private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第16章 2

2022-09-25 17:33:04 | 本と雑誌

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R.R

「今日は、長袖なんだね」
 しばらく続いた静寂のあとで、ナイジの姿を見直したマリが、自分のことはさておき夏の日にそぐわない格好を指摘するかたちで口を開いた。下をむいていたナイジもその言葉でようやく顔を上げる。なにか複雑な表情をしているように見て取れた。
「ああ、マリの真似ってわけでもないけど、日差しがキツイから。この方が疲れないんだよ、 …多分」
 実際は左手首の腫れを隠すための服装だった。マリに疑問を持たれるのは織り込み済みで、それはあらかじめ用意しおいた回答だった。
「そう、日焼けを気にしたのかと思ったけど、そうか、カラダへの負担を減らすこともあるわね」
 一週間たてば治ると踏んでいたケガの痛みはいまだ癒えなかった。黒くなったアザも見せるわけにいかず苦肉の策だった。
「あのね、さっき、ナイジがコースを歩いてるの見てて、中学時代のこと思い出してた」
 マリが別の話題に移ったことで、ナイジもそこに話しを持っていく。「中学時代? いま?」
「そのネタ、ひっぱるわねえ」笑顔でニラミをきかせておいてマリは話し出す。
 左手のこともあり、中学時代のマリは、教員の配慮によって半強制的に文化部に入ることになった。それは好きでもないコーラス部だった。開け放たれた窓から目をやれば、運動部がグランドをところ狭しと練習に励んでいる。
 休憩時間はもちろんのこと、練習している時も窓からグランドを眺めていた。それは自分と交わることのない遠い世界だった。
 特別身体を動かすことが好きなわけでもないのに、あえて切り離されたことで余計に気に掛かり、グラウンドと、この部屋を隔てている見えない壁が疎ましかった。
 ラグビー部やサッカー部、テニス部とか、花形である部活がグラウンドの全体を占め、力強く大きな声が途切れることなく響きわたっている。
 サッカー部のキャプテン目当てに、フェンス越しに鈴なりになった女生徒の黄色い歓声も、時折耳に届くありがちな光景も自分とは隔世にあった。
 いつも変わらない風景、今日一日の決められた時間、繰り返される日々。それらが気だるさとして自分に圧し掛かってくる。
 ある時、見慣れた風景の中に、何度も繰り返される動きが挿入されてきた。以前から居たはずなのに自分が気付かなかっただけだった。それほど目立たない存在であったことはたしかだ。
 グラウンドの隅、校舎の影になるようなところで、陸上部がストレッチや、筋トレをしたり、短距離ダッシュを繰り返したりと、誰が見ても地味で、興味を持って長く見つづけようとは思わない練習を、ひとりひとりが寡黙に行っていた。
 一度気になったら翌日もその次の日も、どうしてもその風景に目が行ってしまう。自分の見ている世界より、見ていない世界の方が広いに決っている。誰にも気付かれることのない地道な練習は、そうして過去から行われていたのだ。
 マリもこれに気づいたのは、見つづけた華やかな映像に対する飽和と、逆に埋もれてしまうほど単調な動きが異端でさえあり、かえって新鮮に目に飛び込んできたからだ。
 花形クラブの部員が努力していないわけではないのに、なぜだかその時だけは陸上部の練習風景が、とても意義のあるものとしてマリの目に映りこんでいた。
 周りに囚われることなく自分に課せられた課題を黙々と続け、すべきことと目標が自分に見えている。何と戦うべきなのかを理解しているかのように。
 そう汲み取ったのはマリの勝手な想像なのだとしても、その時は、そう考えることが必要で、体内に溜まったゆがんだものの見方を解くために、自然と与えられたものといまは理解できた。
 結局、自分は、見栄えのいい体裁、耳障りのいい言葉、居心地のいい場所と、楽な方へ流れているだけで、何ひとつまともに直面することを拒んでいたのだ。
 すべてを自分のカラダの不具合のせいにして、勝手に居場所を決めて込んで、当り障りのない対応を繰り返す教師からも勝手に居場所を決めさせられ、その場に甘んじていることを認めていた。ナイジの歩く姿を見て、そんな中学時代の葛藤と、あいかわらず変わらずにいられない自分がそこにいた。
「それがさ、マリにしか見えない風景なんじゃない。良かったよな」
「あっ、」「えっ、」ナイジの言葉に驚くマリに驚くナイジ。
「あの、あのね。アタシもナイジが下見しているのを見てて、ナイジにしか見えない風景を見てるんだなって思ってたから。アタシにも自分だけが見える風景があるんだなって… 」
 うれしそうにモジモジと話すマリの姿が愛おしかった。
「先週、ふたりでコースを歩いたでしょ。ナイジが言った『昨日の自分に勝つ』って言葉が印象に残ってて。だから、さっき下見してる姿を見てたら、スーッと過去の記憶が… 思い出したのか、引き戻されたのか。アタシは未だに変わらない心境にいるぐらいだから、わかんないけど、あの時の陸上部の部員から教えられたのはそれだったんじゃないかって」
「そうだっけ、たいして意味はないよ、口からでまかせだ。けど、下見は地味なのは間違いないけどな」
 いつのまにか、ふたりの肩と肩が触れ合っていた。そこからおたがいの鼓動が伝わってくる。
「その、えーっと、地味とか、華やかとか、本人にとって見た目って何の意味も持たないでしょ。周りが勝手に決めつけてるだけで。どれだけ、自分が信念を持ってやりとげるか、他人に勝つことより、自分に負けないことのほうがどれだけ難しいかってことを、教えてもらった気がする」
 マリにそう言ってもらい、これまでなら決して口に出すことはなかった、言葉が引き出されていった。潜在意識の中でこんなこと言っても誰も関心ないだろうなという意識から口に出すのを拒んでいた。
「オレさ、自分の行動が人にどんなふうに見られてるかなんて、あんまし気にしてなかった。下見だって、クルマの整備にしたって、イヤイヤやってるわけじゃなくて、好きでやってることだし。そりゃさあ、めんどうになる時もあるよ。そんな時こそ、それを断ち切って、もう一度あたまからやり直さないと。やっぱり見逃してるんだよな。だからどんなに時間がかかってもね。そうして初めて知りたかったことが見えてくるんだ。いや、なんだか道が教えてくれるんだ。だからこそ、絶対に手を抜かずにやらなきゃいけない。一度、手を抜くと、その感覚が身体に染み付いて、知らない間にそれが普通になっている。平たい道をただ漠然と歩いている自分に、あるとき愕然と気が付くんだ。求めるものが手に入らないことは、すべては自分への甘えのせいなんだって」
「自分だけが見えた風景は、実は向こう側から教えてくれる情報でもあるのね」
 ナイジの右手がひざの上に重ねられたマリの両手に触れた。こんな話にも的確に回答まで導いてもらえる。ナイジはそこに心安らいでいくことで、心の奥でしこりとなっていた思いも吐き出すことができる。
「なんだかね、初めて走ったオールドコースでいきなりタイム出したみたいに思われてるけど、さすがにそれはムリだ。コースを見て、道を見て、路面を見て、それでウォームアップランで刷り合わせて、インラップで答え合わせする。それでようやく思い描いた走りができたんだ。それだってまだ100%には満たない」
 マリもゆっくりとナイジの核心へ進んで行く。
「あのね、このあいだもそう話してくれたよね。でも、ただそう思ってるだけなのと、それを実践することとのあいだには、とてつもない差があるって改めて、感じた… 」
「オレもそう、感じてる。 …昨日、走った後、ホームストレートでクルマから降りたとき、スタンドにいる人たちのひとつひとつの顔が見えた。拍手が湧き起こった時、一体なにごとかと思った。レースを走るってことは自分のことだけじゃなく、見てる人にも多くの影響を与えられるんだって。これまで走ってる時なんか観衆の顔も視線も見えてないし、自分が気持ちよく走ってればどうでも良いことだった。だからって自分のやり方が変わるわけじゃないけど、やっぱり、それを知ってるのと、知らないでいるのでは違うだろからさ。そうやってオレたちは形成されていくんだ。自分の意思とズレててもわからないぐらいの逸脱を繰り返しながら」
 ナイジの反応に何度もうなずき、こらえきれないマリはすぐに言葉を返した。
「そう、そうなの、アタシもそれが強く伝わってきた。自分では何にも変えていないつもりでも、集った経験は、本人でも、ううん、本人だからこそわからないほどの微量な調整を勝手に加えてしまっている。それが、ある時、突然、以前とは考えが異なっていることに気付いて、実は自分の意思には一貫性がまったく無いことを知る。自分には嘘つけないから。誰だってそうなのよね」
 ナイジは深い目をしていた。自分の言葉とマリの言葉が混ぜ合わさり、意識さえも一本の線になっていく。これまでにない刺激が脳内を心地良く撹拌していくのがわかる。
「あっ、あの、これ、お弁当。作ってきたんだけど、食べて。お腹空いてるでしょ」
 思い出したようにか、照れ隠しだったのか、黄色のナフキンに包まれベンチに置かれていた弁当箱を両手を伸ばしてナイジに差し出す。
「ホント? スゲエ、料理できるんだ。家庭実習? もういいって? あっ、そうだ、コッチこいよ。いい場所があるんだ、そこで食おうぜ」
 そう言うと席を立ち上がり、ひとりスタンドの出口に向かうナイジにあわてて付いて行くマリ。
「ちょっといま、サラッとイヤミ言ったでしょ。アタシだってお料理ぐらいできるわよ。 …時間かかるけど」
「えっ、ああ、悪い悪い。気にすんな、率直な感想だから」
「もう、全然フォローになってないよ」
 スタンドを離れて、裏道をしばらく行くと池の淵に葦が群生しているところに出た。近づくほどに何やら鳴き声が聞えてくる。そばによれば数匹の鳥が輪唱を重ねて鳴いていた。葦に隠されて姿は見えないが、この池の淵に巣食っているのだろう。
「アナタって野犬みたいに方々のけもの道を知ってるのね。いままでよっぽど暇だったのねえ。あれ、何の鳥かしら」
 風にあおられさざ波が立つと、キラキラと湖面が揺れた。
「ちょっといま、サラッとイヤミ言ったよな」マリはペロリと舌を出す。「これでおあいこでしょ」
「へっ、まあいいや。これはさ、鴨だよ、鴨の親子さ、ここのどこかで暮らしてるんだ。面白いよな、姿は見えないけど鳴き声だけで生活が感じられる。たまに親鳥が飛び立って、エサを探しに行くだろ。帰ってくるとまた、ああやって雛鳥が大合唱だ、エサよこせって」
「よこせって… 自分を棚に置いちゃって。ミカさんにコブタちゃんっていわれるほど食べるくせにね」
「ひでえな、そんなこと言ってた? いまさ、腹減っちゃって何食ってもおいしい状況なんだ。助かったよ、これだけハラ減ってたら、なに食ってもうまいしな」
「もう、ぜんぜん期待されてないのね。でも大丈夫? そんなにお腹空いてるんじゃ、これだけじゃたりないんじゃない? ちゃんとした食事、取ったほうがいいのかしら」
「このところ、バタバタしてて、まともな時間にまともに食ってなくて、お金も無いし」
 その言葉を聞いたマリは、自分がナイジのことをまだなにも知らないと改めてさせられた。ひとり暮らしを思わせる話は、本人やリクオの会話でうかがい知れていた。毎回外食するわけにもいかないだろうし、そこでどんな生活をしているのか。お金に不自由していることも気になる。
 心配げな顔をするマリも、私生活までズケズケと介入するにはまだ気が引ける。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。オレ、ザツに出来てるから。それに空腹の方が都合のいいこともあるんだ」
 ナイジは手頃な場所を見つけ座り込み、マリも大きな石が段になっているところに腰をかけた。めずらしくマリの目線の方が高い位置になる。
「よくわかんないけどさ、いろいろと冴えてくるんだ。それに、闘う気にもなってくる。何でかな、空腹感が闘争本能にすり替わっていくのかもしれない。メシを食えないのは、コイツのせいだって感じで、倒さない限り永遠に食事にありつけないとかね」
 心配させないようにふざけて言ってくるナイジに合わせるしかない。
「なにそれ、精神的に凄いって話しなのか、ただ食い意地張ってんだけなのか、ぜんぜんわかなんないでしょ」
「わっ、すげえ、サンドイッチとおかず? …かな?」マリの気遣いもよそに、ナイジはひとり弁当を開けてしまう。
「それね、ミカさんが作ってたの見て参考にしたの。スクランブルエッグとホウレンソウのバターソテー、それに、ハムとかトマト、お好みで挟んで食べてみて」
「へへっ、うまそう。オレ、いろんな味で少しづつ食べるの好きだからちょうどいいや」
「あの、良かったら。ナイジの口に合うならこれからも作ってくるけど。あっ、でもあまり満腹にならないほうがいいのよね。闘争本能が出てこないと困るみたいだから」
「ほんと。いいよ、いいよ、イッパイ作っても。腹いっぱいでも、オレ負けないから。おっ、うめえ、塩分濃い目で丁度いいな」
 お弁当を気に入ってもらえた安心感も手伝い、マリは吹きだしてしまった。
「フフッ、なによそれ? どっちよ? いい加減ねえ。塩辛くない? この時期汗かくから、塩分多めにしたんだけど。運動中にね塩分足りないと意識がぼやけちゃったりするって聞いたから」
「へえ、そうなの。マリってさ、物知りだよね。オレの知らないこといっぱい知ってる。オレが知らなさすぎるだけか? まあ、知らなくても何とか生きてこれたけど」
「ナイジはアタシの知らないこといっぱい知っているから、同じことよ。それに、ナイジは理屈じゃなくて、現実に即応してくのよ。アタシにとってはその方が凄いと思えるけどね」
 口の中に一杯詰め込んだモノを一通り咀嚼し終わるのを見て、水筒に入れてあった紅茶をカップに注ぎナイジに手渡す。そんなひとつひとつの動作が嬉しくもあり、照れくさくもあった。
「ありがと。ほんと助かったよ。これでコドクに灯が付いた」
 ”コドクニ”の意味合いが理解できなかった。それをいま聞き返すのは無意味に思えそのままにしておく。
「今日は、コースの観察して、何か見えたものがあったの? 先週と違う新しい発見」
「ああ、見えたよ。そういう言いかた良いな。うん、悪くない。見えたものは、走ってもいいところと、走っちゃいけないところ。クルマに乗ってたら絶対に見えなかった。たったそれだけのことだけど、ないがしろにしてたらしっぺ返しを喰らう」
「面白いね。同じモノをみてても、アタシにはまったく別の姿を見せてる。アナタが見えてるものはアタシには見えない」
「まあ、見えなくていいこともある、見えることで臆病になる事だってあるんだから」
「えっ、ああ、そう、そうかもね。知らないことのほうが幸せなこともあるわね。お互いに」
 今度はマリの言葉の真意が見えていない。これもまた流しておくことにする。
「はっ? ああ… ううん、そうかな? そうだな」
「いったい何時から歩いてたの?」
「んっ、ああ、今日? 4時くらいかな。陽が出てすぐだから」
 あっけらかんと言い放つナイジ。
「4時っ? えっ、5時間も歩いてたの!?」
 ナイジにとっては驚くことではなかった。先週はむしろマリがいたから早めに切り上げただけで、本戦を闘ったあと、もう一度確認しておきたいところは無数にあった。
「そうそう、今日もう一回、検査しないといけないんだ。大丈夫なのにさ、医務室行けって言われた」
 あいまいな返答をするナイジに、この時のマリの真意はわかっていない。ただ、少し寂しげな物言いには引っかかる部分もあり、それを消し去るように再び明るい表情で、ナイジにとって意外な質問をしてきた。
「あっ、そうなのね。いいよ、念のため診てもらったほうが。 …ねえ、ナイジは今日走るの?」
 マリの質問の意味が一瞬、理解できなかった。自分でいうのもなんだが今日のロータスとの対決は結構な話題になっているはずだ。もちろん興味のない人間には耳にも届かないだろうが、少なくともレースに関係している者なら、今一番の熱い話題なのは間違いない。
 あえて、情報から耳を閉ざしていたのか、たまたま、そのような環境にいなかったのか。返答の遅いナイジを見るマリは不安そうな表情にも見て取れる。
「えっ、ああ、走るよ、ロータスのヤツとやるんだ」
 マリの気持ちを汲み取り、努めて少ない情報のみを口にする。
「そう、オースチン直ったのね。よかったね。今日走れるんだ。頑張ってね」
 マリの表情からは不安の色が消えていた。レギュレーションをよく知らないマリが、ロータスとやりあうことを特別と感じないのは仕方がないことだった。どうやら、マリの心配事はオースチンの具合と、ナイジが今週も走れるのかどうかについてだけのようだ。
 不確かな情報は要らない、真実だけを直接自分から聞くために今日まで待っていたのだと理解したい。
「オレ、なんかずっとマリに逢いたくてしかたなかった。あれも言いたい、これも言いたいってアタマをめぐっていた。それなのに、いざ逢ってみると、なんかみんな大したことじゃなかったみたいで、そもそも、何を言いたかったのか忘れちまった」
 ナイジはマリの肩を引き寄せ、跳ね上がったマリの髪を胸で受け止めた。寄りかかる体勢のマリは、とまどいながらもいつしかナイジに身を任せていく。
 それだけでもう充分だった。余計な言葉は要らない。何も応える必要も無い。大丈夫じゃない自分を見せても平気だし、大丈夫じゃない相手も受け入れられる。
 ただどうしても左手のことは言い出せなかった。それは弱味を見せたくないとか、心配をかけたくないとかといった簡単なことではなく、いま言えば、自分はもう闘えなくなると確信でき、それをマリが負担と思ってしまう危惧からのことであった。それだけは絶対に避けなければいけなかった。
 相変わらず続く、鳥の鳴き声だけが分散的に空に吸収されていくなかで、ふたりの周りだけが取り残されていく。とても脆く、そして強く。


第16章 1

2022-09-18 17:21:34 | 本と雑誌

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R.R

 

 マリの土曜日がはじまる。それは伯父の志藤と一緒にサーキットに行く日でもある。土曜日は大学の講義が午前中にあり、それには出席できない分、平日に集中して講義を受け補修も行って、土曜日に休めるよう調整していた。
 いつもと違うのは、起きた時間が30分早かったことだ。今日も朝から湿度が高く、室内の膨張した空気が煩わしくまとわりついてくる。寝室を出て歩きながら方々の窓を開けて回り、こもった空気を入れ替えながらそのまま洗面所に向かう。
 蛇口をひねりガランに溜めた水を手ですくって顔を洗うと、ようやくアタマがスッキリしてくる。パジャマ代わりに着ているロング丈のTシャツを脱いで、水に晒したタオルを搾って身体をさっと拭き、昨日の洗濯物と共に洗濯機に入れる。
 そうしておいて籐籠のケースから夏場に愛用しているネル生地のシャツを身に着ける。やや厚手でもサラっとしていて、肌にまとわりつかないので今のシーズンは重用する。
 それでもじっとりとした空気が肌を覆って汗ばみそうで、風を送るために左手をばたつかせる。さらにシャツの裾を右手であおると、空気の流れが足元から身体をつたってくるのが心地良い。とても人には見せられる姿でなくても、涼をとるための手段としてつい手が動いてしまう。
――せっかく拭いたのに汗ばみそう。はしたないけどしかたないわね。――
 洗濯洗剤が残り少なくなっているので、このタイミングで補充しておく。踏み台を用意して建付けの戸棚から買い置きを取り出し、明日に備えて準備しておく。
 マリの場合、どうしてもすべてにおいて人より時間が掛かってしまうので、常に一手も二手も先を考えて準備しておく必要があり、余裕を持って手配できるように在庫品の管理をしていた。切迫してから動き出していては、対処するために時間がかかり一日の予定がズレ込んでいき、やりきれずに翌日になってしまうことがある。
 スピードアップして調整をはかる手段を持てないマリにとって、そうすればどうしても生活するのに優先順位の低いものから明日に先延ばしにしなければならない。それは自分のやりたかったことを後回しにするか、我慢するということだ。
 そうしてこれまで失ってきたの多くのやりたかったことは、二度と戻ってこなくなる。大げさな話しに聞こえても、そうしてマリにとっての大切な時間はいやおうなしに削り取られていった。
 残り少なくなった洗剤を箱を逆さにして直に投入して使い切り、空箱を丁寧に折りたたみ屑篭へ入れる。濯槽の中では目の粗い泡が一気に湧き上がり大きく膜を張る。フタを閉じると遠心運動から振動が発生しはじめる洗濯機が大きく揺れだした。朝食の準備ができる頃には洗濯が終わっている段取りだ。
 洗濯をまわしておいて、一度自分の部屋にもどり、デニムのスカートを取り出す。先週着たものと一緒だったので、別のにしようかと頭をひねったが結局それを穿いた。
――さあ、いそがなくっっちゃ―― 靴下は準備だけして、出かけるときに履くことにする。
 今度は台所へ向かい、椅子に掛けてある頭から被るタイプのエプロンを取り上げ身に付ける。いくら一緒にいるのが伯父といっても、シャツ一枚では胸のシルエットが出てしまうので、外ならばジャケットを着るところを替わりにエプロンを付けている。
 台所の出窓は摺りガラスがはまっていても、昇りつつある夏の太陽が直接当たれば、その熱を遮ることはできない。朝の空気を取り入れるために窓を開けると、夏の日の裏庭の匂いが台所に侵入してくる。ついでに雨の匂いがしないか鼻を効かせたがその心配はなさそうで、今日一日は良い天気で過ごせそうだった。
――ホント、イヌじゃないんだから―― ナイジとの会話を思い出し少し顔がにやけてしまった。
 鍋に水を張り、火に掛け、冷蔵庫からホウレンソウを取り出し、適当な大きさに切って、煮立ってきた鍋の中に入れる。いつもの倍の卵をボウルに割って入れコショウと塩、それに少々の砂糖を入れて、よくかき混ぜる。伯父の志藤は、もういい年齢なのに朝は洋食派で必ずトーストとコーヒー、それに必ず卵料理を食べる。それも曜日毎に調理方法を変えて出すように注文されている。
 今日は炒り卵の日だった。いつもより早い朝、いつもの倍の卵はナイジのために『お弁当』を作っていこうと思ったからで、料理の最中にも自然と顔が緩んでしまうのが自分でもわかっていた。
 ナイジと特別に何かを約束したわけではない。今週末また遭えるということだけが、たったひとつの事実だとしても、マリにとって一週間が待ちどおしく思える大きな出来事であった。
 今週は、大学でも友人に指摘を受けていた。やれ顔かニヤけてるとか、普段より明るいとか、幸せそうな顔でボーッとしているとか、マリにそんなつもりはなくてもきっと自然にそうなっていたのだ。気になる人のことを想うという行為が、いままでのマリの人生には欠落していたために、それが一気に埋まってしまった反動が自分でも上手く現せない。
――もしかしたら叔父さんも気づいてるのかしら―― 叔父になんの指摘も受けていないことが却って気にかかる。
 茹であがったホウレンソウをバターでソテーして塩と胡椒で味を調える。朝食用に伯父の皿と自分の皿に取り分け、後は弁当用に残しておいた。撹拌された卵にはお湯で溶いた顆粒のコンソメを入れ、コクを出すと共に洋風仕立てにアレンジした。
 ドリップしたコーヒーが入り、トーストを焼く頃には香ばしい匂いに誘われてか志藤が起きてくる。目を擦りながら今日はいつもより早かったんじゃないのか、とぼやきながら洗面所へ向かって行く。マリが家の中を動き回る音が気になったのだろう。
 弁当を作る時間を考え早く起きたのは、志藤が起きる前に作り終えるためであった。やはり自分が想定したより時間がかかっており朝食の時間になっていた。洗面所に行った隙に弁当用の具材の上から紙ナプキンでカモフラージュしておく。
 先に焼けたトーストから順にバターを塗り、皿にのせて、これにも紙ナプキンを被せておく。志藤が廊下を歩く音が近づいてくると鼓動が高まってきた。いけないことをしているのではなくとも、やはり生身の自分をさらけ出しているようで、まだ触れられたくはない。
 テーブルにつく志藤の前に朝食を配膳する。炒り卵を口にすると、いつもと味付けが違うと言われ、心臓が高鳴った。余計なことを言うとボロが出そうで何も弁護することなく、そう? とだけ言い、自分も朝食をとりはじめる。洗面所で唸っていた洗濯機の音が静かになった。
 志藤はひととおり食べ終えると、マリにコーヒーのお代わりを注いでもらい朝刊を広げる。今日も大国同士の代理戦争が一面を占めていた。戦地から兵を引き上げようとした指導者が暗殺されたことを引き合いに出し、時の政権より複合産業会社のほうが力があると嘆いている。
 それについてはマリも言いたいことがあっても今日はその議論を盛り上げている場合ではない。いやな世の中ねとあたりさわりのない相槌を打つと、志藤はけげんな顔をして新聞から顔をのぞかせる。食器を片付けるマリはその視線を感じて、普段通りでないのも変に勘繰られるようでどうしようかと焦り出す。
 洗濯ができてるから干してくると、とりあえずその場を離れことにした。顔が火照っている気がして志藤のほうを向けない。――ダメね、なれないことすると―― 顔を覆った両手がピクピクと震えている。
 マリが洗濯物を干し終わり、食器を洗い終える頃には、普段なら志藤からそろそろ行くぞとい声がかかるはずであるのに、すでにクルマに乗り込んでマリの到着を待っているようだ。壁に掛かった時計を見れば、出発の時間に近づいている。
 どうやらこれまでも含めて、見て見ぬふりをしてくれているのだとようやく悟った。そんな気を遣わせたことに負い目を感じながらも、そっとしておいてくれる気持ちに感謝した。そうなれば自分も気づかれていない風を装い、道化師を演じるしかない。
 勇躍、ナプキンをかけておいたトートスと、サンドイッチの具材を取り出して、仕上げに取り掛かる。ミカがパニーニを手際よく仕上げていく姿を思い浮かべ、自分も同じようにとやってみる。それなのに、ホウレンソウソテーや炒り卵は、ポロポロとトーストから零れ落ちてしまう。
 それは想定済みで耐油性の紙シートを敷いてあるので、シートを折り戻して具材をトーストに戻してやる。なんとか仕上がったサンドイッチにナイフを入れ、洗い物は帰ってきてからにしようとシンクで水につけておくことにした。
 戸締りをして駐車スペースに行き、志藤に急かされるようにしてローバーに乗り込んだ。何してたのかと言われるかと構えていてみても、志藤は遅れたことについてはなにも言わず、暖気も十分のローバーですぐに出発した。そうなるとマリのほうも落ち着かない。なるべく笑顔で、遅れてゴメンねとあやまると、うなずくだけでクルマの運転に集中している。
 真夏の道路は陽炎が立ち、すべての風景が夏の色彩に埋め尽くされ白くぼんやりしている。それなのに風景の中に反射物でもあれば、太陽の光を否応なく跳ね返してくるので、目を細め侵入光を調整しなければならず、志藤もたまらずサンバイザーを下ろした。
 マリの膝の上にはいつもの手提げカバンと、丁寧に包まれた『お弁当』が大切に抱えられていた。乗りはじめた頃は硬めのシートに馴染めず、落ち着かない気分になることもあったこのクルマも、今はすっかり身体に馴染んでしまっていたはずなのに、山道に入ると振動や、コーナーでの横Gに気づかうことになる。
 助手席で『お弁当』をしっかりと抱える姿から、そんな空気を漂わせているのが感じられたのか、志藤はチラチラと目はやる。ただ、それについて言及することは最後までなく、何か聞かれたら、お昼にスタンドで食べようと思って、と言うつもりであった。弁当などこれまで持参したこともなく、バレバレの言い訳にしかならないはずだ。
 サーキットに着いたマリは、あとから診療室に行くと志藤に言うが早いか、そそくさとその場を立ち去ってしまった。余りにもわかりやすい行動に、志藤はやれやれとばかりに後頭部を叩き診療室へ向かって行くしかない。
 自分では平静を装っているつもりなのだろうが、こうまであからざまに普段の態度が変われば、さすがに志藤にもあの男に入れ込んでいるのもわかるというものだ。
 これまで一切オトコッ気もなく大学と診療所に通うだけの生活で、自分の殻に閉じこもりがちな性格のマリは、積極的に他人と、ましてや異性となど関わろうとしなかった。
 伯父である贔屓目もがあるのは承知のうえで、美人と言えずとも可愛いらしい顔立ちではあり、言い寄る男もいたはずだ。マリ自身が自分の不具合に対し、異性と特別な関係になった際に、それとどう向き合ってもらえるのか消化しきれないため、一歩引いた場所に居続けることをかたくなに貫こうとしてきた。
 これまでマリは様々な方法で周りとのコミュニケーションを取ろうと努力してきた。時には、痛々しいほどに周りより劣ることを認め、ひとの優しさに委ねるのが正しいとしてみたり。何の負い目も持っていないような振る舞いをして、強い自分であることが正しいとしてみたり。
 どちらにしても、ありのままの自分ではないため疲れてしまうのは、どうしても自分の本心でないことにあり、その姿を見る周囲も違和感だけが強調され、バランスが崩れていくだけであった。なんとかなっていた小さい頃とは違い、思春期に入れば個々の思惑は幅広くなり、ちょっとした親切心や、優しさが、ある時には甘い蜜となり、ある時は棘となってマリのカラダを傷つけていた。
 マリの行動が徐々に受身な方向に針が振れていく中、もう一度自分から変わっていこうとしている。それを決心したのは、あの男が発端なのは間違いないだろう。今はただ静観し、ふたりがよい結果に導かれることを願うしかなかった。これまでのマリを見てきた志藤であるからこそ、今回の件はうまくいくといいと期待している。
 午前早めのサーキットは関係者を含めて人影はまばらだ。マリはスタンドを駆け上がり、軽く息を弾ませるながら360度回転してサーキットを一望した。最終コーナーをとぼとぼと歩いているナイジの姿を発見する。先週と同じように路面状況を確認しつつ、右へ、左へ、うねるように歩き、立ち止まり、しゃがみ込み、何かを手にし、そして、足で感じる。
 額に汗しているのだろう、何度も袖で汗を拭っている。ハンカチぐらい持てばいいのにと思いながらも、そこまで気がまわるナイジは想像できず、自分を笑ってしまう。
 ナイジは屈んだままで、しばらく動きを止めて、それからゆっくりと立ち上がり、その場で顔を上げ、腰を伸ばし、続いて膝に手をやり大きく肩で息もつく。何かを考えているのか想像もつかない。ナイジだけに見える景色に没頭しているのだ。
 もし、このまえと同じ、6時頃からはじめていたならば、2時間もかけてコースの下見を行っていることになる。本来なら路面の読み取りに、これぐらいの時間をかけたかったのなら、自分のせいで前回は随分と邪魔をしてしまったことになる。
 いつしかマリは、ナイジが真剣に物事に打ち込む姿に吸い込まれていった。遠めに見てもかなり疲れているのがわかる。足取りも重く、しゃがみ込む時間も長くなっている。
 それでも気になることがあればコースを引き返してでも、もう一度確認することを怠っていない。そうしてなかなか前に進まない姿を見れば、あながち2時間もかかっていても不思議ではないはずだ。
 そんな、ナイジの一途で真摯な姿を目にして、マリの胸は熱くなり、嗚咽に近い熱い息が口から漏れてくる。いつものひょうひょうとした態度からは、努力の欠片も感じさせないナイジは、こうして誰にも知られることなく、早朝から一人きりで労力を惜しまず自分のなすべきことを行っている。
 地味でレースの華やかさとは正反対のこの行動が、実戦で自己能力を余すところなく発揮し、最大出力につなげていくことで、あの素晴らしい走りにつながるのだ。
 マリはどうしても待ちきれずに、最終コーナー寄りのスタンド端まで小走りで進む。視線を感じたナイジが見上げる先には、大きく手を振るマリの姿がある。
――なんだい、あれじゃ小学生だよ。 …大学生だったかな――
 口では悪態をつきながらも、かざらない純朴な姿に、疲れた体と心が和む思いがした。ナイジは軽く手を挙げ、マリを認識したことを伝える。
 それを見ると今度はスタンドの階段を下り、最終コーナー出口まで戻ってきたナイジを、金網に指を掛けて待ち構えた。そうまでしておいて、いざ面と向かえばなんと声を掛けていいのか分からず、マリははにかんだ口元と、かしげた首のまま目が泳ぎだす。
 久しぶりのナイジの顔は少し痩せて見え、精悍さが増したように思えた。逢うことのできなかった1週間で、ぐっと大人の表情に変わってしまったのは、先週からの一連の出来事を受けて、心身ともに一回り成長したからなのか。そんなナイジを見て、変わらない自分だけが置いてきぼりになったようで少し焦ってしまう。
「なんだよ、どうしたんだ?」
「えっと、その、久しぶり。元気だった?」
 ナイジはさっきの自分の突込みを思い出し、軽く小鼻を鳴らす。そして、再び。
「夏休み明けの小学生みたい… 」
 マリは口先を尖らせ、赤らめた顔を隠すように下を向いてしまった。ナイジは、フェンスの金網を登りはじめ、フェンスの頂点からスタンド側に降り立った。マリの肩をポンポンと叩き、最上階まで牽引して日陰のベンチに座るように促がす。
「アレ、キズついた?」
 コースを正面に向かって座るマリとは相反し、反対を向いてベンチに腰掛けたナイジ。少し身体を斜めにすれば、ふたりは互いに正面を向き合う位置に対した。
「ううん、違うの。ホントにね、咄嗟にナイジに何て言葉掛けたらいいか思い浮かばなくて、ようやく出た言葉がこんなので、なんか恥ずかしくて」
 50cmも離れていないナイジの横顔を見て、マリの鼓動が早くなる。
「それより下見、もう大丈夫なの?」
「ああ、そうだな。大丈夫だよ、そんなに気ィつかわなくても。それよりさ、なんか早かったよな、1週間。医務室で別れたことがついさっきのようだ」
 ナイジがそう思うのはふつうのことでも、マリが今日まで重ねた時間は、もっと重要で大切な時間であった。先週の出来事が夢じゃないことを確認でき、ナイジの心が変わっていないことを知るまでは、不安と共に今日までを過ごしてきた。
「そうなのね。うーん、あのね、アタシは長かった。ナイジはその分充実していたのね、時の流れが早く感じられたってことは。アタシはいつのまにか今日だけを追い駆けてた、時間が決められた以上に早く進むはずはないのに、やたらと時計ばかりを見てた気がする」
「そう? そんなにオレに遭いたかった?」
 ナイジは冗談で受けてくれたが、つい自分の正直な思いを赤裸々に語ってしまったことに気恥ずかしさを覚え、肩をすくめ顔をそらした。そんな姿を愛しげに見つめるナイジも付き合うことにした。
「いや、オレも同じかもな、きっと無理に考えないようにしていたんだ。そうやって、別のことに没頭していた。そうでもしないとね、まあ、いろいろと。ヘヘッ」
 最後は笑ってごまかし言葉を濁す。マリのように素直には口に出せない。
「フーン、いろいろとねえ。ナイジ、ずるいわよねえ。まあ、いいけど」
 マリは勝手にナイジの気持ちを汲み取り悦に入っていた。ちゃんと言葉にしたがらないナイジであり、それだけでもマリには充分だった。両手を空に向けて広げ大きく息を吸う、顔を上げ遠くを見る目は日差しの強さに細まっていった。
 コントロールタワーの向こう側から差す太陽光が、多くの隙間を通していくつもの光の線条を作り出し、ホームストレートまで伸びている。自然と造形物が織りなす美しい光景は、時と共に刻々と姿を変えていきマリは目を奪われる。その目線を追いナイジも振り返る。
「なんだか写真にでも残しておきたいぐらいキレイな風景だな。こんな時間にスタンドにいたの初めてだから。でもこうして時の流れを記憶に残せたほうがいいのかな?」
「記憶はよくも悪くも、実際より増幅してくれるから、写真に残さないほうがいいかもね」
 重なったのはそれぞれの想いだけではなく、やわらかな香りがふたりをつなぎあわせていった。


第15章 9

2022-09-11 18:35:35 | 連続小説

「なあ、西野。オマエ、オレのマネージャーしてて楽しいか?」
 周りの様子を観察していた西野は、突然、思いもよらぬ言葉を安藤の口から聞きながらも、それがいつもの軽口ではないと承知したうえで椅子に座り直し身を寄せる。
「なにを考えているかと思えば、やはり、その類だったか。オマエも人並みの感受性は持っているみたいだな」
 感心したような面持ちでそう応える。そんな分析など不要と手を払う安藤。それを見て西野も二~三度うなずいて見せる。
「ふむ、そうだな。面白いかという問いの答えになるかどうかわからんが、オマエと仕事をするのは簡単ではない。と同時に創造的でもある。社長のオーダーに応え、それなりの結果を出してこれたのは、自分でも評価してもいいと思っている」
 今度は自分の手柄を称えだし安藤はしかめっ面をする。自分のペースで話しを進められることは稀であり、西野もつい余分な話しをして焦らしてしまう。
「まあ、そう急くな。私はな、会社にとって取り回しのいいドライバーになっていくほど、オマエが丸められていくのを見て少々気には病んでいたところだった」
 西野がこれだけ主体的に話しをできたのも、安藤は腕を組み、黙って聞きつづけていたからだ。そして、否定も肯定もせず、西野の顔を見つめるのみであった。まだなにか言い足りないことがあるのではないかと誘っている。
「オマエの走りを一番間近で見てきた私だが、 …このあいだは余りにも間近すぎたが… オマエには驚かされることばかりで、能力の底がどこまでなのか計り知れないほどだ。 …ということは、私はオマエの限界を引き出せていないともいえる」
 クルリとアタマを回し、天を見上げたところで動きを止める安藤。
「オレもな、自分の限界がどこにあるのか知りたいところだが、知ってしまえばもうその先に進めなくなるだけなんじゃないか。そんなものは周りのヤツらが勝手に楽しんでいればいい。問題はそれが自分から吐き出したのか、誰かに吐き出されたのか… 」
 思いもよらず核心をついてしまったのか、西野は動揺を隠すので必死だ。
「そうだな、ならばその見極めは私にさせてもらおうか。あの、オースチンはオマエの力を引き出してくれている。それほど、手が合うということなのだろう。 …が、ただ、オマエが言うように、それを見せることが必ずしも受給ドライバーに取って良いことではなく、望まれていることでもないはずだ」
 先回りをされたような回答に安藤は口を閉ざす。肘をついて親指で眉間をかく。
「ヤツは、オレに似ているんだ。言いたかねえが、オレの駆け出しの頃に …でもそうじゃなかった」
 そんな物言いが自分を年寄りくさく見せてしまうことに抵抗を感じながらも口をついた。
「相手を見て、闘いの仕方を変える。自分が楽しめる状況で走れるストーリーを組み立てていく。ただオレは10の力のヤツは9や8に落としたうえで叩き潰し、6や7のヤツは自分が7や8になるように手枷足枷をしてでも勝てる方法を考える。そういう闘いをしてやりがいを求めてきた。ヤツがオレと違うところは、10のヤツは、そのままに、6や7のヤツは10に引き上げて勝とうとしている。オレはいつまで経っても相手に合わせた走りをしようとしている。オレはもしかしたらヤツに、10まで引き上げられたうえでヤラレたのかもしれん」
 西野の怖れていた言葉が安藤から発せられた。そうであれば相手の方がうわてであると認めたことになる。いままでそんな弱気な言動してこなかった安藤らしからぬ言葉であった。
 オーダーどおりの仕事ができなければ、責任を取らされるのは西野も同じか、却って分が悪いだろう。もし安藤の気が引けているなら、ケツを叩いてでも来週の走りにつなげなければならない。突然の言葉に西野にはその準備ができていなかった。
「えらく殊勝じゃないか。まさか手に負えないと尻尾を巻いて引き上げるわけじゃないだろうな」
 あえて怒りを湧かせるように、冗談交じりで言って安藤の動向をうかがう。
 口をへの字に曲げて首を振ると、安藤は残りの食事に手をつけはじめた。いつものように食べながら喋りはしなくとも野性的な食べ方には戻っていた。
 隣に座った新規客のテーブルにオーダーした料理が運ばれていた。料理を運んでくるのは大柄な男で、女性がそれを配膳している。その最中にレースの話題を女性が興味深く質問しているのに、男の方は手がすくとサッサと厨房に引き返していく。西野が何度も見た光景だった。
 その話の内容といえばロータスはまだ本気で走っているわけでなく、様子見であったにもかかわらず追いついてくるドライバーがいなくて拍子抜けしているとか。オースチンのドライバーはここの伝説のドライバーの息子で、今日の日のために英才教育を受け、満を持していたとか。あげく、来週は両者のリベンジマッチでレースの最後にふたりだけで闘走するなどと、まことしやかに話されていた。
 西野は苦笑いと共に首をひねる。世の中というものは、半分以上がデマで出来上がっているのではないかと、本気でそう思えてくる。その本気で走っていないと思われているドライバーはこうして相手に手を焼いて、どうするべきかと考えあぐねているというのに。
「へっ、だとよ、オレが尻尾巻いたら、リベンジマッチができなくなるな。あんなふうにいろいろと言われているが、その実、誰かが仕組んだシナリオの上で、オレ達はそうやって後戻りできなくなっていく。やってやるだの、やりかえすだのアツくなって、表面上では景気のいい言葉を言っているオレ達は、ただ権力者の金儲けの材料になっているだけだ」
 その点においても安藤が闘いに集中できない要因となっているのか、今回のミッションにおいて、やり遂げた後の自分の身の振り方に未来が見えず、受給ドライバーとしての限界を感じているようであった。
「どうだろう、安藤… 」そう西野は切り出した。安藤は手にしたフォークを止める。
「もし、オマエが今後のことに不安を感じているなら、そこを充分に補ってこれなかった私のせいだ。申し訳ない。今回の件が次への段階へつながると思って私も楽しみにしていたし、あのオースチンの出現もオマエに火を注いでくれると楽しみにしていた。どうもそれほど簡単ではなかったようだな」
「オースチンのヤロウは間違いなく本物だ。オレが初めて目にする、闘い甲斐があるドライバーだ。オマエからもらった事前のタイムリストを見て、少し気を抜がぬけていたところだ。あんなオイシイドライバーがいるなら、早く教えて欲しかったぜ。それともウワサの通り秘蔵っ子ってことか?」
「さあな、あの出臼のうろたえようを見る限り、そうではないと思うが、それこそ馬庭社長の隠し玉ってことなら十分あり得るだろう」
 口にしたステーキの味が悪いわけでも無かろうに、安藤は苦虫を噛んだような顔になる。ウラでうごめく意図ある者たちのシナリオが、この先どのようになっているのか腹立たしさがこみ上げる。
「どうかしたか?」
「どうもな、合わせ鏡を見せられたようで、どうしても年老いた自分が目についちまう。西野よ、そんなに心配しなくても大丈夫だ。オレはまだ闘えるし、やる気もある。さっきはあんなこと言ったがな、オレみたいなヤツは、自分の能力を食い扶持につなげるアタマがない。好きなことをして、飯を食わせてもらっているんだ。そこに文句があるわけじゃい」
 本心を隠して穏便に済ませようとする安藤に西野は気づかず安堵しながらも、こちらもそれを表には出さず、神妙にうなずいて見せる。ここは安藤の言い分を聞いてやる必要があると口を閉ざしたままだ。
「だがな、出来上がったストーリーに乗っかるだけじゃねえってことだ。さらに面白くしてやらなきゃオレを使うイミがないだろ。誰にとって面白くなるのかは神のみぞ知るってっか。ウエヘヘっ」
 どうやら大丈夫と踏んだ西野は、ここぞとたたみかける。
「私はこういう考え方もできると思うんだが。オマエがヤツに引き出されと思っているが、ヤツだって同じかもしれん… いや、オマエ以上に衝撃を受けている可能性もある。オマエだって十分成長しているし、ヤツにとっての脅威になっているはずだ。だからこそ最後にコースアウトしたともいえる。なにもオマエだけその部分を卑下することはない」
「へっ、やけに優しいじゃねえか。いいほうに捉えれば、そう考えることもできるってか。お互い腹の探り合いしてりゃ世話ないな」
 西野は何度も首をタテに振り、肯定を強調する。整いだした言葉を口にする。
「少しづつだが、オマエは私の手法を覚え、自分で実践できるようになってきた。それも、ハードルを上げながら、自分の力の出しどころを制御できるようになっていった。ところが、今回、どうもそれが上手くいかない。どうしても後手にまわってしまい、思ったとおりの結果が出ない。オースチンのヤツに比べて自分が劣っているのか、能力の出しどころの配分が上手くいっていないのか、はたまたこれまでのやり方があだとなり、油が回っていないのか。それを認めるわけにはいかないだろうが結果がそれを悠然と物語っている。ヤツぐらいの若さであればレースをやってる最中でも成長することがある。オマエだって経験があるだろ。やはりそこは培った経験を活かす立場にあるということじゃないか。それを知れただけでも今回のことは無駄じゃなかったはずだ」
 安藤は西野の手法からコツを掴み、器用に立ち回るようにもなってきた。それが自分でも正しいことなのかどうか、疑問に思えてきたからこそ、西野を揺さぶってきたのだろう。
 本能や素質だけで走っているうちは、本物ではない。レースへの入り方を考え、流れを読み、勝負どころを知り、確実に勝利を手にする。大局を見据えた戦略と戦術を考える頭を持ってこそ、初めて一流といわれるドライバーになりえる。
「バーカ。それだけで終われるかい。見くびるなって」
 たしかに、半分以上は安藤に言わされた言葉だったかもしれない。これまでも考えてはいたものの、決して肯定できなかった。それでもなお、口をついて出てしまったのは、どこかに何が真実であるかを、決めかねていたからだ。
 西野のやりかたは特別ではなく、規格であり規制のうえでの論理的思考だ。確率と定型、それらをつきつめて合理的な手段でレースに臨み、勝利する。そのやりかたで、これまで成果を上げているからこそ、余計にこれが正道なのか疑問に感じていた。
「わかっている。なにもオマエが成長しないとは思っていない。ただ、若さに任せて突っ走るだけでなく、そこに老練な匠の技を織り交ぜていける年齢になったということだ。それを受け入れられないヤツはそこまでの資質だということだ」
 だが、安藤を見ていると、それだけが最終的な到達点ではないように思えてくる。生まれ持った才能を最大限に活かすことを突き詰めるのが、どれほど大変なことなのか。
 多くの活かしきれていない人間を目にしていれば、おのずとわかることで。ならばなぜ、そうやって尖った才覚を丸め込もうとするかといえば、尋常な人の手では扱いきれない怪物を排出しないためであろう。
 それでは管理されたライオンを手なずけて観客が喜ぶショーを見せているのと、なんら変わらない。野生のライオンが自由に野原を駆け巡り、狩猟をしているところこそ、本来見てみたいシーンではないのだろうかという懸念は拭い去れない。
 おのれの力を最大限まで発揮できる自信と自覚、それらを兼ね備えている男が、もう一歩踏み出そうとするのをためらわせることが、西野には正しいとは思えなかった。
 もしこれで、西野の考えうる規格を越える能力が開花するなら、目にしてみたいと思うのが本心だ。もちろん、それはあのオースチンの若造にも同じことがいえるのだろう。
 彼等に見えて、西野には見えないもの、すべてはその定義を受け入れるところからはじまる。いまの西野は安藤がその領域で最大限の力を発揮できるように、効率的な力の再配分を行わせているだけで、自分が直接手をくだしているわけではい。それを認めたくはないが、どうしてもその領域に踏み込むことはできず、安藤づたいに時折、垣間みているにすぎない。
 オースチンの若造は違った、いきなり安藤と会話をはじめふたりでどこかに行ってしまった。あの時、西野は得も知れぬ孤独感を味わうことになる。これまでに感じなかった失望。それがどこかで薄々は気付いていた現実。
 それを目の当たりにしたとき一種の嫉妬心を覚え、あえて自分を笑ってしまった。どれだけ知恵をしぼろうと、怪物ドライバーを手なずけようと、やはり自分は市井の人間で、一つ下の領域でしか息をさせてもらえないことを思い知らされた。
 ならば本能に任せたこのふたりがいったいどこまで上り詰めるのか、それによって自分の棲息地が変わるものなのか、西野が本当に見たいのはその最終的な結論なのだ。
 どんな結果になろうとも、たとえ勝負に負けたとしても記録として1位のリザルトを残せばいい。記憶はあいまいでいつかは忘れ去られても、記録は数字として永遠に残ることになる。
 サーキットにはいくつもの自然現象が起こるし、今回のようにクルマはいつでも壊れる可能性がある。自分がこれまでしてきたことを審議される立場になる西野は、最後は自分に言い聞かせるように繰り返していた。
――ようは、それでも勝てばいいだよ、勝てば。どんな手を遣っても… それで社長にも言い訳がたつ――
 本能で闘いをする者達は、思う存分その力を発揮し合えばいい。それで自分達の気が済むのならば誰にも止められないのだ。
 それをどこかの山道でやれば誰にも知り渡ることもなく、ましてや経済につながることはない。人が見たがるものを見たい場所で効果的に披露することでそこに金が落ちる。誰もがそのおこぼれにあずかって飯のネタとしている。
 それを思えば自らの生きざまをかけて、自分より速い者に勝ちたいと純粋な想いで闘おうとしている彼らが不憫にも見える西野であった。
「あとは自分で結論をだすことだな。私にはそこまでいう権利はない。だが、あえて、オマエの、いちファンとして言わせてもらえば、そろそろ出し切ってもいいんじゃないのか」
 トンボを捕まえるような仕草をしたあと安藤を指差す西野。安藤も一度目を閉じて、再び開くと右手でピストルサインを作り西野に突きつける。それは、「吐いた唾を飲み込むな」という意味が込められていた。


第15章 8

2022-09-04 13:56:10 | 連続小説

 オールド・スポートの奥にある窓際の席。土曜の朝一番であればナイジの指定席になっているテーブルだ。そんな因縁じみた巡りあわせを知るよしもなく、その場に席を構えるのは安藤と西野であった。
 この席に座って何かを感ずるものがあったのか、安藤はこれまで見たこともない神妙な態度で食事を続けていた。時折、思い出したようにフォークで突いて、厚焼きのステーキをフォークで口に押し込み噛み切ると、口いっぱいに納まるまった肉を、その行為が永遠に続くかと思われるほど噛み続けている。
 いつもなら西野が聞いていようがおかまいなしに、食事を口に運びながらも一方的に持論を語り続け、ロクに噛みもせず飲み込むか、噛みながら喋りつづけるものだから、汁だの食べカスだのがテーブルに飛び散り、見るに絶えない状況となるほどだ。
 話を聞くだけの西野の方が却って食事が進まず、半分ぐらい食べたところで安藤が席を立ってしまうこともままあり、そんな調子であっという間に皿をたいらげてしまう安藤が、アタマの中は他ごとを考えて、口の動きと切り離されているように黙々と食事を続ける姿は異様にも見える。
 そうならば西野もそういった煩わしさもなく、気楽に食事をすればいいものの、おかしなもので黙りこくる安藤が気になって却って落ち着かず、西野がすでに食べ終えようとしているのに、安藤の方は半分ほどしか減っていない。
 口内は空になったはずのに惰性のようにあごが動いている姿は、壊れかけたブリキのおもちゃでも見ているようで滑稽だ。調子がくるった西野が気遣った言葉をかけてしまう。こんなことはマネージャーになって初めてのことだった。
「どうした? やけに静かだが」
 焦点が合っていない安藤の瞳孔が西野の顔を認識していく。目線があっても安藤は押し黙ったままで、西野はやりずらい。
「んっ、 …ああ、そうだな」
 ようやく出てきた言葉は、やはり気のない返事でしかなかった。
 なにが気にかかるのか聞いてみたいところであっても、気にかかる内容はオースチンの若造がらみの話なのはわかっているし、どうせこの調子ではろくな返事は期待できそうにない。安藤が自分から口にしない限りまともな会話は懇談だと、無駄な問いかけは止めることにして椅子に斜めに座り直し、ザワつく店内の様子を観察しはじめた。
 いったいどこからハナシが漏れているのか、どのテーブルからも黒(ロータス)と白(オースチン)対決のウワサ話が囁かれている。やけに血色張った者達の顔は見るに堪えず、うつろに目線を動かし続ける。
 西野の目の前に座っている男がその当人だと、周りの者達は知る由もないため、好き勝手に増長されたウワサ話は、安藤を別の人間に作り変えてしまうほどで、つくづく人のウワサはあてにならないと首を振る。
 この調子ならば、オースチンの若造について語られていることも、話半分で聞いておく必要があるはずだ。もっともその話しが何かの役に立つのか、どちらにせよ変な先入観は身にはならない。
 その西野の眼先に気になる男が引っかかった。何人かでテーブルを囲むグループばかりの店内で、ひとりトイレに続く戸口の脇でなにがおかしいのかニヤついている。自分と同じように一歩引いた立場でこの状況を俯瞰しているようで、それにしてもなにか達観したようなその表情は不快感さえ湧いてくる。
 店の扉が開かれ新しい数人の客が入ってくる。戸口の男はその客を視線で追っていき、おもむろにその場を離れ連中の背後にまわった。新規の客は西野達のテーブルの後ろに席を取り、件の男はその付近で立ち止まりまわりのようすを伺っている。
 席に着いた3人連れはさっそく、本日最大の話題を話しはじめる。
「そのロータスのヤツ、向こうではエースでもないんだろ。それであんな走りされたら、うちのツアーズの面目がたたないよな」
「だろ、もし志都呂ツアーズが乗り込んできたらひとたまりもなく飲み込まれちまうぞ」
「まてよ、あのオースチンだって、ウチのエースじゃないんだ。指宿さんだって本来の調子じゃないし、坂東もいいだろ。まだ隠れた逸材がいるかもしれないし、返り討ちにしたら爽快だろうな」
 これまでにない展開にギャラリーの意見はおおむね好感触だ。話の盛り上がりとともに期待値が上がるなか、どんな展開を望むか皆が思い思いに口にする。それを刈り取るのがアキオの仕事の最終仕上げとなる。
「あのオイルさ、どうなんだろうな?」
「あっ、おれも気になってた。スタンドから観てたけど、コーナーからの加速とか、トップの伸びとか、ちょっと違うんじゃない?」
「オレ、ちょっと入れてみようかな? 近くのスタンドで見かけたんだ」
「えっ、ヤバいオイルって聞いたけど。でも、どこ? 俺にも教えてくれよ」
 笑みが漏れるのをこらえて西野は両手で顔を覆う。スピードは誰をも虜にする。タイムの価値は絶対だ。それを裏付けるような若者たちの短絡的な商品価値の捉え方にあきれてしまう。
 たしかに新製品で効果的なオイルなのは間違いではない。ただ、それで加速が良くなるとか、トップが伸びるという裏付けはなにもない。タイムを出したクルマに使用されているということだけで神格化されていく状況を見て、あらためて馬庭の商才に舌を巻く。
 あのサーキットでタイムを削り合い、使用した新商品を宣伝してボーイズレーサーたちにアピールする。今回、安藤がオイルスポンサー付きで乗り込んできたかのようなアングルを考え出したのも馬庭だった。裏で久堂院と話しをつけているのだろうが、どんな戦況になっても自分のところに利益を落とす目算をつけているのは、敵ながら天晴れというしかない。
 そんなまわりにいい加減な話しにも関心を寄せない安藤は、囁き続けられるデマのような話も、中傷的な表現にも一切反応することなく、どうもひとりで自問自答しているようにみえる。
 西野に思い当たる点があるのは、あのオースチンの若造から、今までになく多くの刺激を受けていることだろう。これまでに経験のない闘いの展開に、安藤自身も気付かなかった自分の一面を表層化させられ、とてもこのまま仕事をまっとうすることができなくなっていた。

 志都呂のサーキットに入ってきた頃の安藤は、その性格と能力を持って、対戦者の腕や、レースの流れから勝負を早読みしてしまい、取るに足らない相手であったり、逆にクルマだけが良く乗らされているような相手には、やる気も起こさず、適当に流してしまうような自分本位なドライバーだった。
 何か感ずるものがあれば圧倒的なスピードを伴いレースを席巻するのに、気が乗らないとレースの途中で投げ出してしまうこともあり、小バカにされた扱いを受けたドライバー達からはうとまがられて、一時は干されかかった時期もあった。
 類い稀な速さを持っていても、ムラッ気のある性格ではその才能も活かし切れず、くすぶりかけていたところを、このまま埋もれさせることを良しとしない久堂院が、堅固実直な西野をマネージャーとして当てがいテコ入れを試みた。
 西野は根気よく何度も話し合いの場を持ち、難しい性格を掌握していく。レースに対しての動機付けを持たせるために、レースに向けてストーリーを組み立て、安藤が走りやすい状況をおぜん立てしていった。
 それが会社側の都合のいいアングルであったとしても、走る意欲が湧くようなストーリー展開であれば、それを具現化させて見せ、観客の熱狂もまた安藤を気持ちよく走らせることにつながり、手に入る賞金の額も増えていった。
 その労もあって出入りの多いレースは滅法なくなり、速さが着実に結果に結びついていった。そして近ごろでは西野の手を借りずとも、安藤は自らレースへの動機付けを創れるようになってきた。
 走りの才能は折り紙付だっただけに、本人の意に沿うかどうかは別としても、久堂院の持ち駒として、ようやく使えるドライバーになっていったのだ。
 そうするといつしか、安藤の相手になるドライバーは志登呂のサーキットではいなくなっており、今度は強すぎるドライバーとして敬遠されだし、久堂院のお気に入りということも併せて、再びサーキットの異端児として厄介者扱いされる存在になってしまった。
 良くも悪くも勝負のカギを常に自分の手の中に握っていることで、その中で自由に振舞い、走ることができた。それも度が過ぎれば周りにとっても見苦しいし、自分にとっても同じ戦いを続けるのに辟易しはじめていた。繰り返しの日々の流れの先に何もないことを知り、いつのまにか泥水の淵で行き詰まっているのは安藤もまた変わりはなかった。
 そうした状況を踏まえ、今回、単独ツアーで越境遠征の命を受けたのは、再び闘う動機を模索しなければならない安藤にとっては、わかりやすいストーリーの中で戦うことができる最適な仕事だからだ。
 自分を奮い立たせるために乗り込んで来たこの場所で、新たな獲物を得られれば、飢えた野獣が野に放たれたがごとく、大いに暴れることができる願ってもない状況だ。
 それですべてがうまく行く予定であった。安藤は新しい環境で自分の能力を余すところなく発揮し、なおも成長を遂げるかもしれない。出臼は、手に入れた武器を自らの立身のために遣えおうとした。久堂院は、馬庭に対して、今後の自分の影響力を誇示するために有利な状況が作りたかった。
 ナイジという思わぬ伏兵が現れたことで、誰もがそんな打算を覆されることになった。馬庭でさえも、とりあえず様子見としての当て馬ぐらいとしか考えていなかったオースチンの若者が、予想外の働きをしてくれたおかげで、次の一手の手数が随分と増えたことは棚ボタであった。
 一番の想定外だったのは安藤で、名も知らぬ思わぬ難敵の出現に調子を狂わされっぱなしだった。結果として市道での戦いも後付けの捏造で、安藤が勝ったことになっているし、今回のタイムアタックも記録上は勝利を手に入れていても、それとは別に記憶や印象は、あの白いオースチンにすべて持っていかれており、あろうことか自分が引き立て役を演じてしまう羽目になっているのが我慢ならない。
 それよりも問題なのは、給料をもらってサラリードライバーと割り切っていた安藤が、二度なりともオースチンとやり合うことで、消し去っていたはずのドライバーの本質の部分が、再び体内から湧き出てくるのをいつまでも無視することができなくなっていたからだ。
 今の立場を考えれば指示された仕事を確実にこなすことが優先で、選り好みで好き勝手に戦うことはご法度だ。それはわかった上でドライバーとしてのエゴを捨ててまでも、この仕事を続ける意味が自分にあるのか。思わぬところで突きつけられたナイフが、あろうことか自分の喉に迫っている。
 この先もサラリーを受け取って走るのがはたして自分に取って正なのか。魂を揺さぶられるほどの戦うべき相手がいるならば、損得勘定を取り払った上で勝負したいと思うのは子どもじみているのか。
 そんな問いかけをしてしまうのも、久しく自分の血を騒がせるドライバーに遭遇しなかったためで、その状況を受け入れることに、なんのためらいもなかったからだ。ドライバーの本能を呼び覚ます相手を得た今となって、騒ぎ出した血を抑えつけるのは容易ではない。
 会社には自分の変わりになる者は幾らでもいるだろう。口ではうまいことを言っても、しょせんはコマの一つにしか過ぎず、その場の状況で右へ、左へ振り分けられる扱いを受けてきた者を何人も目にした。自分に商品価値がある段階で次の生き場所を探しておかなければ、あっという間に選別の手のひらから零れ落ちるだろう。
 オースチンとやりあった時に感じた悦楽的快感、代え難き一瞬、意中の闘いに身を置ける恍惚感が、ぬるま湯になれきっていた体内を駆け巡った。忘れていたものを揺り起こされたのか、目覚める時期だったのか。オースチンとの出遭いは単なる偶発的なものではないならば、自分をごまかしてまで走る価値が一体どこにあるのか。 そんな堂堂巡りを繰り返えすさなか、一番気にかかっていることは、このような外的刺激がなければ自分はすぐに腐っていくと知ったことだ。自らの立案のもと道を切り開くのではなく、相手のレベルにあわせてしまう悪癖がいつまでたっても解消されず、同じことを繰り返していることに憤りさえ感じる。
 ふと思い出したように上目遣いで西野を見る。