private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第18章 6

2023-01-15 16:19:38 | 連続小説

 安藤のアタマにはスタートの時のオースチンのロケットスタートが潜在していた。意識はしていなくてもそれが自分のカラダにまとわりついていた。
 自分も悪いスタートではなかったし、オイルの恩恵も十分にあったはずなのに。それなのにスタートで後塵を拝してしまった理由は何なのか疑問のままここまで来ている。1速から加速しはじめるいま、同じことが繰り返されれば自分に勝ち目がない。
 5連続コーナーをフルスロットルで走ってしまうオースチンは、1速からの加速だとしても、このコーナーで自分を上回るのではないかと、どうしても目に見えないプレッシャーにカラダが苛まれている。
 ひとつのステア、ひとつのシフトチェンジ、ひとつのスロットルワーク。それらに少しづつ密かに影響を及ぼしていくことが顕在してこない。
 コース3つ目でイン側のオースチンがアタマを出しはじめた。ナイジの算段ではこのままアウトに膨らんでいき、コース幅を目いっぱい使って加速していきたい。
 そうすれば自ずとロータスを後ろに追いやれる。スタートの時と同じように、2速、3速に入れる回転数に達するとクラッチを切らずにシフトチェンジする。コーナーリングをしながら行うのは初めてだったが躊躇することはない。やらねば先に立てない。それだけの理由だ。
 マリもナイジの動きにあわせて反応できている。必ずスタートと同じことをしてくると踏んでいた。シフトチェンジの時間が短ければその分、ステアを固定する時間を長くとれる。5連続コーナーをひとつのコーナーに見立てて旋回するには、それほどステアの正確さを要求される。ほんの少しのキックバックでステアが振られれば、2度と同じラインに戻れなくなる。
 継ぎ目を感じさせない加速を続けるオースチンに安藤は脅威を感じていた。自分と何が違うのかわからない。スルスルと先行するオースチンが半車体ほど先行しはじめる。ステアリングを握る手に力が入り、余計に微量なソーイングをしてしまい、車体が安定しない。
「あのヤロウやりやがった。5連続コーナーの前はどうなるかと思ったが、ここを勝負どころとしてハラ括りやがった。鳥肌が立ったぜ」
 不破も、権田も喜びでひきつった顔を赤らめ昂揚していた。抱き合って感激に浸りたいところを抑えて、若いヤツラの手前ここではまだ固い握手をするに留めた。安ジイはまだ射抜くような目つきでオースチンの走りを見守っている。これで終わりではないとばかりに。
 5つめのコーナーにオースチンは半車体ほどリードして入ろうとしている。ロータスは走る場所を限定されてきて思うように加速できていない。観衆は誰もがオースチンの逆転勝利に酔いしれだした。 
 最終コーナーに横っ飛びになってオースチンが入ってくると、ホームストレートの加速がイメージでき、あとはチェッカーを待つばかりと、抜きつ抜かれつの見ごたえ抜群だった素晴らしいレースにふさわしい終焉を待つ雰囲気が出来上がりつつある。
 大きな歓声がうねりとなる中で、甲洲ツアーズの誰もがナイジの勝利を信じようとしたその時、ナイジはスロットルを踏む足元から伝わる嫌な予感を敏感に感じ取っていた。
 ベタ踏みの状態であるにも関わらず、少しづつ力がそがれている。エンジンがミスファイアを起こしてパラパラと高い音を鳴らしはじめた。クルマの力がどこかに吸い取られていった。
「ナイジ… 」
「サージングを起こしてやがる、ガソリンが足りないんだ」
 サイドミラーには、アウト一杯で踏ん張っているロータスが車体を揺らし体勢が決まらないのが目に入る。最後のコーナーを立ち上がろうとするまさにその時、ナイジがなにかを予知したかのようにつぶやいた。
「ダメなんだ。そこは走れない」
 マリにはナイジが未来を予見したかのように聞えた。外側で踏ん張るロータスのタイヤを、割れた路面から生い茂った雑草が掬った。ナイジがコースを下見したときに見つけていた場所だった。
 普段なら通ることのないラインであった。5連続コーナーの入り口から徐々に加速してアウト側に膨らんでいく中、さらにそのアウト側につけていたロータスの不運であった。
「あっ!!」サーキットのすべてが凍りついた。
 コーナーを加速する中、突然リアを滑らせ車体が反転していく。そこにロータスを呼び込んだわけではない。走れる場所、そうでない場所を知り尽くしていたナイジに対し、そこに迷い込んでしまった安藤の悲運であった。
 テールを取られてなすすべのないロータスの横っ面がオースチンの後部にヒットする。加速の最中にリアをブレイクされたオースチンもコントロールを失い同じように反転していく。2台は並列のままクルリと回転してオースチンはランオフエリアのグラベルまで飛び出してしまった。
 ロータスは運よくコーナーに踏みとどまり、速度もそれほど落とすことなく最終コーナーを立ち上がっていく。それを見ながらナイジはステアリングを握ったまま動くことはなかった。その左の手首はレース前より明らかに腫れあがっている。闘いが終わったことを知り、アドレナリンも引いていき痛みが蘇ってくる。
「 …ナイジ、どうするの?」
「どうもこうも、もう動かないんだ。あともう少しだったけど、でもこれがレースだ… 」
 グラベルで弾んだ時のショックか、エンジンはストールしていた。それともガソリンが空になってしまったのかもしれない。
「そんなの …アタシはイヤ」
 マリの声は静かでも力強く、ナイジは一瞬たじろぐ。そしてマリの方へ目をやる。そこには涙と汗で濡れた顔が必死に何かを訴えていた。その顔の中心で力強い瞳がナイジに向けられている。袖口で顔と口元を拭うと、そのままの勢いでシートベルトを外す。
「あきらめるのは何時だってできるんでしょ、だから、  絶対にあきらめない」
 そう言うと、ドアを開け車外に飛び出していった。いつものシニカルな物言いが、いまのマリには逆作用したようで、反論することもできずナイジは唇を噛み、下を向いた。悔しい気持ちがないわけじゃない、マリの前で無理していただけだ。
「あきらめるなって、このクルマ、もう動かないんだぜ」
『ガクン』
 クルマに振動が伝わった。何事かと思い辺りを見回す。グラベルにハマったオースチンが少しづつ前進している。もしやと思いリアウインドウに顔を向けると、そこにはマリが歯をくいしばり、顔をいがませながらオースチンを押している。
「 …あいつ」
 ナイジは自分が情けなくなった。運だツキだと何かのせいだけにして、自分がしたことへの後始末をしようとしない。感情を表に出さないのも、結局は体裁ばかりを気にしているからだ。
 ギアをニュートラルにもどすとクラッチを離し、自分もマリを手伝うべく身体を起こしかけると、オースチンがさらに加速しはじめた。再び振り返ればジュンイチもリクオも、それにゴウまでの甲洲ツアーズの仲間たちがマリに代わってオースチンを押していた。
 はじめはゆるゆるとしか進まなかったオースチンも、一度勢いがつくとスムーズに進みはじめる。コースまで戻るとナイジは一か八かでスターターキーをひねる。押しがけの勢いを持って『ブルッン』と音を立ててエンジンが蘇った。完全にガソリンがなくなったわけではなかったようだ。
 リクオがドアを開けてマリをシートに戻そうとする。それを制したナイジはクルマを降りてマリのところまで近寄る。余計なことをして怒りをかったのではないかと心配するマリはうつむいてままに「ナイジ、勝手なことして… 」「マリ、悪かったな。誘っておいて途中でお終いはないよな」すかさずナイジは詫びを言わせない。
 腫れあがった左手を差し伸べるナイジ。リクオたちは一歩、二歩と後退し、ふたりの領域を侵すことをはばかりながらも、スタンドの観衆の目に入らないようにふたりの周りを囲んで外を向いた。
 ナイジは周りの仲間の粋な計らいに感謝しつつ、マリの頬につたう涙の後を指でなぞる。そしてわざとあきれた口調で切り出した。
「ホントに負けず嫌いだな。 …お節介だし。でも、それ以上にマリは強いし、カッコいいよ、オレなんかの何十倍もね。これじゃあマリを助けるどころか、お荷物になっちまうな」
 何も言わず下を向いたまま、なんども首を振るマリ。その瞳に留まりきらない涙が幾重にもつたった頬は赤く、一文字にしばった唇は小刻みに震えていた。もう、何かひとことでも声を掛けられれば、堪えていた言葉が一気にあふれ出そうで、口を硬く閉ざしている。
「ナイジっ、ちゃんとマリさまをゴールまで届けろよ」リクオが痺れを切らしてそう言うと、ナイジは首を振る。「ゴールするのはオレじゃない」
 言葉の意味を理解できないリクオをよそに、ナイジはマリをドライビングシートに引っ張っていく。何が何だかわからないマリは戸惑うばかりだ。「ちょっと、ダメよそんなの」「オレの左手もうイタくてしかたないからさ。できないんだ。だからな」そう言ってマリを押し込み自分はナビにまわる。
「だからなって。もう、どうなっても知らないからね」頬をふくらますマリは助手席に座るナイジを睨む。
「なにかさ、こうなることが決まってたような気がするんだ。オレがマリに運転を教えたのもきっとそのためだったんだってね」
 そんなふうに言われればマリも反論できない。それがここまでの流れとしてあるならば全うすることでこの先も開けていく「じゃあ、行きますよ」そうでありながら半ばヤケになってオースチンをスタートさせる。ゆっくりと。
「うまいじゃん。誰に教わったの?」からかわれて舌を出すマリ。「アタシのお荷物になる人だけど?」
 2速にシフトアップすると、どうやら本格的にガソリンが無くなってきたらしく、加速もせずにユルユルと進んで行く。ロータスはゴールラインの前で止まっていた。安藤はクルマを降りて腹に含んだ表情で笑っている。
 平良はその光景を見てニヤリと口端を上げる。自分のピットレーン前にいる、呆気に取られたチェッカーマンに声を掛ける。
「おい、チェッカー振ってやれよ。ゴールだろ」
 平良のシャレた計らいに地崎も満足げに笑みをもらし、親指を立てた手を大きく上に掲げたあと、コースに入ってオールドレースのシーンを思わせる派手なチェッカーアクションをする。
 それを引き金に各ツアーズのドライバーからスタッフからがコースになだれ込んで、拍手喝采でオースチンを取り囲む。そして一様に甲洲ツアーズに対しても拍手とシュプレヒコールを送りはじめていた。
 他のツアーズの面々は同じレーシングドライバーとして、レースに関わる者として、甲洲ツアーズの仲間意識を羨ましかった。それが出臼の濱南ツアーズでは決してありえないことも。
 スタンドの観衆も、その一連の行動や、ピットでの盛り上がりを目にして、多くの目がその光景を羨しそうに見つめはじめていた。ひとつの成果に対して関わった者達が健闘をたたえ合う姿に、レースに対する純粋な想いがあふれていた。自分もそんな仲間になりたいと多くの者の心を揺さぶる。
 ゴールしたオースチンの周りを囲むツアーズの面々の喧騒振りを見て、リクオもジュンイチも、ミキオもリョウタも、そしてゴウまでがお互い手を取り合い、身を寄せ合い、健闘を称えあいオースチンの元へ進んだ。
 けして誰もがお互いを好きあっている仲良しグループではないし、いまの時間をたまたま一緒に闘っているだけのつながりで、ことあれば出し抜いて自分がもっといい環境で戦えるドライバーになりたいとしのぎを削りあっている。
 そんな間柄であってもこのときだけは助け合いの気持ちをわけあって、同じ感情を共有できたことが嬉しかった。それが短く儚いつながりであっても。いまだけはそれでいいと思えた。そんな姿が他のツアーズや、観衆には眩しかったのだ。
「なにやってんだかな。あのお嬢ちゃんの行動が、ヤツラをまとめちまいやがった。何か変るキッカケになるのかもな、アイツらにとっても。まったく、後始末するオレの身にもなれって。やっぱりオレにはデカすぎた夢だった… ってわけだ」
 その光景を見る不破は、脱力しながらも権田や安ジイと共に、優しい目で自分のツアーズの仲間を眺めていた。
 収まらないのは、なにも得るモノがなくなった出臼だった。不破の元に駆け寄って不満をぶちまける。
「不破さん。わかってますよね。レース中にマーシャル以外がコースに入って。クルマを押すなんて前代未聞です。審議にかけますからね。最悪甲州ツアーズの除名も覚悟してくださいよ」
 不破はこの雰囲気に水を差す発言に我慢ならないが何も言い返せないでいると、そのあいだに割って入る者がいた。
「除名の覚悟をするのはどっちになるかな? 出臼よ、最終コーナーのマーシャルが洗いざらい吐いたぜ。ボスの前でゆっくり話を聞かせてもらおうか。ボスは寛大だから悪いようにはしないと思うが、オレはそうじゃないって知ってるよな」
 そこには最終コーナーから駆け付けた八起がいた。突然の出来事に出臼は対処できない。目が泳ぎ、どう取り繕うか考えるも、手荒な八起を前に心拍数が上がるばかりだ。
「八起さん。公然の場です。暴力は… 」
 八起は出臼の首に腕を回し頭をなでる仕草をする。
「安心しろ。ここではやんねえから」
 肩を震わす出臼に、権田も安ジイも苦笑いだ。
 多くの人々に取り囲まれたオースチンの中で、マリはナイジの腫れあがった左手を取り熱量を感じ取る。人の目を気にしてか声を押し殺して泣いているようで、その振動がナイジに伝わってくる。ナイジはマリの泣き声が漏れないよう、顔を覆い押し付けるように強く抱きしめてみた。もうマリは堪える必要はなかった。
 ふたりはサーキットの中心に居ながらも、そこはもう、誰も手を伸ばすことのできない空間になっていた。
「ナイジ、ナイジ、すごいね、一生懸命やるってすごいことだね。アタシは臆病で、いい訳ばかり用意して、できないことを自分の目の届かないところに隠してた。ナイジが引っ張ってくれたから、これまでアタシの人生では触れるはずのなかったことが体験できた。やるまえから諦めないで、少しでも可能性があるなら、行動することが大切だってことも教えてもらえた。ありがと、ありがとうね。ナイジ… 」
 ナイジは何も言えずに、何度も首を左右に振るだけだった。天を仰ぐその瞳には顔をしかめて必死になって堪える涙が潤む。静まり返ったサーキットにふたりの思いが重なりあっていた。
 肩を叩いてマリの勇気を称えた。マリはうなづきなからも顔を手で覆い、再び力なくナイジの胸にカラダを落としこむ。
「ありがとな、オレみたいなヤツの人生に関わってくれて。あの時マリが勇気を持ってノックしてくれたから、オレはすくわれたんだ」
 そんなオースチンを囲んで誰もが笑顔だった。この女性の勇気ある姿に心を動かされ、素直に力を貸し合い、損得勘定を抜きにして行動できたことに満足していた。


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