private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

商店街人力爆走選手権 SCENE33

2016-08-21 17:04:52 | 連続小説

「ああ、瑶子ちゃん。久しぶりだね」
 会長は腰を落ちつけたのもつかの間、ふたりの姿を見とめるとすぐに立ち上がり瑶子の方を向いてあいさつをする。
 瑶子は会長と一緒にいる見慣れぬ女性から浴びせられた言葉を気にかけながらも、ふたりに丁寧なお辞儀をする。きっとこの人が近頃の戒人の話しに出てくる上司の人なのだと、想像していた通り自己主張がはっきりした、物怖じしない性格が前面に出ており、自分とは正反対の自信に満ち溢れた態度に気押されそうだ。
 一方、瑶子をめぐる戒人と仁志貴のゴタゴタを知る由もない会長は、恵の言葉の意味を深く考えることもなく瑶子にねぎらいの言葉をかける。
「いまも戒人と仲良くしてくれて本当にありがとう。コイツも少しはしっかりしてくれんと、私も折原さんに合わせる顔がない。それに今回は折原さんにはずいぶんご苦労をかけてしまったみたいで、どうやら瑶子さんまでお手伝いしてくれたとか。自分の会社もあるだろうに、本当に重ね重ね申し訳なかったね」
 会長からお礼を述べられて恐縮する瑶子は、父もあれでけっこう張り切ってやっているとか、母の元気がでてきてよかったとか、伝えたい思いがあるにもかかわらず、うまく言葉にならないので目だけが右往左往して、それをごまかそうと何度もあたまを下げる。恵の視線を強く感じるのも、いつもより余計に緊張してしまう理由だ。
 戒人はそれを見て援護するつもりか、ただ単に言いたかっただけなのか、お店の様子を話しだした。
「大丈夫だよ、おじさんはあいかわらずブッチョウヅラで愛想なしだけど、それが職人っぽくていい感じだったし、ヨーコちゃんもキリがついたらすぐ解放してくれた。おばさんなんか声に張りが出て、20歳ぐらい若返っちゃったんじゃない。 …20若返るとヨーコちゃんと同い年か。それはないか… ハッハッ」
 会長の思いも届かないようで、戒人のぶしつけな言葉は会長の神経をさなかでし、なんとも渋い顔つきになっていく。瑶子の手前でもあり無言を貫いていただけで、いったいいつまで息子の失言に悩まされ、しりぬぐいを続けなければならないのかとため息が出る。
 瑶子も会長が気にかけて不機嫌になっていると知りながらも、自分の言葉を代弁してもらえて少しほっとした表情を許すと、恵にその顔を見られていることに気づき、顔を伏せ小さくなる。なんだか心の奥まで読み取られていくような気がしてならない。
 戒人言いたいことだけ言ってそっぽを向いていた。おかしな緊張感が戒人と恵の間にあることに瑶子も気づいたのは、知らぬあいだではないのに、戒人はろくに挨拶もせず目を合わせようとしないからで、ましてや恵の深く切れ込んだスカートのスリットに、少しも目をやらないのは、やせ我慢としても度が過ぎていると読まれている戒人は、瑶子の前で別の女性のセクシーポーズに目を奪われる失態を避けようと必死なだけだった。
 そんななか恵は、遠い親戚の集まりのなかに放り込まれたような取り残された気分になる。最初に放った言葉が放置されたままになってしまっても、誰も気にかけてくれそうにない。瑶子や瑶子に気を取られている会長はまだしも、戒人が嫌味に対して愚痴で返してこないのは意外で、これまでのお気楽なふるまいとは違い、どこか強い意志が見受けられるのは、人力車レースのことには触れさせようとしない構えなのだろう。そうであればあるほどそこを探り出したくなる。
 人力車の最終レースは夏まつりの残り二日間をうらなう重要なポイントだ。盛り上がって終えられれば明日からの呼び水になる。一回見ればもう十分と思われれば、ひねりを加える必要もある。レース結果を見てからプランB・プランCと切り替えていく手はずが整えてあっても、戒人の出かたを知っておくに越したことはなく、すこしでも早く情報をつかんでおきたいところだ。
 会長は話しをしながらも瑶子に席を勧め、瑶子は戒人の顔色を伺いながら小さく腰をおろした。意にそぐわない戒人が、ぐるりと商店街を見渡す動きは、どうしたものかと思案しているのだろう。なにげない動きや振る舞いが会長に似ていても、お互い同士は気付いていないらしい。
 できれば早くこの場を立ち去りたい戒人は、瑶子を無理やり引きはがす手立てが見つからない。会長が嬉しそうに瑶子に話しかけている姿を見れば、口を挟んでも一蹴されるだけだ。しかたなく机に向かってハスに座り、足を組んで下を向き、やはり居心地は悪そうである。
――単純な人間だと思っていても、こんな別の面を見せられると、やっぱり安易に決めつけるのは良くないわね。どうもそれほど余裕があるわけでもなさそうだし、しばらく様子を見るしかなさそうね。
 会長はそんなふたりのせめぎ合いも気にすることなく、瑶子にいろいろと話しかけ、うなずくだけの返答でも嬉しそうに相好をくずしている。
――娘さん。欲しかったのかしら…
 会長のそんな姿もこれまでの印象からは意外な一面で、これもまた新鮮だった。息子の彼女に対し父親が、これほどあれやこれやと話しを続ける姿もめずらしいはずだ。子供のころから知った仲といえばそれまでだが、どちらかといえば久しぶりに帰省した娘に近況を聞いている父親といった風情であり、やはり自分は遠い親戚のポジションかと自笑していた。
 会長にとっては男所帯になって久しく、瑶子は目の中に入れても痛くない娘か孫のような存在だ。おとなしく、いやな顔ひとつせず話しを聞き続けられる瑶子だからそこ、会長もいろいろと話を広げられる。心ここにあらずで反応が鈍かったり、逆に話しの腰を折ったりするような女性ではそうはならなかったはずだ。
 会長としては、すぐにでも嫁に来てもらえればと思っており、年ごろの娘さんをいつまでも引きずりまわしているだけで、折原家に対しても申し訳が立たず、ここでも戒人の優柔不断な性格が恨めしい。
――ニシキくんも、以外とわかってるじゃない。やっぱりわかってないのはこのボーヤだけのようね。これでじゅうぶん親孝行してるとでも思ってるんだから。
 頬杖をついた恵の目が会長と瑶子から戒人の方へ向く。今日の人力車レースの勝敗いかんによって、仁志貴がふたりのあいだに横やりを入れてくることを会長が知ったら、能天気に瑶子と話しをしている場合ではなくなるだろう。戒人が恵からそのことを振られないように厚い壁を作って防御しているのは、そのためでもあるはずだ。
 そうであれば正面切ってストレートに切り込んでくる恵ではなく、周りに対してはボカシながらも戒人だけには伝わるようにすることもできる。会長と瑶子の話しがひと段落したところでなにげなくつぶやく。
「今日のおまつり、最後のしめくくりが大切ですね」
 恵の言葉に会長が思い出したといった具合に戒人に問いただす。
「そう言えば、オマエ、人力車レースに出るんだってな。しかもニシキとやるそうじゃないか。それじゃあ勝負にならないって、今日の役員会でひやかされたぞ。知ってる人間ならみんなニシキの方に賭けるって。いい笑いのネタだ。そりゃそうだろ、オマエこれまでろくに運動したこともないのに。わたしは何も知らんから適当に相づちを打っておいたが大丈夫なのか。大差のレースで終わったら締まるモノも締まらんくなるだろ」
 そう、まさにそこだ。ろくに運動ができないのは戒人自身が一番よく知っているはずだ。レースに出ないという選択肢もあったうえで参戦したならば、戒人にとってはただの勝負ではないことを鑑み、なにかしらの手を講じなければ仁志貴の思うがままにされてしまうのは明白なはずだ。そのうえで瑶子をつなぎ止めておく確乎たる自信があるならば、その策略の尻尾をつかんでおきたい。
 瑶子は会長を見て、恵を見る。気にかけているのは恵だけではなさそうだ。がぜん注目の人となってしまった戒人は、好まざる話題となっても特に慌てた様子はない。妙に落ち着いた戒人を見ているとなにかウラがあるのか、なんとかなるとお気楽な考えなのか。後者の場合さすがに瑶子に同情したくなる。
「そうですよね。みっともないことになって、変な終わり方にならなきゃいいけど… 勝算はあるのかしら?」
 勝算の意味合いは多様だ。会長にはまともなレースができなければまつりも締まらないと示唆し、瑶子にはそれによって自分の今後が大きく左右され、戒人にはどんな手をつかって勝負に挑もうと考えているのか。
――仕込んでおいてよく言うよな。
 しらじらしく言い放つ恵に戒人が舌打ちをする。
「いやあ、いい親孝行ができそうでよかったっスよ」
 その言葉の意味は会長と瑶子には的確な回答には思えないでいるところへ、恵だけが感心したように反応した。
――なに、このコ。腹芸もできるの? あまりなめてかからない方がいいのかしら。
「そういう考え方もいいとは思うけど。その先も親孝行につながるのか気になるところね」
 余裕と含みを持った言葉に呼応する戒人。これでは恵に簡単にあぶり出されたかたちとなり、言われたそばからこれでは、恵も買いかぶりを再認識する。
「そうじゃないだろ。オレの言いたいのは、無能な官僚のために、捨てゴマにされるのはイヤだって! 言って… イヤだなあ、ハハッ」
 つい声を荒げてしまうと、目を剥いた会長の表情に戒人は尻つぼみになってしぼんでいく。恵は一瞬だけ不敵な笑みを浮かべておいてから会長と同調して驚いたポーズをつくり、どちらの側にいるのか明確にする。
「どうした、戒人。なに昂ぶってるんだ? 無能な官僚とか、捨てゴマとは、何を言いたいんだ?」
「いや別に、ちょっとカイさんのセリフを言ってみたかっただけで… 」
 どうにもバツの悪い戒人は、よけいにこんがらがることを言ってごまかすしか手筈がない。
「おう、カイ坊。ヨッコも、来てたのか」
 恵たちのために淹れたてのコーヒーを運んできた柳田が、子供のころからの呼び名で二人を呼ぶ姿に毒気を抜かれ、いっきに場の空気を変えてしまった。助けられたかたちの戒人は感謝しながらも、いやカイ坊はちょっと、と小声で抵抗してみる。
「まあ、いい香り。おいしそう」
 恵の言葉に柳田もまんざらではなくとも照れくさいのか、鼻のあたまをかきながら、すぐさま合の手を入れる。
「でしょぉ。味にはこだわってるから、香りも大事なコーヒーの要素だからね。そこらの機械で淹れた画一化したモノとはちょっとちがうよ」
 それは暗に、湿度、温度も含めた気象条件や、お客の好みまでも把握して淹れていると言いたげだ。
「それで客が入ればいいが、ごらんのとおりだからな。そこそこの味でも安くて買い易い方に流れるのは世の定め、時代の流れだからね」
 会長が何か恵にすがるような言い方をするのは、なにか策でもないかとほのめかしているのだろう。
 そんな恵も先ほどから、このロケーションや店のたたずまい、店長のキャラクターと、さらに目の前に出されたこのコーヒーの質なら、なにかできるのではないかと、あたまの片隅でうごめき出し、イメージを膨らませたくムズムズとしながらも、いまはこのまつりに集中しなければならず、人力車レースの案件のほうが重要と抑え込む。
 それにしても、戒人の件がたびたび腰を折られるのは、手をくだしてはならない見えない力がはたらいて戒人に決定権が委ねられているのかと、これまでの経緯を含めて要らぬ気をまわしてしまう。
――なんや、かんやで、けっこう持ってるからね。このコ。
 会長の言葉には額面どうりに、そうですね。とだけ答えておき、両手でカップを持ち上げてコーヒーをひとくち含んだ。間違いなく美味しい。口の中から鼻に抜けていく香りが豊潤で、喉越しに雑味もない。そのあとも重厚な味わいが舌の上に残っている。だてに注文してから時間をかけたわけではない。
 時間をかけたのはそれだけではないはずだ。豆の厳選からロースト、最適な提供ができる保存管理のうえ、挽いてからドリップするすべての工程であろう。それらを人間がすべておこなっていればどうしてもコストに見合った金額となってしまう。
 いまの時代にそぐわないのは気軽に飲める飲み物の範疇としてだけで、職人として芸術の領域であれば価値も見出せるはずである。どこにマーケットを置くかを再構築すれば、新しい顧客の創出も無理な話ではない。
「本当に美味しいです。これほどのコーヒーを飲んだのは、久しぶり… いえ、初めてかもしれません」
「いやあ、うれしいねえ。美人さんに言われると倍うれしいよ。おれもまだまだ腕は衰えてないってことだな。なあカイ坊」
 お世辞も、親愛を込めて言う言葉も相手とタイミングによっては悪意となり、ふたりから同時に口には出さない突っ込みを入れらていた。
――だから、カイ坊はやめてって。
――時代にそぐわないのは商品としての在り方だけでなく、女性に対して無関心すぎる店長の言動にも問題ありだわ。
 恵のこめかみが痙攣しているのを見て、雲行きが怪しくなる前に会長が、話題を変えようと言葉をはさむ。
「しかしながら、いくら質がよくたって、誰も欲しがらなきゃ売っていても意味はない。真夏にストーブを並べても売れんどころか近寄りもされんのと同じだ。自己満足で食っていけるほど個人商店は甘いもんじゃない」
「へいへい、会長のおっしゃる通りで。でもまあ、どこに基準を置くのかを自由に選べるのも個人商店の良いところでね。そうでもなきゃ、自分の店、持ってる意味がないからねえ… カイ坊も、ヨッコもコーヒー飲んできなよ。お代は会長につけとくからさ。ハハッ」
 柳田はそう軽口をたたき軽妙な足取りで店の奥へ消えていく。自分のやりたいようにやって、それが受け入れられなくとも納得はいっても、時代に媚びてまでも続けるつもりはないといったところか。すぐに戻ってくる気配がないのは、恵たちに出したコーヒーの余りを持ってくるわけではなく、もう一度あたまからやり始めるらしい。時間をかけてコーヒーを生み出すひとときは自分の楽しみでもある。
「なんだい、ヤナさん。店たたむような言い方してさ。変じゃない? なんかあったの?」
 ここまでの話の流れを知らない戒人が誰となくそう言う。答えるのは恵だ。
「そのつもりなんでしょ。めずらしくカンがいいじゃない」
――って言うか、このコの場合、勘というより、変なところでつながっちゃうだけで自覚はないからね。それがまれにグッジョブになるから厄介だわ。
 誉めるというわけでもなく、ここは持ち上げておいた方が良いという打算があっただけだ。
「夏まつりで、かき氷にひとが集まったからって、後日コーヒーを飲みに来てくれるわけじゃないでしょうから、本業に反映するならそれなりの出し物を考える必要がありますけど。すべてのお店をプロデュースするには時間もお金も足りません。それに、そうしたからって確実に成果がでるというわけでもありませんからね」
 会長は目を閉じ、口を締める。瑶子も他人事ではない。饅頭を作る原材料は毎年値上がりを続けているし、老朽化する調理機器も故障がちでメンテナンス代もかさむ。設備投資にまわす余裕があるわけではないし、買い換えたところで減価償却できるところまで店が続くとも思えない。自分が会社勤めを始めて家にお金を入れられるようになり、両親がパートも雇わず、すべてを家内生産してなんとかしのいでいる。もう何十年も据え置かれた価格で店頭に並べても売り上げは下降線の一途をたどるばかりで、値上げなどしたら常連さんにも見限られてしまいそうで、その見極めはつかない。
 大量生産、大量仕入れでコストダウンをはかり、安価で安心していつもの品物をいつでも手に入れることができる。それがあたりまえの中で生まれてきた世代が消費者の多数派となってきた今。どこに価値を置くかはそんな新しい消費者に委ねられている。たとえ原産地や品質を度返しして1円でも安いところを選び、味をととのえるために名目上の法令の元に、代替え品や混ぜものをして、弱者に負担を強いた搾取のうえでなりたっている商品だとしても、世に出ているものならばなんの間違いもないと盲信してしまう。
「どうしたの、ヨーコちゃん? 暗い顔しちゃって」
 恵は今日が初めて実物の瑶子を目にし、前評判通りの物静かで、自分から何かを言い出したり、要求したりするようには見えず、至って華やかさのかけらもない地味な存在だとは認識できる。いったいさっきからどこが変わって暗い表情になったのかと、戒人にはその差が分かっても恵には判断がつかず、具体的な違いを聞いてみたい。
――いまどきじゃないけど、ボーヤもニシキ君も、このコと一緒に居たいと思っている。会長さんだってあの状態だ。守ってあげたいという気持ちだけでは量れないわね。
 会長のすがる言葉が恵の思考を寸断する。
「なんとかならんものかな。柳田さんだってまだまだ老けこむとしじゃない。アナタも飲んでみてわかったように腕だって確かだ。逆に店をたたんでしまったら、腕は鈍るし、それがもとで老けこんでしまいそうで心配だ」
「ムリ、ムリ。ヤナさんが、手ェ抜いたコーヒー淹れるわけないよ」
 戒人が軽く一蹴してくれるので、恵は笑みを携えているだけでよかった。
「オマエには聞いとらん。それに誰も手を抜けなどとは言っとらん」
「でもさ、安いコーヒー出すにはそうするしかないだろ。なあヨーコちゃん。バッタモンのあずきにすれば半値で売ったって儲けがでるんだ。オヤジさんがそうまでして、店を続けると思う?」
 瑶子はすぐさま首を振って否定してしまった。突然に振られて本心からの反応であったとしても、会長の手前これではまずかったのかと思い直し、首をかしげてみた。
「オマエはすぐに、知ったような口をきいて、折原さんや柳田さんの代弁者にでもなったつもりか」
 父親に窘められれば口を閉ざすしかない。そういった経験者的な言われ方をすれば余計に反発したくなっても、この場で言い争うわけにもいかず、しかたなく戒人は横を向いてしまった。決めてかかった物言いは、押し付けがましいなりに正論でもある。ただ、駄目と決めてかかってはなにも生まれないと会長自身も知るところとなり、あらためようとしている矢先に、それが戒人にしみついているようでなんともやるせない。
「どうしたの? 深刻な顔しちゃって。せっかく旨いコーヒー飲んでるんだから、もっと楽しくいこうよ」
 柳田が淹れたてのコーヒーを持って再登場してきた。場に漂う芳しい香りにホッとさせられるのはコーヒーの持つ力のひとつであり、柳田の物腰もそれに良い味付けを加えている。
 柳田は戒人と瑶子に配膳したあと、自分でも飲むつもりで空いた席にもう一杯を置き席に座った。戒人が照れ隠しの意味もあってか、すぐにカップに口につけ、アチッと舌打ちするのを横目に、まずは湯気が揺らぐカップに鼻を近づけ十分に香りを楽しみ、カップの中で液体を二度、三度と回してから口に含む。出来栄えの確かさに満足して舌包みを打つ。瑶子はそもそも猫舌なので小さく息をかけ、冷めるのを待っている。柳田からすればもっとも美味しく頂けるタイミングを逃すだけとわかっていても、それを無理に強要することはしない。いくらそれを言い含めて飲ませたとしても、本人がウマいと感じなければなんにもならない。それこそが生産者の自己満足だと柳田は思っている。
「キミたちにはもう少しぬるめの方が良かったみたいだね」
 他の四人は柳田の嗜みに目を吸い寄せられて沈黙を保っていた。そこへ柳田がとつとつと思いで話しをはじめる。
「ボクがね、この店をはじめたのは40年ぐらい前になるんだけど、ちょうどその頃に海外からハンバーガーショップが進出してきてね。文化の切り替わりなんてのは突然に起こり、ほら、スニーカーの紐もいつのまにか白から色彩を帯びるようになったし、それどころか紐をしない人が出てきても不思議じゃなくなる」
 柳田がなんの話しをしようとしているのか、みんながピンとこない中、コーヒーをもう一口含み、軌道修正しようともう一度話を整理できたのか言葉をつづけた。
「雑誌やテレビでも、こぞって取り上げていた。新しい生活習慣が啓蒙されていくように美男、美女が紙袋から取り出したハンバーガーを口にして、炭酸飲料のカップに刺さったストローを口にくわえる。街中に自然に溶け込んでいる風景は誰の目にも憧れとなって映り、それは商品の向こう側にある情景で、商品を買うことで同時に新しい生活を買うこともできたんだよね。喫茶店といえば古臭く、煙草の匂いが入り混じって、どこか暗い印象が植え付けられていた。それ自体が悪いわけでもなく、価値になる場合もある。だけどもはや主流ではなくなっていった。カイ坊達だってそうだろ。生まれた時からファストフードがあって、先をいく大国の素晴らしさも幻想もすでに造りものだとあばかれていた。庭先でバーベキューコンロを出してハンバーガーをつくり家族で食べる姿だって、クルマでそのまま店に乗りこんでテイクアウトして、ドライブがてら片手にハンバーガーを持ち、となりで彼女がコーラを差し出すなんて姿は、もう目指す先でもカッコよさもない日常になってしまった。いまコーヒーショップでパソコンや本を広げて長居することも、いつかは先を行く人たちの行為ではなくなっていく。だったら時代遅れの店だって存在すれば、必要とする人の力になれることもある」
「主流は人の望みではなく、実は巧妙に仕組まれた社会経済への、無気力な参加であると言いたいのですか?」
 恵は自分に向けられた嫌味だと認識して、コンセンサスを取りに行く。
「ボクは、それ自体を否定するつもりはありませんよ。それを選ぶのも、拒否するのも個人に委ねられているわけだしね… 個人の才能をほとんど必要としないのがシステムの本質であり、成熟した国とはその調和がとれた社会的合意の国で、人々が得た自由とは管理された画一化でしかなかったという論評もまたしかりですよね」
――ふーん、言うじゃない。さすがは全共闘世代。時代遅れなのはどっちにしろ否めないけどね。
 戒人がコーヒーに目を落としまま口を開いた。
「オレさ、子供ころ、ヤナさんの店でプリンとか食べさせてもらった時、ヤナさんが客とそんな話しをしてるの見てたよ。大人になったらオレもヤナさんと喫茶店でそんな話しができるのかなって。そういうのが大人になることなのかなって、漠然と思ってた。お店なのに学校以上に自分を試されている場でもある。未来は商品の向こう側だけじゃなくて、それぞれの店が過ごしてきた時間の向こう側にもあるのかもしれないよね」
 柳田はニヤリとほくそ笑んでいる。恵も一本取られたと認めるしかない。
 戒人はひとり立ちあがった。
「瑶子ちゃん。オレ、そろそろ行くよ。準備もあるしさ」
――えっ、それだけ…
 表情には出さずも驚いた恵はすぐに瑶子を見る。瑶子は目線を感じ、すぐに顔を伏せる。もちろんここに来るまでにある程度の話しが済んでいるのかもしれないので、勝手にいぶかしがるわけにもいかない。
 瑶子は首を下げてうなずき見送った。両手でカップを包んで少しづつコーヒーを口にしている姿はあまりに自然すぎる。戒人といい、瑶子といいつかみづらい。仁美や仁志貴とは通ずる部分が多いのに。そこが恵にとってやりづらさにつながっているのかもしれず、戒人の胸の内をついぞ知ることはできなかった。
――仕方ないわね。これ以上追従するのも無理っぽいし。あのコがどんなミラクルを見せてくれるか楽しみにするしかなさそうね。