのみち教団が宗教行政に適応するために名目上自分でその一派と名乗つている扶桑教にも検察の眼を向け始めた。
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  大本教の検挙はこれとは趣を異にしてゐた。大本教の検挙の法的根拠はその教理内容の実際が不敬にわたることだつた。不敬といふのは国体と相容れぬことであり、それといふのも実は却つて国体の不敬な模倣であつたからであり、つまり……似寄つていたからであるが、この点になるとひとのみち教団の教義内容も極めて国体主義的なものなのだ。恐れ多くも教育勅語がその教典の一つになつてゐる位だ。この点教育関係の当局や有識者の大いに参考になる点だが、しかし教育関係者がなほ安心してよい点は、ひとのみち教団はまだほとんど何等の政治的綱領を有つてゐないらしいといふことだ。そこでまだいはゆる不敬にならずに済んでゐるのである。
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『ひとのみち』は宗教的世界征服計画は持つてゐない。これが大本教と異る処であり、またこの頃流行の大陸教や南方教と異る処だ。禅宗僧侶の出身と伝へられる『おしへおや様』御木氏は、もつと市井猥雑の間に行はれ得るものを以てした。夫婦の性行為を強調する処の性的宗教と見なされて来てゐるゆゑんである。でひとのみちの刑法的価値は、今の処思想警察関係といふより、風俗警察関係にあるといふべきだらう。
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 ひとのみち教団は類似宗教の公式的典型だ。かういつても私は別にひとのみち教団だけを特別に悪いと考へてゐるのではない。悪いのはいはゆる新興宗教全体であり、それよりもつと性〈タチ〉の悪いのはいはゆる正信や既成宗教や宗教圏外の権威を持つ宗教的信念であるのだが、ひとのみちは偶々正直にも、この悪いものゝ代表としてみづから買つて出たものであつて、この点むしろ極めて誠実な犠牲的なそして天才的ともいうべき現代『宗教』なのだ。
 ひとのみちにはキリスト教や仏教のやうな文献上や文学上の長所がない。だから宗教学者のいふ『宗教的真理』はない。品も悪く柄〈ガラ〉も悪い。しかし下等な人格や品の悪さにも拘はらず美人といふものがあるやうに、恐らくこの宗教にはある甘美な風俗感を催させる何かがあるのだらう。そこに問題があるのだ。

 ここまでが【1】である。戸坂潤についての紹介、あるいは、彼のこの文章に対する感想は、【3】まで紹介したあとで述べる予定である。

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