礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

演出家は何でも知っていなければならない(溝口健二)

2014-07-04 05:31:35 | コラムと名言

◎演出家は何でも知っていなければならない(溝口健二)

 昨日の続きである。大日本映画協会編『映画演出学読本』(大日本映画協会、一九四〇)から、溝口健二の「映画監督の生活と教養」を紹介している。本日は、「3」の途中までを紹介する。なお、明日は、話題を変える。

  
 今迄述べたことは本質的な問題である。だが、これからのことは実際に於て、将来演出家とならうとする人が是非共自分のものとしておかなければならない心構へ、一般的には教養に就いて現実的な生活と関連して述べてみることにする。
 先づ最初に云つておきたいことは、演出家にならうとする人は何でも知つて居なければならないと云ふことである。カントやへーゲルの如き高邁な知識を持つ必要はないとしても、今日発行されてゐる冨山房や平凡社の百科辞典に出てゐる位のことは一々本をみなくとも知つてゐる位の知識は持つてゐなければならないと思ふ。より多くものを知るといふことは取りも直さず自己の世界観を正しく持つことになるからである。,
 中には稀に秀れた才能を持つてゐて、多く学ばず共〈トモ〉立派に教養的な作品を作つた人も無いではないが、それにしても才能だけ、映画的な感覚だけからは決して真に立派な映画は生れて来ないのであろ。映画も他の芸術一般と同様芸術的才能は或る程度迄必要ではあるが、それ以上に自己を高めるためには才能以上の努力。が要ることは云ふ迄もないことだ。
 志賀直哉氏の如きは長い間奈良に佳み、日常的に中世文化の遺物の申に自己を投げ入れろことによつて日本文化の真の精神を掴み、理解し、その中からあの素暗らしいリアリステイックな作品を創作出来たのであらうし、近年の谷崎潤一郎氏の如きも日本の古典文学に沈潜することによつて真に日本的な小説を書くことが出来たにちがひないのである。.
 明治以来我国の進歩が実にめざましいものだつたことは誰も疑ふ者もないだらうが、さうしためまぐるしい文明開化のうちに、やゝもすれば日本固有の文化が外来の文化によつて忘れられ勝ちであることに、人は余り気がつかないのではないか。近年日本精神の高揚と云ふことが云はれ、精動運動〔国民精神総動員運動〕などといふものが政府によって興されたり、文化の日本的性格が再検討され出したのも、けだし必然の結果だを云はなければならない。それ程にもこの十数年来の日本は潮の如くに押し寄せて来る外来文化に対して古来の文化を見失ひかけてゐたのだ。否、外来文化を咀嚼するに急な余り、自ら省みて古来の日本文化を理解する丈けの暇が無かつたのだとも云へるかも知れない。だからと云つて我国の古来文化がなほざりにされてゐたと云ふのでは無い。前述の志賀氏、谷崎氏にしろ日本の秀れた芸術家達が、何れもその優秀さのうちに日本文化を正しく摂取し、理解してゐることは見逃せない事実ではないか。画家に於ける横山大観画伯にしても、小説家に於ける島崎藤村氏にしても、日本文化の正しき、積極的な面を十分に理解し身につけることによって、あの輝かしい芸術を生んだのではないか。
 僕は日本の演出家に対してエイゼンシユタインの云つた言葉を前に引用したが、エイゼンシユタインがいくら偉さうに云つても、外国人である彼に、真に日本文化の良さと云ふものがわかるとは思へない。日本の真の文化の深さは、矢張り日本人でなければ理解出来ないからである。それにもかかわらず、僕があの言葉をわざわざ引用したのは、先にあげた芸術家達の如く日本の映画人が必ずしも真の日本文化を理解してゐるとは思へなかつたからである。

【クイズ】「ケ」ではじまる難読語・『百家説林 索引』より
1  文鎮  □□□□
2  家司  □□□
3  鷁首  □□□□
4  懸想文 □□□□□
5  蚰蜒  □□
6  下手人 □□□□
7  脇息  □□□□□
8  仮名  □□□□
9  慳貪  □□□□
10 犬皮  □□□ 

コメント
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