続きをどうぞと、ワカスギが小首を下げて促す。マキはワインをひと口含んでから話しはじめた。
「あそこにはね。アップライトのピアノが置いてあったの」。ワカスギの疑問を解消するようにそう言った。
「そうなんですね」。相づちをうつ。
「この商店街、、 今はモールって呼ぶらしいんだけど、ここの中央広場に移設したの」
何度もうなずくワカスギは、自分なりにその言葉を咀嚼していく。そして、当然のようにこの疑問にたどり着く。
「なぜ手放したのですか? あっ、ムリならば答えなくてもいいですよ。ちょっとした好奇心です」
片方の頬を膨らませるマキ。異物が入っているような険しい表情で長考に入る。
その表情は意図せず、ワカスギを甘美な世界に誘っていく。そしてその時間が長いほど、最後に至る言葉を待つこの時間は有効になっていく。
「わたしが弾けなくなったから、、」。そう言って左手をプラプラとさせた。
その原因が左手に不具合があると示しているのか、見た感じでだけでは結論づけるに至らない。
「簡単に言えばそうなるんでしょうけど、そうなった要因は、けして一つ二つではないと、先ほどのアナタの話しを聞けば想像はつきます。イヤなことを思い出させてしまったならスミマセン」
「まあねえ、話しだしたら3部作になっちゃうぐらいだけど、アナタの理論でいくと、こうなると決まっていたってなるのなら、それもすべてムダ話でしかないわね」
「いえ、その工程を否定するつもりはありませんよ」。ワカスギは申し訳無さそうに急いで否定した。
「ばかねえ、冗談よ。でもね、自分でも笑っちゃうけど、こうなることを望んでいた部分もあるし、さっきのタマオみたいに自分から仕向けた部分もある。だから、自業自得なのかもしれない。弾けなくなったのは物理的要因もあるけど、精神的要因の方が大きいかもしれない。それでもわたしに弾かせようとする利権者が、こうしていつまでも追いかけて来る。誰の差し金なの? 、、無理なら、答えなくてもいいけどね」
マキはそう言って微笑んだ。今度はマキが頂点を向かえる番になった。
未来を予知するような言い方をしても、所詮は物理的な原則に当てはめた、因果応報的なことを言っているだけだ。事故とか災害とか大きな話を絡めて、いかにも真理と思わせるレトリックも含めて、それを透かされた恥ずかしさもある。
「申し訳けないですが、それは、、 」
「でしょうね。お酒飲んで、宿探しまでは仕込み通りだろうけど、タクシーがあんなんなのは想定外だったわね」
「いえ、タクシーも仕込みで、ココに来るように段取られていたようです。無理やり飲みに付き合わされて、駅から遠いところに放り出されて、上手いこと宿を紹介するだなんて。挙げ句に財布まですり替えられてて」
「だから動揺してなかったのね。たとえ財布が空でも、あたしがいることがわかったから、成功報酬のアテができたし。ああ、そういう意味なら、わたしがどうにかしてくれるって言うのは間違いじゃないわね。えっ、そうしたらアナタの報酬を使い込んじゃったことになるのかしら?」
「いえ、ぼくはただの会社員ですから給料しか出ませんよ。さしずめアレは必要経費ですかね」
「だったらパーっと使っちゃっても問題ないわね」
マキはそうおどける。ワカスギはどうぞの意味で手を表にする。
「別にぼくがなにか働きをしたわけじゃありません。誰かの敷いたレールに乗っかってココにいるだけです。それにしても驚きです。久しぶりですよね。ココに顔を出すの?」
誰かがゴーサインを出して、ワカスギをここに導いた。ホギかタマキが通じていると考えるのがセオリーだが、それならワカスギが出張る必要がない。
「どうしてそう思うの?」。そう訊いた時点で、それが正解と言っている。
「まあ、いろいろと、、」。こめかみ辺りを指先で掻き、言葉をぼやかすワカスギ。
「良いから言ってみて。それも守秘義務があるの?」。そこまで言われれば気になってしかたない。
「そうですね、最初にぼくのビールを取ってくれたとき、こんなのあるんだって顔で、奥から取り出してました。彼のビールとは違う銘柄でした、、 」
マキはハナをふくらそませた。そんなところまで見ているワカスギの目利きと、迂闊に自分の履歴を披露する不甲斐ない自分の両方が腹立たしかった。
「それだけ? それじゃあ、状況証拠でしかないわね」。精一杯の切り返しだ。
「、、 店主のひとのアナタを見る目がそんな目をしてました。久しぶりに見るアナタの動作、言葉、ロビーの雰囲気。それらを懐かしんでいるようで、嬉しそうでもあり、悲しそうでもありました。それはあるべきものがそこにないからでしょう」
マキは、その一角に目をやった。もうおどおどとする必要はない。今は正視することができた。
「それは結果論でしかないんじゃない? まあ、いいけど。 、、あのピアノが運び出されて、初めて来たの。ホントに無くなっていた。ホギさんには悪いことしたわ。誰かが弾くと思ってたんだけど。心が痛かった。来るんじゃなかったって今は思ってる。えっ、タマオも仕込みじゃないわよね?」
首を振るワカスギ。否定ではなくわからないという意味だ。
「でも、そうするとアイツと出会った時点で、わたしの未来は決まっていたってわけね。アナタ云々じゃなくてね、そうでも考えないと、自分が酷くツイてない人間って気になる。でっ、どうするの。報告しなくて良いの?」
「報告は明日、会社ですることになっています。直ぐにアナタを連れ戻そうというつもりは、ないんじゃないですか。もちろんこれは、ぼくがそう感じただけですけど、、 」
少し乱れかけた髪をかき上げるマキ。これからの面倒事への対処が煩わしくアタマにのしかかる。
「遅かれ、早かれなんだから。そのうえでアナタに訊くけどね、どうしてわたしが、ここで身を隠すようにピアノを続けていたか推察してみて?」
そう言って、マキはワインをついだ。今はそれをツマミに愉しもうという腹だ。
「そうですね、、 さしずめ、あらかじめ用意された舞台で、予定調和を演じることに嫌気が差し、こういった場末の、、 」
言葉にトゲがあるかと心配してマキをうかがうが、ワインを口内で転がし愉しそうにしているのを見て先を続ける。
「 、、自分が目当てでもない不特定多数の客の前で演奏することで、自分の本当の価値を見いだしたかった。偶然性の混沌の中で一体感や、強い熱量を目の当たりにして恍惚を知り、アーティストとしての渇望を満たされるようになった、、 」
マキは、音の立たない安っぽい拍手をした。グラスは空になっている。
「あたらずとも、遠からず、、 んー、でも、カスったぐらいか」と笑った。
「そんな中で、、 」。そう言われたからなのか、ワカスギは続きを語り出した。その際にワインを注ぐのも忘れない。
「 、、物理的なものか、精神的なものか、思うように弾けなくなっている自分と、それでも称賛してくれる周りとのギャップが相容れなくなり、いつしかピアノをお拒絶するように遠ざかっていった。それでもこれまでの経緯を知る者が、挫折からの再起を売りに、もう一度表舞台に立たせようとしている。なにより、その美貌に陶酔しているスポンサーが多く、金の成る木を前に、会社としてはこのまま引退させるわけにはいかない」
頬杖をついてブスッとした表情のマキがボヤく。
「なによ、最後くだりは。自分の所の会社事情のまんまじゃないの。いいの? そんなこと本人に暴露しちゃって」
「ぼくのような下っ端には、そこまでの込み入った話は降りてきませんから。アナタの見解を聞いたうえで、あくまでもぼくの推察です。持ち得た資源の多さゆえに、苦労が多かったと心中ご察しします」
マキは満更でない表情をしていた。遠回りな策略が、マキの気持を和らげていたのは間違いない。
「アナタを送り込んできた理由がわかった気がする。うまいこと懐柔されたのかもしれない」
「なんだいマキちゃん。こんなオトコに懐柔されたって。ボクを差し置いて。ひどいなあ」
いつの間にか裏戸が開いていた。タマキが大袋を下げて帰っていた。決まった未来では無くなりそうだ。マキは声をあげて笑い、ワカスギは声を殺して笑った。
部屋のひとつのドアが開いた。眠たげな女性が目を擦りながら言った。ショートの髪が無造作にはね上がっていた。
「静かにしてくんない? 明日も早いんだから」
「そりゃ、どう言うことだいマキちゃん」首を傾げるタマキ。
マキがアーモンドを一粒、口に放り込む「ココで酒を飲んでいたから、、 」。カリッと音を立てて咀嚼する。
「 、、厄介事に巻き込まれた。そうですね。あなた達の未来も決まっていたんです」
ワカスギが言葉を引き継いだ。蚊帳の外のタマキは面白くなく顔を歪めた。
もう一度マキはサイフを改める。10万はありそうだった。全員分の宿代から、酒代からを払っても半分以上は余裕で手元に残る。
「それで、アナタのね、未来がどうなってるか知らないけど。どうせ決まってる未来なら、楽しく過ごすという選択肢もあるわよね? だってアナタ、想定外の展開にして、既定路線から外そうとしてるんでしょ。ちがうの?」
そう言ってマキはサイフをワカスギの方へ投げた。そして指には3枚の万札が挟まっていた。
「タマオさあ。近くのコンビニでテキトーにツマミとか買ってきてよ。酒はここのを飲めばいいから」
「コンビニの酒のが安くないかい?」。そう言いながらもマキの指から万札を抜き取る。
「セコいこと言わないの。だからアナタはタマオなのよ。まだ結構、在庫が残てるからさ。店の関係者として売上に貢献しなきゃならないでしょ」
どっちがセコいんだと言いたいタマキは言葉を飲み込む。文句あるとばかりにマキがワカスギに目をやる。
コンビニで3万円のツマミとは、どれぐらいになるのかと、けしてセコい話でないく、ワカスギは額に手をやり目を瞑る。タマキはブツクサ言いながら裏口から出ていった。
「アナタ、狙ってたんでしょ。この展開」
タマキが締め損ねた扉が、風の力で閉じられた。ギィーという音を立てて退室を知らせる。無表情のままに答えるワカスギ。
「そうであればアナタは、ぼくが決めた通りの未来にいるわけですね」
ハナから息を抜くマキ「以外とそうやって煽ることもできるんだ」。
「それでもあなたは、ぼくがそうした意図をもって行動していると知っていて、ぼくの仕掛けにノッてきた」
ワカスギの目線はロビーの奥に留まっていた。その一角だけが壁も、床も、まわりより少し小ぎれいに見えた。何か大きな物が、例えば戸棚のような物が置かれていて、それが取り去られた跡のようだった。
「どうだろ? だってアナタ、こんなに現金が入ってるなんて知らずに誘い込んだんでしょ? アナタのサイフと同様に、空っぽだったらどうするつもりだったの?」
目立つ一角ではあり、そこに目がいってしまうのも仕方がないことだ。マキにはそれが気にかかる。
「どうもこうも、その運命のままに従うだけです。どちらかが見かねて、ぼくに援助してくれるとか、、」
マキはワカスギの視線を遮って、カラダをテーブルに預ける。胸のふくらみの揺り返しでドレスが波を打った。
「ないわね。店主に言いつけて、とっとと追い出してもらうから。結果オーライで考えてるなら、少し甘いんじゃないの」
チーズやナッツを摘みはじめるマキ。新しいツマミのアテができて安心したわけではなく、逆に落ち着かなくなっている。ワカスギはそれをさらに突いてマキを刺激する。
「もう、アナタもわかってるんでしょ、、 」
マキはピクっと隆起し、こめかみが引きつった。苛立ちを感じさせる言葉だ。そこになんの信憑性もないはずなのに、それが各処に血を巡らせて行く。
「ぼくには何の力もありません。ただ運命にしたがって、生きているだけです。こうすれば、未来がこうなる。ああしたから、歴史が動いたなんてものは、都合よくそう思いたい人の。そう、まさに独り善がりでしかありません」
マキがタマキをなじった言葉を引用された。血のめぐりが肢体をシビレさせて、粘質部分から粟出してくる。
「誰もが自分が変えたと思い込んでいる世界を信じているだけで、周りからすれば、平常な一日が整然と執り行われているに過ぎません。もちろん、それについて、ぼくはその人たちを否定するつもりはありませんよ。これはぼくの見解で、ぼくの目の前で動き続けている世界について話しているだけですから」
マキは言葉が出なくなっていた。ワカスギにカラダを固められ、弛められ、徐々に力が入らなくなっていく。
すべてが決まっていると断言されれば、虚しさが先に立つ中で、どこか気が楽になる自分がいることも否めなかった。
ワカスギとは住む世界や、見ているモノが違っているだけと思いたかった。そう自分に言い聞かせようとするほど、その術中にハマっていく気がする。
目の前の男が、それを当然とばかりに受け止めて、悠然としていればなおのこと、溢れるほど強く勃興する力を感じてしまう。
マキに目の前を塞がれたワカスギは、今度はカラダを捻り、裏戸を気にしはじめた。マキはそこも気にかけて欲しくない。覆い隠すすべがなく。何度も視感に晒される。
少し前からマキもタマキの戻りが気になっいた。あれから随分と時間が経っていた。
ワカスギはビールを飲み干したようで、手持ち無沙汰に空のカンを回している。おかわりを待っているのかもしれない。
ワカスギは、マキがタマキの戻りが遅いことを切り出すのを待っているようだ。それを言いだせばワカスギの思うつぼだ。そうなると決まっていたのだから。
むしろマキがパシりをさせて、タマキが自由になれる状況を作り出していた。3万円はタマキがそうするのに十分な金額だ。それは同時に自分の価値が3万円であることを認めることになる。
ワカスギはマキの動向を待っているようだ。この状況を変えようとマキは立ち上がり、タマキが残していった空きカンと、ワカスギのそれを引き取り、カウンターへ向かった。
途中でゴミ箱へカンを投げ入れる。フリーザーを開け手を奥に突っ込んでビールを取り出し、ワカスギのもとに戻った。
「あのさ、わたしからもひとつ言わせて貰うけど。持論てヤツを、、 」。そうマキは切り出した。
「何かを成し遂げようとすると、いつだってその前に先ず乗り越えなければならない壁があった。それが何なの知りたかった、、」
マキの本意を見極めようと、ワカスギは上目遣いでマキの目を凝視した。マキも視線を外さない。
「誰にでも起こる事象だと言えばそうだし、誰かに特定された事なのかもしれない。ただ、わたしはこれまで、何度も、本来ならば必要のない壁を、まず越えることからはじめなければならなかったの。それがムダな労力だったのか、それとも、その障壁を乗り越えた者だけが、高みへたどり着けるのか、もしその障壁がなければ、何も手にすることができなかったのか。その答えは明白だと思わない?」
そう言いながらもマキは、どちらに転んだのか明白な表情ではなかった。アタマを持ち上げて空を仰ぐワカスギ。耳たぶを少し引っ張る仕草をする。
「少なからず、アナタの言葉に感化されて、決まっていた未来に巻き込まれるのに付き合ってるんだから、それについて何か腹落ちする言葉があっても良いと思うんだけど」
小首を傾げると幾束かの髪がマキの目を覆った。あたかもそうなることが自然であるように、指先で髪を耳にかけ直した。
「ボクには、アナタが何を手にできて、何をできなかったのか、窺い知ることはできません。ただ、今のアナタを見る限り、、 」
首をひねるマキ。耳をワカスギに向け言葉を逃さないようにする。
「 、、それがアナタに悪い作用を及ぼしているとは見えません」
「そう、、 必然なのね、、 」
ビールの礼というわけではないだろうが、ワカスギは空になったグラスへワインを注いだ。いなくなったタマキの代わりに。そうしてマキに着座を勧める。
「ただ、そうして先人たちが勝ち取ってきた権利なり、行使できる場を、生まれたときから、当たり前のように履行している者たちは、あって当たり前のものとして、なんのありがたみもなく、さらに自分の都合のいいように解釈して、本質から外れて歪んだモノにしてしまうことは残念でなりません」
マキはワイングラスを持ち上げ、乾杯のポーズで賛同を示す。
「ホント。そうやって、無意味な行為をこなしていかなきゃならなかった。本来なら経済的な働きであることも、これまでもこうだったという慣習と、金のことは口にしないという美徳に収められてしまう」
ワカスギも缶ビールを持ち上げマキに応える。
そして目線はあの一角に向けられる。意識的なのか、無意識なのか、どちらにせよその行為はマキを誘っていく。
「アナタがサイフの心配をしないのも、詐欺や犯罪の仮説にノッてこないのも、タマオが戻って来ないことも、それらすべてに関心がない理由がようやくわかったわ」
ワカスギはそう切り出した。唐突なのは承知のうえだ。それでもなぜか、いま言うべきだと決め込んだ。
「ほとんどの事象は、すでに決まっているのに、人は何も知らぬままに明日に希望を持って生きています、、」
身近な人には言いにくいことも、明日会うはずもない行きずりだから言えることがある。
「オイオイ、ニイちゃん。何をおっぱじめるつもりなんだい。ココは哲学を語るような場所じゃないでしょう」
何を言い出しはじめたのかと、タマキが言葉を突っ込んでくる。その表情はマキに同意を得ようとしているのがアリアリだ。
「人生観は語ってもいいんじゃない。酔ったうえでグダグダ言うのと変わんないんだから」
タマキの言葉にはつれないマキが、ワカスギに目配せして先を促した。この若者が絡んでくれば選択肢に広がりができる。それを考慮して誘い込んでいる。
「アナタ。タマキさん。アナタはもう明日の朝どうなっているのか決まっているのに、それがあたかも自分で選択したかのような錯覚を得ている。そしてそれが思い描いた結果でなければ、運のなさを悲観したり、自分以外のせいにして精算しようとする」
タマキはマキを見た。マキは愉快気に笑みを漏らしている。もうマキの未来は、タマキの希望通りでないと示唆している顔に見えた。薄ら笑いを浮かべるタマキ。
「わかったよ。確かにね、ニイちゃんの言うことも一理あるねえ。だが一般論としてはどうだろかな。悲観的観測ばかりじゃく、予想以上の幸運が待ってることだってあるんじゃないかい?」
もう一度、マキを見る。考えごとでもしている表情で、目線は壁面を見渡している。まだだ、ゼロではない。この若造を言い負かすことで事態に変化があるはずだ。そんな望みを捨てきれないタマキであった。
「ムリだと思っていたことが、奇跡的に成功したとか、ダメ元でやってみたら上手くいった、なんてこともあるでしょうに。だから人は明日への希望を持って生きていけるから。そうじゃないかい?」
マキがニヤリと笑った。よし行けるとタマキは続けざまに滑らかに語りだす。
「だいたい人類の進歩なんてものは、偶然の積み重ねで成り立っているんだからさあ。思い通りに行かない事も、後から正解だったなんてこともあるよね。望まなかった前戯も、最後にはあってよかった思えることだってさあ」
なんの例えだと、目線で天を仰ぐマキは、否定の意味でナイナイとクビを振る。そしてタマキはつられるようにクビを傾げる。例えばという意図を含んでワカスギは人差し指を天に差す。タマキはついその先を見てしまう。シミの付いた天井があるだけだ。
「ぼくが言っているのは、悲観とか楽観ではなく、ただ事象だけが面々と続く未来があるだけということです。アナタが言う偶然の積み重ねも、誰の視点からの偶然であるか。それを仕組んだ者にとっては必然でしかないのに。それと同じように、アナタにとって素晴らしく奇跡のような出来事も、誰かにとってはただの日常にしか過ぎず、場合によっては悲観すべき出来事かもしれません。すべては個々人に捉え方に依存するだけです」
声を漏らしそうになったマキは、すんでのところでタマキの一言でとどまれた
「えっ、なんで?」
喜ばしいことが悲しむべきことになる意味がわからない。喜びは万人共通のはずだ。ましてや自分の前戯を喜ばない女性がいると思えない。
「そういう男のひとりよがりが、生産性を阻害してると理解できてない時点でダメね」
独り善がりとは自分だけが良い気持ちになっていることか。それが生産性が落ちる原因と言われた気がするタマキは心外である。若者どころか、これではマキにまでもやり込められてしまう。
こうなればと最初にワカスギの行動を見たときに、気になっていたことをカマをかけて言うしかない。これがハズレればジ・エンドだ。
「だったらさあ、ニイちゃんの明日ももう決まってる訳だねえ。その財布の中身がそれを物語ってるでしょ」
片目を細め、いかにも知っている風に指摘をした。これでワカスギがどう出るかタマキは待つ。マキも無関心であった視線をワカスギに向けた。
ワカスギに動揺はなかった。むしろ遅い指摘と言えた。なぜあのとき店主のホギも言ってこなかったのか、それほどワカスギの行動は余りに不自然だった。
そして思ったほどタマキはニブいわけではなく、このふたりも気づいていたのだ。サイフに金が入っていないのではないかと。ワカスギは後ポケットから財布を取り出してテーブルに置いた。
「このサイフはぼくの物でありません」
眉間にシワが寄る。思惑との違いにタマキが確認をしようと手を伸ばそうとする。しかし、その前にマキが取り去った「じゃあ、誰のなの?」。
首をふるワカスギ。それを見て、マキは勝手にサイフを広げた。数枚の札が入っているのを確認して怪訝な顔をする。横目で見たタマキがヒューと口を鳴らす。
「誰かの物と入れ違ったのでしょう。たとえば、一緒に飲んだ得意先の上役の人の物とか、、」
「直ぐにどうにかしないところをみるとワケ有りね。その財布はいいとして、アナタ。自分の財布が心配じゃないの?」
ワカスギは首をすくめる「どうせ大して入ってませんから。タクシーはポケットにあった千円札で払いましたし、そのヒトの言う通り、実は家に帰るお金も、ココのホテル代もなかったんです。前金と言われ、とにかく時間を作ろうと、、」。
「朝方に逃げ出すつもりだったのかい? なんだいニイチャンの未来が一番悲観的じゃないの」
ワカスギは薄っすらと笑みをこぼす「、、悲観するかどうかは、ぼくの判断次第ですよ」先程も言いましたけどとはあえて言わない。それがタマキには二重に堪え言葉を詰まらせる。
「何時の時点でサイフがすり替わってしまったのか。その時点でもうぼくの未来は決定づけられたんです」
「取り違えたのではなく、すり替えられたと考えるの?」
「ぼくは自分が間違いをしない人間とは思っていません。取り違えた可能性もあるでしょう。もしくは先方が間違えたかもしれません。それと同時に、第三者によって仕組まれたことも否定できません」
「誰かにとっての必然、、」マキの言葉にワカスギは知らぬ顔をして言葉をかぶせる。
「 、、なのかもしれませんね」
ふーんといった表情でマキは面白がっている。ナッツもチーズも必要なく、ワインが進んでいる。これではまたワインが足りなくなりそうだ。
「諦めてるの? なんだかそれじゃあ流され過ぎじゃない?」。マキは方向性を変えてきた。
「そうだねえ。今からだって、どうにでもなるじゃない。どんなことだって取り返すことはできるでしょうに」
ココぞとばかりにマキの否定的な意見に乗っかってくる。タマキはふたりの駆け引きを気づいていない。
誰かにとっての誰かには、当然ワカスギも含んでいるはずだ。まだそこに行くには早い。ワカスギは一度目を閉じてから意を決したように話し出す
「非難を承知で言いますが、ニュースで報道される痛ましい事件。どうしてその場所で起きたのか。何故その人が選ばれたのか。たまたま巻き込まれたというのでは、余りにも悲劇ではないでしょうか? 例えば、楽しみして出かけた家族旅行の先で、暴走したクルマに追突された。親戚一同で集まって楽しい夕べを過ごしていたら災害に巻き込まれた。もちろんその人達のせいではなく、そこで起きることが決まっていて、たまたまそこに居たに過ぎないとしたら。運が悪かったで片付けってしまうのは、ひとがそう思わなければやりきれない、心の自己防衛をするためにバイアスをかけているにすぎません」
ワカスギの言葉に、納得がいかないタマキが尋ねた。
「じゃあ、ニイちゃんのサイフがすげ替えられたのも、その場にニイちゃんがいただけって理屈かい? そりゃ運が悪い以外のなんだってんだか」
「すげ替えられたかどうかはわかりません。ここに別の人のサイフがあり、ぼくのサイフが無くなっているという事実しか、ぼくにはわからないんですから」
意外な顔をしてマキが問いかけた「アナタ、サイフの中、見てないの?」。
一度首を縦に振り「開いてもいません」。とワカスギは言った。
「フーン、そういうこと、、じゃあカードが一枚も入っていないのも知らないんだ」
そこにタマキが食いつく「そんだけ金持ってて、カードなしは解せないねえ。現金主義にも程があるんじゃないの」。
そこでマキはワインを飲み干した。空になったグラスにタマキがワインを注ぐ。口のなかでワインをころがすマキは、何やら思案してから言葉を発した。
「現金には手を付けず、カードを頂いて最大限利用する。で、その財布は知らぬ誰かに押し付ける。そうね、できれば気の弱そうな、お金に不自由している人が好ましいわね」
「で、ニイチャンの出番ってわけかい」。タマキが追随する。
「自分の手持ちより多くリターンがあれば、損したとは思わないし、カードなんかより現金の方が遣いやすいから」
「ああ、その日のうちに遣っちゃうねえ」
「お金を遣ってアシがつけば、その人の犯行にミスリードさせることもできる」
「知能犯の思うツボだねえ」
とたんにふたりの会話が活発化してきた。それはマキがリードを取っている。そういう言葉のやりとりを待っていたのか、ワインの進みもスピードが増し、タマキが健気に給仕する。
「アナタがその場所にいなければ、こんな厄介には巻き込まれなかった。それは同情するけど、それはわたしたちも同様よね?」
自分達も被害者の仲間入りを宣言しても、マキは楽し気であった。