private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

商店街人力爆走選手権 SCENE 32

2016-07-17 14:22:39 | 連続小説

「こんな光景がまた見れるようになるとは… 」
 いつも目にする人の流れとは逆の現象が起きている。駅のコンコースは、駅裏へとつづく人々の列が途切れなく連なっていた。会長は素直に受け入れることはできなくとも、自然としびれがつたわり身を震わせ、声を漏らさずにはいられなかった。
「とにかくお客様に来て、見てもらわなければなにも始まりませんからね。わたしの中では規範の内です。徐々に自然治癒に向かうのもひとつの手、劇薬で一気に治療するのもひとつの手。残念ですが会長さんの商店街は自然治癒できるほどの余裕はありません… っと、いまさら言ってもそらぞらしいですよね」
「あたりまえだ。まったく、やっておいて。あなたにとっては白いキャンパスに自由に絵を描くようなものだんだろう。早く手を打ちたくてしかたなかったのが目に見える。 …誰のことを言っとるのか知らんが、病状に例えるのが好きなようだな」
 会長はひきつった笑いをするしかなかった。ふたりは階段を降り、人波にまじってまつりの開催がせまる商店街へ向かうべく駅ビルを離れる。
 二人のまえを歩く、ふたりづれの女性が歓声をあげて指さす。
「見て、見て、屋台の横がウッドデッキになって、テーブルとイスが置かれるわ。なかなかオシャレじゃない? ちょっとアジアの屋台街みたいな雰囲気で。うーん、日本ばなれしてるってカンジ?」
 閉められていた休業店は、すべて戸板を外し、それをそのまま路上に敷き、木製のテーブルと丸椅子をセットして簡易的なウッドデッキとした。さびれた店舗の前に新品や小ぎれいな物は似合わない。居抜きされた店舗の廃棄予定のテーブルと椅子を、廃棄代をもせしめて引き取ったものだ。
「運送代も取れればよかったんですけど、まあ、プラマイゼロで心も痛みません」
 テーブルの奥には閉じられていた店舗の、昔の面影を伝えられるように、LEDのキャンドルで淡くライトアップされている。そんな店舗の前で、古い人には過去を懐かしみながら、新しい人には昔に思いを馳せながら屋台の料理が楽しめる。
 早くも、椅子に腰を落ち着け、イカ焼きとビールでお楽しみ中の高齢者もご満悦だ。
「ちょっとした商店街の過去を見られる歴史資料館にでも来ている感じじゃないか。これはほうぼうの店をまわって食べ歩きしたくなるな」
 偶然居合わせたと思われる、相席の男性もこれにならい、ほろ酔いの心地よさのまま共感をしめす。
「いや、同感です。わたしの故郷にもこんな感じの商店街がありましてね。子供のころの遊び場で、悪さしてはよくしかられたもんです。なつかしいですねえ」
 セキネに指摘されるまでもなく、郷愁をそそる風景の価値を十分に活かさない手はない。昔の店の風景と屋台マッチングを考慮し、魚屋の前でたこ焼きを食べ、大衆食堂の前で焼きソバを食べ、駄菓子屋の前でラムネを飲めるなど考慮されている。そこに集う人たちが知らぬ者同士でも会話がはずみ、ほかの屋台の情報も口伝えで広まっていき、次はそこへ行こう、明日はどこへ行こうと、自然誘発的に盛り上がっていけば企画側からすれば、してやったりだ。
「街並みや、風景や、情景が商品価値となる時代です。そこになにを思いはせるかは本人次第。これは商店街という有形の価値に、そこに集う人々の思いという無形の価値が折り重なって生まれたものです」
 消費者が環境を変えるとも、環境が消費者のマインドを変えるとも、どちらが先であっても振り回されているだけでは後手を踏むだけだ。流れを感じ取ったら、仮説を立てリサーチをし、検証をかさね実証していく。恵にはもともとある程度の勝算は持っていたうえで、手持ちのコマをフルに活用してここまで築き上げていた。仁美はまだしも、いいように使われる結果となったセキネがわざわざここまで出張って文句を言いに来たのもいたしかたない。
「駅前のように、アンケートやリサーチから仮説を立てていては、一過性の盛り上がりはあっても、その時点で時代遅となり、自転車操業ではすぐに息切れするでしょうね」
「時流を感じ取っただけじゃないだろうに。種まきがあってこその流れだ。それに駅前の開発を見て、そこに顕在している問題点を逆手にとったとも言える」
「おそれいります」
 恵はあたまを下げながらも、会長が素直に賛同しているわけでもないと感じ取っている。なににしろ、進退について考えているのは明らかだ。成功しても失敗しても理由はいくらでも取って付けられる。
「どうもね。わたしには過去の恥部を見世物にしているようでならなくてね。ある意味、わたしの失敗見本市といったところか。そういった卑屈さであったり、つまらぬ意地みたいなものひとつひとつが、さまざまな障壁を呼びこんでいたのだとも思う。過去と決別するには打ってつけといったところか… 」
 会長は夏まつりに来た客とはまったく逆の思いで、様相が異なる商店街を見渡していると、しだいに過去の映像に飲み込まれていく思いだった。
 商店会長や選出された役員たちは、商店街のために無償で働くことになることになり、そんな手間になるような仕事を好んでやろうとするモノ好きなど少なくなっていた。さらには近頃では高齢者が増えていくなか、敬遠する者が後を絶たず、会合があっても出席者は決まった少人数しか集まらず、おのずと疎遠になっていく。いったい誰が自分の組の役員なのかもわからず、商店街で何が起きているのかも知らないし、知るつもりもない。しかたないから金だけ払うからいいだろとか、折からの不況のため払うものも払わなくなり、関わりあいを拒む者も少なくはない。
「 …気概を持って独力でやれば、やれワンマンだとうとがまれる。まわりの意見を聞いていれば八方美人の弱腰だといわれる。組織の長なんてものは、大国の大統領でも、さびれた商店街の会長でもなんら変わらんのだ。誰だって自分の方を向いてほしい。自分が得になる施策や政策を望んでいるだけで、自らは何もしようとしない、ましてや運営側にまわって汗をかこうなどと手を挙げるわけがない。 …それもこれも、わたしの不徳の致すところといえばそれまでで、会長なんて役まわりは分不相応だったと言える… 」
 組織というものは必要と供給の埋め合わせのゆえ、強要が拒否を呼び、相容れない平行線が延々と続いていく。長く付き合っていれば、同じ思考と行動がともなっていくだろうとした従来の常識にあぐらをかいて、安穏とはしていられない。義理と人情もつながりがあってこそで、隣は何をする人ぞという中で、人とかかわりを持つことを拒む人たちが、ただ単にそこに住んでいるという理由だけで、他人のために汗をかこうと思うほど、人の好い、間の抜けた、使われることに喜びを感じる人間がそうそういるなどと思うほうがどうにかしていると。何かを変えれば、変化がおとずれるわけではないはずだった。同じ行為をするはずなのに、キャストだとかクルーとか、呼称を変えただけで、人は意識と、やる気が変わってくる。目先の変化だけで自分が刷新されたような気持ちに踊らされている。
「 …それがどうだ。まるで手品でも見ている気分だ。あなたはつぎつぎとアイデアを出して現実のものとし、いままさに成果を摘み取ろうとしている。わたしがどれだけ懐疑的な意見を言っても、あなたはすべてを前向きにとらえ、商店街の店主らをまとめてひとつの方向へと導いていった。これはわたしのひがみだと思ってもらって結構だ。ある意味、不愉快だと言ってもいい。駅前の躍進があり、いよいよ切羽詰まった状況が好転を呼んだとも考えなければな、わたしもやっとれんよ。会長などと言われ、都合の良い時だけ持ち上げられて、体のいいなんでも屋でしかなかったんだからな」
「会長さん。そうでもないと思いますよ。押しつけられただけで、これほど長いあいだ商店街を支えることはできないはずです。大統領でも、会社の社長でも、いちプロジェクトリーダーであっても、ひとりでは何もすることができません。もちろん私もしかりです。まわり協力のもと、実行者たちがチーム一丸となってはじめて事が進むのです。もしこれまではその人材に恵まれず、今回の私がそうであると思っていただけるなら、会長さんが地道にここまでやってこられたからこその、ひとつ結実だと自負されてもいいのではないでしょうか?」
 会長はこそばゆそうに鼻がしらを掻く。
「恵まれたか。まさにあなたは名の通り、恵みの神だな」
「さあ、どうでしょう? かなりの暴君だと、手を焼いているように見受けられますが?」
 恵は不敵にほほ笑んだ。
 人と人のつながりとは希薄でもあり、即効性もある。困っているときは助けて欲しいはずなのに、困っている人には冷たい。ましてや多数派の側であれば、誰もが最初の一歩を踏み出そうとしなくなる。どこまで関われば免罪されるのか判断に迷い、深入りすればいいように使われ、関わらなければ冷たい人間だと思われるとジレンマに陥っていく。
「わかっているよ。従属も、奉仕も、事業契約ならなおさら、それは自分の利益の範疇で行われてしかりだ… ただこれはね… これはもう、従来のウチの商店街の夏まつりではないってことだ。この場を使った、まったく別のイベントに取って代わった。それもずいぶんと実験的なね。どれほど成功しようと、いや、成功すればするほど、自分の手から離れていくのが物悲しくてな。おかしなもんでな、これまでやってきたことをひっくり返すのは、なににしたって邪道としか思えんのだよ。なさけないが、それらが過去から今に至るまで、多くの衰退の元凶となっているとわかっていてもね」
 恵には会長の物悲しい気持ちは理解できた。誰だって慣れないものだ。これまでの方法をあきらめて、やりかたを変えるのは、相当な勇気と覚悟が必要で、会長にとっては厳しい現実であり、受け入れがたいことであるとも。
「緩やかな変化に人は慣らされていきます。急激な変化には拒否反応も伴うのはいたしかたないでしょう。これまでの事例でも、その土地の負の資産を逆転の発想で金の成る木に変えてV字回復した町や村、事業団体は多くあります。それがその土地のすべての人々にとって幸せな回答だったかは… だれにもわかりません。その判断はこの先に引き継いだ者だけができるのではないでしょうか」
「時田さん。あなたのやりかたを否定するつもりはないよ。あなたが言ったように、ウチの商店街にはそれほど体力はのこっていない。はたしてこの成功がどこへいくのか… そう思えば、人間も、組織も、企業も、国だって、必要とされる生存期間は限定されているのだとも考えられる。だったら、役目が終われば消えてなくなるのが理にかなっているのか。無理にでも存続する必要があるのか。ましてや古くなった血を、新鮮な生き血に入れ替えてでも。名前だけがのこり実態は別の生き物になっている。 …成功したらの話だがね」
 会長にとっては成功もまた、この商店街が現状ではなくなるさびしさを感じられずにはいられない。このまま消えてなくなろうとも、同じ営みを繰り返していく方が自然であるという思いはなくならないのだと、恵にも強く伝わってくる。
「会長さんや、商店街の側から見れば、そう感じられるのもしかたのないことと思います。目で見てるものはまぎれのない事実でも、どれほど心に残るかは別問題といえるのではないでしょうか。あなたや、あなたのお子さんたちが体験してきたこの商店街はもう二度と元には戻りません。と同時に、今回のおまつりを楽しむ子供たちも同様です。楽しかった思い出は増幅され、二度と同じ体験はできないんです。記憶は永遠であり、語り継がれる言葉もあります。この商店街がその舞台となっていることが、いま、この時、このおまつりを行う価値があると考えてみてはいかがでしょう」
 会長は恵の言葉に足を止め、振り返って歩きてきた道を見渡した。商店街が変わりゆく生き物なら、そこに集う人々も変わりゆく。この場を提供するのは自らの営みのためでもあり、この場を人生の一部として生きてゆく人のためでもある。未来とか存続とか自分本位だけでは見えてこない、関わる人々の記憶に残りその後の人生に少なからずも良い影響をおよぼすなら、無駄なあがきと卑下するのはそれこそ失礼な話なのだろう。
「恵さん、あんた… 言葉のアヤだとしても嬉しいよ。悪いね、こんな年寄りに気をつかわせてしまって」
「お疲れですかね? 少し、休みましょう」
 商店街の角地にオープンカフェがある。さびれた風采のたたずまいは、店主の方向性とは相反していても、それはそれでいい味をだしているともいえる。立てつけの悪い窓やトビラの隙間から洩れてくるコーヒーの香りが通る人の心を揺さぶり、喉を鳴らしても、一見さんではふらりとは入りづらいこの店がまえでは、コンビニで買える安価な挽きたてコーヒーの購買促進の元になっているにしか過ぎない。
 この喫茶店のまつりの出し物としては、かき氷を店先で販売する手筈となっており、準備に余念のな
い店主の柳田が、会長の顔を見かけると気さくに声をかけてきた。
「会長! 会長。今年のまつりはなんだか活気があって去年までとは違う感じだねえ。ここ数年ないぐらいの盛り上がりがあるよ。子供たちの体験学習。ありゃ、いいアイデアだ。やっぱり子供の声があるといいねえ。年寄りばかりじゃどうしても気がめいる。年寄りのわたしが言うのもなんだがねえ」
 会長が仏頂面をしていると、となりで恵があたまを下げる。
「おや、今日は、えらく別嬪さん連れて、どうしたんだい。そんな親戚がいたなんて聞いてないよ。新しい後家さんかい? いや、冗談、冗談」
 恵のこめかみに血管が浮き、セクハラを連呼したくなる衝動をこらえて、笑顔のままに応えた。
「まあ、会長さんにお似合いに見られるなんて光栄ですわ。残念ですけれど、まだまだ若輩者ですので、会長さんの連れ合いになるにはおよびませんですわ」
 会長もいいかげん恵の言動になれてきて、暗に自分の若さを強調する物言いにあきれながらも、そうくるだろうと予感はしていた。当の柳田は、いまどきつつましい女性だと感心しているのを見ると、なんとも間を取り持ちづらい。
「いやあ、若いのにしっかりした女性だ。でっ、どちらの方?」
 若さアピールが成功した手ごたえを得た恵は、バッグから名刺入れを取り出し柳田に差し出す。
「今回、駅裏の夏まつりの企画・運営をとりもたせていだだいております時田ともうします。本日は最終確認をしがてら夏まつりの準備を見て回っておりました。わたくしの力がいたらないばかりに今日も会長さんを引き回してしまい、だいぶお疲れのようですし、少し休ませていただこうかと… コーヒー二ついただけます?」
 丁重に言いながらも、すでに椅子を引き、座りこみ、会長にも着座を進める。
「オレも忙しくて疲れてるんだけどなあ。会長だからって役得すぎないか?」
柳田はそうボヤキながら店にひっこんで行った。すると今度は背後から声がかかる。
「会長ーっ。ここにいたんですかあ。あっ、アナタもいいところに。いやー、言われたとおりですよ。これが相乗効果ってやつなんですね。消せるボールペンと、ほら、なんとか大学の生徒が使ってるノートの組み合わせで、体験学習の子に『二学期からの成績向上キャンペーン』と銘打ってセット販売してもらう企画。アレ、あっというまに完売しましたよ。アナタ、企画会社の人だよね。すぐに追加で納品してくださいよ。なくなっちゃってから来た子たちに、明日用意するからってしぶしぶ帰ってもらったぐらいなんだから。手伝ってくれた子供も鼻高々で、親も一緒になって、夏休みの課題も効率よく片付くって、もう大喜びで… 」
 興奮して話が止まらない文房具屋の店長をおしのけて、いつのまにやら現れていた家具屋の店長がかぶせてきた。
「会長っ、『カーテンで部屋のイメージチェンジ』の企画、すごい反響ですよ。子供についてきた親や祖父母らが、ウチの部屋もコーディネイトして欲しいって、子供そっちのけで盛り上がっちゃって。テーマごとにつくったミニチュアを子供に説明させるんですけど、私にほうに質問が集中しちゃって。子供も自分の部屋をこうしたい、ああしたいって親にせがみだして。今日だけで6件の引き合いがありました。こりゃ、盆明けから大変だ… 」
 顔が大変そうではない家具屋は、言いたいことだけ言って、とっとと引き返して行った。会長はその方向を見ながら恵に語りかける。
「大変な盛況ぶりだ。なんだかモルモット代わりになっているように思えるのは、わたしのうがった考えなんだろうかね」
 会長の真意をはぐらかすように、恵はあたりさわりのない正論を述べていく。
「会長さんは、盛況であっても、企画の出どころがお仕着せであるところを危惧されているようですね。お気持ちは察っします。どうでしょう、実験的なことであれ、モルモットだと悲観するのも、何もいまに始まったことではないはずです。どんな施策でもその要素は含まれてます。仮説を実証するのは実験です。実験には検証する実験体が必要です。言葉を柔らかくすれば新たな市場開発のための消費者行動の見極めといったところでしょうか」
 良い企画だとは素直に認めていた。ようはアイデアなのだ。やれ、行政がなにもしない、国は自分たちを切り捨てる、なんて文句ばかり言って、自分たちは旧態依然でなにもしない。それが本当の問題であるのに、そんな意識すらも持たなかった。だからといって行ったことすべてが必ず成功するわけではなくても、挑戦しなければなにも生まれないのもまた真実だ。会長が本当に危惧しているのは、商店街再生の経験と実証が、この先商店街になにかの寄与をもたらすとも思えず、実った成果はやがて大企業に摂取されるのが目に見えていることだ。かつて日本商社が海外で言われたように、通ったあとにはペンペン草も生えないはずだ。
「いいんだ、年寄りの愚痴にすぎん… わたしたちの世代は、親にも、学校にも逆らわずに従順であることを望まれ実践してきた。それが大人への入口で吹き溜まりとなり、若い力が妙な方向に熱をおび、主体のなり理想はあっけなく消え去った。そのぶんそれからは将来への安心を担保に、大人しく社会生活を営んでいく道を選んだ。そう思えば、すべての所業は誰かの実験の中にあり、誰もがモルモットとしてデータを提供してきたに過ぎないだろう… 」
「その流れは、過去から未来永劫消えないと思います。目で見てきたことだけが実態であっても、記憶というものは事実だけではないはずです。消し去りたい思いも、楽しかった思い出も、けして本当の体験からだけで作られてはいないのです。そして、人々を束ねる時流というもは、誰らからの作為的なものでもあり、環境の動きであったり、自らの選択でもあるはずです。子供たちの経験がこの場で行われた記憶が残り、なんらかの自己構築に影響をおよぼし、将来への糧になるならば、それだけでも、この商店街の存続理由になるのではないでしょうか?」
「うれしい言葉だが、美辞麗句でもある。なんにでも理由をつけようとすればどのようにだってなる。結局は、得た経験や知識をどのように活用できたかは自分次第というわけで、わたしはこれまで何者にもなれていなかったんだ。体制をいいわけにして弱さを隠していたのは戒人ではなく自分のだったんだ。 …いや、私がそうだから戒人をねじ曲げたともいえる」
 言葉とは裏腹に、会長の目は笑っていた。
「時の流の中では、私たちの所業など無駄なあがきにもならないでしょう。ただただ、飲み込まれていくのも人生です。逆流に逆らってもひとりではなにもできません。ひとつの動きが次の動きを呼び、いつしか何人ものひとが逆らいはじめれば流れも変わる時がくるでしょう。たとえ飲み込まれるとしても私はあらがう一人になりたいと思っています。角を押さえておけば、すべてをひっくり返すチャンスも残されているのです。あきらめるのはいつだってできるんですから」
「強くなきゃできんよ。誰もができることじゃない」
 恵はゆっくりっと首を左右に振った。
「私がもし、強い意志を持ってこれまで生きてきたと思われているのなら、それは間違いです。力が出せるのは、いつの時も、環境と相対するからです。今回もそうです。 …だったら、会長さんもできるのでは?」
 見れば戒人と瑶子がこちらに向かって歩いてくる。のんきなのか、肝が座っているのか、まさかもう結論がでて人力車での戦いをしないつもりなのか。気になりながらも、おくびにも出さず皮肉ってみせる。
「あら、あなたたち。おふたりそろってお散歩とは余裕があるわね」