private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第16章 2

2022-09-25 17:33:04 | 本と雑誌

Cimg3477

R.R

「今日は、長袖なんだね」
 しばらく続いた静寂のあとで、ナイジの姿を見直したマリが、自分のことはさておき夏の日にそぐわない格好を指摘するかたちで口を開いた。下をむいていたナイジもその言葉でようやく顔を上げる。なにか複雑な表情をしているように見て取れた。
「ああ、マリの真似ってわけでもないけど、日差しがキツイから。この方が疲れないんだよ、 …多分」
 実際は左手首の腫れを隠すための服装だった。マリに疑問を持たれるのは織り込み済みで、それはあらかじめ用意しおいた回答だった。
「そう、日焼けを気にしたのかと思ったけど、そうか、カラダへの負担を減らすこともあるわね」
 一週間たてば治ると踏んでいたケガの痛みはいまだ癒えなかった。黒くなったアザも見せるわけにいかず苦肉の策だった。
「あのね、さっき、ナイジがコースを歩いてるの見てて、中学時代のこと思い出してた」
 マリが別の話題に移ったことで、ナイジもそこに話しを持っていく。「中学時代? いま?」
「そのネタ、ひっぱるわねえ」笑顔でニラミをきかせておいてマリは話し出す。
 左手のこともあり、中学時代のマリは、教員の配慮によって半強制的に文化部に入ることになった。それは好きでもないコーラス部だった。開け放たれた窓から目をやれば、運動部がグランドをところ狭しと練習に励んでいる。
 休憩時間はもちろんのこと、練習している時も窓からグランドを眺めていた。それは自分と交わることのない遠い世界だった。
 特別身体を動かすことが好きなわけでもないのに、あえて切り離されたことで余計に気に掛かり、グラウンドと、この部屋を隔てている見えない壁が疎ましかった。
 ラグビー部やサッカー部、テニス部とか、花形である部活がグラウンドの全体を占め、力強く大きな声が途切れることなく響きわたっている。
 サッカー部のキャプテン目当てに、フェンス越しに鈴なりになった女生徒の黄色い歓声も、時折耳に届くありがちな光景も自分とは隔世にあった。
 いつも変わらない風景、今日一日の決められた時間、繰り返される日々。それらが気だるさとして自分に圧し掛かってくる。
 ある時、見慣れた風景の中に、何度も繰り返される動きが挿入されてきた。以前から居たはずなのに自分が気付かなかっただけだった。それほど目立たない存在であったことはたしかだ。
 グラウンドの隅、校舎の影になるようなところで、陸上部がストレッチや、筋トレをしたり、短距離ダッシュを繰り返したりと、誰が見ても地味で、興味を持って長く見つづけようとは思わない練習を、ひとりひとりが寡黙に行っていた。
 一度気になったら翌日もその次の日も、どうしてもその風景に目が行ってしまう。自分の見ている世界より、見ていない世界の方が広いに決っている。誰にも気付かれることのない地道な練習は、そうして過去から行われていたのだ。
 マリもこれに気づいたのは、見つづけた華やかな映像に対する飽和と、逆に埋もれてしまうほど単調な動きが異端でさえあり、かえって新鮮に目に飛び込んできたからだ。
 花形クラブの部員が努力していないわけではないのに、なぜだかその時だけは陸上部の練習風景が、とても意義のあるものとしてマリの目に映りこんでいた。
 周りに囚われることなく自分に課せられた課題を黙々と続け、すべきことと目標が自分に見えている。何と戦うべきなのかを理解しているかのように。
 そう汲み取ったのはマリの勝手な想像なのだとしても、その時は、そう考えることが必要で、体内に溜まったゆがんだものの見方を解くために、自然と与えられたものといまは理解できた。
 結局、自分は、見栄えのいい体裁、耳障りのいい言葉、居心地のいい場所と、楽な方へ流れているだけで、何ひとつまともに直面することを拒んでいたのだ。
 すべてを自分のカラダの不具合のせいにして、勝手に居場所を決めて込んで、当り障りのない対応を繰り返す教師からも勝手に居場所を決めさせられ、その場に甘んじていることを認めていた。ナイジの歩く姿を見て、そんな中学時代の葛藤と、あいかわらず変わらずにいられない自分がそこにいた。
「それがさ、マリにしか見えない風景なんじゃない。良かったよな」
「あっ、」「えっ、」ナイジの言葉に驚くマリに驚くナイジ。
「あの、あのね。アタシもナイジが下見しているのを見てて、ナイジにしか見えない風景を見てるんだなって思ってたから。アタシにも自分だけが見える風景があるんだなって… 」
 うれしそうにモジモジと話すマリの姿が愛おしかった。
「先週、ふたりでコースを歩いたでしょ。ナイジが言った『昨日の自分に勝つ』って言葉が印象に残ってて。だから、さっき下見してる姿を見てたら、スーッと過去の記憶が… 思い出したのか、引き戻されたのか。アタシは未だに変わらない心境にいるぐらいだから、わかんないけど、あの時の陸上部の部員から教えられたのはそれだったんじゃないかって」
「そうだっけ、たいして意味はないよ、口からでまかせだ。けど、下見は地味なのは間違いないけどな」
 いつのまにか、ふたりの肩と肩が触れ合っていた。そこからおたがいの鼓動が伝わってくる。
「その、えーっと、地味とか、華やかとか、本人にとって見た目って何の意味も持たないでしょ。周りが勝手に決めつけてるだけで。どれだけ、自分が信念を持ってやりとげるか、他人に勝つことより、自分に負けないことのほうがどれだけ難しいかってことを、教えてもらった気がする」
 マリにそう言ってもらい、これまでなら決して口に出すことはなかった、言葉が引き出されていった。潜在意識の中でこんなこと言っても誰も関心ないだろうなという意識から口に出すのを拒んでいた。
「オレさ、自分の行動が人にどんなふうに見られてるかなんて、あんまし気にしてなかった。下見だって、クルマの整備にしたって、イヤイヤやってるわけじゃなくて、好きでやってることだし。そりゃさあ、めんどうになる時もあるよ。そんな時こそ、それを断ち切って、もう一度あたまからやり直さないと。やっぱり見逃してるんだよな。だからどんなに時間がかかってもね。そうして初めて知りたかったことが見えてくるんだ。いや、なんだか道が教えてくれるんだ。だからこそ、絶対に手を抜かずにやらなきゃいけない。一度、手を抜くと、その感覚が身体に染み付いて、知らない間にそれが普通になっている。平たい道をただ漠然と歩いている自分に、あるとき愕然と気が付くんだ。求めるものが手に入らないことは、すべては自分への甘えのせいなんだって」
「自分だけが見えた風景は、実は向こう側から教えてくれる情報でもあるのね」
 ナイジの右手がひざの上に重ねられたマリの両手に触れた。こんな話にも的確に回答まで導いてもらえる。ナイジはそこに心安らいでいくことで、心の奥でしこりとなっていた思いも吐き出すことができる。
「なんだかね、初めて走ったオールドコースでいきなりタイム出したみたいに思われてるけど、さすがにそれはムリだ。コースを見て、道を見て、路面を見て、それでウォームアップランで刷り合わせて、インラップで答え合わせする。それでようやく思い描いた走りができたんだ。それだってまだ100%には満たない」
 マリもゆっくりとナイジの核心へ進んで行く。
「あのね、このあいだもそう話してくれたよね。でも、ただそう思ってるだけなのと、それを実践することとのあいだには、とてつもない差があるって改めて、感じた… 」
「オレもそう、感じてる。 …昨日、走った後、ホームストレートでクルマから降りたとき、スタンドにいる人たちのひとつひとつの顔が見えた。拍手が湧き起こった時、一体なにごとかと思った。レースを走るってことは自分のことだけじゃなく、見てる人にも多くの影響を与えられるんだって。これまで走ってる時なんか観衆の顔も視線も見えてないし、自分が気持ちよく走ってればどうでも良いことだった。だからって自分のやり方が変わるわけじゃないけど、やっぱり、それを知ってるのと、知らないでいるのでは違うだろからさ。そうやってオレたちは形成されていくんだ。自分の意思とズレててもわからないぐらいの逸脱を繰り返しながら」
 ナイジの反応に何度もうなずき、こらえきれないマリはすぐに言葉を返した。
「そう、そうなの、アタシもそれが強く伝わってきた。自分では何にも変えていないつもりでも、集った経験は、本人でも、ううん、本人だからこそわからないほどの微量な調整を勝手に加えてしまっている。それが、ある時、突然、以前とは考えが異なっていることに気付いて、実は自分の意思には一貫性がまったく無いことを知る。自分には嘘つけないから。誰だってそうなのよね」
 ナイジは深い目をしていた。自分の言葉とマリの言葉が混ぜ合わさり、意識さえも一本の線になっていく。これまでにない刺激が脳内を心地良く撹拌していくのがわかる。
「あっ、あの、これ、お弁当。作ってきたんだけど、食べて。お腹空いてるでしょ」
 思い出したようにか、照れ隠しだったのか、黄色のナフキンに包まれベンチに置かれていた弁当箱を両手を伸ばしてナイジに差し出す。
「ホント? スゲエ、料理できるんだ。家庭実習? もういいって? あっ、そうだ、コッチこいよ。いい場所があるんだ、そこで食おうぜ」
 そう言うと席を立ち上がり、ひとりスタンドの出口に向かうナイジにあわてて付いて行くマリ。
「ちょっといま、サラッとイヤミ言ったでしょ。アタシだってお料理ぐらいできるわよ。 …時間かかるけど」
「えっ、ああ、悪い悪い。気にすんな、率直な感想だから」
「もう、全然フォローになってないよ」
 スタンドを離れて、裏道をしばらく行くと池の淵に葦が群生しているところに出た。近づくほどに何やら鳴き声が聞えてくる。そばによれば数匹の鳥が輪唱を重ねて鳴いていた。葦に隠されて姿は見えないが、この池の淵に巣食っているのだろう。
「アナタって野犬みたいに方々のけもの道を知ってるのね。いままでよっぽど暇だったのねえ。あれ、何の鳥かしら」
 風にあおられさざ波が立つと、キラキラと湖面が揺れた。
「ちょっといま、サラッとイヤミ言ったよな」マリはペロリと舌を出す。「これでおあいこでしょ」
「へっ、まあいいや。これはさ、鴨だよ、鴨の親子さ、ここのどこかで暮らしてるんだ。面白いよな、姿は見えないけど鳴き声だけで生活が感じられる。たまに親鳥が飛び立って、エサを探しに行くだろ。帰ってくるとまた、ああやって雛鳥が大合唱だ、エサよこせって」
「よこせって… 自分を棚に置いちゃって。ミカさんにコブタちゃんっていわれるほど食べるくせにね」
「ひでえな、そんなこと言ってた? いまさ、腹減っちゃって何食ってもおいしい状況なんだ。助かったよ、これだけハラ減ってたら、なに食ってもうまいしな」
「もう、ぜんぜん期待されてないのね。でも大丈夫? そんなにお腹空いてるんじゃ、これだけじゃたりないんじゃない? ちゃんとした食事、取ったほうがいいのかしら」
「このところ、バタバタしてて、まともな時間にまともに食ってなくて、お金も無いし」
 その言葉を聞いたマリは、自分がナイジのことをまだなにも知らないと改めてさせられた。ひとり暮らしを思わせる話は、本人やリクオの会話でうかがい知れていた。毎回外食するわけにもいかないだろうし、そこでどんな生活をしているのか。お金に不自由していることも気になる。
 心配げな顔をするマリも、私生活までズケズケと介入するにはまだ気が引ける。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。オレ、ザツに出来てるから。それに空腹の方が都合のいいこともあるんだ」
 ナイジは手頃な場所を見つけ座り込み、マリも大きな石が段になっているところに腰をかけた。めずらしくマリの目線の方が高い位置になる。
「よくわかんないけどさ、いろいろと冴えてくるんだ。それに、闘う気にもなってくる。何でかな、空腹感が闘争本能にすり替わっていくのかもしれない。メシを食えないのは、コイツのせいだって感じで、倒さない限り永遠に食事にありつけないとかね」
 心配させないようにふざけて言ってくるナイジに合わせるしかない。
「なにそれ、精神的に凄いって話しなのか、ただ食い意地張ってんだけなのか、ぜんぜんわかなんないでしょ」
「わっ、すげえ、サンドイッチとおかず? …かな?」マリの気遣いもよそに、ナイジはひとり弁当を開けてしまう。
「それね、ミカさんが作ってたの見て参考にしたの。スクランブルエッグとホウレンソウのバターソテー、それに、ハムとかトマト、お好みで挟んで食べてみて」
「へへっ、うまそう。オレ、いろんな味で少しづつ食べるの好きだからちょうどいいや」
「あの、良かったら。ナイジの口に合うならこれからも作ってくるけど。あっ、でもあまり満腹にならないほうがいいのよね。闘争本能が出てこないと困るみたいだから」
「ほんと。いいよ、いいよ、イッパイ作っても。腹いっぱいでも、オレ負けないから。おっ、うめえ、塩分濃い目で丁度いいな」
 お弁当を気に入ってもらえた安心感も手伝い、マリは吹きだしてしまった。
「フフッ、なによそれ? どっちよ? いい加減ねえ。塩辛くない? この時期汗かくから、塩分多めにしたんだけど。運動中にね塩分足りないと意識がぼやけちゃったりするって聞いたから」
「へえ、そうなの。マリってさ、物知りだよね。オレの知らないこといっぱい知ってる。オレが知らなさすぎるだけか? まあ、知らなくても何とか生きてこれたけど」
「ナイジはアタシの知らないこといっぱい知っているから、同じことよ。それに、ナイジは理屈じゃなくて、現実に即応してくのよ。アタシにとってはその方が凄いと思えるけどね」
 口の中に一杯詰め込んだモノを一通り咀嚼し終わるのを見て、水筒に入れてあった紅茶をカップに注ぎナイジに手渡す。そんなひとつひとつの動作が嬉しくもあり、照れくさくもあった。
「ありがと。ほんと助かったよ。これでコドクに灯が付いた」
 ”コドクニ”の意味合いが理解できなかった。それをいま聞き返すのは無意味に思えそのままにしておく。
「今日は、コースの観察して、何か見えたものがあったの? 先週と違う新しい発見」
「ああ、見えたよ。そういう言いかた良いな。うん、悪くない。見えたものは、走ってもいいところと、走っちゃいけないところ。クルマに乗ってたら絶対に見えなかった。たったそれだけのことだけど、ないがしろにしてたらしっぺ返しを喰らう」
「面白いね。同じモノをみてても、アタシにはまったく別の姿を見せてる。アナタが見えてるものはアタシには見えない」
「まあ、見えなくていいこともある、見えることで臆病になる事だってあるんだから」
「えっ、ああ、そう、そうかもね。知らないことのほうが幸せなこともあるわね。お互いに」
 今度はマリの言葉の真意が見えていない。これもまた流しておくことにする。
「はっ? ああ… ううん、そうかな? そうだな」
「いったい何時から歩いてたの?」
「んっ、ああ、今日? 4時くらいかな。陽が出てすぐだから」
 あっけらかんと言い放つナイジ。
「4時っ? えっ、5時間も歩いてたの!?」
 ナイジにとっては驚くことではなかった。先週はむしろマリがいたから早めに切り上げただけで、本戦を闘ったあと、もう一度確認しておきたいところは無数にあった。
「そうそう、今日もう一回、検査しないといけないんだ。大丈夫なのにさ、医務室行けって言われた」
 あいまいな返答をするナイジに、この時のマリの真意はわかっていない。ただ、少し寂しげな物言いには引っかかる部分もあり、それを消し去るように再び明るい表情で、ナイジにとって意外な質問をしてきた。
「あっ、そうなのね。いいよ、念のため診てもらったほうが。 …ねえ、ナイジは今日走るの?」
 マリの質問の意味が一瞬、理解できなかった。自分でいうのもなんだが今日のロータスとの対決は結構な話題になっているはずだ。もちろん興味のない人間には耳にも届かないだろうが、少なくともレースに関係している者なら、今一番の熱い話題なのは間違いない。
 あえて、情報から耳を閉ざしていたのか、たまたま、そのような環境にいなかったのか。返答の遅いナイジを見るマリは不安そうな表情にも見て取れる。
「えっ、ああ、走るよ、ロータスのヤツとやるんだ」
 マリの気持ちを汲み取り、努めて少ない情報のみを口にする。
「そう、オースチン直ったのね。よかったね。今日走れるんだ。頑張ってね」
 マリの表情からは不安の色が消えていた。レギュレーションをよく知らないマリが、ロータスとやりあうことを特別と感じないのは仕方がないことだった。どうやら、マリの心配事はオースチンの具合と、ナイジが今週も走れるのかどうかについてだけのようだ。
 不確かな情報は要らない、真実だけを直接自分から聞くために今日まで待っていたのだと理解したい。
「オレ、なんかずっとマリに逢いたくてしかたなかった。あれも言いたい、これも言いたいってアタマをめぐっていた。それなのに、いざ逢ってみると、なんかみんな大したことじゃなかったみたいで、そもそも、何を言いたかったのか忘れちまった」
 ナイジはマリの肩を引き寄せ、跳ね上がったマリの髪を胸で受け止めた。寄りかかる体勢のマリは、とまどいながらもいつしかナイジに身を任せていく。
 それだけでもう充分だった。余計な言葉は要らない。何も応える必要も無い。大丈夫じゃない自分を見せても平気だし、大丈夫じゃない相手も受け入れられる。
 ただどうしても左手のことは言い出せなかった。それは弱味を見せたくないとか、心配をかけたくないとかといった簡単なことではなく、いま言えば、自分はもう闘えなくなると確信でき、それをマリが負担と思ってしまう危惧からのことであった。それだけは絶対に避けなければいけなかった。
 相変わらず続く、鳥の鳴き声だけが分散的に空に吸収されていくなかで、ふたりの周りだけが取り残されていく。とても脆く、そして強く。


第16章 1

2022-09-18 17:21:34 | 本と雑誌

Cimg3464

R.R

 

 マリの土曜日がはじまる。それは伯父の志藤と一緒にサーキットに行く日でもある。土曜日は大学の講義が午前中にあり、それには出席できない分、平日に集中して講義を受け補修も行って、土曜日に休めるよう調整していた。
 いつもと違うのは、起きた時間が30分早かったことだ。今日も朝から湿度が高く、室内の膨張した空気が煩わしくまとわりついてくる。寝室を出て歩きながら方々の窓を開けて回り、こもった空気を入れ替えながらそのまま洗面所に向かう。
 蛇口をひねりガランに溜めた水を手ですくって顔を洗うと、ようやくアタマがスッキリしてくる。パジャマ代わりに着ているロング丈のTシャツを脱いで、水に晒したタオルを搾って身体をさっと拭き、昨日の洗濯物と共に洗濯機に入れる。
 そうしておいて籐籠のケースから夏場に愛用しているネル生地のシャツを身に着ける。やや厚手でもサラっとしていて、肌にまとわりつかないので今のシーズンは重用する。
 それでもじっとりとした空気が肌を覆って汗ばみそうで、風を送るために左手をばたつかせる。さらにシャツの裾を右手であおると、空気の流れが足元から身体をつたってくるのが心地良い。とても人には見せられる姿でなくても、涼をとるための手段としてつい手が動いてしまう。
――せっかく拭いたのに汗ばみそう。はしたないけどしかたないわね。――
 洗濯洗剤が残り少なくなっているので、このタイミングで補充しておく。踏み台を用意して建付けの戸棚から買い置きを取り出し、明日に備えて準備しておく。
 マリの場合、どうしてもすべてにおいて人より時間が掛かってしまうので、常に一手も二手も先を考えて準備しておく必要があり、余裕を持って手配できるように在庫品の管理をしていた。切迫してから動き出していては、対処するために時間がかかり一日の予定がズレ込んでいき、やりきれずに翌日になってしまうことがある。
 スピードアップして調整をはかる手段を持てないマリにとって、そうすればどうしても生活するのに優先順位の低いものから明日に先延ばしにしなければならない。それは自分のやりたかったことを後回しにするか、我慢するということだ。
 そうしてこれまで失ってきたの多くのやりたかったことは、二度と戻ってこなくなる。大げさな話しに聞こえても、そうしてマリにとっての大切な時間はいやおうなしに削り取られていった。
 残り少なくなった洗剤を箱を逆さにして直に投入して使い切り、空箱を丁寧に折りたたみ屑篭へ入れる。濯槽の中では目の粗い泡が一気に湧き上がり大きく膜を張る。フタを閉じると遠心運動から振動が発生しはじめる洗濯機が大きく揺れだした。朝食の準備ができる頃には洗濯が終わっている段取りだ。
 洗濯をまわしておいて、一度自分の部屋にもどり、デニムのスカートを取り出す。先週着たものと一緒だったので、別のにしようかと頭をひねったが結局それを穿いた。
――さあ、いそがなくっっちゃ―― 靴下は準備だけして、出かけるときに履くことにする。
 今度は台所へ向かい、椅子に掛けてある頭から被るタイプのエプロンを取り上げ身に付ける。いくら一緒にいるのが伯父といっても、シャツ一枚では胸のシルエットが出てしまうので、外ならばジャケットを着るところを替わりにエプロンを付けている。
 台所の出窓は摺りガラスがはまっていても、昇りつつある夏の太陽が直接当たれば、その熱を遮ることはできない。朝の空気を取り入れるために窓を開けると、夏の日の裏庭の匂いが台所に侵入してくる。ついでに雨の匂いがしないか鼻を効かせたがその心配はなさそうで、今日一日は良い天気で過ごせそうだった。
――ホント、イヌじゃないんだから―― ナイジとの会話を思い出し少し顔がにやけてしまった。
 鍋に水を張り、火に掛け、冷蔵庫からホウレンソウを取り出し、適当な大きさに切って、煮立ってきた鍋の中に入れる。いつもの倍の卵をボウルに割って入れコショウと塩、それに少々の砂糖を入れて、よくかき混ぜる。伯父の志藤は、もういい年齢なのに朝は洋食派で必ずトーストとコーヒー、それに必ず卵料理を食べる。それも曜日毎に調理方法を変えて出すように注文されている。
 今日は炒り卵の日だった。いつもより早い朝、いつもの倍の卵はナイジのために『お弁当』を作っていこうと思ったからで、料理の最中にも自然と顔が緩んでしまうのが自分でもわかっていた。
 ナイジと特別に何かを約束したわけではない。今週末また遭えるということだけが、たったひとつの事実だとしても、マリにとって一週間が待ちどおしく思える大きな出来事であった。
 今週は、大学でも友人に指摘を受けていた。やれ顔かニヤけてるとか、普段より明るいとか、幸せそうな顔でボーッとしているとか、マリにそんなつもりはなくてもきっと自然にそうなっていたのだ。気になる人のことを想うという行為が、いままでのマリの人生には欠落していたために、それが一気に埋まってしまった反動が自分でも上手く現せない。
――もしかしたら叔父さんも気づいてるのかしら―― 叔父になんの指摘も受けていないことが却って気にかかる。
 茹であがったホウレンソウをバターでソテーして塩と胡椒で味を調える。朝食用に伯父の皿と自分の皿に取り分け、後は弁当用に残しておいた。撹拌された卵にはお湯で溶いた顆粒のコンソメを入れ、コクを出すと共に洋風仕立てにアレンジした。
 ドリップしたコーヒーが入り、トーストを焼く頃には香ばしい匂いに誘われてか志藤が起きてくる。目を擦りながら今日はいつもより早かったんじゃないのか、とぼやきながら洗面所へ向かって行く。マリが家の中を動き回る音が気になったのだろう。
 弁当を作る時間を考え早く起きたのは、志藤が起きる前に作り終えるためであった。やはり自分が想定したより時間がかかっており朝食の時間になっていた。洗面所に行った隙に弁当用の具材の上から紙ナプキンでカモフラージュしておく。
 先に焼けたトーストから順にバターを塗り、皿にのせて、これにも紙ナプキンを被せておく。志藤が廊下を歩く音が近づいてくると鼓動が高まってきた。いけないことをしているのではなくとも、やはり生身の自分をさらけ出しているようで、まだ触れられたくはない。
 テーブルにつく志藤の前に朝食を配膳する。炒り卵を口にすると、いつもと味付けが違うと言われ、心臓が高鳴った。余計なことを言うとボロが出そうで何も弁護することなく、そう? とだけ言い、自分も朝食をとりはじめる。洗面所で唸っていた洗濯機の音が静かになった。
 志藤はひととおり食べ終えると、マリにコーヒーのお代わりを注いでもらい朝刊を広げる。今日も大国同士の代理戦争が一面を占めていた。戦地から兵を引き上げようとした指導者が暗殺されたことを引き合いに出し、時の政権より複合産業会社のほうが力があると嘆いている。
 それについてはマリも言いたいことがあっても今日はその議論を盛り上げている場合ではない。いやな世の中ねとあたりさわりのない相槌を打つと、志藤はけげんな顔をして新聞から顔をのぞかせる。食器を片付けるマリはその視線を感じて、普段通りでないのも変に勘繰られるようでどうしようかと焦り出す。
 洗濯ができてるから干してくると、とりあえずその場を離れことにした。顔が火照っている気がして志藤のほうを向けない。――ダメね、なれないことすると―― 顔を覆った両手がピクピクと震えている。
 マリが洗濯物を干し終わり、食器を洗い終える頃には、普段なら志藤からそろそろ行くぞとい声がかかるはずであるのに、すでにクルマに乗り込んでマリの到着を待っているようだ。壁に掛かった時計を見れば、出発の時間に近づいている。
 どうやらこれまでも含めて、見て見ぬふりをしてくれているのだとようやく悟った。そんな気を遣わせたことに負い目を感じながらも、そっとしておいてくれる気持ちに感謝した。そうなれば自分も気づかれていない風を装い、道化師を演じるしかない。
 勇躍、ナプキンをかけておいたトートスと、サンドイッチの具材を取り出して、仕上げに取り掛かる。ミカがパニーニを手際よく仕上げていく姿を思い浮かべ、自分も同じようにとやってみる。それなのに、ホウレンソウソテーや炒り卵は、ポロポロとトーストから零れ落ちてしまう。
 それは想定済みで耐油性の紙シートを敷いてあるので、シートを折り戻して具材をトーストに戻してやる。なんとか仕上がったサンドイッチにナイフを入れ、洗い物は帰ってきてからにしようとシンクで水につけておくことにした。
 戸締りをして駐車スペースに行き、志藤に急かされるようにしてローバーに乗り込んだ。何してたのかと言われるかと構えていてみても、志藤は遅れたことについてはなにも言わず、暖気も十分のローバーですぐに出発した。そうなるとマリのほうも落ち着かない。なるべく笑顔で、遅れてゴメンねとあやまると、うなずくだけでクルマの運転に集中している。
 真夏の道路は陽炎が立ち、すべての風景が夏の色彩に埋め尽くされ白くぼんやりしている。それなのに風景の中に反射物でもあれば、太陽の光を否応なく跳ね返してくるので、目を細め侵入光を調整しなければならず、志藤もたまらずサンバイザーを下ろした。
 マリの膝の上にはいつもの手提げカバンと、丁寧に包まれた『お弁当』が大切に抱えられていた。乗りはじめた頃は硬めのシートに馴染めず、落ち着かない気分になることもあったこのクルマも、今はすっかり身体に馴染んでしまっていたはずなのに、山道に入ると振動や、コーナーでの横Gに気づかうことになる。
 助手席で『お弁当』をしっかりと抱える姿から、そんな空気を漂わせているのが感じられたのか、志藤はチラチラと目はやる。ただ、それについて言及することは最後までなく、何か聞かれたら、お昼にスタンドで食べようと思って、と言うつもりであった。弁当などこれまで持参したこともなく、バレバレの言い訳にしかならないはずだ。
 サーキットに着いたマリは、あとから診療室に行くと志藤に言うが早いか、そそくさとその場を立ち去ってしまった。余りにもわかりやすい行動に、志藤はやれやれとばかりに後頭部を叩き診療室へ向かって行くしかない。
 自分では平静を装っているつもりなのだろうが、こうまであからざまに普段の態度が変われば、さすがに志藤にもあの男に入れ込んでいるのもわかるというものだ。
 これまで一切オトコッ気もなく大学と診療所に通うだけの生活で、自分の殻に閉じこもりがちな性格のマリは、積極的に他人と、ましてや異性となど関わろうとしなかった。
 伯父である贔屓目もがあるのは承知のうえで、美人と言えずとも可愛いらしい顔立ちではあり、言い寄る男もいたはずだ。マリ自身が自分の不具合に対し、異性と特別な関係になった際に、それとどう向き合ってもらえるのか消化しきれないため、一歩引いた場所に居続けることをかたくなに貫こうとしてきた。
 これまでマリは様々な方法で周りとのコミュニケーションを取ろうと努力してきた。時には、痛々しいほどに周りより劣ることを認め、ひとの優しさに委ねるのが正しいとしてみたり。何の負い目も持っていないような振る舞いをして、強い自分であることが正しいとしてみたり。
 どちらにしても、ありのままの自分ではないため疲れてしまうのは、どうしても自分の本心でないことにあり、その姿を見る周囲も違和感だけが強調され、バランスが崩れていくだけであった。なんとかなっていた小さい頃とは違い、思春期に入れば個々の思惑は幅広くなり、ちょっとした親切心や、優しさが、ある時には甘い蜜となり、ある時は棘となってマリのカラダを傷つけていた。
 マリの行動が徐々に受身な方向に針が振れていく中、もう一度自分から変わっていこうとしている。それを決心したのは、あの男が発端なのは間違いないだろう。今はただ静観し、ふたりがよい結果に導かれることを願うしかなかった。これまでのマリを見てきた志藤であるからこそ、今回の件はうまくいくといいと期待している。
 午前早めのサーキットは関係者を含めて人影はまばらだ。マリはスタンドを駆け上がり、軽く息を弾ませるながら360度回転してサーキットを一望した。最終コーナーをとぼとぼと歩いているナイジの姿を発見する。先週と同じように路面状況を確認しつつ、右へ、左へ、うねるように歩き、立ち止まり、しゃがみ込み、何かを手にし、そして、足で感じる。
 額に汗しているのだろう、何度も袖で汗を拭っている。ハンカチぐらい持てばいいのにと思いながらも、そこまで気がまわるナイジは想像できず、自分を笑ってしまう。
 ナイジは屈んだままで、しばらく動きを止めて、それからゆっくりと立ち上がり、その場で顔を上げ、腰を伸ばし、続いて膝に手をやり大きく肩で息もつく。何かを考えているのか想像もつかない。ナイジだけに見える景色に没頭しているのだ。
 もし、このまえと同じ、6時頃からはじめていたならば、2時間もかけてコースの下見を行っていることになる。本来なら路面の読み取りに、これぐらいの時間をかけたかったのなら、自分のせいで前回は随分と邪魔をしてしまったことになる。
 いつしかマリは、ナイジが真剣に物事に打ち込む姿に吸い込まれていった。遠めに見てもかなり疲れているのがわかる。足取りも重く、しゃがみ込む時間も長くなっている。
 それでも気になることがあればコースを引き返してでも、もう一度確認することを怠っていない。そうしてなかなか前に進まない姿を見れば、あながち2時間もかかっていても不思議ではないはずだ。
 そんな、ナイジの一途で真摯な姿を目にして、マリの胸は熱くなり、嗚咽に近い熱い息が口から漏れてくる。いつものひょうひょうとした態度からは、努力の欠片も感じさせないナイジは、こうして誰にも知られることなく、早朝から一人きりで労力を惜しまず自分のなすべきことを行っている。
 地味でレースの華やかさとは正反対のこの行動が、実戦で自己能力を余すところなく発揮し、最大出力につなげていくことで、あの素晴らしい走りにつながるのだ。
 マリはどうしても待ちきれずに、最終コーナー寄りのスタンド端まで小走りで進む。視線を感じたナイジが見上げる先には、大きく手を振るマリの姿がある。
――なんだい、あれじゃ小学生だよ。 …大学生だったかな――
 口では悪態をつきながらも、かざらない純朴な姿に、疲れた体と心が和む思いがした。ナイジは軽く手を挙げ、マリを認識したことを伝える。
 それを見ると今度はスタンドの階段を下り、最終コーナー出口まで戻ってきたナイジを、金網に指を掛けて待ち構えた。そうまでしておいて、いざ面と向かえばなんと声を掛けていいのか分からず、マリははにかんだ口元と、かしげた首のまま目が泳ぎだす。
 久しぶりのナイジの顔は少し痩せて見え、精悍さが増したように思えた。逢うことのできなかった1週間で、ぐっと大人の表情に変わってしまったのは、先週からの一連の出来事を受けて、心身ともに一回り成長したからなのか。そんなナイジを見て、変わらない自分だけが置いてきぼりになったようで少し焦ってしまう。
「なんだよ、どうしたんだ?」
「えっと、その、久しぶり。元気だった?」
 ナイジはさっきの自分の突込みを思い出し、軽く小鼻を鳴らす。そして、再び。
「夏休み明けの小学生みたい… 」
 マリは口先を尖らせ、赤らめた顔を隠すように下を向いてしまった。ナイジは、フェンスの金網を登りはじめ、フェンスの頂点からスタンド側に降り立った。マリの肩をポンポンと叩き、最上階まで牽引して日陰のベンチに座るように促がす。
「アレ、キズついた?」
 コースを正面に向かって座るマリとは相反し、反対を向いてベンチに腰掛けたナイジ。少し身体を斜めにすれば、ふたりは互いに正面を向き合う位置に対した。
「ううん、違うの。ホントにね、咄嗟にナイジに何て言葉掛けたらいいか思い浮かばなくて、ようやく出た言葉がこんなので、なんか恥ずかしくて」
 50cmも離れていないナイジの横顔を見て、マリの鼓動が早くなる。
「それより下見、もう大丈夫なの?」
「ああ、そうだな。大丈夫だよ、そんなに気ィつかわなくても。それよりさ、なんか早かったよな、1週間。医務室で別れたことがついさっきのようだ」
 ナイジがそう思うのはふつうのことでも、マリが今日まで重ねた時間は、もっと重要で大切な時間であった。先週の出来事が夢じゃないことを確認でき、ナイジの心が変わっていないことを知るまでは、不安と共に今日までを過ごしてきた。
「そうなのね。うーん、あのね、アタシは長かった。ナイジはその分充実していたのね、時の流れが早く感じられたってことは。アタシはいつのまにか今日だけを追い駆けてた、時間が決められた以上に早く進むはずはないのに、やたらと時計ばかりを見てた気がする」
「そう? そんなにオレに遭いたかった?」
 ナイジは冗談で受けてくれたが、つい自分の正直な思いを赤裸々に語ってしまったことに気恥ずかしさを覚え、肩をすくめ顔をそらした。そんな姿を愛しげに見つめるナイジも付き合うことにした。
「いや、オレも同じかもな、きっと無理に考えないようにしていたんだ。そうやって、別のことに没頭していた。そうでもしないとね、まあ、いろいろと。ヘヘッ」
 最後は笑ってごまかし言葉を濁す。マリのように素直には口に出せない。
「フーン、いろいろとねえ。ナイジ、ずるいわよねえ。まあ、いいけど」
 マリは勝手にナイジの気持ちを汲み取り悦に入っていた。ちゃんと言葉にしたがらないナイジであり、それだけでもマリには充分だった。両手を空に向けて広げ大きく息を吸う、顔を上げ遠くを見る目は日差しの強さに細まっていった。
 コントロールタワーの向こう側から差す太陽光が、多くの隙間を通していくつもの光の線条を作り出し、ホームストレートまで伸びている。自然と造形物が織りなす美しい光景は、時と共に刻々と姿を変えていきマリは目を奪われる。その目線を追いナイジも振り返る。
「なんだか写真にでも残しておきたいぐらいキレイな風景だな。こんな時間にスタンドにいたの初めてだから。でもこうして時の流れを記憶に残せたほうがいいのかな?」
「記憶はよくも悪くも、実際より増幅してくれるから、写真に残さないほうがいいかもね」
 重なったのはそれぞれの想いだけではなく、やわらかな香りがふたりをつなぎあわせていった。


第15章 6

2022-08-21 15:57:01 | 本と雑誌

Cimg3530
R.R

「おい、ナイジ。いつまで寝とるんじゃ。そろそろ起きろや」
 懐かしい声を耳にして覚醒をはじめる。陽の入らない工場内では、照明が落されていれば朝になっても薄暗いままで、まわりの様相もうかがいづらい。
「どこでも寝れるのは変わっとらんのう。器用なやっちゃ」
 ナイジの目覚めはオースチンのシートで迎えた。さすがに座ったままでは長いあいだ眠ることはできず、自分でも無意識のうちに助手席を倒してもぐり込んでいた。
 なんとかできたのはそこまでで、背もたれに体をあずけたままドアを閉めることもせず、それだけを見れば、不気味に飛び出た二本の足に遭遇することになり、殺人現場を思わせる光景だ。
 スルスルと足が引っ込んだかとおもえば、アタマからゆっくりと姿を現す。霞む目を擦ると、コーヒーを入れたマグカップを持つ安ジイの姿が目に入る。久しぶりの対面で、あいかわらずのしわくちゃな顔は表情もなく、きっとそれはあきれた面持ちをしているのであろう。
「アンじい、なんだ、まだ生きてたんだ」
「朝イチにからその言い草か、減らず口も変わらんな。せっかくコーヒーまで淹れたやったのに、やらんぞ」
「年寄りが二杯も飲んだらカラダに悪いから。もらっとくよ」
 手元に引いたマグカップを奪い取るようにして手にすると、ひとくちふたくち流し込み一息ついた。
「あー、うめえや。アンじい、コーヒー淹れる才能もあったんだな」
「ぬかせ、ただの即席だ。近頃は便利になったもんでな。湯さえ入れりゃ、ワシのような老いぼれでも、うまいコーヒーが淹れられる。そんなことよりオマエ、昨日、えらく活躍だったそうだな。ワシのとこまで伝わってきたぞ。まったく、レースに出るなら出るって連絡ぐらいしろや。オマエのオースチンはワシが最後に仕上げた大仕事だ。これでようやく日の目を見ることになった。半分諦めかけとったが、オマエも少しはやる気になったみたいだな」
 両手でマグカップを囲い込み、口につけたまま、しばらくその状態で止まった。コーヒーから上がる湯気が優しく顔をなでていく。やる気になった動機はいろいろあっても、それがよこしまなものでは口に出しづらい。ついつい憎まれ口と、言い訳に終始してして安ジイの訊きたい部分をはぐらかしてしまう。
「なんだよ、サボんないでレースの日ぐらい足を延ばせばいいだろ。年寄りが家にこもってても、いいこと無いぜ。今回は突然だったからさ、オレが不破さんに無理言ったんだ」
「ふん、そうらしいな。しかし、オースチンを壊したのは旨くなかったな。なにやらかしたんだ?」
 そこを言及されると当然想像がついていた。安ジイであっても自分の特異な体験をどこまで理解してもらえるか自信はない。
「やらかした… それはレースの前のことで、走る前に気にはなってたんだ。それなのにとどまることができなかった。コイツには悪いことした。理由や原因は色々あるけど、それはすべて自分が飲み込まれていたからなんだ。サーキットに覆い尽くされた流れの中に。やらかしたことより、オレにはそれがどうにも… 」
 安ジイは深く目を閉じた。多くのシワと一緒になって、どこが目のあったシワなのか探すのが困難なほどだ。
「ふんっ、らしくないのう。オマエはいつだって、そういうものから一歩引いた場所に身を置いとった。何があった? こんな老人を引っ張り出したのは、あながちオースチンを壊しただけの理由だけじゃないはずだ」
 ひとつひとつの出来事が、頭の中で写真がめくられるように映し出される。それらは時の流れとともに、記憶の映像が薄まっていき、やがて彩度を失ってしまのに、忘れたくないものに限って鮮明に残ってしまう。そうなれば、ふるいに掛けられ底に溜まった残滓は、振り返りたくない記憶だけになっていく。
 そんな経験を継続していくことなど誰も望んでいない。ナイジがこの状況から一日も早く脱出しようとしているのは明らかで、安ジイもクルマのことだけでなく、そこにも手を貸してやりたいのは山々だ。
「 …なんだかいろんな人と関わった。この二日間はそれが集中したんだ。暗躍する何者かの的になったみたいに。ある意味それはオレのために用意されていたようでもある。オレがもう行き場がなくなってなんともならなくなっていた時に、それは現れたんだ… 」
 その起因になったのはマリとの遭遇であった。だからこそ引けない想いもある。自分がそこを拠り所にしたのは否めない事実だ。
「いつのまにか危険な領域に入っていると感づいていたけど止められなかった。何者でもなかった自分が、何かに変わろうとした。これが最後のタイミングなのかもしれないって焦ったとこもある」
 誰かに胸の内を聞いて欲しかった。しかしそれが誰でもいいわけではないし、正解や助言なんてものはいらず、ただ聞いてくれるだけでよかった。
 その部分をマリに託すのはお互いに荷が重く、とはいえ安ジイにその役目を担って欲しいと口に出すのも言いづらい。向こうから振ってもらえたことでタガが外れたのか、思いは一気に流出する。
「オレはそんな状況をまったく求めていないわけじゃなかった。もうそろそろ、なんらかの結論を出さなきゃって機をうかがっていた。そうでなきゃ、もう身体の中の澱みがそのまま腐っていくだけだ。自分でも驚いてる。動きはじめたら連鎖反応が起こったみたいに扉が開いていくし、何か行動を起こせば次々と誰かに関わり、誰かが関わってくる。まるでビリヤードのホールショットだ。ひとつの出来事が次の事象を呼び、それが次の展開へつながっていく」
 安ジイの顔を見る。最小限の動きで息をしているその表情は、話しを聞いているのか、いないのか。それでもナイジは構わない。
「そうしてオレは最後にはレースに出て、どうやら多くの人に影響を与え、次の思惑へと乗せられようとしている。不思議じゃないか、オレがもし何かひとつでも別の判断をすれば、例えば、あの土曜の夜、ロータスとやりあわなきゃ、今とは違う世界が進んでいたんだ。オレはあいかわらずリザーブやってて、オースチンもこわれることなく、アンじいと次に合うのは… どうかな、葬式の日とか」
 安ジイは表情も変えず、葬式に来る気あるのかと訊いた。ナイジはどうかなとあいまいに答える。
「例えだよ、例え。だからさ、大なり小なり世の中はそうやって回っていくんだろうけど、自分を中心に振り返っていけば、そういうことになる。他のヤツラからみれば、オレの判断はなんの意味も持たないし、かえって迷惑な関わり合いでしかない。リクさんだって、ここのオヤジだって、安ジイだって、 …そうだろ?」
 安ジイは2ミリほど眉をあげた。孫ほどのナイジに人生を知ったように語られても、それを軽んじたりするつもりはない。それをみてナイジはコーヒーを口にする。昨日からの流れを反芻しながら、翻弄されているちっぽけな自分を披露するのは安ジイだからこそ言えることだ。
「自分がどこかで求めてたんだ。だから、呼び込まれて、迎え入れた。乗っかるつもりはあったけど、飲み込まれちまったのは自分でも意外だった。一線を引いているはずだったのに、そうじゃなかった。結局、オレも、誰かが仕組んだサーキットの歴史の一部に組み込まれるたったひとつのカケラなんだ」
 ナイジの言葉が出きったところで、安ジイの顔の、シワの下の部分から言葉が漏れてきた。
「ナイジよ、現実ってヤツは、ひとつっきりだ。あーしてたら、こーしてたらなんて、ワシぐらいになってから後悔してればいい。すべてには理由があって今につながっている。オマエが判断してきたことは、そうしなければならない理由があり、それ以外は在り得ないはずだ。周りで関わったヤツラだって同じことだ。選択できる道はいくつもあるがたどり着く場所は、誰にだってひとつだけだ」
 安ジイの言葉だけを耳でとらえて、ナイジはマグカップに揺れるコーヒーの表層を見つめていた。安ジイの言うように割り切らなければならないのはわかっていても、いまはまだ素直に認められない。
「せっかく、開けた扉だ、結論を出せ。そして、オマエ自身の行動がサーキットの歴史に刻まれるようになれば、ものの見方も変わってくる。不思議だがいまその手札はオマエの手の中にあるんだ」
「 …そう言われてもな。オレにはなにひとつ実感できていない。次の闘いでそれが実感できるなら、オレにはもうその選択肢以外なにも考えられない。オレの手の中にあるのは手札じゃなくて手詰まりだ」
「ふん、オマエも相当に追い込まれてたんだな。追われるようにあがき出したら、ここまで来たがそこに自分の意思がどれほど関わっていたのか疑心暗鬼だ。オマエは従属されることに対して、過剰に反応しすぎるきらいがあるからな。どこかで根強く植え付けられたのか、もともとがそういうタチなのか知らんが、余り深く考えるのも善し悪しだ。人の業は複雑だ、一面では計り知れん。張り巡らされた無数の意図がからみあって現実を形成していく。オマエもその一部なのは間違いない、もちろんワシもだ、かなりフチの方に追いやられたけどな。今のオマエがなんの干渉も無い日々を過ごそうとするには、その才能がジャマをするだろう。手の内に置いておきたいとする、鼻の効くヤツラが放ってはおかんだろうからな」
「才能って… だからオレは自分の才能なんか信じちゃいないんだよ」
「それでいい。そんな奴は身を亡ぼすだけだ。ただな、人と絡むのが怖いのなら何もするな、そうすれば世間はあっという間にオマエを死人にしてしまう。それはまだ無理なハナシだろう。そう思えば、何かに組み込まれていけばいいだろ」
 丸まった言葉で多く伝えようとする安ジイに、ナイジは抵抗しながらも心は落ち着いていく。必要以上に言葉を補填しなくても会話が成り立つことがさらに口を軽くしていく。
「そうだな、縁側でアンじいの茶飲み友達になるにはまだ早過ぎるし遠慮しとくよ。オレもアンじい以外にかみ合う相手がいないけど… いや、ここのオヤジとは全然かみ合わなかった。それどころか、かなり嫌われっちまった」
「権田か、アイツは一本気で真面目なヤツだからな。もう少し遊び心があってもいいんだが、オマエのようなクソ生意気な若造は相容れんのだろ。しかし、腕は超一流だ、ワシが目をかけて直々に仕込んだんだからな。まあ、後のことはワシが上手いことやっとく。手は出さんが、口は出すのが老人の悪いところだ」
「頼りにしてるよ、アンじい。どのみちオレじゃクルマのこと何の言葉にもできないし、あの人を動かすすべもない」
 安ジイにお礼を言ってすぐにアタマの中は別のことを考えていた。深くアタマを下げたかと思えば、顔を上げ横目で何かを探している。そのまま、しかめっ面になり再びアタマを下げる。
 安ジイは変に焦らせることも無く、ナイジの表情を観察し、心の動きを注意深く読み取って、口が開かれるまで静寂で応えた。何度も開きかけた口から、ようやく空気を震わせ安ジイの耳に伝わってきた。
「あのさ、オレがレースに出たのは、自分のこと以外に、いやそれ以上にもうひとつ理由が… 理由っていうか。オンナなんだけど」
 ナイジが言いあぐねた言葉でも安ジイは微動だにしない。言いづらそうにしているのは未だ自分の中でも整理がついていないからだ。安ジイの眠っているような表情は静かに時を待った。
「アンじい、昨日、アンじいを頼らずにすんだのも、そのコがいたからなんだ。取ってつけたような言い分だけど、突然、ほんとに突然、彼女が現われて、オレはかなり救われたんだ。オレも彼女の言い分が良くわかったし、彼女にも自分のことを話せた。オレの言いたい言葉が吸い取られていったんだ。もう少しで腐蝕してしまうところだったオレは、つい、いい気になって自分の膿を放出していった。そうしてくれるマリを、彼女の善意だと決め付けて… なんだよ、アンじい、笑うなよな」
 照れくさいナイジではあるが続けないわけにはいかない。
「まあ、それで、オレはずいぶんと楽にはなれたんだ。勝手な思い込みなんだろうけど、しょせんはそうやって延命を繰り返していく、彼女に自分の引き鉄を任せたんだ。そうでもしなきゃ、どっちに進めばいいのかわからなかったのも事実だったし。ずるい考えだ、結局、大事なところを人に委ねている」
 口の中の水分が一気になくなり、コーヒーの残りを飲み干す。
「その娘、志藤先生の親戚の娘みたいで、医務室でパートして働いてるんだって。知ってる?」
 最後は照れを隠すつもりか、どうでもいいような情報を継ぎ足していた。安ジイはゆっくりと首を横に振り口元のしわを伸ばした。
「へっ、そりゃよかったな。老人とおるよりオナゴとイチャついとった方がええに決まっとる。男が何かやろうとする唯一無二の理由はオンナだ。オマエもご多分に漏れんと見えて安心したぞ。ワッハッハッ、しかしオマエの言葉を受けるたあ、なかなかのオナゴだな。なるほど、それで、随分と埃も払われたみたいだし。ただクルマに関してはそうはいかんからワシを引きずり込んだな。随分と簡単に使いまわされる身になったもんだ」
「妬くなよ、週末までピッタリ一緒にいてやるからさ」
「たわけ、老体なんじゃから、そんなに働けるか。ほっときゃコキ使おうとするなオマエは。まあいい、それでクルマの何が気になった?」
 そうしてナイジは、やはりレース前の感じた引っかかった感覚について話さなければならないと意を決した。
「さっきも少し言いかけたんだけど、ああ、ここのオヤジさんにも伝えたら、変人でも見るような目でみられて寝言扱いされたけどね。オレ、いつも走る前にさ、オースチンのことを脳内に浮かべてみるんだ。いろいろとね。そうするとあらゆる接地点から今のクルマの状態が伝わってくるんだ」
 安ジイのシワがピックっと動く。ナイジは言葉を止めても安ジイは続けろとばかりにアゴをしゃくる。
「ステアリングから伝わるときもあるし、スロットル、ブレーキやクラッチの場合もある。シフトノブ、シートの奥からだって。あのときはどこからか忘れたけど、リアのデフかドライブシャフトの辺りでほんの少し、引っかかる感じがあった。継続的じゃなかったし。そこで、クルマを出すタイミングになっちゃって。オレもいつも以上に入りこんでたんだ。不破さんに急き立てられ、頭が走るほうに切り替わっていた。それで、そのことを閉じ込めてしまった」
 横目でチラリチラリと、それからの安ジイの反応を確かめながら話していった。最初の反応以外は微動だにしなかった。
「厄介な話しだな。普通なら気付くこともなかったことをオマエは気付いてしまった。そいつはな、結果が出なきゃ、結論は出ないハナシだ。自分以外、誰もまともにとりあっちゃくれねえよ」
 素直にうなずくナイジ。それは安ジイがなんらかの結論を導き出してくれるという信頼感があるからだ。
「なあ、ナイジよ、この歳まで生きてるとな、大概のものは目にしてきた。なにが起きても不思議じゃあない、すべてが現実だった。ワシは人の持つ能力には、突き当たりは無いと思っとる。どうやら、凡人では本当に使える能力の1割も使かっとらんそうだからのう。この奥に秘めた能力ってやつは、繰り返し鍛練していくうちに尋常ではない力を発揮するらしい。そのくせに普段から無意識のうちにやっとることを、ひとつ順序を変えただけで同じことができんようになるからおかしなモンだ。頭で考えようとすることで、多くの経路を伝いその分抵抗が増え、瞬発的な力に変わらんくなるんだろう」
 何度も相づちを打ち、聞き入るナイジ。
「なんかわかるよ、それ。リクさんの電話番号とか回す時なんか、いちいちアタマで考えなくても手が勝手に動くのに、番号を教えてって誰かに言われたとき、数字が出てこなかったんだ。空でダイヤル回す真似して、番号思い出して。そんな感じ?」
「フッ、ややこしい例えだが。まあそんなようなもんだ。自分の持つ能力の最初の熱量を減らすことなく、全身に行き渡らせることができれば、人間の可能性はもっと限りなくなるんだろ。それとは別になるが、オマエもまだまだだったな、自制心が欠落しちょる。危機回避能力がドライバーに取って何よりも優先されるんだ。そこを切り捨てるようじゃあ、その能力も宝の持ち腐れだな。せっかくクルマが教えてくれたのに、それを活かせれなんだとは」
 そう言って嗜める安ジイではあるが、そこまで行きついている能力には舌を巻いていた。自分でも機械の声が聞こえるようになったのは晩年になってからだ。ナイジが出来ている範囲がどれほどまでかは知らないまでも、この若さでは驚異的な能力といっていい。
 日ごろからの反復練習の繰り返し、果敢に攻めることで失敗してもそこから導き出した次なる一手、そして極限まで高めた集中力が身を削ることになろうとも突き詰めていく。そういった学習経験がナイジに他人よりは数段速くその能力を植え付けていったのだろう。
――本人はそれをふつうのことだと思ってやってるだけだろうがな。――


第15章 5

2022-08-14 18:52:05 | 本と雑誌

Cimg3458

R.R
 

 事務所から出かけたところで思い直し、事務机に戻ると、もう一度受話器を取り上げそのまま電話機の上に縦に置く。これでもう邪魔が入ることはない。権力者達のお願いのオンパレードにはほとほとウンザリしていた。
 そうすると権田は事務所を出て、真っ直ぐにナイジの元へ歩を進めた。上目遣いで権田を見つづけるナイジ。その瞳は変に突っ張ったり、大人びたマネをするためだけに権田をけし掛けたとは思えなかった。冷静で澄んだ深い瞳がそこにあった。
 自分が望む目的を遂行するために、未熟ではあるがヤツなりの一途な行動だったのか。そうだとしてもそれをすぐに受け入れて、話しを聞いてやる気にはなれなかった。
 ナイジの前で立ち止まる権田。左手をやけにダランとしているのが気にかかる。手のひらで受けただけのはずで、それほど強い衝撃があったとも思えない。
「みんなどうして今週末にこだわるんだ? そうでなければ、時間に追われる必要はないだろ。別に次のチャンスを見据えれば、オマエだってやりようは幾らでもあるはずだ。オレとつまらん駆け引きする必要もない」
 一度深く目を閉じ、ナイジはどこまで話すべきか考える。
「そうじゃないんだ。すぐ次じゃなきゃダメなんだ。大きな流れが、すべてそこに集結しつつあるのが誰もがわかってる。決められた範囲で結果を出すことでしか何もはじまらないし、終わることもできない。そんなニオイを感じてるんだ。ロータスのヤツだって、不破さんも、それにサーキットの黒幕、マニワだったか? だからみんなそこに照準を合わしてる。アンタだって薄々感じてるはずだろ。これにノラなきゃどうにも落ち着かないってことに。だから尚更なんだろ… 」
 ナイジは大きく肩をおろして息をつく。権田は首を左右に振った。
「ふん、洒落た言葉を使ってりゃ、それなりに大人の世界に首を突っ込んで悦に浸れるつもりか。自分が何でも知ってると言わんばかりだな。オレがマヌケなバックマーカーだと知らしめて、焦らせようという魂胆か?」
 ナイジはこの先、わかり合うことは無いほどの大きな隔たりを権田からかぎとっていた。自分の物言いが悪いのは承知の上でも、このときばかりは歯がゆさが身につまされていた。
「オレはっ! …感じたことを包み込むほど人間が出来てる訳じゃないし、事実を捻じ曲げるほどヒネちゃいない。それに、したいことを誰かの目を伺ってガマンできるほど『それなりの大人』でもない。ただ、それだけなんだ、 …そうだろ?」
 何故そこで自分に賛同を求めてくるのか、権田は笑いそうになるのをこらえる。自分が言っているように確かに物言いは悪く、年配者がそれに賛同すれば自分が折れたと認めなければならない。そんな雰囲気を作ってしまう自分にも納得がいっていないのは御愛嬌というところか。
 安ジイぐらい年が離れていれば、血気盛んな若者の言葉として扱うこともできるのだろう。権田は自分にはまだその器量がなく、相手を立ててまでも事をうまく運ぶ方を選ぶことはできない。
「そんなことは、知らんよ」
 ナイジにそう問われれば、そう返すしかない権田であった。そうであれば自分はもうヤツの手の中であることを認めているようで苦々しかった。
――気に入らねえヤロウだが、レーサーとしての気概だけは買ってやれるがな。――
 そして空白の時間だけが過ぎていった。先に口を開いた方が負けのような雰囲気がそこにはあった。
 ナイジはクルマをドライブすることへの関心はあっても、仕組みや構造には疎く、他のドライバーならそれなりに自分達でカスタマイズしているのに、自分では何もわからないためヘタに手出しもしなかった。
 安ジイが手を掛けたっきり、ロクに整備もしていない状態で、これまで走り続けれたのは、安ジイの初期セッティングのレベルの高さと、クルマの現況を読み取り限界点で走ることができるナイジ。このふたりだからこそなしえた協業でもあった。
 例えどんなクルマであっても、その特性を瞬時に把握し、弱味を消して、強みを活かせる走りができる。走行前にクルマとツナガる、ナイジ独自のセッティング方法がそのドライビングを可能にしていた。
 タイヤを代えてグリップの良くなったオースチンをあっという間に手なずけて、ジュンイチの心配もヨソに、2周目の本ラップで早速、最速タイムを出しかけたことがそれを物語っている。
 それだけに、タイヤを変えたばかりのオースチンの駆動系に負荷をかけて、壊れるまで走り続けてしまったのは、レースに勝つという別のバイアスに自分が飲み込まれてしまっていたと認めざるを得なかった。
「しかし、こんなんなるまでコキ使われて。オマエも災難だったな」
 権田が、オースチンの後部を手でなでて覗き込む。自分の失敗の度合いを検分されていくことに、ナイジは歯がゆい思いだ。つい言い訳のように走る前のあの違和感を、そんな話しはけして権田に受け入れられるはずもないのに口にしてしまった。
「レース前に感じてたのに… いつもやってるんだ。シートに座ってクルマの隅々まで神経を張り巡らせて探っていく。あの時、後ろの方で嫌な感じがあった。微かな痛みの声が伝わってきたんだ… あの時の感じを意識の片隅に残しておけばよかったのに、自分自身が昂ぶっていたし、なんとかなるだろって、甘く考えてもいた。そのタイミングでピットアウトを余儀なくされたことも言い訳に過ぎない。それに、どれだけ準備をしていても、あの状況でスロットルをコントロールできたのか。そう思えば自爆は、ヤツに勝つためにわずかな奇跡に賭けてしまった自分への報いなんだ」
 ナイジと会話を交わすほどに権田の反目は強くなるばかりだ。一度ずれた会話の掛け違いから元の軌道に戻るのは難しいといえた。
 ナイジが何かを伝えたい思いは感じられる。しかし権田にはナイジの話しをまともに取り合うことはできなかった。それを丸ごと飲み込んでしまえば、この若造の特異な能力を認め、自分の仕事を否定することになってしまう。
「オマエ、何を言ってるのか自分でわかってんのか? そういう話しは布団の中でひとりでやってろ。やっぱりあれか、気違いとナントカは紙一重だな」
 ナイジの力量をまだ目にしていない権田は、見てもいない能力を認めるわけにはいかないため、あえて『天才』の方をぼかした。
 ナイジはしばし、押し黙る、言うべき言葉を慎重に模索している。工場に染みついたオイルの匂いに身体が慣れてきたらしく、ようやく気にならなくなっていた。
「ひとりよがりなのはわかってる。それでもアンタなら受け止めてくれるのかもと思った。オレは感じたことをそのまま言葉にすると、その感覚が身体から抜け出てしまうんだ。自分でも不思議と思えることを言えば、誰も信じるはずもなく、かわいそうにその感覚が宙で行き場を失っていく。じゃあどうやってそれを相手に伝えればいい? オレには何も見えていないし、見ることもできない。でも、感じることはできる。何を使えばいいか、どれが使えないのか。そこでは、正しいとか間違っているという判断は何の意味も持たない。だからヤツより速く走ることができるって後押しが欲しいだけなんだ。アンタからその言葉が聞きたいんだ。その自信があるんだろ? これは、皮肉じゃない。そうだろ、不破さんがアンタに頼んだってことは、アンタにはそれだけの能力があるってことだ」
 権田は顔を歪ませる。
「アンタ、アンタって、馴れなれしいんだよ。それに、あいかわらず禅問答のような言葉をならべて、ケムにまこうってハラか。そういったシャレた言葉あそびはヨソでやってくれ。誰も彼もがそんな機知にとんだ会話を好むわけじゃないんだぜ」
 精一杯の厭味を言ったつもりの権田だったが、ナイジは何が気に入らないのかが理解できていない。これまでに経験してきた言葉の壁を再び味わう。
 いままでも言うべき言葉を選んで話すようにしてた。変に理屈を捏ね繰り回すつもりも、言葉で相手をねじ伏せるつもりない。ただ、本心をそのまま言葉であらわそうとすれば、誰もが変わり者だと色眼鏡でみてくる。そして結論的にはを相手を不快な思いにさせてしまう。
 やはり権田にもそれがうまくつたわらない。これまでならそこで線引きをしていたが、今回は簡単に断ち切るわけにはいかなかった。戦うための手段は少しでも持ち手に加えておきたい。それなのに、喘げば、喘ぐほど泥沼にはまっていくようで簡単には次の言葉が出てこない。
 なぜかマリには自分の気持ちを10言わなくてもそれ以上に理解してくれる。あの言葉のやり取りに随分助けられ、楽になっていたところが今は裏目に出ている。
 だんだんと痛々しい表情に変わっていくナイジに、権田も気勢がそがれていった。この若者が多くの大人の気持ちを捉え、勝ち馬に乗ろうという思惑を背負わされているのかと思えば、少しは不憫にも感じられる。
 権田は、もはや、なんでもいいから、仕事に取り掛かるキッカケだけが欲しかった。
「まったくよ、大人びてんだか、成長しきれてないのかよくわからんヤツだ。オマエだってオレと不毛な言葉のやり取りしたってしかたないとわかったろ」
 ナイジはしばらく体を動かさずに権田を斜に見ていた。そして絞り出すように一言を発した。
「オレにチカラを貸して欲しい… 」そう言って少しアタマを下げた。それがナイジにできる精一杯であった。
 権田はカラダが痺れる感覚を抑え込むようにアタマを振って、そんなナイジを押しのけるとオースチンのドアを開き、ボンネットのロックを外す、軽く浮き上がったボンネットとボディーの隙間に手を入れ、エンジンルームを開く。
 つい立になる治具でボンネットカバーを固定し、大腿部にあるポケットからペンライトを取り出すと口に咥え、内部を繁々と見回しはじめた。
 軍手を外した両手でエンジンルームにある機器をひとつひとつチェックしていく。当然のようにヒーターが外されており、剥き出しになったエンジン周辺は綺麗に経年劣化している。
――なるほどな、そうゆうことか、外観からは考えられないほど、きれいに消耗しているな。意識してそうしたわけじゃないだろが、正しくクルマをドライブしたことで、自然とこうなった。もしくは、ヤツのドライビングスタイルが元々クルマに優しい走りだということか。――
 権田は腰を立て、両手を組んだ。ナイジはあごを引いたまま権田の動きを眺めていた。
「何か、気になるとこがあるのか?」
「いいや、別に。ただ、こんなもんだろうと。なあ、オレは依頼された仕事は手抜かりなくやる。オマエがもし、プラスアルファを望むのなら、つまりゼロスタートからのアドバンテージが欲しいなら、それはオマエの領分だろ。オレが手をかけるにはやれる範囲ってモンがある、オマエは気に入らんだろうが、時間との兼ね合いってやつだ。ひとにそれだけ意見するんなら、少しは自分で汗かいてみろ」
 ナイジはキツネにつままれたかの如く、キョトンとする。
「オレが? オレにできることがあるのか?」
 呆れたとばかりの権田は肩をすくめる。
「あのな、クルマの内部なんて基本的にそれほどたいしたモンじゃない、しょせん金属が組み合わさって駆動につなげているだけだ。加速を良くするには、そう、駆動を邪魔する抵抗を徹底的に少なくする、その小さな積み重ねをおろそかにしなきゃ、最後のひと伸びが変わってくるだろう。天からのおすそ分けってやつだ」
 ナイジは鼻を掻いた「似合ってないけど」。
 権田はムッとしながらも「オマエに合わせてみただけだ… いいか、エンジンを降ろすぞ、手伝え」。
 手際よく天井から吊り下げられたクレーンを引っ張ってくると、エンジンをくくり付ける。ドライバーなどの工具がサイズ別に並べられたトレイをエンジンの上に置いて、一つ一つ接続部分を取り外していきナイジに手渡すとそれをパンの上にボルト・ナット・ワッシャーなどの治具を整然と並べていく。
 ナイジは初めて見る光景ではあるが、それがかなりのスピードで行われていると容易に想像がついた。ひとつの無駄もない動作、的確な工具を選び、錆付いたり、山の欠けたネジを魔法でもかけたかのようにあっというまに外していく。
 ナイジにクレーンを曳かせエンジンを持ち上げる。権田は接続部分を丁寧に切り離し無理が無いかを確認しながら接続部分をパージしていく。
 持ち上がったエンジンをベンチの上に移し固定するとエンジンヘッドをはずす作業にとりかかった、中からクランク・シャフト・シリンダーヘッドを取り出しバットの上に並べる、最後にカーボンがこべりついたチャンピオン製のプラグを外した。
「このウエスを使って、汚れを落すんだ。どこまでやるかはいちいち言わない、オマエが納得するまでやればいい。軍手は使うなよ、素手でやるんだ、糸くずが付着する。ただし、手を切らんように気をつけろ。オレは仕事の続きをやらなきゃならんから、もう邪魔するな」
 ナイジにウエスを手渡すとイタリア車に向かってしまった。しばしウエスを手に状況の把握に努める。とりあえず汚れが一番少ないシャフトを手にして汚れを拭ってみた。しかし、思ったとおり簡単には汚れは落ちない。転がっていた空き箱を持ってきて椅子代わりに腰掛けて、ウエスのきれいな部分を使って何度も拭うと多少は汚れも落ちてきた。
 しばらくの間は身体が無意識のうちでも一連の動作を繰り返すことができたが、腰掛けたことで疲れが一気に押し寄せ脳内の血流は鈍り、しだいに意識が遠くなっていく。
 その中で昨日からの出来事が何の連続性も持たずコマ送りされていくのは、脳が勝手に記憶を整理したがっているからなのだろうか。
 フラッシュバックする映像に吸い込まれていくと、気付かないうちに目は閉じられ何度も頭が落下する。その内に脳が機能の停止を求め、身体は行動を拒否しはじめる。
 壊れて動かなくなった細胞は排除され、その空間を埋めるように再び生まれいずる細胞は、今日の経験を含んだ新芽として力強く頭をもたげる。再生に取り掛かる身体が余分な熱量を使うことを拒み、ナイジの意識は遮断された、同時に左手に握られたシャフトは静かに地面に横たわった。
 深く前のめりになり、動かなくなったナイジを目にすると、権田はゆっくりと側へ近づいてきた「おい」と一言声を掛けるが、何の反応も示さない。
「まったく、どういう神経してるんだよ、すぐ寝ちまうとは」
 横たわったシャフトを手にし、あらためて見回してみる。汚れは取りきれていないことを確認しつつ、やはり接触部分がきれいに均一に磨耗しているところに目がいってしまう。
「どうした」
 一瞬驚きをもって、声の方に目をやった。そこに不破の姿を捉えると硬直が消えた。
「早かったですね。よっぽどお気に入りのようだ。そのボウヤはオヤスミ中ですよ」
「ああん、そのようだな、あいかわらずたいしたタマだ。オマエとやりあったっんだろ。言いつけられた作業してる中に寝ちまうとはな、それとも単なる無神経か。ハッハッハッ。どっちでもいいか、そんなこと」
「不破さん見てください、このシャフト、まあ他の部分もそうなんですけどね」
 シャフトを手渡すと不破も一瞥する。
「なんだ、悪くないじゃないか。もっと、酷でえのかと。10年オチだろ、上手いこと乗ってるな。ってか、これで、レースしてたんだろ。いや、たしかに、そんなには走ってねえけどよ。それでも、これはなあ… たしか、2年前に安ジイがオーバーホールして、それが最後の大仕事だったよな。去年の点検はそれほど手を入れてないはずだ。そうはいってもな」
「たしかに、安ジイとは気が合いそうですね、整備に手間を掛けさせない、楽させてくれるドライバーですよ。本人が意識しているのかどうかはわかりませんけど、この状態でここまでこれたのは奇跡的ですがね。そんなこと言ったらますますハナが高くなる。 …さっき本人が妄想みたいなこと言ってましたよ、運転席からクルマの不具合を見つけ出すことができる… みたいなことをね。オレはそんな与太話は信じちゃいないですけど」
「ナイジがか?」そこで、不破は大きな溜め息をついた「はあーっ、 …オレは昔、同じ事を言われたことがある」。
「えっ、不破さんが? 誰にですか?」
「出走前に突然言い出すんだ、右のリアに引っかかってるのがあるから取ってくれって、覗き込んだら、ネコが飛び出してきやがった、ネコにも驚いたけど、それを言い当てたことの方がよほど腰を抜かしたぜ。誰だと思う、 …そう、舘石さんの、最後の出走前のことだ」
 権田は胸のポケットを探りはじめた。半分以上がクシャクシャになっているラッキーストライクをようやく手にとる。その中から拠れた煙草を口に咥え、先程の事務室の中での光景を再現するようにマッチの在りかを探しポケットを一巡し手を突っ込む。そうして最後に胸ポケットにあるマッチを取り出して風を避けながら火をつけた。
「不破さんは、コイツが舘石さんと同レベルだと?」
「さあな、そこまではわからん。次にオマエが手にかけたクルマで走ればわかるかもな。オレもオマエも」
 大きく吸い込んだ煙を一気に吐き出す権田「だから、仕事しろと?」。
「どうとるかはオマエさん次第だ。勘違いするな、舘石さんの話しを持ち出したのはそのためじゃない、オマエがいまのことを言いださなきゃ、思い出しもしなかったことだ。ああ、馬庭さんからな、タイヤ、預かってきた。履かせろとよ。新品だが、丁寧に慣らしてあって状態もいい。これだけでも充分新戦力になる。それに合わせてセッティングもして欲しい。変なところに過重が加わらんようにな。悪いが面倒見てくれや」
「わかってますよ、もう、腹決めましたから。それより、コイツどうします?」
「夏だからな、カゼひくことも無いだろ、でも、まあ、羽織るもんぐらいは掛けといてやるか」
 権田は、事務所のロッカーからいつも自分が使っている仮眠用のシーツを取り出してきて、座った状態で両膝の上に伏せているナイジに掛けてやった。
 自分はこの若者に嫉妬心を持っているのだ。自分が持ちえない能力、そして多分、自分が手を加えた仕事を超越しクルマを乗りこなしてしまうであろうこのオトコに、技術屋としてのプライドが余りにもはかなく打ち砕かれることを予感していた。


第15章 4

2022-08-13 07:09:09 | 本と雑誌

Cimg3472

R.R
 ナイジがサーキットの裏にある修理工場に着いたのは午後の9時を回っていた。ホームストレートで別れたきりのオースチンに大きな外傷は見当たらず、工場内の天井から吊り下げられたオレンジ色の電球に照らされ、静かに回復の時を待っていた。
 静まり返った工場内に足を踏み入れ、オースチンの前に立ち止まったその時、不意に右肩をつかまれ、そのまま身体を硬直させた。
「なにしてる」
 灰味だったはずのツナギは油とホコリにまみれ、灰色の濃さを増している。同じような色をした軍手がナイジの右肩を抑えたままだ。ナイジは目線だけを男の姿に向ける。その男はナイジを睨みつけていた。
「そうか、オマエ、あのクルマのドライバーか? ずいぶんと… 」
 そこで言葉を止めたのは、いま感じたことを直接的に口にして、会話を続けることに危険がよぎったからだ。突き放すようにして手を離し、他のクルマに寄って行く。
 ナイジはそのおかけで少しよろめくことになった。ふらついてしまうほどの力が加わったわけでもないのに、二日続けて酷使した身体は思ったよりも疲弊がはげしく、その代償として通常の平衡感覚も保つのが難しかった。
 今朝、新たに再生したばかりの細胞は、まだ定着されないまま、すぐに破壊されてしまった。不安定な状態の身体で果たして、次の細胞が萌芽をはじめるのはいつになるのか、これまでこれほど無理を強いたことがなく想像がつかない。
 ナイジは弱った身体を悟られまいと、顔をしかめながらもすぐさま体を立て直す。ただ、この場から動くことははばかられ、その男の次の行動、もしくは言動を待つしかなかった。
 男はわざと見せつけるようにそうしているのか、オースチンには目もくれず、先に修理に入っていたと思われるイタリアの小型車に手を掛けはじめた。
 最初の接触以後はナイジの存在など無かった様な振る舞いで、ナイジの気持ちをいたぶるように作業は続けられ、しばらくのあいだ工場内には金属の擦れる音だけが鳴りつづいた。
 ナイジは自分が焦らされているのか、それとも試されているのかと考えた。それがどちらであっても、いつまでもこうしているわけにはいかない。時間が経てば経つだけ、打つ手の選択肢とともに自分の価値観も消えていく。完全に存在を消失させられる前に行動に移す必要があった。
 それがその流れで行きついたナイジの行動だとしたら、あの男にとっては想定外の成り行きといえ、まさに自ら招いてしまった失敗であった。
 踏み込んだ足に地面の砂と一体化した金属紛や油砂の音が軋み、動きの少ない空気中に乾燥した粒子が舞い上がると、オレンジ色の灯りの中で乱反射してふたたび地表へ落下していく。
 オースチンの前で振り返ると、以外にもその男は作業を止めて立ち上がりナイジの方を見ていた。右手に持ったレンチが鋭く光っているのが一種の狂気を含んでいるのは出来過ぎであった。それがナイジの行動を止める要因にはならなかった。
「オレ、次の週末、このクルマを走らせなきゃならない。だから、すこしでも早く直して欲しい。それに… 」
 『カーン』と、乾いた金属音が響いた。近くにあるパイプ椅子をレンチがかすめる。こみ上げる怒りを音とともに分散させなければ、平常な気持ちで話しをすることも難しいとでもいいたげに。
「もう止めな。オマエが何を言おうが、どんな望みがあろうがオレの範疇じゃない。仕事は受けた、不破さんから話しは聞いている。受けた仕事だから約束通り仕上げさせてもらうがそこまでだ。それ以上、どうのこうの言われる筋合いはない。オマエがこのクルマの所有者だとしてもな。わかったら帰ってくれ。この時間まで仕事があるぐらい立て込んでるんだ。邪魔されると仕事が進まん。そうなれば… アタマの悪いガキだってわかるだろ」
 それだけ言うと再び作業に取り掛かりはじめた。あのクルマは不破どころか社長の馬庭からも直々に連絡があった。唯でさえ、急ぎでやるように言われたことで、自尊心をないがしろにされ、不満を感じていたところへ本人の登場。しかもそれが、まだヒヨっ子にしか見えない、ひねくれた若造に生意気な口のきき方をされれば、なおのこと苛立ちが増幅していく。
「オレ、勝ちたいんだ。あのロータスのヤツに。勝つことになんの価値があるかなんていまはわかんない。 …最初のコーナーまでに頭を取りたい。だからいろいろ試しておきたい。それには時間がないんだ。クルマを直したって性能が今より上がる訳じゃない。その部分でドライバーにできることはごく僅かだろ。 …クルマをイジッてるなら、バカでもわかるだろ」
 ナイジは真剣な目つきで男を見据えていた。あきらかに何らかの意図を持って、男を怒らせようともかまわない決意が見て取れる。
 男は深く目をつむり、大きく深呼吸をした。優しくいってわからないなら、身体に教えてやろうかとも考えた。しかし、それでは若造の仕掛けにはまってしまう。
「オマエな、さっきオレが言ったこと… 」
「できないのか? もう安ジイはもう仕事してないし、アンタがやるきがないなら、他当たるよ」
 変に自分を抑えていたため、その反動は予想以上になっていった。もはや思考を飛ばして身体が動いていた。
「なんだと! キサマ! 何言いやがったっ!!」
 濃灰色のツナギがナイジに迫ってくる。微動だにしないその体躯めがけて、大きく振り下ろされるレンチ。しかし、大袈裟なその動きは見切っていた。すると、もう一方の左の拳がナイジの腹部をめがける。すんでのところでナイジの左手がそれを阻み、それが痛めた左手に更なるダメージを積み重ねた。
「ちっ。コイツどこまで… 」思わず悪態が口をつく。
 ナイジの読みではさすがにレンチで人は殴らないと踏んでいた。それをエサにして腹を狙ってくるとも予測していた。腹に入れようとしたのはその方が意識を保ったまま痛みが長引くからだ。興奮したように見せかけても手加減はしていたようで、かろうじて防御することはできた。
 そのままの勢いを持ってふたりは身体をぶつけ合った。ナイジは、すかさず、その男の手首をつかみ身体を密着させ耳元に顔を寄せる。
「こうでもしないとさ、話しも聞いてもらえそうになかったから。オレのこと嫌いでかまわない。でも、オレはどうしても勝ちたいし、そのための時間がないのは事実だ。ソッチにその時間が持てないのなら、お互い無駄を浪費するようなことは止めたほうがいいだろ。ハナッから『誰かに頼まれたからって時間通りに仕事やります』なんて思ってないだろうし。それが、特に服従を強いられる相手なら尚更だろ」
 充血した男の目がナイジを見据える。その時、工場内の事務所から電話のベルが鳴り始めた。男はナイジを見すえながらも電話を放っておくわけにもいかず、目と意識をそちらにもっていかれた。
 ナイジは身体を離し、事務所の方に目を向け、出ないのかとばかりに首をひねる。男は苦々しい顔でナイジに一瞥をくれてから事務所の方へ向かって行く。
 男にとってはとんだ失態となってしまった。ヘタに冷静に対処しようとしたばかりに、かえって無様な姿をさらし、腹を探られるような言葉を浴びることになった。頭に昇った血が治まらないまま取った電話にきつく出てしまう。
「権田だ!」
「なんだ、なんだ。権田。機嫌悪そうだな。仕事中だったか、何度も電話してすまんな」
 相手は、不破だった。
「あっ、不破さん。なんですかあの若造は、てんで口の聞き方も知らない。コッチが仕事中なのに、自分のを先に直せだの、スタートで前に出せとか、あげくにできなきゃ他持ってくなんてほざきやがる。上等ですよ、勝手に自分で探すといい。不破さん、悪いけどこの仕事降ろさせてもらいますよ。不破さんに頼まれようが、馬庭社長に言われようが… 」
 本心ではないにしろ、少しは文句を言って、自分の不満を晴らさなければ気がすまなかった。
「なんだい、馬庭さんからも連絡あったのか? あっ、いやいや、そんなことより、ナイジのヤツもう着いてたのか。いやな、オースチンのドライバーが行くからよろしく頼むって、連絡入れようとしたとこなんだが。アイツもよっぽど心配だと見えるな。いやいや、これが、見ての通り変わりモンでよ、オマエが頭に血ィ昇らないように前もって伝えとこうとしたんだが。どうも、間に合わなかったようだな。それにしてもなあ、ストレートでアタマ取らせろとは、ずいぶんな注文つけてくるもんだ。で、どうだ、できそうなのか?」
 怒りの矛先を背けようと、クルマの話しに持っていく。いくら頭に来ていても、そこは職人肌の気質があるため、どうクルマをイジればどうなるかは常に考えているし、安ジイが仕上げたクルマに興味がないわけがなかった。
「そりゃ、まあ、まだ、運ばれたままで、中まで見てないからなんとも言えないですが。クラッチ板を換装してレスポンスを上げて、エンジンの内部磨いて、後は駆動関係の抵抗を最小限まで抑えて、無駄に空転しないように喰い付きのいいタイヤを用意して… いや、いや、そうじゃないくて、オレはもう、やらないって… 」
 不破の思い通りにはならなかったが、まったく脈がないわけでもなさそうだ。
「なあ、権田、聞いてくれ。ヤツに問題があるのはオレも重々承知してる。そのことでオマエに迷惑かけたならあやまる、オレが変わりに謝るから。いや、たぶん、そういうオレの態度もオマエは気に入らないんだろうが、それでもな、ヤツに走らせたいんだ。ロータスと真剣勝負させたい。これは何もオレひとりの欲望じゃない、今日、レースを見に来た誰もが、そんな想いを持ってるんだよ。でなきゃ、馬庭さんがいちいち電話してくるはずもない。そうだろ」
 権田は、馬庭を出されると辛らかった。だからこそ不破もそれを切り札にはしたくなかった。大企業の修理工場でくすぶっていた権田に、安ジイの工場を紹介したのは馬庭だった。安ジイの目にかかり修行を積んであとをつぐことができた。
「オマエはレース見てないからピンとこねえだろうが。5年振りに舘石さんのコースレコードが破られたんだ。そのロータスの男に、 …ああ、そいつが出臼が連れてきたヨソモンだ。ウチらのツアーズで唯一、そのロータスと互角に渡り合って、第3計測所では最速ラップを出しやがった。最終コーナーでデフかシャフトが… たぶんドライブシャフトだろうけど、壊れなきゃロータスのタイムを上回ったかもしれないんだ。いや、間違いなく削れたろ。あの、最終コーナーの抜け出しは、見た目にわかるぐらいにスピードがのっていた。今日初めて走るコースでその中の誰よりも速く走っちまいやがったんだよ、アイツは、突然にだ。いいか、驚くのはそれだけじゃねえ、クルマを、オースチンをよく見ればオマエも腰抜かすぞ、タイヤは中ブル、エンジンだって、駆動系だってそのまんまドノーマルだ、そりゃそうだろ、安ジイの仕上げたクルマだからな。おまえだって知ってるはずだ」
 安ジイが過度なチューニングアップを好まず、クルマの特性を活かすセッティングを優先する。リクオに連れられてフラっと訪れたナイジは、多くのクルマが置かれたバックヤードからこのオースチンを選んだ。それは安ジイが、アタリの車体であると目をつけ、ひそかに手を入れていたクルマであった。
「今までずっとリザーブで、本戦に一度も出たことがないヤツがな。それが今回、走りたいって言うから試してみたらよ、とんでもない走りしやがって。それに走ったすぐ後に、自分の走行状況を語りだして、その通り走ったら一体何秒出してたんだって、みんな呆れてたぐらいだ。まあ、口でいうように全てがうまくいくわけはないが。でもな、ヤツの走りにオマエの手が加われば、見るものを魅了する最高の走りができるとオレは信じてる。それがわかってて何の手も打たないわけにはいかないだろ」
 一気にそこまで話したのは、権田に口を挟む隙を与えたくなかったからだ。はたして、いま言ったことが、どれだけ耳に届いているか不破は不安のままだ。
 権田は、技術屋としてドライバーの望むクルマを作りこんでいき、実際に走らせてぐうの音も出させない、完璧なセッティングでドライバーを唸らせるのが何よりのやりがいであり、打てば響くような走りをするドライバーを好んでいた。
 一度なりともナイジとそのような経験があればと不破は悔やんだ。そうすれば権田もナイジのことを認めるだろうと。なににしろ、権田の首を縦に振らせる理由はいくつあっても多すぎることはない。たたみかけるようにして続けた。
「それによ、どうやら、ロータスのヤツ三味線引いてたらしくってな。ヤツも、もう2~3秒は現状で詰められるらしい。添加剤入りの胡散臭いオイル使ってるって話しも耳にした。そのオイルメーカーが後ろだてして、出臼とよろしくやってるってことだ。このままヤツラのいいようにされるのもどうにも収まらねえしな。どうだい、力かしてくれねえか」
 不破の説得が功を奏したと思われるのは癪だが、トップタイムと遜色のない走りをしたあの若造が、いったいこのクルマに何を求め、どういじってやればどれぐらいの走りをするのかは興味がある。それはクルマをいじる者にとっての偽らざる本能だ。
 しかし、このまますんなりとあの若造の前でオースチンに手を出せば、現状では屈服を意味し、今のままではどうしても受け入れることができそうにない。
 悶々としている権田の心を読み不破は、なんとか気持ちを入れさせようと泣き落としにかかる。馬庭社長に逆らって本気で仕事を断るとは思えないが、いい仕事をしてもらうためにも、お互い納得できる着地点を見つける必要はある。
「なあ、頼むよ、権田。オマエの腕に勝るヤツをオレは知らない。安ジイにイチから叩き込まれたその技能は、そこらの修理屋とは訳が違う。ロータスとやりあうためにはオマエの力が必要ないんだ… いいや、キレイごと言うのはよそう。本音を言っちまえば、多分、ナイジこそ、オレの立場を救う最後の切り札なんだ。オレが今の立場を覆すことができる、これが最後のチャンスかもしれない。どうやら、それは馬庭さんも同じらしいんだ。やけに、からんでくから気にはなっていたんだがな。あの人も、それなりにラクじゃないってことだ。とんだ下世話な話しでオマエには関係ないことだがな、それだけ、オレは… オレたちがアイツに真剣に賭てるって事はわかってくれ。オレも今からソッチへ向かう。ナイジにはもうゴタゴタ言わせねえから、ここはひとつオレに預けて、クルマの面倒を見てくれ。な、頼んだぞ。馬庭さんからの頼まれたモノも持ってくから。癇癪、起こすんじゃないぞ」
 そこまで言うと、勝手に電話を切ってしまった。中途半端な状態で放置されたままの、権田は受話器を何度も見直し、しかしそのままにしていても埒があかないので、放り投げるようにして受話器を戻すと安っぽい音を立て納まった。
 胸ポケットからラッキーストライクを取り出し、口に咥え、ズボンのポケットを一通りまさぐったあと、最後に別の胸ポケットに入っていたマッチにようやくたどり着き火を点けた。
 一気に紫の煙が事務所内に広がり、モヤの向こうにはオースチンにもたれかかり、権田が戻るのを待っているナイジの線の細い影が見える。
 次はどんな手で自分を揺さぶろうと考えているのか想像すると、すこし笑ってしまう。権田は自分自身が望まないうちに、いつのまにか回りはじめた渦の中に取り込まれていることを感じていた。
 不破の話を聞き、オースチンもさることながら、そこまで言わしめるあの若造にも関心がでてきたのは確かだ。手段のために自分をも翻弄しようとした言動は、そう捉えれば確かに若いわりにはなかなかのやり手ともいえる。
 ただ、それが鼻に付くのはいかんともしがたい。数回吸っただけの煙草を、点火部分だけ丁寧に揉み消しすと灰皿の溝に横たえる。


第15章 3

2022-07-31 09:33:59 | 本と雑誌

Cimg3450

R.R

「 …ス、ボス。もうすぐ着きやすぜ」
 八起に促され目を覚ませば、マセラッティはサーキットまでの最後の傾斜を登っているところだった。
「ボス、だいぶお疲れのようですね。近頃、よく、うなされてますぜ。さっきのひでえ夕立のせいかもしれませんがね。ええ、あたりが暗くなったかと思ったら、案の定、あっというまに降ってきやがった。どうでしょう、30分ぐらいは降ってたんじゃないですかね。天井を叩く音もかなり、けたたましかったんですが… 気付かれなかったってことは、そりゃ、よほど悪い夢にでも引き込まれてたんでしょう」
 気を遣ってくれる八起の言葉を耳にし、目を覚まそうとしても、なお頭を持ち上げることは困難だった。
 八起に云われるまでもなく疲れが蓄積し続けているのは間違いなく、それと関係があるのか、昔を思い出すことが増えていた。
 自分がいま、成し遂げようとすることは当然として過去からつながっており、無意識の内に回顧するのは当たり前のことなのかもしれない。未来を進めるにあたり、過去への思いを断ち切ろうとする心情が、逆に多くのあやまちを思い起こすことになる。
「なあ、八起。服屋が多くの服を持っている客にさらに服を買わせるには、どうしたらいいと思う」
「はあ? やめてくださいよ、アッシに小難しいハナシは無理ですぜ。とは言え、ボスの口ぶりには興味を惹かれますがね」
 突然、何を言い出すかのかと面喰いながらも馬庭のことを思えば、ここは聞き役に回る必要があると判断した。八起だからこそ言える話もある。
「難しく考える必要はない。答えは簡単で、膨れ上がったポケットには何も入らないってことだ」
「はあ、アッシにはとても簡単に聞こえませんが、問答ですかい?」
 馬庭は鼻から息をこぼして続ける。
「問答なんてものではなく単純な論理だ。いっぱいになったポケットにモノを入れるには、今入っているモノを外に出さなければいけいない。それで言えば、お客にいま持っている服を捨てさせる。つまり、押入れやタンスに仕舞いこんで着なくなった服を捨てさせなければ、客の置かれた精神状態では新しい服を買おうとはしないということだ」
「へえ、でも、どうやって捨てさせるんです。いちいち客の家に行って、これはいらないだの、着れないから捨てろだの、お節介やくんですかい」
 八起はウインカーを左に当てて、サーキットの入場門をくぐる。警備員の一礼に右手を挙げて応える。
「ふふ、それじゃ経費過多で儲けが出ん。それに、他人からああだこうだ言われれば逆に拒絶するのが人というものだろう。対処策はとすれば手持ちの不要となった服を安く買い上げる。もしくは店まで持ってきてもらえれば、代わりに処分するというサービスを行う。これは、実は服屋に喚起されながらも、自分で判断を下している錯覚におちいるため抵抗なく実行してしまう」
「へえ、なるほど、ボス、次は服屋にでも転身するつもりですかい?」
 馬庭はぐるりと首を回して口角をあげる。
「それもいいが、これは金額の差こそあれ、クルマの話でもあるんだ。八起、いいか、我が国もやがて豊かになり、そのうちひとりに一台クルマを手にするようになるだろう。今の主要客である男性客が飽和すれば、次は女性や老人といった新しい購買層に目を向け、それにあわせたクルマが必要とされる。重いハンドル・アクセルにブレーキ、面倒なミッション車なんてものは選択肢から外される。そして、最後には手足も使わず考えるだけで、クルマが勝手に動くようになる。まあ、それはまだ先になるだろうが… 」
「はあ、手足を使わずにですか」漫画の一場面を想像する八起には現実的ではなかったらしい。
「極論だがな。横道にそれてしまったが。では、一通りにクルマが行き渡ったら、次にクルマを売るにはどうする? 今のクルマを手放さない限り、ほとんどの人は新しいクルマを買わないだろ?」
「そりゃ、そうですね。よほどの金持ちじゃなきゃ、ひとりで2台も3台もクルマを持つことはできねえですし。じゃあ、クルマを安く買い上げるなり、処分するなりして次々と新しいのに買い換えさせるってことですかい。それこそ服じゃあるまいし、いうほどうまくいくとは思えませんが」
 マセラッティは地下駐車場への下りのスロープに進入する、ヘタな運転なら嫌な浮遊感が身体に伝わるものだが、八起はクルマのノーズが下がったことを、まったく感じさせず走らせる。
 クルマを駐車位置に停止しても、馬庭は降りようともせず会話を続ける。
「ふつうはそう考えるだろうな。だが、常識というヤツは必ずしも、いつまで経っても常識では在り続けんのだ。同じような毎日を過ごしているつもりでも、そいつは少しづつ変化していく。そして、いつのまにか世界は変わってしまい、昔からそうしていたかのように受け入れられていく。気付かないんだ、誰も、キサマも、わたしも」
 馬庭はここでこめかみを手で抑えた。話しを進めさせていいものか八起は戸惑っていた。そうではあるか馬庭を止めさせる言葉は見つからない。
「時代の潮流は作り出すことができる。望む者の力が強ければ余計にその傾向は強まってくる。どこかの強国のように、政府が国の成長戦略を後押しするならば、買い換えざるを得ない状況を意図的につくることも可能なのさ。まだ乗れる、愛着がある。そういった情緒的なものと、便益と世間の動向ををハカリにかけて、無くしちゃいけない大切なものを失っていく。最初は負い目も感じるだろうが、そのうちに麻痺して、やがては消費こそが美徳と割り切ることができる」
「そんな、もんですか。アッシなんざ、このクルマを懇切丁寧に乗って、一生連れそうつもりでいるんですがね。ボスが買ってくれた大切なクルマだ、もう、車体の隅々まで知り尽くして、自分と一体になってる気がするほど、あ・うんの呼吸で動いてくれる。それを乗り換えて、じゃあ次って気持ちには、ほとほとなれませんがね」
 あきれ返って言う八起に、馬庭は自嘲気味に、そして声のトーンを落として搾り出すように話しはじめた。八起は馬庭のその独白に心音が高鳴った。
「そう、そんな馬鹿野郎が、そのまま、これまでのわたしの人生だった。手の内にあるモノを捨てるということは不安との戦いだ。だが、捨てなければ新しい能力を手にすることはできず、今度は手に入れられない不安と戦うことになる。一度、捨ててしまえば次々と新しい能力を手にするために、同じことを惰性のように続けていく。大切な何かが身から削ぎ落とされていくのがわかっていても、もう止められない。実は手にした能力なんてモノは、無くした大切なものに比べれば、なんの価値もないってことを、自分でもわかっているのに。一度、転がりだした坂では、もう誰も止めることはできないんだ」
「 ……」
 八起は、もはや言葉を閉ざすしかなかった。馬庭が見た悪夢の正体がおぼろげに見えてきた。おいそれと自分から言葉をかけることはためらわれ、馬庭から言葉にして吐き出せることができるなら、少しは好転するではと甘い期待をするが、悪い流れを断ち切るのはやはり、この女性しかいなかった。
 地下駐車場に降りる階段の陰から、レイナが顔を見せると辺りを窺うため顔を左右に振る。馬庭が到着したはずなのにいつまでたっても社長室に戻ってこないので、心配になって様子を見に来たのだ。
 マセラッティの陰影を見つけると、不安げな表情のまま、すぐさま小走りに駆け寄ってくる。スタイルの良い体躯は大きく揺れ、胸が波打っても気に止める余裕もないのは、すこしでも早く馬庭の様子を確かめたいからなのか。そんなレイナの純真な姿は八起には眩しすぎて、とても正視することができず目をそらした。
 急ぐように焦るように、マセラッティのドアがレイナの手をかけるので、あわてて八起がロックを外す。開かれたドアのすぐそばで、馬庭は鉛のように重くなった身体を懸命に持ち上げて、なんとか車外に出た。
 レイナに心配をかけないよう何事もなく立ち振る舞う馬庭に、その姿に無理を感じたレイナはすぐさま手を回し、馬庭を支える。
「大丈夫ですか、社長。私の前では無理なさることはありません。よろしければ、志藤先生に診ていただいてはいかがでしょうか」
 すかさず運転席から回り込んできた八起も、反対側から馬庭を支える。これほど弱々しい姿の割に、やけに体重が重く感じられる。それは、自分で身体を支えきれていないなによりの証拠であった。しかし、馬庭はそこでスッと背を伸ばし、両手でふたりを遮ると息を吐き出し再度、身体に活力を取り戻した。
「心配掛けた。だが、大丈夫だ。何がまずかったかは自分でもわかっている。ただ、志藤先生には診てもらうよ。玲那さん、10分後に行くから、話しをつけておいてくれないか。そうしなければ玲那さんが安心できなさそうだ。八起もな。あぁ、八起、今日は早めに仕事を切り上げるから、このままクルマは待機しておいてくれ。一度、仕事場にもどるよ」
 そう言い残し執務室に戻る専用エレベーターに向かっていった。レイナは八起に一礼すると医務室への通路に足を向けた。
「あっ、玲那女史… さん」
 思いもよらず八起に呼び止められ、驚きと共に振り返る。紺のジャケットに、白いスカートの裾がふわりと広がる。均整のとれた体型は、美術品の女性像でも見ているほどで、目を潤わせてくれる。
「はい?」
「ああ、すんません、急に呼び止めちまって。アッシがしっかりしてないもんだから、ボスを気遣うことができません。運転するぐらいしか能がなくて。もっとボスの力になれるといいんですが。玲那さん、あなたは聡明で気も回るお人だ。どうか、ボスの力になってやってください。いや、アッシがそんなこと言うのもおこがましいですが。それぐらいしかアッシにはできません。どうか、ボスを支えてやってください」
 言葉はたどたどしいが、実直で上司思い、馬庭のことを心から心配している八起の気持ちを、レイナは素直に受け止めることができた。
 自分も馬庭を支えたい思いは誰にも負けないと自負していても、いまだ足手まといになっているのが歯がゆい。一度、八起の場所まで戻りスウェードの鳥打帽を握り締める手を両手で優しく包み込む。
「八起さん。私だって半人前で、何ひとつお力になれるようなことはできていません。でも、少しでも社長のお役に立ちたいとは思っている気持ちは一緒です。私たちの出来ることで、お互い社長を支えられるよう頑張りましょう」
 穏やかな笑顔で、しかし、はっきりと語るレイナを見て、語られる言葉より強い女性である印象を受けた。だからこそ余計に自分の無力さが情けなく思え、そんな自分にも屈託の無い態度で応対してくれるレイナに感謝の思いがこみあげてくる。
「それでは、私は、医務室へ向かいますので。八起さんも、帰りの運転、どうぞ御気を付けて、社長のこと宜しくお願いいたします。それでは、失礼します」
「へえ、こちらこそですが、およろしく、おねがい、いたしますです。はい」
 レイナに手を握られ、丁寧な挨拶に舞い上がり、でたらめな敬語を使う八起に優しく微笑み、再び会釈をして医務室へ向かい歩き出す。
 両手で鳥打帽をクシャクシャにして、その場で感激に浸る八起、女神でも見つめるような視線でレイナの後ろ姿を追いつづけていた。
「はあー、八起さんだってよ。どうしよう… って、どうする?」


第14章 7

2022-06-26 13:43:07 | 本と雑誌

R.R

「いいよ、もう、わかたっから。ひとりでいけるからさあ」

「そうは言ってもなあ、オマエのあんな姿見せられた後じゃ、コッチだって気が気じゃねえだろ」
 不破は今までになく大袈裟に思えるほどナイジを心配していた。こそばゆい思いもあるのか、ナイジも余計にぶっきらぼうに対応してしまう。
「そんなこと言われても、オレ、全然覚えてないし。今はこの通り平気だから。わかってるって。医務室行って検査受けてくればいいんでしょ。規則だからってわかってますって。はあー、メンドクセイの」
 そこへ、リクオがガレージに飛び込んできた。息を弾ませて、大きく肩を上下させている。不破と話しているナイジを見つけると。
「あっ、いた。ナイジ、大丈夫かオマエ。あんまり遅いからよ、気になって迎えに来たんだけど… 」
 リクオの姿を目にした不破は、好都合とばかりにナイジの付き添いを命じる。
「おう、リク。いいとこに来た。オマエ、ナイジを医務室まで連れてってやってくれ、今日2回目だし、お手のものだろ。ホントはオレが同伴したいところだが、どうもそういうわけにいきそうになくてな。頼んだぞ。あれこれ聞いてくるヤツラがいてもな、余計なこと喋るんじゃねえぞ」
「あっ、はい、わかりました。オイ、ナイジ、行くぞ」
 リクオはナイジの腕をつかみガレージの外へ引っ張り出した。ナイジは面倒くさそうに身体を反りかえさせて渋々ついて行く。思い出したように不破が呼び止める。
「あーっあ、ナイジ、ちょっと待て。ひとつ聞いておきてえことがある。オマエ、アイツと、ロータスのヤロウともう一度、やりてえよな?」
 不破の言葉に、ナイジは何をいまさらとばかりに振り向き、不破の顔を見返す。不破の真意を探るような眼差しが厳しく突き刺さってくる。
「 …だろうな、バカな質問だった。じゃあ、どう戦いたい?」
 不破が不敵に笑った。ナイジを試すように。
「オメエなら、オレが何を言いたいかわかるだろ? タイムアタックも、アツくなれるかもしれんが、いまいちまどろっこしいんじゃないか。本当は対面でやりたいんだろ?」
 これには側にいたジュンイチの方が驚いた。
「不破さん、そんなこといっても、レギュレーションで決ってることですから。変にナイジに期待を持たせても、実現できないこと言ったって… 」
 正論を述べるジュンイチに対して、言うべきことは言っておかなければと、わずかなチャンスに賭けるようにナイジが押してくる。
「率直に言わせてもらって、タイムアタックの戦いで勝負がついても納得できない。以前から、気にはなっていたんだ。やっぱり、やってみてわかった。たぶん、アイツも一緒のはずだ。最速ラップが出るのはタイムアタック方式だけど、どれだけ完璧な走りをしても、結局はひとりっきりだ。闘ってる感触が鈍くって、不完全燃焼を繰り返すだけだ。本当に白黒つけたいと思えば、やっぱり対面でやらなきゃ… 別にアイツとの勝負をここでつけなきゃいけない訳じゃない」
 不破にはナイジがそう考えているとは、うすうす感じていた。それを吐き出させ言葉にさせてやらないと、ナイジはひとりで突き進んでしまうだろうという危惧があった。
「まあ、そうくるだろうとは思っていたが。そんな面白そうなレースをヨソでやられてもかなわんし、それを見てみたいと思うのは、多くの人の望むところだろうし、オレも見てみたいと思っている」
 ナイジは挑むような目つきになる。
「だったらさ、逆にそれを実現できなきゃ多くの客は失望するだろうな。そうなれば興行としてレースを続けていく価値はないはずだ。不破さんよりそれを深刻に受け止めてるヤツが手ぐすね引いてるぜ。やる側の論理だけじゃ、人を集めたり、興味を持たせたり、感動させたりすることはでないんだよ」
 不破は顔をしかめる。そんなことをサラッと言うナイジに気後れするわけにはいかない。
「オメエ、そんなとこまで考えてたのか。今回の件でこんなオレでもそれぐらいはわかるようになったってえのによ。そこまでハラ括ってんならいいだろ。どう転ぶかわからんが、オレにその件あずけとけ。あせって無茶するんじゃねえぞ。わかったな。さあ、医務室行ってこい」
 最後は不破の得意のセリフでまとめられ、いいように言葉を吐き出させられたナイジは、先手を打たれたこともあり、よろしく頼むとばかりに素直に頭を下げてリクオと伴に大人しくガレージを出て行く。
「まったく、変わり者つーか、素直じゃねえつーか。自分がやらかしたことの大変さを全然理解しとらんなあ。まあ、俺ら凡人とは感覚がそうまで違うってことか。あっ… 」
 不破はそこまで言って、傍らにいるジュンイチには余計だったとそこで言葉を切った。その気持ちを読み取りジュンイチは。
「不破さん、いいですよ、気にしないで下さい。僕だって自分がどれだけの人間かぐらいはわかってますから。今のところ、けしてアチラ側の人間でないのは確かです」
「でもよ、ジュンイチ」
 自分はさておき、ジュンイチのことまで凡人扱いして、なんとも、気まずい気分の不破だった。
「走り終えたナイジが言ってたでしょ。コース攻略方を。あれを聞いていて自分でも試してみたいアイデアがでてきました。僕は僕にできるやり方や、不破さんの力を借りて少しでも速くなって見せます。僕にはそれぐらいしかできませんから」
 謙遜して言いながらもジュンイチの顔には力強い決意が漲っていた。不破にはそれが焦りのようにも感じた。同年代のライバルに差をつけられたことを認めるのは簡単ではない。
「ナイジだって何もせずに速かったわけじゃないはずです。彼は彼なりのやりかたで速く走る力を手に入れていった。ナイジの話しを聞いていてわかったんです。不要と思えるものをそぎ落とし、実戦とその経験値を分析する中で、コース状況を読み取り、最善を選択できる判断力を身に付けていった。これはすべて彼のやり方で、彼なりの努力の賜物なんですよ。きっと才能とかの符号だけで片付けられるのは本意じゃないと思います」
「ジュンイチ、オマエってヤツは… 」
 ジュンイチの態度を前向きにとらえてやらなければならないと不破は、これをいい機会だとして、ジュンイチの持つ潜在能力を引き出し、一皮剥けるように手助けしてやるのも、自分がやらなければならない重要な仕事だと再認識した。
 この若いふたりが一人前に成長して、お互いに切磋琢磨してこのサーキットを盛り上げてくれればと、自分にも最後の大仕事として変な功名心まででてくる。
 そこに自分の立場の復権も含めて。膨らむ期待感に満足している不破に、早くも冷徹な一撃が飛び込んできた。もちろん出臼だった。
「不破さん、話しがあります。緊急のGM会議を開きますので、5分後会議室に来てください」
 苦渋に満ち溢れた表情を露わにし、こめかみを引きつらせて、唐突に不破の視界に現われた。
 遅かれ早かれ顔を出すと、ある程度予想はしていたとはいえ、このタイミングでの登場に、言葉の準備が出来ていない不破であり、鼻を明かしてやったという気持ちと共に、言いようのない不安も同居していたために、動揺を悟られまいと、きわめて冷静に対応することだけを考える。
 もし、ここで引いていては、これまでと同じ蚊帳の外の扱いを受けるだけで、期待をしていなかったナイジが自分を奮い立たせてくれたと思えば、それに応えられないようでは、幸運は二度と自分の人生に訪れはしないだろうと、背水の構えで堂々と出臼の前に立ち上がった。
「わかった、コッチも言いてえコトがある。方法がひとつだとは思わんことだ」
 思わぬ強気な発言を受け、顔を紅潮させ口を開きかけた出臼は、開いた口からは何も言葉は出ず、きびすを返すとその場から立ち去っていく。
 不破のいつにない強気な態度を見たジュンイチは心配になりながらも、これもナイジという現象を手札に納めた心理的優位の範疇なのかと感じ取った。
「さあてと、えれえこと言っちまったかな?」
 膝を擦り、もう一度席に腰を下ろした不破は、口をついて出た言葉に反して何やら楽しげな様子だった。

「おいおい、通してくれよ。ダメだよ、医務室行かなきゃならないんだから。ほら、どいてどいて」
 不破の予想通り、ガレージ裏の通路は甲洲ツアーズの新星を一目見ようと、黒山の人だかりとなっていた。声を掛けてくるものも少なくなく、映画スターの警備員よろしく人垣を掻き分け歩を進めるリクオ。
 好奇の目で見てくる連中を目にしたナイジは、これまでにも経験してきた暑苦しさを感じていた。レース前までは振り返られもしなかった自分が、今や我先に、どんな男か確認しようとこちらを見ている。そんな物見遊山な気分で集まっている、他のツアーズのヤツラの、憧れと、驚きと、妬みが混じったような顔が、いつもと違って見えてくる。
――こりゃ、珍獣にでもなった気分だな――
 人込みを通り抜けオフィス側の通路に入る扉を閉じると、ようやく一息つくことができた。ここからは医務室に用事のあるものしか入れないようになっており、リクオのように仮病でもつかえばそのまま入ってこれても、さすがにそこまでしてついてくる者はいなかった。
「見たかナイジ、あいつらの顔。現金なもんだぜ、いきなり見る目が変わってやがる。オレなんか、昔からオマエの実力知ってたから、ようやくそのチカラを表舞台に出してくれたって嬉しくてしょうがないのに。でもさ、オマエ、スゲエよ。いや、オレ鳥肌立っちゃったもん。スタンドもすごかったぞ、帰りかけたヤツラが戻ってきて、みんなして食い入るように見てさ。いやー惜しかったな、もう少しだったのに。つーか、トラブルなかったら、いったい何秒出てたんだってそれが気になって仕方ないよ」
 いまや時の人となったナイジに独占インタビューできていることもあり、興奮して捲くし立てるリクオだったが、ナイジはその話しに応える気が無いのか、それとも、もう触れられたくない過去のことなのか、平静のまま話をすりかえる。
「リクさん。何で2回目なの? 医務室」
「はああ? なんだよ、それ。オマエがオレの代わりに出るって言うから、仮病つかって診断書取ってきたんだろ。不破さんがオレにそう言ってたの聞いてたろ。あーあ、やんなっちゃうな、オレの決死の努力を忘れるなんざあ。いやいや、そんなことよりさ… 」
 話しを戻そうとするリクオにかぶさるナイジは。
「ハハ、そうだったっけ? しかし、リクさんの仮病も見抜けないような医者ってどうなんだよ。ちゃんと診断できるのか? オレ大丈夫かな」
「なんだよ、そっちの心配かよ。オレをほめろ、せめて感謝しろ。まあ、その話しには、ちょっとした幸運があってさ」
 ここで、リクオの表情が神妙になり雰囲気が変わった。ナイジの話しの流れに乗せられるうちに、マリの関わりを説明をしなければならないと思い出したのだ。
 いい話しではなさそうなリクオの前置でも、ナイジは聞かないわけにもいかない。
「ナイジ、オマエ、怒らないでオレの話し聞けよ、ああ、怒るっていってもオレにじゃないぞ。オレになら平気で怒るしな。いやいや、そんなことはどうでもいい。まあそのなんつーか、マリ… ちゃんのことだ」
 取り急ぎ、マリがここの医務室で働いていること、スタンドから見たナイジの走りに魅せられて、近づきたい一心で色々と聞いてまわったり、待ち合わせの駐車場に顔を出したいきさつを説明し、そして最後に2000円の件で、あの男とケリをつけたことを付け加えた。
 なんとかナイジがマリのことを悪く思わないように、リクオにしては精一杯気をつかった説明だった。
 ナイジはリクオの話しを押し黙ったまま聞いていた。特に感情の変化を見せるわけでもなく、不快感を表すこともなく、無表情のままだったため、リクオにはナイジがどう考えているのか計り知れない。
 ナイジはマリが自分にどうして興味を持ったのかを人づたいに聞くのは、照れくさくてそこには触れたくはない。あとでじっくりとマリから訊き出してやろうかと脇に置く。
 それよりマリは自分のあずかり知らないうち、馬庭の画策の中に組み込まれていたことを、まるで自分もその一端を担っていたようにナイジに思われることを怖れていた。
 それについては自分で収束させるしかなく、くすぶる不安感から開放してやりたいと、ナイジはあえて突き放したつもりだった。そうした複雑な思いをリクオに語るわけにもいかず、心情を悟られないように口を閉ざすしかなかった。
「なんだよ、黙っちゃって、これからマリちゃんに会うっていうのに。よせよ、これがきっかけでなんてことになったらオレ、もう目も当てられねえよ」
 通路を先に進むナイジの目線の先には、医務室のドアの前で、うつ伏せがちに立っているマリがいた。リクオはナイジの肩を叩き送り出し、ここで引き返す。ここからはふたりが話し合うべきで、自分が出る幕ではない。
「 …ナイジ」
 なんとか声を掛けるマリ。ナイジの、いままでと変わらない顔がそこにあった。
「マリ。なんか久しぶりだ。数時間だったけど、なんか途方もなく長い間、顔を見てなかったような、ずいぶん遠くへ行ってたような気がする」
 マリは何と応えたらいいのかわからなかった。たぶん優先順位としてしては正しいと思える言葉を、ひとつづつ口にしていく。
「えっ? ええ、そうね、そうかもね。ナイジ、カラダ大丈夫だった? 惜しかったね、もう少しだったけど。でも、すごく良かったよ。とても速かった。 …あのね、そのう、アタシ、いろいろとアナタに言わなくちゃいけないことが… 」
 ナイジはマリを咎めるつもりはないのに、心苦しそうなマリを見るのは辛かった。
「白衣、似合ってるな。なかなかいいよ、先生って感じだ」
「……」
 マリはナイジが自分のために、この話しを終わらせようとしているのは理解できても、それでは楽な方へ逃げてしまうと思い、けして上手く言える自信はないとしても、何とか言葉にしてナイジに伝えたかった。それをあえて不要なことだと言わんばかりにナイジはマリの先手を取った。
「あのさ、いいじゃん、マリは自分の望みを叶えようと行動しただけだろ。やましいことしたわけでも、ダマそうとしてたわけでもない、利用されたように感じてしまったことで、自分が許せなかったなら、どうやら、自分で決着つけたみたいだし。オレはいいよ別に、そんなの気にならないし」
 そして、強くマリの瞳を見て言い放った。
「オレはさ、今と、これからのマリしにしか興味ないからさあ、そんなんならいいだろ? マリもさ、オレのこれからを見ててくれよ。いままで、ロクな生き方してないから、これまでの悪事はとても口にできない。まあ、一緒にされても困るだろうけど。ってことで、この件はおしまいにしようぜ」
 マリはナイジに身体をあずけた。
「 …ありがと。ナイジ」
 ナイジもここはそうするべきだと手を回そうとすると、そこへ医務室から大きな声が響いてきたので慌てて手を引っ込める。
「おーい、マリィーッ! 患者はまだこんのか。ハライタの次は、事故ってケガしたマヌケ野郎とは、どうせロクでもないヘタくそだろう。もう帰るところだったのに、まったく、今日は厄日かいな。だいたい… 」
 途中から愚痴に変わっていった。
「あら、ドクの機嫌が悪そうだわ。早く行きましょ。ケガしたおマヌケさん」
 行き所の無くなったナイジの両手はマリの背中から空を舞っていく。
「へい、へい、ロクな言われ方しねよなあ。まあ、そっちの方が落ち着くけどさ。今日はやけに、みんな、おだてるからさ、ちょっと居心地悪かったんだ」
 ナイジが自ら成し得たことが、どれほどのものであっても意に関していないのは、いかに過去において成果があろうとも、次への何の保証にもならないことを知っているからなのだろうか。そうして、マリにようやく笑顔がもどってきた。


第14章 6

2022-06-19 10:09:05 | 本と雑誌

Cimg3176

R.R

「通して! 通して下さい!」
 懇願するマリの心痛を知る由もない群衆には、マリも単なる野次馬のひとりでしかなかった。そこにはホームストレートで止まってしまったオースチンを少しでも近くで見ようと、人がたかりだしていた。
 なによりも心配なのは、酷いクラッシュでもないのにナイジがクルマから出てこないからだ。彼らのように、ロータスを凌駕しかかったリザーブあがりの無名のドライバーをひとめ見ようと集まっているのとは違い、マリの狼狽ぶりはただ異様に見え、相手にされない。
 どうすることもできず人垣の外でうろたえるマリに、あとから追いかけたリクオが声を掛ける。
「マリちゃん。落ち着け。医務室に行こう。ここじゃあ何もできない。どっちにしろ戻んなきゃいけないだろ?」
 涙で顔をクシャクシャにしているマリは、まだリクオの言っている意味が理解できずないままに、人波に逆流して、今度はリクオに引っ張られて階段を上り出口に向かって行った。
「医務室って、そんなに… 」
 マリはオースチンから目を離すことができず、ストレートで止まってしまったオースチンは、もう二度と動かないような、そしてその中にいるナイジでさえも、そんな気がしてならなかった。
「ケガしてるとかどうかじゃなくて、事故があれば必ず検査しなきゃいけないんだ。久しくこんなことなかったからな。マリちゃんがピンとこないのもしかたないよ」
 リクオが何気なく言った言葉に、このサーキットの問題点が隠れていた。安全性が重要視される中で、知らないうちに走りが小さくなって行くのを気づく者は少なかった。それがサーキット自体の興行にも直結していったとも言え、さりとて能力の伴わない思い切った走りは無謀でしかない。
 そのバランスが良ければ、激しい走りのなかでレベルの高い闘いがおこなわれ、そうでなければ、その逆の状況下に陥り、それでもその環境の中で闘っていれば、自分たちのレベルがどこなのかはわからないままだ。
 馬庭はいち早くその問題点に気づいたものの、一度施行した安全性をないがしろにすることもできず、その中で抜きにでるドライバーを待ち望んでいたが、出臼のアングルということでついに外部の血を入れることを決断したのだった。
 そして今回、ロータスが走ったために自分たちのレベルを知ることとなる。そこで終わるはずだったシナリオがナイジの登場で、馬庭はもう一度、自分の手に収めるために書き換えようとしている。なにもナイジの力を利用しようとしているのは不破だけではなく、馬庭にとっても同じであった。

 フェンスを飛び越えてピットレーンから甲洲ツアーズのドライバー達が、息の止まったオースチンに駆け寄って来る。クルマの目立った外傷は右後部の衝突痕ぐらいだ。車内を覗き込むと難しい顔をしたナイジが、ドライビングポジションの姿勢のままに、なにやらブツブツと独り言を言っていた。
「あそこ、あとタイヤ半分。内側を通れば、次のコーナーのインにもっと早く切れ込めたはずだ… 」
 最初に声をかけたのはミキオだ。
「ナイジ! オマエ大丈夫なのか?」
 ナイジは呼びかけの先に目線を動かし、ミキオの方を向いても瞳孔が定まっておらず、スタート前より更に興奮状態になっているミキオの顔をぼんやりと眺める。
「それだけ外側に流れたのをこらえきれなかった。判断とステアリング操作が遅く、甘くなった。まったくザマアねえな」
「ナイジ! オマエ、自分が何したかわかってんのか? とんでもないことしでかしたんだぞ!」
 ミキオの背後には、一目でもドライバーの顔を拝んでやろうと、集まってきた観衆がフェンス越しに鈴なりの人だかりになっている。状況が把握できていないナイジには、それはサーキットのひとつの風景にしか映らず、以前目にした事があるような、それが現実ではないような既視体験の状態にあった。
「それより、1コーナーのインの寄せは、もっと外からのほうがよかった。内に寄り過ぎて、そのせいで次のコーナーへの進入が思ったよりきつくなっちまった。その次のS字区間で… 」
 虚ろなナイジのもとへ、助手席側のドアからジュンイチが乗り込んできた。冷静に助手席に右膝をつきシートベルトを外しながら言葉をかける。
「大丈夫かい、どこか痛いとこは? 驚いたよ、走る前には、キミがここまでやるとは思いもよらなかった。ボクの予想の範疇を越えてしまった。凄いな、この大舞台で。しかも最後の最後で、自分の能力をすべて出すことができたんだからね。いや、まだ、すべてではないのかもしれないけど… 」
 ナイジの能力を見切ったような言い方をするには語弊があると思い、かまを掛けることも含んで言葉をかけても、シートのナイジは、ただ遠い目をしている。
 ジュンイチの賞賛がその耳に届いているとはとても思えない。どこか夢見心地で昼寝から起きて間もない状態にみえるほど、無意識と現実のあいだを揺らめいていた。そんな状況のまま、遠い日の思い出話しでもする口ぶりで、ナイジは自分の走りを振り返りはじめた。
「惜しかったよなあ。5連コーナーの4つ目、3速全開で行けたんだ。インラップじゃあ、そこまで踏み込めなかったのに、描いたラインと実際の進入角がドンピシャだった。あれ以上か、以下だったら、あそこまで踏めなかった。あとは真っ直ぐ走るだけだったのに… 」
 シートベルトを外したまま、ジュンイチの手が止まってしまった。
――最後の5連続コーナーを全開だって?――
 ジュンイチとミキオは驚いた顔をお互いに見合わせる。ナイジは自らのラップをスロー映像でも見ながら解説していると思えるほど正確に自己分析していた。それらの問題点を修正した走りをして、一体あと何秒縮めるつもりなのか。同じドライバーながら空恐ろしささえ感じ、悪寒とも武者震いとも判別できない震えが身体を走る。
 それは自分が言った賛辞の言葉をまったく無意味なものとする、尋常でないこの男の才能を見せつけられ硬直していた。さらに、追い討ちをかける話しは、そこで終わらない。
「タイヤが良すぎたんだ。グリップがあり過ぎて調子に乗っちまった。それが駆動系にムリをかけた。せっかくオースチンが教えてくれてたって言うのに。オレも気が張っていたんだ」
 事も無げにクルマの破損部分を指摘し、自分のミスをあげつらうナイジであるが、ジュンイチは最後の言葉に耳を疑った。
 そこへ、不破がようやく到着した。ジュンイチはその言葉に意味を問い返すことはできなくなったいた。
 若いドライバーと同様にフェンスを飛び越えるわけにもいかない不破は、ピットの入り口から回り込んできたので、どうしても時間がかかってしまった。それなのにナイジが未だに車外へでてこないので気が気でなかった。
「おい、なにしてる、ナイジは大丈夫なんだろうな?」
 不破の声に弾かれ、ミキオとジュンイチがナイジを車外へ引っ張り出す。ナイジは相変わらず誰に話し掛けるでもなしに、自分の走りを言葉にして振り返っている。不破にはその姿が異様にも孤高にも見えてしまう。
「いきなりトルクがタイヤに伝わらなくなって。デフかシャフトが逝ったんだろ。調べてみなきゃわかんないけど。タイヤのグリップ力が増したから、ロールと加速の荷重がかかり過ぎたせいで、駆動系が耐え切れなくなったんだ。調子に乗ってクルマに無理を強いたオレが悪かったんだ」
 ナイジが正気に見えない不破はナイジの口を塞ぐ。聞かれてはならないことまで話しかねない状況だ。ジュンイチが何かのためにと持ってきたタオルをナイジのあたまにかぶせて、ふたりに抱きかかえられようやく観衆の前にその姿を現した。
 生まれたばかりの熱き新星に対し、フェンス際の観衆を中心に拍手の輪が広がっていった。不破もジュンイチもミキオも思わず動きを止め、揺れるスタンドを呆然と見上げる。ナイジはかぶったタオルの隙間から片目だけ光らせていた。
 クラシックコンサートのスタンディングオベーションにも似た静寂の後の拍手。誰一人声を発することなく、ただ、拍手の音だけがサーキットに鳴り続けた。
 不破たちが驚いたのは、観衆だけではなく、他のツアーズのドライバー達も、ピットフェンス越しに惜しみない拍手を送っていたことだ。
 日頃のレースシーンでは考えられない。それは、外様のロータスに対し一矢報いてくれた同胞への感謝の気持ちだったのだろうか。不破はその光景を目にし身体の芯から湧き起こる熱いものが喉の奥までこみ上げてきた。
「見ろよ、このヤロウ、あのワンラップで全ての人の心を掴んじまいやがった。まったく、恐れ入ったぜ。結果が必要な時に望んだ結果を出せるヤツは多くいねえってのに、ましてやそれ以上を成し遂げるなんざ奇跡的だ。ヘッ、結局タイムを上回ってもいないのにこの騒ぎってところがナイジらしいがな」
 それが結果的に余計に群衆の期待感を煽ることになっていた。意図してやれることではなく、時流に乗った者にはそんな運めいたモノまで自然とついてまわってくる。
 そんな不破の言葉を一番敏感に感じていたのはジュンイチだった。不破の見解からは真逆の立場に置かれることになる自分の不甲斐なさがなんともやりきれない。
 ただ、抱きかかえているナイジが、大観衆の扇情が自分のせいで起きているとも思わず、不思議そうに何度も何度も周囲を見回している姿を目にすると、そんなくだらない嫉妬心も何処かへ消え去っていく。
 ナイジの姿がガレージに入っても、他のツアーズのドライバー達はガレージの入り口を囲み、見えなくなってもなお、拍手の音は止むことのないスタンドと同様にいつまでも続けられていた。

――ヤツは、あのタイヤじゃなかったのか――
 馬庭は展望デッキに立ち、双眼鏡を覗き込み、ホームストレートに止まったオースチンを確認した。
――意図的なものなのか、見る目がなかったのか知らんが。なににしてもコチラに頭を使わせるとは、面白いヤツだ。期待以上だよ――
 いままでに目にしたことのないスタンドの様子に負けず劣らず、サロンでもまた、顧客の面々は興奮し、展望窓に張り付いたままだった。いつもとは違う状況に一番驚いているのは、サロンで顧客の相手を務める女性ホスピス達だった。
 席を立ち、今もなお窓際から離れようとしない担当顧客に対し、どう接していいかわからず、ひとかたまりになって皆で様子をうかがっている。こんなことは初めての体験であった。すかさずレイナが担当の顧客の言葉を聞き漏らさないようにと助け船を出した。
「馬庭さん。いやあ、今日は大変面白いものを見せていただきました」
 顧客の古参である國分が馬庭に近づき、満面の笑みをたずさえて眼下を見下ろしながら話し掛けてきた。
 普段ならテーブルに付く女性ホスピスに薀蓄を述べているのに、なにやら、いても立ってもおれず、腰を上げ馬庭の傍に寄ってきたのは、今回ばかりは走りのことはよくわからず聞き役に徹する女性ホスピスではなく、内面から湧き出る言葉を馬庭に聞いて欲しかったのだろう。
「まったく、貴方の懐の深さ、持ち駒の豊富さにはほとほと感服しますよ。まだ、あんな光る原石をお持ちとはね。たしかに、指宿君や坂東君、それにあのロータスの外様ドライバーも腕は確かで速いドライバーではある。しかし、我々の目を留まるのは魅せることができるドライバーです。あたかも水中をなんの抵抗も感じさせず泳ぎ回るイルカのようであり、地上から低空で飛来していくタカのようでもあり。彼の走りは野性的な運動力に満たされ、余すところ無く放出されていた。自然の地形を駆け巡る美しさを伴った走りを、野性の動物ではなく、機械物質である自動車でなされるのを初めて目にしました。まさに『オールド・コース』を走るにふさわしいドライバーですな」
「國分さんに最大限の賞賛をいただけて、彼も喜んでいると思います」馬庭が丁寧に頭をさげた。
「しかし、この終わり方は傑作ですな、最高の結末を迎えようと誰もが確信を持ったあの場面で、クルマの不調でしょうが、楽しみにしていた映画のフィナーレを、突然消されてしまったような気分です。そこまで、貴方が仕組んだと思いたくありませんけれども、結果的に大作映画の予告編でも見せられたような終わり方は、多くの人に更なる成長を期待させ、強い関心を持たせることになるでしょう。だから、観衆も惜しげも無く喝采を贈ったのでしょう」
 馬庭は笑みがこぼれそうになるのを抑えた。自分が感じたことを國分が言葉にしていたからだ。
「まだまだ荒削りで危険と紙一重のドライビング、区間最速ラップ、ゴール前でのストップ。馬庭さん下ごしらえは充分といったところでしょ。これで次回が本当に楽しみだ。あなたが、次にどんな物語を描いているのか。いや、実に楽しみだ、まだまだ、楽しませてもらえそうですな。是非、彼には出資させていただきますよ。これまでの倍出してもいい、彼の最初の出資者ということで、一行目に名前を書かせてもらいたい。その権利を得ることができるのなら、それぐらい安いもんです」
 一気にまくしたてる國分、若いドライバーを温かい目で見つめる好々爺は、久しぶりの感動を堪能していた。馬庭は手を後ろで組み、目を閉じて國分の話しに耳を傾ける。時折笑みを浮かべ、うなずく仕草は、國分の思い入れへの敬愛か、してやったりの自分への報酬か。
「いいえ、國分さま、私にできることなど、たかが知れております。よいドライバーが育つのはツアーズGMの努力の賜物でしょう。それに、ドライバーが成長できるのは、國分さまをはじめとする、ここサロンにおられる皆様の目です。厳しい目に晒され、ご意見をいただき、現場に落とし込み、一人一人が求められているものを理解して初めて、ドライバーとして成長していくのです。あの若者に未来があるとお感じであれば、どうぞ、厳しいご意見をいただけますようお願いいたします」
 そう言うと、深々と頭を下げる馬庭。サロンのほかの客達も一体何が起きたのかと、視線を集める。
「あっ、馬庭さん止めてください。そんな、頭を上げて。私達はただ、レースを見させてもらい好き勝手言っているだけの過去の人間に過ぎません。自分達ではもはや叶えられない夢や希望を彼らに託しているだけなのですから。そんな、夢の舞台を用意できるアナタのお役に立てるならと、ここに馳せ参じさせてもらっているだけです」
 サロンでもまた、一斉に拍手が起きた、國分の言葉は我々を代弁しているという意思を馬庭に伝えたかったのだろう。馬庭は手を胸に当て会釈をした。
「皆様、ありがとうございます。この拍手は私というよりここにいるホスピスの女性陣および、本日のレースを盛り上げてくれた各ツアーズの面々へ戴いたもとの理解しております。サーキットは再び活況を取り戻すでしょう。『オールド・コース』の復活と共に。成熟したエースクラスと新しい力が融合して、見ごたえあるレースをこれからも続けていく所存です。次回も皆様の期待に応えるマッチアップをご用意いたします。是非ともお楽しみにしていてください」
 そして、また一段と大きな拍手が沸きあがると、馬庭を中心に人垣が形成され誰もが我先にと馬庭に握手を求めるのだった。
 力強く両手で顧客の手を握り締める馬庭。一つの計画はヤマを越え順調に事を終えても、そこで立ち止まることは許されなかった。
 膨らんだ容積を埋めるためには、さらに多くの仕事が待ち受けていると知っており、果たして、自分自身がいったいどこまで速く走っていられるのか、何のために体に鞭打って、目の前にぶら下がった餌を獲得しようと邁進しているのか。
 その答えは出ることもなく、しょせん自分も、あの若いドライバーとなんら変わらず、行く当ての無い不毛地帯を走りつづけているに過ぎないことを思い知らされていた。


第14章 5

2022-06-12 11:48:12 | 本と雑誌

Cimg3177

R.R

 ピットの出口に待機したナイジの前には、コースインを知らせるためのマーシャルが、ひとりせわしなく動いている。5thレグの状況が気になるのだろう、手持ち無沙汰にフラッグを何度も持ち替え、クルマがホームストレートに戻ってくるのを今かと背を伸ばし、ラップ中のアルピーヌのタイムが掲示板に更新されるごとに、背と首を伸ばし目で追っていた。
 ナイジが待機する場所からはスタンドも後方に位置し、声も遠い。目に映るものは落ち着かないマーシャルと、1コーナーの先に並ぶ雑木林だけで、風になびく木々の方向からするとホームストレートには向かい風が吹いている。それは、トップスピードが伸びないことを示し、非力なオースチンには不利な状況といえた。
 浮かんでは消えていく取り止めのない陰鬱な思考を寸断して、さらに目線の先を木々の上にずらしていく。抜けるような青い空が目に染み込む。
 こうしていると自分がこれから行うべきことが現実とかけ離れ、この場にいることと何の接点も見出せなくなってくる。
 いつもと同じ一日、人生の中の単なる一日、それが、決定的に今後の岐路を決めてしまう一日となることを、それらは他人事にしようとしている。
 自分にはもう後がなく、不破はB・Jや自分を切り札にして、自分の立場を覆すために勝負に出ようとしている。そんなことはミキオに言われなくてもわかっていることだ。
 自分に出来ることは限られている。それ以上を望むのは運任せでしかないと思いたい。
――なんか、想像以上に、オレも平常じゃないのか――
 ナイジは自分の思考やら、感情の振れが、許容範囲内を越えていると漠然と感じていた。
 普段通りクルマを走らせる行為に何ら変わりはないはずなのに、見えない外圧が自らの精神能力に影響を及ぼしている。
 普段から周りの連中に強く感じていたドライバーとしての心の弱さが、自分にも同じように存在している。そういう場に立たなければわからなかったことで、それを認識したくなくて逃げてきたともいえる。
 どれだけレースに甘ったるいロマンチシズムや、アマチュアリズムを求めようが、いつだってタイムは冷酷に人を選別してく。
 たいしてクルマの性能に差があるわけでもなく、ドライバーも普段の力が出せれば横並びのタイムで走れるはずであるのに、いざレースとなればみんな一様にそれなりのタイムに納まってしまう。
 それが、個人の持つ力量であり、精神的な弱さでもある。今日のレースでもそれが顕著にあらわれ、初めてのコースを走るという根本的な変更があっても、それが一定のタイム差となってハンで押したように分布する現象は滑稽でもある。
 稀に番狂わせも起きるが、そもそもそれを番狂わせと言っている時点で、自分達の定位置を決め込んでいるだけだ。そんな既定路線に自分も取り込まれている。
 ミキオ達が、変に他人に期待を寄せ、自らその場所へ進んでいこうという概念がないことに、交われない温度差を感じていたはずなのに、いまの自分の状況は、これまでとの間に、どれほど隔たりがあるのだろう。
 一番最初に眺めた位置が違うだけで、これほどまでモノの見方が変わってくることを実感すると、今まで自分が否定していた他人と変わりばえがなく、情けない自分が現実と希望の間を行き来しているにすぎない。
 悶々とした疑問を抱えながらもゼンマイ仕掛けのように動くマーシャルを見るでもなしに眺めていると、そのマーシャルはこれまでよりあからさまにフェンスから身を乗り出してクルマが通り過ぎるのを見送った。
 ナイジは漠然とロータスがタイムアタックに入ったと認識した。スタンドもにわかに喧騒をおびて、ワントーン歓声があがった。目の前のマーシャルはロータスが視界から消えるまで追い駆けていたのだろう、名残惜しそうにようやく向き直るとナイジに向けて旗をクロスする。ピットアウトを促す指示だ。
 その指示を受けると、不思議とこれまであたまの中を巡っていた様々な思考はさっぱりと消えてなくなり、オースチンと一体化していった。心拍数も徐々に収まっていき、いま行うべきことを冷静にこなしていく。
 タイヤの食いつきを確認するため、高めの回転数でクラッチをつなぐ、タイヤは軽く空転し、白いスモークを上げるとグリップを取り戻し、クルマを蹴り出す。
 もう、10分もすれば総てにケリがつく、それで今後のサーキットで行われるレースの方向性も、ツアーズの趨勢も決まるといっても過言ではないだろう。
 それは誰かが考えた計画通りシナリオの中で、期待はずれと共に尻つぼみで終わるのか、それとも予想以上の成果を得ることになるのか。
 その中で自分がどれほど関与しているのか想像もできず、今はまだ、何も起きていない無の状態であることは間違いなく、空白の時の流れに自ら描き出す歴史は、今この時点からはじまることが何よりの動機になった。
――さあて、少しは誰かさん達を満足させられるのかな――
 ナイジはそう思いながらも内心では、自分がいったいどこまでやり切れるのかを誰よりも楽しみにしていた。
 スタンドは今日一番の盛り上がりを迎えつつあった、一向に縮まることのないタイム差が僅かではあるが濱南ツアーズの指宿、そして甲洲ツアーズの坂東純一と続けざまにコンマ数秒づつ縮めている。
 そして最終5thレグ、外部招聘のロータスが走行をはじめると、全観衆の期待は否がおうにも高まっていく。その圧巻たる走りは、ジュンイチが最速ラップを出して喜んでいたリクオとマリを黙らせるのに十分であった。
「こういうレースの見方は、良くないってわかってるけど。B・Jさんのタイムを破られたくないと思うと、あのクルマ、 …ロータス? が失敗することをどこかで望んでいる。でも、あのクルマ。とても自信を持った走りをしている」
 マリはリクオだけに聞えるように小さな声で言った。しかし、そんな心配も無用なほど、スタンドはロータスの走りに魅入られて、他人の会話など気になっていない。
 あきらかに今まで走っていたクルマとは動きが違い、一台のクルマの走りによってサーキット自体の風景が一変した。
 今まで目にしていたのが田舎の草レース場なら、この走りは明らかに国際レースの舞台が舞い降りていた。と同時に、オープニングの時は、静まり返っていた陥没していた場所で他を圧倒するほどの声援がおきていた。
 1コーナーを軽々とクリアしたあとも、山間部でも吸い付くようなコーナーリングを繰り返すと、それぞれの計測ポイントでジュンイチのタイムをコンマ5秒づつ削り取っていった。
「なんだよ、あの走り、今日初めて走ったとは思えないじゃねえか。たしかによ、上手いヤツはコースを選ばねえって言うけどさ。これじゃあ、ここのツアーズの立つ瀬がねえ。ちくしょう、どこでもいいからミスしやがれってんだ」
 マリはナイジが今朝、言っていた言葉を思い出した。『誰かが走っている』それがロータスのドライバーである証拠はどこにもなくとも、そんな詮索をしてしまうほど完璧にコースを攻略していく。この走りを続けられれば、次に走るナイジに一体どれだけの勝機があるといえるのか。
 ロータスが最終コーナーに姿を見せると歓声は一段と大きくなってきた。手堅く5連コーナーをまとめてきた黒い車体はあっという間にホームストレートに戻ってくる。スタートフィニッシュラインを越え、歓声は一旦やんだ。
 それは誰もが確信し間違いのない事実だった。念を押すようなラップ表示は舘石のタイムを1秒ほど更新する《3分52.2秒》のニューレコードを打ち出す。地鳴りのような拍手と喝采、怒号と化した唸り声はスタンドを駆け巡った。
 ボディサイドに貼られたコンペティションサークルのすぐ上に、これ見よがしに付けられたオイルメーカーのロゴマークが目に焼き付けられる。
 スタンドのすべての観衆が立ち上がり、いつまでもロータスの流麗なフォルムに釘付けになっている。すでに1コーナーを過ぎてクールダウン走行にはいっている車体に向けて賞賛の眼差しで見送る。
 歴史の扉が開かれた現実を目の当たりにすることは、敵味方を越え、人を骨抜きにしてしまうほど見えない力が作用する。すべての観衆が圧倒的な走りに酔いしれ、目の奥に刻み込まれた映像を言葉で反芻している。
 それは同時に、最終走車で走る甲洲ツアーズのリザーブドライバーであるナイジに、誰も何も関心などないことを物語っていた。
 ようやくマリの目端に白い車体が引っかかり、リクオの袖を引っ張りナイジが来たことを伝える。しかしその他の観衆には、主役が降りた後の舞台に上がった裏方の作業員ぐらいにしか見えないようだ。
 スタンドの騒然とした雰囲気はなかなか消えることはなく、もはや今日のレースは終わったものだと、誰もがすでに帰りの渋滞を心配して席を立つ者があとをたたない。
 そんな中、最終コーナーを立ち上がってくるオースチンは、さきほどのロータスの走りとは違った加速を持っていた。少なくともマリとリクオの目にはそう映った。
 直前のロータスより加速が鋭く感じられ、その勢いのままホームストレートを走る。ナイジ特有のつなぎ目を感じさせないシフトチェンジには僅かな手詰まりもなく、さながら野鳥が超低空飛行からそのまま空へ舞い上がる姿を連想させるほど鋭く疾走していく。
 瞬く間にホームストレートを疾駆し1コーナーに突っ込んでいくと、見た目では減速したとは思えないぐらいのスピードを保ったまま鋭角にコーナーリングをしていく。ロータスの姿を見送っていた大勢の観客も、なんとなくこれまでと異なった空気の振動を感じていた。
「なんか、凄くなかった? いまの… 」
 動きかけていた人の波が一度は止まった。観衆は席を立ち山間部を走り出したオースチンを少しでも目にしようとする。やがて、第一計測地のタイムが掲示板に書かれた。
《0:48》
 ロータスのタイムより1秒遅かった。
「やっぱり、ダメだな。いい走りに見えたけど、タイムにはつながっていない」
 そのタイムを見て再び人の流出が始まる、ロータスのタイムより1秒も遅ければ仕方のない話だ。この先2つの計測ポイントでそれぞれ1秒づつ遅れれば、最終的には舘石のタイムからは3秒落ちの平凡なタイムとなることは明らかだ。
 マリは不安気にリクオを見上げる、リクオは山間部を走るナイジから目を離さない。木々の間を縫い白い車体はフラッシュ映像を見ているように細かく目に映る。
 ナイジの予想通りホームストレートは逆風だったため、最終コーナーからの力強い加速も、無駄のないシフトアップもロータスを上回るほどのタイムにつながらなかっただけで、山間部に入ってからは自分の強みを存分に活かし、思い通りのコーナーリングを繰り返していた。
 時折スキール音を鳴らしながら次々とコーナーをすり抜けて行く姿は、リクオの目にはいつもの印象とはは違って見える。
 タイヤを替えたことを知らないリクオは、いつも目にするオースチンのリアを流しながらのコーナーリングとは違い、路面に食いつくほどの高いグリップ力と、コーナーの抜け出しから尻を蹴飛ばすほどの加速の良さに目を奪われていた。
 自然とリクオの両手は強く握られたり、開いたりを繰り返している。「違う、なんか違ってる。これはタイムを出す走りだ」呆然として目を見張りながらも、期待感が溢れるリクオの表情に勇気付けられたマリも再びナイジの走りを追っていた。
 半官贔屓と思われるかもしれないが、マリにもナイジの走りは今日見た中で一番切れが良く、誰よりも速く走っているように見え、なによりこれまで見てきた、どのナイジの走りよりも美しさのうえに力強さがあった。
「 …キレイだわ、流麗なほどに。ストップモーションを見てるみたいに、速い… 」
 ふたりの見解が証明されたのは第二計測ポイントのタイムが掲示された時だった、ナイジが叩きだしたタイムはロータスより1秒落ちのまま、つまり、第一から第二までの間はロータスと同じタイムか、もしくは若干早いタイムで通過したことになる。
 スタンドの出口で混雑し行き詰まっていた人々は、スタンドのどよめきに振り返り、歩を止める。コース上で何が起きているのか確認しようと列をはずれる者さえ現われた。
「 …リクさん、リクさん。ナイジが」
 観衆のおののく声にかき消され、自分もナイジの走りに集中していたこともあり、マリの呼ぶ声がなかなか届かなかった。
「ああ、マリちゃん。こりゃ、大変なことになってきた。もしかすると、もしかするぞ。オレの目にはナイジが今日一番の走りに見える。やるかもしれないって、いや、やってくれって密かに願ってはいたが、実際目の当たりにすれば、ホンと、シビレるぜ」
 リクオの目は充血し声が震えている、興奮の度合いが自分の許容量を越え自制が効かない。マリも知らないうちに涙腺を刺激されており、全身が麻痺している。
 信じがたい光景を目にしていることに心を揺さぶられ、まぶたに溜っていた涙は溢れ出さんばかりだ。
――ナイジ、アナタって人は… 本当にできるじゃない。ガンバって――
 最後は両手を合わせ、硬く目を閉じた、ロータスに勝てる見込み、それに最速ラップが出せる見込みが出てきたとたん、今までと同じようにナイジの走りを見守ることはできそうにもなく、心も張り裂けそうに痛み続けている。
 続いて発せられたリクオの歓喜の叫びも、ナイジに何か起こったのではないかと危惧してしまうほどだった。
「おーし、出たぞ! すげえ、すげえぞ、区間新だ! 見ろよ、この区間、最速ラップだ。ロータスより速かったんだぜっ」
 ついにナイジは第3計測ポイントでコンマ5秒落ちまで詰めてきた。隣でマリが怯えているのも知らず、リクオはあえて、周囲を煽るように大声を張り上げていた。
 それに呼応してスタンドもオースチンの走りに見入っていく。ロータスが手堅く最終コーナーをクリアしてきたことを考えれば、アタックラップ前の周回でオースチンが見せた最終コーナーからの加速ならば、同じように。いや、もうひと踏ん張りしてくれれば十分に逆転が可能なタイム差といえる。
 サーキットにいる誰もが、今日の主役はロータスで疑う余地はないと思っていた。最高の走りと最速ラップを見れてよかった。外部ドライバーだけど速かった。今後の他のツアーズの巻き返しはあるのか。そんな話題を帰りの夕食の席で語り合おうかと思っていた矢先の出来事だ。
 いま目の前で起きていることは、名も知れないリザーブドライバーがその全てを引っ繰り返そうとしており、そうなれば未知なるスターの誕生を同じ時の流れの中で体感できる。
 人はこういった状況展開に弱く、あたかも自分が最初にそのドライバーを見出したような錯覚に陥ってしまう。5番目の走車を表わすコンペティションサークルに描かれた『5』のナンバーが、甲洲ツアーズのカラーである赤で塗られており、それがやけに格好良く観衆の目に映える。
 いみじくも5年前の舘石のクルマに貼られたものと同じ数字、同じ色であることを知る者は少なかったが、今日、このサーキットで歴史の目撃者となれば、のちにそれを新しい観客に自慢げに語るだろう。
 クールダウン走行を終えてピットに戻ってきた安藤は、明らかに現在の注目が自分で無くなっていることに気付く。
 それはイコール、甲洲の最終走者、あの若造が何かをやらかしているということになる。すぐさまクルマを降りると駆け寄る西田を振り切り、ピットフェンスから掲示板を見上げた、白いオースチンは自分のコンマ5秒後ろまで接近していた。
 西田が近づき毒づく。
「アイツ、どこまで俺達のじゃまするつもりだ、これでオイルが売れなかった久遠寺さんにどやされるぞ」
 安藤にとってはそんなことはどうでもいいことだ。ピットフェンスから最終コーナーを見据え、オースチンが、あの若造が立ち上がってくるその時を待つ。
――やるじゃねえか、下りの山間区間で俺より速いたあ、とんだ赤っ恥かかせてくれるぜ。どうせなら俺を抜いてみろよ、それでしがらみなしでキサマと闘えるってもんだ――
 遂にオースチンが最終コーナーから姿を見せた。安定感のあるロータスの走りに比べると対照的に、速いが危うさを伴い、危険と隣り合わせの限界ギリギリで必死に持ちこたえているオースチンの走りに誰もが目を奪われ、心をつかまれていた。
 勝負どころの5連コーナーは前の周回よりさらに加速良く見える。全開のコーナーリングでアウト側の路肩すれすれのラインを通って横っ飛びしてくる。誰もがかたずを飲んだ。
 どのドライバーであってもひとつ前のコーナーでスロットルを戻して、コースオフのリスクに備えていた。それなのに、このリザーブドライバーは独自のコーナーラインとスロットルワークで、加速が止まらない走りをしている。
 直線のラインに乗り、あとはフィニッシュラインを通過すだけだ。ロータスの最速ラップをさらに更新すると皆が確信した。

 そこで一瞬の永遠が終わりを告げた。
 
 目に飛び込んできた光景に誰もが凍りつき、聞きたくもない耳障りな異音はスタンドまで届く。
 突然にナイジのオースチンは不自然にリアを振ると、ピットフェンスに向かってコースを外れる。急ブレーキをかけたタイヤからは白いスモークが上がり、なんとかリアフェンダーをしたたかにぶつけるにとどまれた。
 最後は力なくホームストレートに戻ってきたものの、エンジンは掛かっているがタイヤにパワーが伝わっていない。ゆるゆると惰性で走りつづけフィニッシュラインを通り過ぎる。
 その光景に観客は肩をうな垂れ、力なく腰をおろし高らかな歓声は失意のため息に切り替わったのもつかのま、掲示されたタイムを見て怒号のような声がスタンドに響いた。
 ロータスのものよりコンマ5秒落ちのタイムがそこに刻まれた。あのままフィニッシュしていればロータスのタイムを更新していたのは明らかだ。
 それにもなにも、コースアウトしながら舘石のタイムをコンマ2秒上回っているのだ。
 その光景を最後まで見ることなく安藤は舌打ちをしてピットレーンを後にした、西田が軽くガッツポーズをしているのが目に入り、なんとも腹立たしい気持ちになっていた。
「結局、あんなもんだ。最終コーナーで無理してオーバーレブでもしたんだろ。ヤツはタイムアタックのプレッシャーに勝てなかったんだ。エンジンを回し過ぎて、まともにフィニッシュできないなんてプロとは言えない。一時はどうなることかと思ったが、これがヤツの偽らざる実力なんだよ。安藤、お前がトップだ」
 肩の荷が下りて饒舌になる西田の気持ちもわかるが、安藤は手放しで喜べるほど現実を楽観視してはいない。あの挙動はエンジンブローとは考えられない。それが証拠に態勢を立て直した後もエンジンはかかっていた。
 クルマのコントロールを失っているあいだはエンジンがストールするのを防ぐために、クラッチを切ってギアをニュートラルに入れるのは常識だ。
 しかし、態勢を立て直したあとエンジンが掛かっていればそのままニュートラルを続ける必要はない。フィニッシュラインを越えるために駆動を伝えればいい。
 エンジンが掛かったままクルマに加速が戻ってこなかったのは、駆動系のどこかが破損したからだ。
――コースに戻ってきても惰性で走ってたな。てことはそもそもコースアウトの原因が駆動系の故障ってことだろ。アイツ最終コーナーを全開で回ってきやがって。オレがスロットルを戻したってのに開けっ放しだと。ふざけやがって。気にいらねえぜ――
 安藤は突然笑い出す。西田も安藤が勝利を喜んで笑っているのだと思い、一緒になって笑い出した、腕を組んで待ち構えていた出臼もまた、これですべてが上手く行くとほくそえんでいた。


第14章 4

2022-06-05 12:06:22 | 本と雑誌

Cimg3182

R.R

「うわぁー、すごい。こんな風に見えるんですね。オールドコースまで見えますね」
 コントロールタワー側のメインスタンドに続く薄暗い階段から通用門を見上げれば、額縁に納められた絵画を思わせるほどの青い空と、山間部に萌える樹々。そして、いつも自分が座っていたピット側のホームスタンドが、立体的で奥深い雄大な自然を背景にその姿をふたりの前に現わしてくる。
 ホームスタンドとは対照的な奥行きと眺望に包み込まれ、リクオとマリはメインスタンドに立ち上がり、しばしその雄大なパノラマに見入っていた。
「だろ、いいだろ。こっからが大切だ。いいか、前の方に行くヤツぁシロウトだぜ。クルマを間近で見たいって気持ちはわかるけどな、こっち、こっち。上で見るとさ」
 マリはリクオに引き連れられステップを駆け上がっていく。息せききって登り切った最上段で振り返れば、対面するホームスタンドの上から山間部の奥のコーナーまで見通せた。
 あちらこちらが木々で覆われて完全にクリアな状態ではないにしても、十分にクルマの走りを追い駆けることができる景観だ。
 それにもまして驚いたのは、この頃では5~6分入りのホームスタンドが8分程は埋まっており、今日解放されたメインスタンドも既に半分以上が埋まっている。
「なっ、最高だろ。もう、5年も使ってないから、いま来てるような連中はほとんど知らないんだ。だから、アッチに行っちゃうんだろうけど。やっぱり、オールドコースを見るならここが一番だなあ」
「すごい。リクさんに連れてこられなけりゃアタシ、いつもどおりアッチで見てました。とっても得した気分。それにしてもいっぱい入りましたね。今日はいつもと違うってこと知ってるみたい」
 5年も使っていないこのスタンドが、客を受け入れるのに十分な状況であることを不審に思うも、それをリクオに問うてもしかたなく、そんな言葉になってしまった。
 リクオもスタンドの客入りを目にし、腕を組み感心していた。
「うーん、そうかもな。なんだかんだ言って、人のクチコミってヤツは広がるのは早いからなあ。外部ドライバーの参加にオールドコースでのレースだろ。それに、メインスタンドの開放と。どうやら、知ってるヤツ等はちゃーんと知ってるんだな。たぶん、アラトみたいなヤツがどこにでもいて、ウワサがウワサを呼んで、アッという間に広まっちまうんじゃないの」
 リクオは思いつきで言ったぐらいの話しだろうが、ウワサの効力についてはありえることだ。それにも増して、これほど見晴らしの良いメインスタンドを何故、何年も開放していなかったのか。5年前の事故や、タイムアッタック方式へのルール変更。それに『オールド・コース』の閉鎖。すべてはひとつの目的の為に綿密に操作されていたとしても、当時を知らないマリにはそこまで読むことはできない。
 久しぶりに開放したスタンドの足元や、ベンチが小ぎれいになっており、それが1日やそこらで準備できるとも思えず、それなりの段取りを踏んでいるのだろうという思うに留まっていた。
 リクオに対しては当たり障りのない相槌を打って、目線を落としていたマリが顔を上げる。
「きっと、そうですね。あっ、クルマが動き出したわ」
 マリが指を差すとほぼ同時にピットレーンにサイレンが鳴り響く。今日のレースが開始される合図だ。同時に今日の第一走者となるアウトビアンキがピットロードを飛び出した。観衆は立ち上がり拍手が沸き起こった。
 いつもより人が多いので相乗効果もあり、スタンドは一体化し集まった歓声は一層の盛り上がりを感じさせる。ただ、メインスタンドの一部は静まり返っており、まるでそこだけがぽっかりと沈み込んでいるように見えた。
「さあ、スタートだ。最初は玖沙薙のビアンキだ。何にしろコイツのタイムが基準になるからな、いったい舘石さんが残した最速ラップにどこまで近づけるんだろ? うわあー、ドキドキしてきたぜ。最速っていったってもう5年も前のことだぜ。クルマもパーツも進歩したし、それぐらいのタイムは出ると思うけどなあ」
 ビアンキの走りに集中しはじめたリクオの気をそぐように、真顔のマリから発せられた言葉に耳を疑う。
「あのー、すっごく初歩的な質問なんですけど。これってどうやって勝ち負けを決めてるんですか?」
 リクオの眉毛が伸び上がり唖然とする顔に、みるみるマリの頬が紅くなっていく。
「へっ、知らんかったの? それもまた… すげえな。今までなに見て楽しんでたんだ?」
 わかっていたとはいえ、相当に頓珍漢な質問をしてしまったことに照れ笑いで応じるしかなく、リクオへの答えも話がズレていってしまう。
「えっ、ああ、そのう、順番にいろんなクルマが走っていくなあとか。今日のタイムはこれぐらいなんだなあとか… 周りが盛り上がっても、何が凄かったのか良くわからなくて。あっ、でも、クルマが走ってるのを見るのは本当に楽しくって、キレイな走りをしてるクルマはタイムも良かったりするから。それを見てるととっても幸せになれるから、それが楽しみだったんです… けどぉ」
 話すほどに目を輝かせはじめるマリも、最後には再び恥ずかし気な表情に戻っていく。リクオは冗談でしかめっ面をする。
「へい、へい、そんで一番キレイな走りして、幸せの絶頂にしてくれたのがナイジだったんだよな。しかもそれ練習走行だぞ。そこまで言わねえだろうけど。さすがにそれぐらいオレでも察するよ。ははっ、はーあ」
「えっ、えっ、そんな、別にそんなつもりじゃ、…でも、そうだったかな。あっ、あっ、そうじゃなくて」
 両手を交互に振り必死に弁解する。
「いいよ、いいよ、そんなに気ぃ遣わなくても。わかってっからさ。やっぱり、光るものがあるんだよなナイジのヤツ。ルールも知らないシロウトが見てもそこまで感じれるんならさ。それとも、わかる人にはわかるってことか? そうなると、マリちゃんも結構スルドイ目してるかもね。だけど、それが、実際にタイムとして目に見えるものになるのか、夢のままで終わっちまうのか、今日次第ってとこだな」
 すこし、リクオはさびしげな表情をした。
「おっ、戻ってきた、タイム計測に入るぞ。ああ、そうそう、レースの勝ち負けのことだけど、ツアーズって4つあるだろ。ああ、4つあるんだよ。それぞれ、5台づつエントリーするんだ。第一走者、ファーストレグって呼ばれてるんだけど、そいつが走って、タイム計って出したタイム差がポイントになるんだ。10分の1秒で1ポイント。だから、簡単に説明すると、ファーストレグが終わって1位から4位まで1秒づつ差がつけば10ポイントづつ差がついていくってわけだな。それ5台の合計で足していく。いってみれば、見えないバトンをつないでくリレーをしてるみたいなもんだな。だから、いくら自分が失敗したからって途中で諦めるわけにはいけないんだ。レース全体の勝負を考えれば少しでもタイムを削れば次につながるし、そうしなきゃ自分とこのツアーズに迷惑がかかっちまうからな」
 言いながらも目線は1コーナーの方へ向かって行く。マリも同じように目線を持っていく。
「これが結構うまいこと回るんだよ。更新したパーツや消耗品のテスト結果を考慮して、戦略を立てて出走順を毎回変えてくるから、そのレグで何秒差をつけるか、つけられるか想定しなきゃいけない。それにエースが必ず最後に走るわけじゃないから、誰と走るかでタイム差が毎回変わるから、途中で思いもよらない差がつくこともある。それでもだいたい最終出走までもつれていくから、最後まで順位がどう転ぶかわからないんだ。だからさ、オレ達ドライバーは禁止されてるけど、スタンドで見てるヤツ等は食事とか、飲み物を賭けたりして楽しんでるんだ。わかった?」
 自信満々に問いかけるリクオであるのに、こわばった笑顔のマリは理解するのにもう少し時間を要するようだ。
「はあ、何となく、ハハッ」
「ハハッ、じゃねーよ。なんだよ、これじゃあ、早くも解説者失格じゃねえか? まあ、マリちゃんの場合そこまで深く見なくても、楽しんでるからいいけどさ」
「えっ、はあ。 …あのう、ところでそんなに大ぴらに賭けなんかしてるんですね?」
 よくわかっていないマリが引っかかったのは別のところにあり、リクオは肩を落とす。
「はあ? ソッチが気になるのかよ。意外とギャンブラーだったりしてなマリちゃんは。ナイジのこともだそうだけど。まあ、いいか、そんなハナシは。あっ、帰ってきた。おーっ、3秒落ちかー、うわー、なんだよ、なんだよ、5年前の舘石さんのタイムってそれほどスゲエっのかよ」
 スタンドの反応も同じようなもので、一様に落胆と、賞賛の入り混じった声が沸きあがる。続いて、駿峨ツアーズのカーマン・ギアが完熟走行を経て、計測に入っていった。
 次走車は前走車がタイムアタックに入ったタイミングでピットアウトをし、チェッカーと共に次のクルマがアタックラップに入るように計算されており、観客を飽きさせないタイムスケジュールとなっている。
 第一計測ポイントで、カーマン・ギアが前走のビアンキよりコンマ5秒早かったが、それが掲示されるとスタンドは一瞬だけどよめきを起こした。しかし、例えコンマ5秒づつ削ったとしても、トータルでは2秒しか縮まらず、舘石のタイムにはまだ1秒及ばない。
 結局、続く、第2・3ポイントではさほどタイムは詰めることはできず、トータルでビアンキよりコンマ9早いタイムでフィニッシュしたに留まった。山間部の途中でミスがあったらしく、それを立て直すことができなかったことが最後まで響き、それ以上のタイムアップにつながることはなかった。
 続く濱南ツアーズのプジョーも甲洲ツアーズのミキオが乗るローバーも似かよったタイムに留まりファースト・レグが終了した。
 次のレグまでに10分の休憩があり、スタンドでは多くのにわか解説者が感想を述べはじめる。リクオも同様に自分の中に蓄積していった持論をマリに語り出す。
「まあ、どこもまだ、エース級が出てないし、これからだよ。うーん、でも2秒は縮まらないだろうな。これじゃあ、舘石さんの伝説がますます脚光を浴びるだけになっちまう。いや、もし志登呂からきたロータスにしてやられたら、ウチらここのツアーズの立場が無くなっちまうぞ」
 マリにはそれも想定内であるとピンと来ていた。それもまた、展開としては運営側としては面白いことになるはずだ。ストーリーが今回で終わらず次につながっていくことになる。
「ですよねえ。あと2秒詰めるのはかなり難しいんですよね? 距離が長いからもう少し詰めれる気がするんですけど?」
 周囲の会話もだいたい同じような見方がほとんどだった。あらためて舘石の偉業が見直されるものの、誰もがなにやら物足りない印象を持っているのは間違いなく、しだいに重たい空気がスタンドを覆っていった。

 ガレージ出口で静かにその時を待つナイジに、ここまで盛り上がりが少なかったスタンドが、にわかに活気が出てきたのが伝わってきた。
 そこに、さらに大きなどよめきが届くと同時に、甲州ツアーズの連中の声が響く「ジュンイチがやったぞ、一番時計だ!」そんな声が聞えてきた。
 ジュンイチがどれほどのタイムを出したのかナイジにはわからなくとも、ここまでの最速タイムが出たことで、甲洲ツアーズのピットに歓声が沸き起こったのだ。
――やったな、BJのヤツ。地道な練習もダテじゃないな。あとは、あのロータスがどんなタイムを出してくるか。筋書きどおりなら、最低でもコースレコードは出してくるだろうし――
 これで第4レグが終了した。最後の第5レグを走る4台のクルマがピットレーン出口に待機する。ロータスと、濱南ツアーズのピットに順番に目をやると、そこには余裕の表情の出臼が時折笑顔を交えて回りと談笑をしている。ロータスに何ら指示をする様子も伺えない。
 ジュンイチのタイムを見てもなお一向に動揺もしないその態度からは、これから走る安藤の出すタイムに余程自信があるからなのだろう。想定内の出来事と言わんばかりの出臼の得意げな顔に気分が悪くなりナイジは目を閉じた。
――BJのタイムなんか屁でも無いってことか――
 そこにノックの音が耳に入る。瞳を開ければミキオが窓際に立っていた。しきりにサイドウィンドを開ける仕草をしている。何か言いたいことがあるのだろう。
 ナイジはこのタイミングで人と話しをする気にはならないのに、放っておくわけにもいかず仕方なくウィンドを下げる。
「B・Jがトップタイム出したんだ。コースレコードにはコンマ5秒届かなかったけど、今日の最速をマークしたぞ。ひとつ前を走った指宿さんよりコンマ3秒早い、不破さんも大喜びだ!」
 テレビ画面に映る興味のないニュースでも見ているように、ナイジの表情はとろけるほどに眠たげだった。
「なんだよ、ほんとに関心ないなオマエ」
 興奮気味に話し出したミキオは、ナイジが何の反応も示さず顔色ひとつ変えないので徐々にトーンダウンしていく。自分ではビッグニュースをナイジに話し、感動を共有したいというより反応が見たくて、仲間を出し抜いてわざわざ教えに来たのだった。
 そんなミキオの自己満足的なお節介よりも、ナイジが気になるのは別のところだ。
「そうか、まだ届いてないんだ」
「なんだよ、そっちが気になるのか。 …それで、どうなんだよ、行けんのか、オマエはさ。オレは期待してるんだぜ、オマエが何かやらかしてくれるって。オマエだってそんな気になったからリクを差し置いて出る気になったんだろ」
 がっくりと頭を垂れる。――こりゃほんとに、賞味期限が切れそうだ――
 そのとき、リョウタがピットから声をかけてきた。
「おーい、ナイジ! 時間だ。ロータスの後ろにつけ」
 ひとつ前のロータスがピットレーンへ向かったので、最終走者である次のナイジはそのあとに続く。ミキオは車体から身体を離し、ボディを叩いてナイジを送り出す。
「みんな、少しでも長く、いい夢見てられるといいな」
「へっ。まあ、それぐらいのことしか言わないと思ってたけどよ。だけどな、このまま、夢のままで終わらせたら、オマエも不破さんもあとがないのが現実なんだぞ」
――ロータスにやられりゃ、みんな同じだろ――
 サイドウィンドを閉める直前に、ナイジは親指と人差し指を立ててミキオに応え、オースチンを点火しピット出口までクルマを運んで行く。
 ミキオも思わず同じように指を立てるが、その合図の意味するところが読めず、指先を見つめ首をかしげてしまう。
――なんだよ、親指と人差し指で立てて。1番じゃないのか…?――
 ミキオが不破の進退を持ち出したのは、別にナイジを脅すつもりも、余計な緊張を与えるつもりでもなかった。もともと、そんなことで圧迫に瀕するナイジでもないことはわかっている。
 この状況下でさえいつも通りの飄々とした受け答えをするナイジを見て、自分とは違う別次元を感じずにはいられず、つい期待をかけてしまう。
 馬庭も、不破も、そしてナイジの内なる能力を密かに知る者たちにとっても、大なり小なり自分の隠し手として利用しようとしている。
 自分がそんな手駒にされているとも知らず、まわりからの喧騒から離れ、ナイジは最速のワンラップを叩き出すことに集中していく。
 これまではそこが自分が自分でいれらる拠りどころであったはずだ。それなのに、ふと思い浮かべるマリの顔にナイジは息を漏らしてしまった。
――オレもなにやってんだか――