private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

継続中、もしくは終わりのない繰り返し(出会いの広場で 2)

2024-07-28 18:06:10 | 連続小説

 アキは今日の接客中に起きた嬉しかったことを思い出しては頬が緩んでいた。夜になって新しいアロマの抽出をしている手が何度も止まってしまう。
 夕方に度々コーヒーを飲みに来てくれる年配の会社員風の男性は、入店する時は疲れ気味に見えても、コーヒーを飲み店を出るころには元気を取り戻している印象があり、気になっていた。
 そんな姿を見ると、何だか自分の淹れたコーヒーで、その人を元気づけられているようで嬉しかったし、漠然とではあるが常連さんになってもらえそうな予感があった。
 今日も夕方に現れ、店に入って来たときから気にかけていた。その人はいつもと同じカウンターの席に陣を取り、いつもと同じオリジナルブレンドをオーダーした。
 いつもごひいきにしていただき、ありがとうございますと、思い切っていってみた。実は少し前から今度来店したら声をかけてみようと、アキは密かに考えていたのだった。
 そういう心構えでいると、そのタイミングが来た時に自然と声がでるもので、変に気取ることなく、席に着くと同時にスッと言葉が出てきて自分でも驚いてしまった。
 その人は、最初は少し驚いた表情をするも、すぐに柔和な表情になり、外回りで疲れた時にココのコーヒーで一服すると、心持がスッキリしてきてね。もうひと踏ん張りと元気づけられるんだよと、アキにとっては最高の誉め言葉を言ってもらえた。
 キッチンに戻ったアキの耳に高校時代によく聞いていた曲が届いた。先ほどの高揚感も手伝い、思わず口ずさみそうになってしまい口に手をやって抑えた。
 アキの店ではインストロメンタルのBGMを流している。クラシックやジャズの定番の曲から、演歌からロックまで、様々な曲がスローバラードにアレンジされるチャンネルを選局している。
 たまに自分のお気に入りの曲が流れると、ついハミングしてしまうこともあり、滅入った気分の時は気分転換にもなる。今日のように良いことがあった時であれば、増々気持ちがノッていける。
 アキの店のようなコーヒーのチェーン店ではない独立店舗では、気軽に一見のお客が入ってくることは多くない。気まぐれで入店した客や、ちょっと休みたいと思ったところで、たまたまそこにあったから寄ってくれた客をリピーターにするぐらい、他の店にはない独自の店の雰囲気とか、味とかで勝負しなければ経営が成り立たない。
 何度も通ってくれるのを期待しているだけの待ちの姿勢ではいけないのはわかっている。三度来てもらえるのを二度に、二度を一度にと、提供するコーヒーの精度を高めていく心構えで取り組んでいる。
 初めての客であっても、今の体調や心理状態を観察し、好みを読み取って、それに見合う唯一無二のコーヒーの抽出をすることを最終的な目標と理想に掲げている。
 それであるのに何度も通ってもらえていることに気づいていても、声がけするべきかどうか考えているうちに、タイミングを逸してしまうことも何度かあった。普段からの心掛けがうまくいった好事例となり、今後の自信にもつながる出来事だった。
 常連さんになってもらえれば、何気ない会話をする中で、ここのコーヒーやお店に何を求めて来店しているか、そういったヒントも見えてくる。それをヒントにお店の色付けをして行けたらと夢は膨らむばかりだ。
 今夜はモールの夜警の当番日に当たっていた。居抜きで借りた店舗には、以前は建物の1階を店舗として使用されていた造りで、そこをコーヒーショップに改装した。2階の住居は今は使われていなかった。
 日頃は自宅に帰っているアキも、毎回この夜警当番の日だけ、そこに布団を敷いて泊っている。夜にひとりでいても手持無沙汰で、かといってこの日だけすぐに寝られるものではないので、この時間を利用して新しいアロマの試作をするようになった。
 夜警の当番があると会長から聞いて、アキは驚いたと言うより呆れてしまった。いったい自分に何ができると言うのだろう。そう言うと、会長はなにかあれば警察に電話すればいい、そこまでが仕事だと言われ、それ以上に言い返すことができなかった。
 要は防犯カメラ代わりということで、体のいい費用の削減を担わせているだけだ。それにしてもこの広範囲の敷地をひとりでカバーするには無理がある。
 外見は新しいショッピングモールでも、元は古い商店街をリメイクしているだけで、モールの運営には少数ながら昔からいる者が影響力を持っており、これまでの風習を変えようとしない。
 以前はほとんどの店舗が住宅兼用になっており、商店街全体で防犯機能を持っていた。いまではそのよう老舗はなくなり、アキのように自宅から通い、仕事が終われば帰宅するのが通常だ。
 夜になるとゴーストタウンになってしまうモール内で、人もクルマもいなくなった通路を大音量のオートバイが走ったり、酔っ払いが『出会いの広場』と呼ばれる中央の広場で大騒ぎをはじめ、警察沙汰になったこともあったらしい。
 そのようなこともありモールのほどんどの店が閉まる10時には、外部からの侵入ができないように、モールへの通路の入り口が閉鎖される。
 夜遅くまで営業をする種類の店が数件あるが、その店のためだけに通路を開けておくわけにもいかず、店の裏口を利用するなどする妥協案に応じ、この運営方法を受け入れた。
 そういった意味では安心安全で健全なモール運営にもつながり、それを売りにする方向転換も図れ、以前は少なかった若い女性の客も増えたようで、アキのような店にも恩恵があるのであまり文句は言えないのも確かだ。
 アキが何度目かのニヤケ顔をしたところで、何か音が聴こえた気がした。作業を止めて耳をすましたところ、それからはなにも聴こえない。気のせいかと思い直し、新しいブレンドの抽出が途中になっているカップからアロマを手繰る。
 アキが声がけしたその人は帰り際に、でももう年だから、コーヒー飲んで頑張るのもほどほどにしておくよと言われ、せっかくお近づきになれたのに、来店の回数が減ってしまうのかとドキリとした。
 そのあとすぐに、これからは、ここのコーヒーでスッキリして、自分の楽しみに時間をつかえるようにしないとねと言ってくれた。アキは、いつでもその力にさせてくださいと返すと、ニッコリ笑ってうなずいていた。
 たったそれだけのことでも、昨日と世界が変わったぐらいの心境にあるアキであり、いつしか自分でも知らないうちに、例の曲をハミングしていた。
 あのタイミングで流れてきたのは奇跡的で、映像で振り返ればドラマの挿入歌ぐらいに出来た状況にも思え、気持ちが高揚していった。
 高校時代によく聴いていたお気に入りで、カセットテープに録音して、何度も繰り返し聴き、歌詞をヒアリングでノートに書き起こしたほどだった。
 どういう内容の歌詞なのか知りたくて、辞書を引いて翻訳もした。その時の自分の不安な気持ちを代弁しているかのようで、さらに好きになっていった。
 何者でもない自分は、世界の片隅の小さな存在でしかない。それでも諦めなければ夢は叶うのだと信じていたい。その歌詞に励まされてここまでこれた気がする。実際にそうでないとしても、弱気になった時に踏みとどまれた遠因にはなっていたはずだ。
 あのタイミングでこの曲が流れたことに、なにか運命めいた一日を感じぜずにはいられなかった。そう思えば今日一日はいい事が重なり、夜警の当番も苦にならない。むしろ新しいアロマが生まれそうで、そちらのほうが楽しみであった。
 いつまでも成功体験にしがみついていては停滞してしまうだけで成長にはつながらない。これまでもそんな成功事例にすがって失敗を重ねていた。その度に失敗の原因を自分の都合のいい理由に置き換えて無理やり納得させていた。そうしなければバランスが保てなかったからだ。
 本当の理由はそこではないとわかっていても、自分が早く楽になるために、それ以上を考えないようにしていた。真の原因を取り除かない限り、今のような幸福感は一時的となり、望まない悪事が突然やってくるものだ。
 この日に夜警の当番だったのも運命だ。次の一歩を踏み出すためにもアロマのバリエーションを増やしておきたい。気持ちを引き締めると、再び音がした。今回は間違いなく、この音はピアノの音でメロディを奏でている。
 アキは暗澹たる気分になった。言った傍からこの始末だ。いいことがあったと浮かれていたのと、コーヒーの試作に熱を入れ過ぎて、ピアノにカギを掛に行くのを忘れていた。あの夜の悪夢がよみがえってくる。
 あの時も同じように試作をしていて、カギを掛け忘れていた。慌ててピアノのある広場へ向かうと酔っ払いに絡まれてひどい目にあった。
 何かあったら警察にと言われても、そうそう安易に110番はできなかった。自分のミスが原因でもあり、まずは状況を確認しなければならず、そこから自分で対処するか、通報するのかを線引きしなくてはならず難しい判断を強いられる。
 会長から預かっているカギを持ち出し、とにかく駆け出すアキであった。


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